会社の人と、飲みに行った。




興味がある人とのサシ飲みは、とても楽しい。

だいたい聞き役なので

「愚痴っちゃってごめんね!」

と言われることもあるけど、

私は愚痴を聞くのは全く嫌ではない。

むしろ好き。

愚痴ってもらえるのは、相手からの信頼の証だとも思う。

口が固い、話が通じる、信用できる、

少なくともそれらをクリアした相手でないと

愚痴って話せないと思うし

愚痴にこそ、その人の本音の部分、本質の部分、

その人らしさや物の見え方がすごく反映されていると思う。

普段は頑張って隠している人間らしさみたいなものを、

見せてもらえているように感じられる。




だから愚痴を聞くのが好きだし、だいたいが

「そういうこと、私にもあるなぁ」

って共感できる。






興味のある相手から聞く、第三者の話も好き。

私とは違うフィルターをかけて見えている人が評する第三者は、

全く別人に感じられたりもする。

そのフィルターが、愛でできていると

なおさら。

その第三者を見る目が変わったり

自分の見方を一度冷静に捉えてみよう、と思えたり

自分以外の視点をもらえることで

楽になったりする。






愛でできたフィルターを通して語られる誰かほど

魅力的な人はいないと思う。

ちょっぴり苦手だな、と思っていた人でさえ

本当は良い人なんだな、という認識に変わったりする。

愛でできたフィルターを、貸してもらったようだな、と思う。

いや、貸してもらうどころか

少し大袈裟だけどフィルターごと受け継いだような。






私は思ったのだ。

色んな人から、その、誰かを見ている愛でできたフィルターを受け継いで受け継いで

受け継いでいけたら

たくさん受け継げたら

みんなのことを愛せるのだろうか、と。






人のことを考え過ぎて

そして、いくら考えて行動してもそれが報われないと思えて

「私やっぱり人嫌いだわ」

と言いたくなる毎日を送っていても、

こんなことを思ってしまう私の根底には

「愛したい」が脈々と流れているのだと思った。





たとえそれが

綺麗事だろうと言われてもね。