土日に子供と過ごすとき

朝昼晩

三食考えて、買い出しに行って

準備して、作って、食べさせる。

後片付けもする。

それって

今も昔(離婚前)も大変で。

 

 

 

 

 

昼に焼きそばとスープを作って食べさせて。

それからショッピングモールに出かけて。

そのまま夜は外食してしまった。

 

 

 

 

 

帰りのバスに揺られながら

現代を生きてる人は

こうやって

「大変だ」

「やりたくない」

って逃げまくって

他人にやってもらって

やってもらうのが当たり前になってまで

どうしてもやりたいこと。

成し遂げたいこと。

ってあるのかな?

と思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鬼滅の刃の炭次郎が生きていた世界では

自分たちの食べるもの、着るもの、住むところ、

全部、自分たちで作って。

近所の人に手伝ってもらったり

分け合ったり

助け合いながら、生きていたんだろう。

洗濯も、手でやって。

火も、一から熾して。

服が破けたり、小さくなれば

繕ったり新しく作ったり。

 

 

 

 

そういう

生きるために必要なこと

生きるためにしなければいけないこと

そんなことで、日々が埋まっていたんだと思う。

でも、家族みんなでそれをするから。

助け合ってそれをするから。

そんな日々こそが

生活こそが

「生」そのものだったんだろうな。

 

 

 

 

 

現代だったら「取るに足らないこと」

にしがちなそういうことを

しないと生きていかれないから

真剣に、真摯に取り組んでいたんじゃないかな。

一つ一つに

願いを

込めるように。

祈りを

込めるように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どうか

幸せでありますように。

 

 

 

 

 

どうか

いつまでも続きますように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その願いや祈りは叶って

そのおかげで

私たちは毎日を

安全に

便利に

幸せに過ごせている。

 

 

生きるためにしなければならないことで

自分たちの一日の時間が埋まることはなくなった。

代わりにやってもらえることが

格段に増えた。

 

 

 

 

 

だから問われている。

「暇になったその時間を使って

何のために、何をして生きますか?」と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

でも、本当に手をかけること

手をかけたいこと

気持ちを込めたいこと

想いを伝えたいこと

それを、ちゃんと ちゃんと

できているんだろうか?

 

 

 

 

 

私が今日スキップした

いくつかのことの中に

(もちろん夕飯を作らなかったことも)

きっと、それがあった。

 

 

 

 

 

それをスキップしてまで

私が、やりたかったことって?

と自分に問うても

はっきりとした答えは出てこなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人は

自分がやってもらったことしか

他人にやってあげられることができないのかもしれない、

と思う。

 

 

 

 

 

それならきっと

 

手をかける

想いをかける

気持ちを込める

 

そういうことはきっと

便利と手軽で作られた現代人は

ずっとずっと下手になっているんだろうな、と思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分がしてもらったから

それを誰かに渡せる。

誰かのためにも、できる。

 

 

 

 

そういう人は

立派だ。

 

 

 

 

 

私は立派じゃないけれど

祈る気持ちは持ちたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

君と好きな人が

 

100年続きますように。