昨今のリベラル全体主義では、「誰も取り残さない」っていう美辞麗句を述べて、多くの人の自由を縛り上げる手法を取り、次第に、多くの人の発言の自由を奪っていく。
誰も取り残さない。
誰も傷つけない。
傷つける方が悪い。
だから、
誰も傷つかないように、世の中の全ての人が細心の配慮をすべき。
という流れよね。
世の中が優しくなる事の何が悪い?いい事だと思われる方も多かろう。
私は職業上、多くの人の悩みや傷と向き合ってきたからこそ、思うのだが、
世の中の人が全員、最新の注意を払って、傷つけないように行動したら、誰も傷つかず幸せになるのか?
ならないよね、、と思うの。
なぜなら、配慮してもしても、
相手の受け取りという変数があるから。正解がない。
お嬢さまと言わない。
彼氏、彼女じゃなくて、パートナーと言う、、
別にいいけども、、
その言い換えで配慮しているのは、LGBTの人が「自分はマイノリティだ」と現実を突きつけられないようにする為の配慮でしょ?
一方で、マイノリティであることに、変わりはない。
配慮してもしなくても、マイノリティである事に傷つくのなら、どっちみち何処かで傷つくよ。
マイノリティであってはいけないのか?
マイノリティであっても、自分は自分だしそれで良くない?
と本人が思えるようになる事を、むしろ、私は隣人として支えたいけどね。
何が言いたいかっていうと、
誰かの言動に傷ついたとする。
今の世の中だと、その傷つきは100%「相手のせい」って事なんだよね。相手が傷つく事を言ったから、相手のせい。だから、傷つくかもしれない事を、社会が言わせないようにしようって動きになるし、、マイノリティと言われる人たちも、傷つけられるのが不当だと思ってるから、私たちの事を社会が理解すべきと要求する。(ごく一部かとも思うが)
「傷つく」ってことは、そんなに悪いことかい?
とおばちゃんのワタシは思うわけ。
《《《そして、傷ついているあなたをどうにかするには、相手がもう言わなくなることしか無いのかい?》》》
相手が謝って来る事でしか、立ち直れないのかい?
って。
それも一理あるよ。
謝ってくれたら、丸く収まるしね。
でも、現実、世の中って、自分の思うようには、なかなかならない。嫌なヤツは、どこにでも一定数いる。
嫌なヤツを殲滅させるのは、不可能なのだから、自分で自分を幸せに導いていくことの方が、生きていく上で大事だよ?と思うのよ。
《《《傷つけられた!と思うか、傷ついてしまった と思うかで、
体験するストーリーがかなり変わる。》》》
傷ついてしまった だとね。
主体は、あくまで自分なんだ。