祖母は一度結婚して子供(母)が生まれてたんだけど、戦争当時は甲府の家にいた。

(詳しい事情は知らないけど、母とその弟妹は父親が違うらしい…?)

山梨に居た姉を頼って、疎開のような感じらしい。(実家は東京でした)


祖母にとっての実母と、祖母の妹H子さん、赤ちゃん(私の母)と4人でいた時に空襲にあった。

何故空襲にあったのかを聞くと、甲府には甲府連隊や、いろいろ工場があったせいだって。


当時40代にして脳梗塞を煩っていた母親の手を、H子さんが引いて、

おばあちゃんは背中をおし、赤ちゃんを背負って逃げた。


「照明弾って分かる?すごい明るいんだよ。
 竿灯規制されて真っ暗な街中なのに、仏壇の中まで明るい。すごく、綺麗なんだよ。」


明るさのせいか、火事の火のせいなのか、布団をかぶった人の目玉が透けて見えた。

「真っ赤になって布団を透かして見えるんだよ。」


「そうだよ。川の中から見えたんだ、昼間のように明るくてね、
 夜具をかぶったおじさんの目が見えたよ。」


川に飛び込んで腰まで浸かって、落ちそうになる背中の赤ちゃんをずり上げながら…

そのまま朝までひたすら待った。


焼けた自宅付近には何日も近づくことが出来ず、数日後やっと入れるようになって行くと、

何もかもきれいさっぱり燃えて無くなっていた。


しかし何故か、台所だった部分の地面に、ほかには何も入れ物もなくなって、

梅干だけが焼けて転がっていた。それが本当に不思議だった。


「もう誰にいっても信じてくれないんだろうけど、ほんとなんだよ。

 焼いた梅干は風邪にいいっていうけどそうなんだろうね、残ってたんだよ。
 お前(妹H子)が居なきゃー誰も信じてくれないだろうけどね」


他にもこんな話もあった。(時間軸は不明)


・あちこち火がついているのを畑のなかで、履いていた草履を水溜りにひたして

 叩きつけて消したこともある。(H子さんの話)


・母とはぐれてしまって、妹と必死で探し回った。

 ついには履物も脱いで裸足になって探し回った。
 そうしたら、落ち合う場所になっていた小学校の、二ノ宮像の前に座っていた。

 仏壇から持ち出して持たせていた位牌を持ったまま。

「3人で抱き合って、わあわあ泣いたよ。」


・あと、(避難先で)兵隊さんがお乳の出ない人には牛乳をくれると聞いてきた。
 もらってみたらバケツで、ひしゃくで汲むようになってた。


「そんなもの飲ませられないじゃない?
 だから、かたいおにぎりを噛み砕いて、口移しで食べさせたんだよ。」


その町は温泉地帯だったから焼けた町のあちこちに温泉だけが残っていて、

そこにばあちゃんと妹は交代で見張りをたてて入浴した。


「空襲にあって直ぐに風呂に入ったくらい昔からお風呂好きだったのよぉ(笑)」


ちなみに、しばらくすると囲いが出来て、お金をとられる野外風呂屋さんに

なったんだけど、今度は入浴中に着物や持ち物を盗られる犯罪が流行った。


あと、軍の為に貯蔵されていた蔵が食物ごと丸焼けになって、砂糖の焼けた

カルメ焼きの匂いが焼け野原に流れていた。


「みーんな焼けてしまうんだったら、その前に食べられればよかったのに…。」


我慢できずに食物を盗りに入って、カンヅメが爆発して死んだ人もいた。
(カンヅメは焼けたときの熱でひっきりなしに爆発していたんだって。)



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新聞の投書欄で、「80ばあちゃん」さんという方が、戦争体験などを

ブログにつづっているということを知りました。探して読みました。

http://blog.goo.ne.jp/fujimi09

http://blogs.yahoo.co.jp/toshichietmtv




私の祖母は今88で、遠いさいたまで入院している。

毎年、夏になると一週間ほどうちに来ていた祖母も、今年は来られなかった。

「今年が来られないと、もう来られないだろうね…」と母は言ってる。


子供の頃から祖母には、戦争の話を聞いたことがあった。

小学生の時の宿題で聞いたのが最初だった。

若い祖母が、必死で守ってくれたおかげで、母が居て、いま私が居る。


「人の目の玉が赤く透けた」って話は、小さい頃から不思議でたまらなかった

んだけど、何度聞いてもそうだと言う。怖くて不思議なイメージだ。


おそらく、照明弾がカメラのフラッシュをたいたような光で、写真で人の目が

赤く写ってしまう、あの現象のことじゃないかなーと考えている。

たしかに、でもそう考えるとものすごい明るさ、しかも不自然な明るさだよな。



TVのドキュメンタリーで観た、祖母と同じような状況で川に入っていた人で、

背中の赤ちゃんは死んでしまった話が印象に残ってる。

祖母もどんなに大変だったろう。

私はそのときの祖母の年齢もとうに超えた。
一度お風呂好きのおばあちゃんを、温泉に連れて行ってあげたかった。

書き残しておくべきかもしれないと思った。

最後に詳しく聞いたのは昨年。それまでに聞いた話と合わせて、書いてみた。

ほんの一部だと思うのだけど。


他にも終戦の時の話や戦争が始まる前の新宿の生活の話や、女学校の話、

現在はもう話をすることは出来なくなってしまった(施設で生活されています)

H子さんから聞いた祖母の話など。


「お姉ちゃんはとっても優秀で、満州国の皇帝がいらした時に小学校の

 代表として東京駅でお迎えする役になったんだよ」なんて話もあった。



聞いた状況から、祖母が空襲に遭ったのは甲府で、規模から考えると

昭和20年7月6日~7日にかけてあった「たなばた空襲」ではないか?と思う。

http://www.asahi-net.or.jp/~UN3k-MN/kusyu-koufu.htm



はっきりとは確認していない。

戦争のことを自分から尋ねるのは何だか気が引けてしまうからだ。


この時も、たまたま「徹子の部屋」で戦争の話をしていたので話してくれた。

もっと聞いてみたいけど、聞いてもいいんだろうか。



空襲のあと、小淵沢にさらなる疎開をしたんだって。(母よりの補足。)

母は乳児だったらしいから、もしかして昭和19年ごろのことなのかな。


祖母たちには先見の明があったらしく(日本は負けて物資が不足するという)、

あらかじめ、石鹸や手ぬぐいなどを大量に取っておいた。


疎開先では、それらの石鹸などを、ヤギの乳と交換してもらって赤ちゃんに

飲ませたという。

小淵沢では疎開ものと偏見の目で見られ、畑の窃盗の濡れ衣を着せられ

そうになったこともあり、とても悔しかったとのこと。

もし何かの話があったら書き足そうと思う。