こんにちは、ポテルカです。
日本全体が、ウクライナがんばれの雰囲気となっております。
いえ全世界がそうですね。
私は、逆張りが体に染みついているあまのじゃく。
テレビの前でプーチンをののしるかみさんに同調することができません。
そのうやむやな態度がまたかみさんの怒りに油を注ぐことも知りながら。
なぜなんだろう、この冷めた気持ち。
それは自分でもよくわからない。
みんな私の遺伝子は嫌いになっても、私個人を嫌いにならないで!
ひとつの手掛かりは「弱肉強食」という言葉。
これは一般的に、人以外の動植物に関しては認めざるを得ない誰でも知っているレベルの、自然界の摂理のようなもの。
同時に、そこに人間が介入してはならないことも、なんとなく知らされてきた。
鷹がウサギをさらっても、ウサギがかわいそうだからといって、人間がウサギをかくまうことは、よしとしない。
オーストラリアでは、人の脚を食いちぎった鮫がその場で特定されたとしても、襲った鮫に罪はないという考え方が普通だったと思います。
日本では、人を襲った熊を猟銃をもったおじさんが捜し出して撃ち殺しますね。撃ちたいだけやん、なんちゃって。
それはともかく、私はこの「弱肉強食」という言葉に引っかかりを感じていて、いつからか人間社会にも弱肉強食は普通に存在しているよなあと思うようになりました。
それは人が人を食うということではありません。
そういう状況になれば、食うということもあるかもしれませんが。
それよりももっと低いレベルの欲求を満たすために、例えば力をみせつけたいとか、快楽を得たいということのために「弱肉強食」は実践されているんじゃないだろうか。
強い子が弱い子をいじめる、強い親が弱い親をいじめる、親が子を虐待する、先生が嫌いな子を差別する、仕事ができる人ができない人を馬鹿にする、金持ちが貧乏人から搾取する、衝動を押さえれれない男が女性を襲う、変質者が幼児をさらう…。
色んな理由で、力の強い人は弱い人を食い物にして生きている。
法に触れるものもあれば触れないものもあるけれど、多くは人目につかないところで実行されている…。
いじめ、ぜったいダメと言っても、それが本能の一部であれば、制御できない人の心には響かない。
そうなると、弱者はどういう行動をとるか選択しなければならない。
逃げれる人は逃げ、戦える人は戦い、助けを求めれる人は助けを求める。どれもできない人は餌食になってしまう。
多分こういう人生観が自分を形成しているのでしょう。
互助精神より自己責任を重んじる。
だから冷たいし優しくないんだろうな。
ウクライナの話に戻りますが、ウクライナの指導者はつまりウクライナの有権者は、ロシアが嫌うのを構わずEUに入りたい、NATOに加盟したいという意思を貫ぬこうとしている。
その結果として逃げたい人は逃げ、戦いたい人は戦うという状況を作り出し、世界に助けを求めている。
西側のリーダー達や、メディアは同胞となろうとするウクライナを支持し、ロシアを非難する。
西側メディアの論調を浴びてものごとを判断する我々もウクライナかわいそう、プーチン最低というムーブメントになる。
そこに、自分はちょっと距離を置いている、そういうことなのかな。
書きながら自己分析してみました。
日本では思想の自由と表現の自由は認められてはいるようですが、これが読まれることを恐れている自分がおります。
後で後悔して消すかもしれない、この書き込み。
そして奥さんと一緒にウクライナがんばれ! と言ってるかもしれません。