●動 多 循環 ●静 個 深掘り

 

 

 

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相互依存の絶望感という

 

仕掛けられた罠から抜ける(個の確立は孤ではない)

 

 

もう繰り返さない(物質…マトリックス…に左右されない)という 

 

愛(決意)と勇気(強さ)が 宇宙デビューへのパスポート

 

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進む方向を決めたなら 

 

多くを語る必要はない 行動で示せ

 

 

愛(徳)されている人か利用(得)されている人か 見たらわかる 

 

あなたがどんな人で在りたいのか あなたが選んでる 

 

 

真のぬくもりを知れば(その不安は洗脳)

 

偽りの優しさで他者の不幸を待つ必要もない

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

えむ

 

 

 

 

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他人のために存在しようとする個人は、依存者となり、本質的に寄生虫のような動機となり、自分が奉仕する人々をも寄生虫に変えてしまう。そのような関係は、相互のモラルの崩壊しかもたらさない。それは本質的に欠陥のある概念である。

 

《《《それに最も近い現実、つまり他人に奉仕するために生きる人間は、自発的な奴隷に似ている。肉体的な奴隷も忌まわしいが、精神的な奴隷はさらに忌まわしい。》》》

 

「愛」の名の下に進んでそうする奴隷的な個人は、人間の尊厳を貶め、「愛」の概念そのものを汚す。これが利他主義の本質である。

 

 

 

個人の一番の義務は、他人の苦しみを和らげることだと教えられてきた。しかし、苦しみは病気に似ている。

 

苦しみに遭遇したとき、人は救済と支援を提供しようと努める。

 

《《《このことを美徳の究極の試練とすることは、苦しみを人間存在の中心に据えることになる。》》》

 

その結果、人は【自分の徳を示すため】に、他人の苦しみをうっかり望んでしまうかもしれない。

 

 

 

 

一般的な常識では、エゴは悪と同義であり、無私こそが美徳の頂点であるとされている。しかし、クリエーター(発明家)はエゴイズムを最も純粋な形で体現しており、

 

《《《無私の個人は思考、感情、判断、行動といった【自己を定義する機能】を放棄している。》》》

 

 

 

 

最も純粋な意味において、エゴイストとは他者を犠牲にする者ではなく、むしろ他者を利用したり、雇用したりする必要性を超越した個人である。

 

 

 

 

これこそが、人間の間で可能な唯一の兄弟愛と相互尊重の形なのである。

 

 

 

https://ameblo.jp/vimon/entry-12838059956.html

 

 

 

 

 

 

■さてさて 大乗仏教とは 何を優先して何を失ったのか■

 

■多様性から何を知るのか 多様性を手放す(偽愛)ことは誰得なのか■

 

 

 

分別 比べる 執着 妄想➡︎我(鬼が暴れる)   

 

面倒くさい➡︎自分にとっての損得を考えるから

 

 

一旦それ(我)を後回しにしてみるか??? 

 

後回しにして 我を曖昧にすることが解決か??? 

 

 

自分が何者なのかわからないままで 

 

今世を生きてみたと言えるのか???

 

 

 

 

 

 

 

 

 

えむ