長崎&福岡プチ旅行記⑦大村純忠史跡公園、慰霊塔公園他 | はらりはらりさくら舞い散るように・・・

はらりはらりさくら舞い散るように・・・

ゲーム、アニメ、ワンコ、映画、史跡巡りなどを中心に日々のことなど備忘録を兼ね気まぐれに書いてます。

今晩は。

 

本経寺のあとは、大村純忠公園に行きました。

 

 

 

大村純忠公園は、先に行った広大な大村公園に比べひっそりと存在している感じでした。地図を見るとわかるのですが、史跡公園として残っている部分はそれほど広くはなく、実際はこの広場から高速道路の下まで広がっていたらしいです。

 

 

 

 

市指定史跡 大村純忠終焉の居館跡

ここは、日本最初のキリシタン大名大村純忠が晩年を過ごした館の跡です。

古くから坂口館と呼ばれていました。南蛮貿易のため、長崎開港や天正遣欧使節の派遣など多くの歴史的偉業を行ってきた純忠ですが、佐賀の戦国大名龍造寺隆信の圧迫により、領主の座を退き、居城三城より重臣頼甫(しょうよりすけ)の屋敷であったこの地に隠居しました。純忠はこの地に約2年間過ごし、天正15年(1587)54歳で亡くなりました。

 

藁葺き屋根の門をくぐると、今は緑の公園になっていて、周りに説明板が建てられています。

 

説明板の裏側には、もの思いに耽るにはもってこいの木立に囲まれた薄暗い空間が広がっています。純忠はここで密かに祈りつづけていたのかもしれません。

 

公園は後ろに見える高速道路の後ろにあるのですが、この手前の駐車場辺りもお屋敷だったようです。

 

足元をふと見ると大村市のマンホールがありました。オオムラザクラのデザインですね。

 

 

 

 

 

放虎原殉教地(ほうこばるじゅんきょうち)

大村の処刑場跡。支倉常長ら慶長遣欧使節をローマに案内したソテロ神父や郡崩れのキリシタンのうち131人が殉教しました。

 

 

銅版のレリーフをはめ込んだ大きな殉教顕彰碑が建てられています。

 

 

 

 

慰霊塔公園です。

 

 

慰霊塔

防空壕を利用して建てられた慰霊塔では、毎年10月25日、第21海軍航空廠殉職者慰霊塔奉賛会の主催により、全国各地から遺族や同僚が参列し、慰霊祭が行われているそうです。

 

ここには、またちょっとご縁があって特別の思い入れがあって訪れました。

父がいわゆる”特攻隊”帰りで高等小学校を卒業してから海軍志願兵となり、鈴鹿航空隊に入隊していたからです。そして、終戦時に九州の大村航空隊にいました。爆心地からは離れた場所にいたものの、あの長崎原爆投下直後の情景をその目で実際に見ていました。とにかく酷かった…と具体的にはそれ以上は話してくれませんでしたが。

 

特攻隊は一般歩兵隊より食べ物も扱いも数段良くエリートとして若者の憧れの存在でした。特攻隊の試験の倍率もかなり高く、父も一生懸命勉強したそうです。よく聞く特攻隊が高学歴なのかどうかは?ですが(何しろうちの父は小卒w)軍隊での苦い経験もたくさんして、誰か一人でも失敗をすると連帯責任で全員殴られたそうです。「ク◯上官が手が痛くなるから履物の裏で殴りやがった!あの馬鹿野郎が」と何度か言っていたのを思い出します。また、切なくて辛い話ですが上官から本当に特攻する意思があるのか全員に問われたそうです。中には絶対死にたくないと思っている人もいたはずなのに、皆んなと相談して最終的には全員「はい」と承諾した紙を提出したとも聞いています(だいぶ記憶曖昧ですあせる)でも、結局父の順番が来る頃にはもう飛び立つ飛行機が1機も残っていませんでした。あの時まだ数機でも残っていたら、私もこの世に生まれていなかったわけですから…運命ですね。

 

慰霊塔の裏側には、宮崎第二高女挺身隊の石碑もありました。

 

 

この他にも大村市の歴史的名所、大村藩城下町や大村キリシタン巡礼コースなどたくさん興味深い場所があるのですが、長崎に戻らねばならないので泣く泣く諦め笑い泣き今度来るまでの楽しみにとっておきますチョキ

 

※追記・画像追加のみ※

 

長崎ー大村間の移動に使ったシーサイドライナーの写真を何故か貼るのを忘れてましたのであせる2枚ほどあげておきます。

 

@長崎駅

 

@おおむら駅

 

追加画像以上です。

 

 

 

 

image

大村から長崎へ移動中のシーサイドライナーからの眺め。帰りの電車は想像以上に混んでいて最初は座れませんでした。ハウステンボスからの帰りの方が多かったようにお見受け。皆さんお疲れのご様子でコックリコックリしてました〜zzz

 

ではでは。