前回のブログ、
久々に自分をえぐったな笑い泣き笑い泣き笑い泣き
そうそう、自己開示ってこういう感じだったわ!
って思い出した。
ちょっと平和ボケしてたかもしれない笑い泣き
 
 

 
 
「みんな」を見下して抱く優越感
ダサくて、子供っぽくて、汚い気持ち。
人間として最低だなと思う気持ち。
 
 
「みんなと繋がりたいわけじゃない」なんて何様って感じだよな…
多数に対して喧嘩売ってるみたいになっちゃった。
みんなから軽蔑されて、私はまた孤独に戻るのかな…
 
 
 
 
 
でも、私はこの汚い、重い、ネガティブな自分を出しても
このアメブロの世界では受け入れてもらえたと思っている。
 
 
 
そういうところを出して
出して
出して
の積み重ねで
私はどんどん自由になった。
表現が、私を自由にした。
表現が、仲間を集めてくれた。
表現が、仲間が、私を強くした。
 
 
 
 
 
文章を書くのは好きだけど、
私はノートはほとんど書かない。
前は頑張って書いてたけど、
書いた後、いつも「で?」って思ってた。
 
 
私は客観視という能力が欠落していて
自分のことを客観的に見るっていうことが
ほぼできない。(自己分析)
だから、ノートに書いたところで
自分以外の目線で見れるわけでもなく
「で?」ってなるんだよね。
 
 
 
 
 
それよりも、外に表現するほうがしたくて
私はノートを書くような感じで
ブログを書いている。
だから、内容がいつもモヤモヤしたこととか
ドロドロとかじめじめとかなんだ。
 
 
 
ただブログがノートと違うのは
それを誰かに読まれるという点で
それに関しては
毎回怖いし、全然軽い気持ちでは投稿できない。
最近インスタで、ゆいさんのヒトリゴトっていう投稿をしているけど
これはリアルな繋がりもあるアカウントだし
毎回結構な抵抗を感じながらアップしてる。
 
 
 
でも読んで欲しい
知って欲しい
わかって欲しい
だから書いて、「投稿」をする。
 
 
 
「投稿」をすれば
わかってくれる人だけが
わかってくれる。
 
 
 
 
 
わかってもらえて、
受け入れてもらえて、
励ましてもらったり。
慰めてもらったり。
応援してもらったり。
そんな仲間を作れたことが
私にとっては成功体験で、
私を間違いなく強くした。
 
 
 
 
 
だから私は「投稿」をやめないのね。
それがまた誰かに繋がることを願っているから。
それが私を幸せにすることだと思っているから。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
『「みんな」にも、段階ってあるよね』
『わかってくれる人だけに、わかってもらえればいいんだよ』
『私は、私のこと大好きって思ってくれている人のことが大好き』
って
ちぇるちゃんがお話してくれてね
じんわりじんわり感じていたら
 
 
誰かにとっての「みんな」を自分の「みんな」にしようとしていたんだ
だから苦しかったんだ
って気が付いた。
 
 
 
 
例えば学校のクラスみたいに
誰かが作ったグループの中に入って、
なぜか私は
『この「みんな」を大事にしなきゃいけない!』って思いこんでいて
苦しかったんだ。
 
 
 
 
自分にとっての「みんな」って
一人一人違うんだよね。
違っていいんだよね。
誰かにとっての「みんな」とは違うし
今の「みんな」と1年後の「みんな」も違うかもしれないし
きっとそういうものでよかったんだ。
 
 
 
 
 
そう思ったら、私にとっての今の「みんな」をもっともっと
愛したいし
応援したいし
大事にしたいなってすごく思った。
 
 
そして私にとっての「みんな」から
愛されたいし
応援されたいし
大事だよっていってもらいたい。
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
でもそのための諸々のエネルギーが足りねぇぇぇって
ぐぎぎぎぎ・・・・ってなってたんだけど(11月ずっと)
そのお話は
また今度。