~ビールを片手に~

~ビールを片手に~

人生についてちょっと真面目に考えたい人のブログ

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今朝方に北朝鮮の弾道ミサイルが、日本上空を通過して太平洋上に落下した。

直後からニュースでは、ミサイルの種類の特定、米中韓の反応、

Jアラートの精度と、それを受けた場合の逃げ方などをひたすらに

報じているが、「なにをいまさら」である。

常日頃、周辺国が軍事費を増やしていても、やれ景気が生活が福祉がと

我が国にはそれを許さず、憲法9条を基本とした対話を主張している

自殺願望の国民がなにをジタバタするのか。

領空侵犯を許した時点で、普通であればもはや戦争状態である。

領土問題においても言えることだが、領海、領空を他国に侵されることは、

自衛の対象にすらなりうる。

それが、当たり前の認識のはずだが、日本ではそれは通用せず、

もう戦後何十年も同じ話をずーーとしている。

今、本当に気にすべきは、Jアラートをどう活用するかとか、憲法9条の

解釈論とかのその場しのぎの対症療法ではなく、いざとなれば、

北朝鮮を殲滅するだけの軍事力を持ち、それを実行できる余地を

つくることだ。

生活を享受するための命を守るのは、いつの時代も軍事力(抑止も含む)

なのだと思う。これは、私が臆病だからこそ、よりそう願っている。
日頃から自分一人で仕事をしているつもりになって、

謙虚さがないから、いざという時になにもできなく

なるんだよ。

余裕がない時こそ、人に優しく。

順調な時こそ、過信せず。
このアンケートによると、本当に友達と思える人
がいない、

と思う人が約4割近くいるらしい。

http://news.ameba.jp/20160229-288/

今のようにSNSが普及した時代に、しかも本来それらの

ツールは友達を作る、友達との仲を深めるためにあるはず

にも関わらず、おそらく割合は増えているのかもしれない。

まず、真っ先に思うのは、みな過剰に人間関係に対して

不安感や臆病さを持ちすぎている、ということ。


例えば、こちらは好意を持っているけど、向こうがどう思っているか

分からない、というような理由はまさにその典型。

時間を掛ければその人の意思が手に取るように分かる日が

いつか訪れるのか。

そんな日は一生来ないし、その思いはあまりに人間関係の

本質を理解していないどころか、手抜きに感じる。

どんな関係においても、与えられた情報や肌感覚の中から

相手を理解しようとする姿勢を見せる以外に、それを構築したり

深める方法はないのだ。

その努力をしないで、出会った瞬間からいい感じに!なんてのは

たまのラッキーではあり得ても、ほとんど創作の世界だし、

どうせ長続きなどしない。


これは以前にこのブログでも書いたが、皆が皆
人に迷惑を掛けることや

嫌われることを恐れすぎていると思う。

現実には、人間は誰しも自らの気の及ばぬところや忘れているところで

誰かしらの世話になり、それでも寛容されて
生きているものなのに。

人に借りをつくれば、その恩を忘れなければいいし、感謝を示せば良い。

それだけのことを、ちーーぽけなプライドがそれを許さないのか、

そういった「人間交際」を面倒くさがるのか。


そうであるとすれば、今後どれだけ世の中が便利になっても

友達がいないと思う人の割合はどんどん増えていき、義理人情の

世界は早晩、フィクションの中だけのものになる。

それが空虚で退屈に思った時には手遅れだよ。


個人的な怒りで恐縮だが、僕の周りの若い人にも最近特に、

なにかをしてもらうことに対して礼どころか、不足を責めたり

敬意も払わず、当たり前かのような態度をとる輩が出てきた。

俺とそんな関係性を築くようなこともしてこなかったくせに。

そんな連中とは確実に距離を置いていってるし、いつかは

話もしなくなるだろう。

自分で言うのもなんだが、俺は恩には報いるし、面倒も見る。

だから、あまりに手広く人付き合いができないからこそ

本当に良い付き合いができる相手が誰かを、改めて考え感じる

機会なんだと思っている。

俺にとって、LINEやFacebookで繋がっていることは

大きな意味はない!ということを強く言っておきたい。

そして、これからの良き出会いにも、少しばかりの期待をしている。
ここ最近、ベッキーから始まり、宮崎議員、狩野英孝と

立て続けに不倫、二股なんかが話題になっていて、

その度に、なんだかなぁと思わされる。

ただ、なんだかなぁの原因は、その行為に対してではない。

批判を恐れず言えば、不倫にせよ浮気にせよ、非常に

人間らしい行動であり、ましてや恋は惚れたもん負け。

それをことさらに糾弾しようなどと思ったことは一度もない。


彼らに何か問題があったとすれば、一番はバレたこと。

当然、社会的道徳的に非難を免れられない以上、バレずに

やるのが筋だった。それが最低限の敬意だからだ。


ベッキー(とゲスの川谷絵音くん)の件で言えば、あの会見もまずい。

どうせ、相手の実家に行くような大胆なことをする度胸があるのなら

会見で謝るべきではなかった。

「道徳的に許されるべきことではないのは承知だが、貫き通したい。」

とでも言えばいい。その方がベッキーの性格的にも

愚直な子なんだと思われたかもしれない。


宮崎議員もそう。会見でなぜ涙ぐむのか。

「妻には悪かったし、一生賭けて償うが、情が湧いてしまって

つい遊びが過ぎてしまった。」くらいに言っておけば良い。

結局、みな覚悟も甲斐性も敬意(伴侶や浮気相手に対して)

も欠けているのだ。

だから、中途半端な涙が出る。自分が可哀想だから、自分が辛いから。

そんな虫の良さが、反感を買っているように思える。

誰かを傷つけるかもしれないことくらい、想像つかなかったか?

その可能性も含めて、やったのではないのか?

結局、自分が一番可愛いんじゃないか、と。


色恋は古くから、小説やお芝居の題材になるほど身近なもので

特に叶わぬ恋は、人の心を打つこともある。

それは、社会を敵に回してでも、という覚悟が描かれるからだ。

遊びには作法がある。

その遊びの作法を知らないから、遊びと本気の棲み分けも、

その対応方法も幼稚で人を傷つけたと涙を流すのだ。

人を楽しませるエンターテイナーであるべき芸能人ですら

この程度の遊び方しか知らないのであれば、なんだかつまらない

社会になったなぁと思ってしまう。

それが、なんだかなぁの大きな原因なんだと思っている。

決して、浮気や不倫は推奨しないが、それを全面否定できるほど

清らかな心は持ち合わせてはいない。

結局、背徳的な行動もそれに対する気構えも人間的な行動であり

だからこそ、人間性が試されるのだ。

先日、個人的にも仲の良い取引先の方と話していて、思うところがあった。

その日の彼の、我が社の人間に宛てたメールは、明らかな苛立ちとそれを

隠すこともしない悪意に満ちた内容だった。

事の経緯はもちろん、細かくは書かないが、きっかけとなった我が社の新入社員の

女の子の返信は、あまりにお粗末なもので、僕が逆の立場でもイラッとはするだろう

というものだった。

しかし、それにしても彼の対応は度が過ぎていたので、個別に彼に電話をし

少し話したら、すごく反省して、すぐに謝罪のメールを入れてくれた。

(おっさんだが基本的に根はいい人なのだ。)


その日はなんとなく、僕が出向している会社内も、帰り道の街行く人達も、

なにか疲れからくるイライラした空気感というか、閉塞感のようなものが

あるのを強く感じ取っていた。(事実、僕自身も疲労により怒りっぽくなっていた。)


その日の帰り道、取引先の彼がメールで僕に謝罪をしてきたので、それに返信しながら

なんとなく、その大きな原因を考えてみて、2つの結論を導き出した。


1つは、単純に今の世の中(特に20代後半から30代の若者世代)は

働きすぎだ。これはずーーーーーと思っている。

にもかかわらず、それへの報酬は、過去20年前に比べて、大きく減っている。

これは大半の人に共感してもらえるのではないかと思うが、遊ぶ金も時間も

圧倒的に余裕がないのだ。

周りを見渡しても、一生懸命身を粉にして働いて、プライベートも犠牲にして

いる人が得る対価が(経済的なモノだけを考えると)過去には出世も評価も諦め、

仕事を第一にして生きるのを辞めようと考えた人と同じかそれ以下の対価しか

得られていないような気がするのだ。

しかし、一番遊びの中から仕事を学び、仕事の中にも遊びを加える、というような

ことを覚える時期に、遊べていないのは、すごく不幸なことだと思う。

そして、これは2つ目にも繋がる話だが、若手時代に経済的に恩恵を受けてきた

人たちが、一番そのことを責めるのだ。

自分達はやってきたことだからと。


過去のブログにも書いてきたことで、今でも自分の中の関心事であるのが

日本の(おそらく今は世界的にそうかもしれない)世代間の断絶である。

その一端を、ここに垣間見たのだ。


そして、2つ目は、取引先の彼のメールがきっかけ。

なぜ、あんな感情的なメールを送ってしまったのかという話の中で

「最近、仕事の歯車がうまく噛み合ってなくて、自己嫌悪になった。」

とのことだった。

僕の感覚では、大人になるというのは、すごく楽しいことだ。

そして、これからもっと楽しいことがあると信じようとしている。

でも、それの倍くらい、大人も悩むものだ。思春期の青年など屁でもないくらいに

突如閉塞感に苛まれる。

それはなぜか?


大人になれば、子供の時に比べてより現実的に物事を考える、と思いがちだし

周囲からもそれを求められるが、実はそんなことはないからだ。

若者の時に思い描いた自分と言う理想像は、いつまでも強く心の中に残るが、

歳を取れば取るほど、その理想からかけ離れていく。

理想との距離が遠のいていく。

そして、それをまっすぐ受け止めて、理想を放り捨てて生きていけるほど人間は

強くも単純でもなく、それどころかそうすべきでないことをより強く感じるようになる。


話を世代間の話に戻すと、おそらく彼の怒りは、そんな自分の鬱屈とした感情と

それに対する、新入社員の持つ若さ、配慮のなさ、だけでなく、その無邪気さへの

嫉妬からだったのではないかと感じた。


こうやって書いてみると、特段面白くもない話なんだけれども、少しずつこういう

歪みが出てくる中で、いつの間にか戦後日本が、自発的に行ってきた国民的な

「集団自殺」と呼んで差し支えない(文化や歴史、伝統といったものを含む無形の)

意識の継承の放棄が、さらなるスピードを持って進んでいるのではないか、とふと

感じたのも、これまた僕に余裕がないからなのだろうと納得させながら、帰路に

少し寂しくなった。