先週「嫌われているかも」と思っていたこと自体が
私の思い込みだったのかも?とまで思えるぐらい、
人の思いに守られた。
と思った。
 
 

思い付いてやったインスタライブでも詳しく話したんだけど、
(インスタはこちらから
今までは
鉄みたいな固いもので自分を護るようなイメージでいたから
たぶん飛んできた念とか色々を
カキンと跳ね返していた。
 
 
そうすると、私自身は自分を護っているだけのつもりが
その念を飛ばした人に豪速球で返してしまうから
相手は(私がそんなつもりなくても)嫌な思いをする(そしてループ)
みたいなことが起きていたのかなぁと思ったんだ。
 
 
 
それが、今回私が自分の周りに纏っていたのは
人からの「がんばれ」っていう想いだったから
とっても優しくて柔らかくて誰も傷つけなかった。
私のことも護ってくれたけど
相手のことも傷付けなかった。
 
 
 
あーこれだこれだって
こういう平和なのが
私の望んでいるものだよなぁって思った。
 
 
 
 
 
人の想いに守られる
とか
想いを受け取る
とか
綺麗事に思えて信じられなかった。
 
 
 
縁なんて切れるときは切れるし
人の心は変わってしまうし
誰だって自分が大事。
誰かのためにずっと自分を犠牲にするなんてできない。
自分のためなら、誰かを傷つけたって仕方ない。
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映画を観に行ってきた。
 
 
タオル持って、泣く準備万端
 
 
 
パンフレット買った
 
 
 
『鬼滅の刃』がどうしてこんなにも、人を引き付けるのかなぁって
エンドロールを眺めながらぼんやりと思った。
 
きっとここにいるどの人の心の中にも
煉獄さんみたいな熱い心や
炭次郎みたいに澄んだ心があって
それを思い出して、刺激されて
自分も心を燃やして生きたい!って思うんだろうなぁって。
 
炭次郎タイプとか煉獄さんタイプとか
ホロスコープみたい。
どの要素もみんなきっと持っている。
どの要素が強いとか、こういう場ででやすいとか
そういう違いだけなんじゃないかなぁとかとか。
 
 
 
 
 
でも私は、気が付いた。
私は
炭次郎みたいに澄んだ心ばっかりではないということに。
 
 
 
 
 
私は、炭次郎ではなく、
鬼殺隊でもなく、
 
なんなら
鬼の側の人間だ。
 
 
 
 
 
猗窩座が好きだ、鬼が好きだって思うのって
私にその部分があるからなんだよなぁ。
 
 
弱い自分が嫌いで
本当に殺したかったのは弱い自分だったはずなのに
そのことを忘れて、強さを求める鬼。(猗窩座)
 
悪いことをしたのは自分なのに
そのことを忘れて、自分を正当化する鬼。(累)
 
責任から逃げて
自分は被害者だとのたまう鬼。(半天狗)
(半天狗は別に好きじゃない。)
 
 
 
全部全部、私のことやん。
 
 
 
 
 
自分のために人を傷つけたり
自分から人との繋がりを切ったくせに
その責任からは逃げて
被害者ぶる。
孤独ぶって、可哀想ぶって
弱いふり。
正々堂々戦わない。
 
 
 
 
 
ゲロ出そうゲローゲローゲロー
 
 
 
 
 
すっっっっっっっっっっごくひねくれた考えなんだけど
「燃えるものがある、やるべきことが決まってる人はいいよね」
って思ってしまった。
 
 
 
 
 
だから私は、鬼殺隊じゃないって思った…
(どんだけ鬼殺隊になりたいの!)
 
 
 
 
 
炭次郎はすごいね。
人を信じる力、思いやりの心で
人と繋がって、
人がそれぞれ大事にしたいと思う心、気持ちを思い出させてくれる。
それはきっと普遍的な心、気持ちだと思うんだ。
選ばれた人だけが持っている、というのとは違う、
人なら誰しもが持っている部分で、理想で。
だから誰の心にも響く。
誰もが思い出せる。
 
 
 
ということは、この炭次郎の部分は私の心にもあるのか。
だったらそこが、私の鬼の部分を斬ってくれてるのかもしれない。
斬ってて欲しい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ここはひとつ、鬼だったこともある鬼殺隊の一員ってことで。
(だからどんだけ鬼殺隊になりたいのか)
珠世さんみたいな感じで。
間違えちゃうこともあるよね!みたいな。
間違えちゃった自分も許すし、間違えちゃったあなたも許すよ!みたいな。
(珠世さんはそんなに軽いノリじゃないけど)
 
 
なんかこういう変な経験も、人間としての深みが増したってことでいいよなって
最近は思える。
ずっとずっと、もうこの世の不幸を一身に背負っている雰囲気を醸し出すのが得意技だったけど
そういうの、もういいよなって自然に思えるようになってきた。
自然にそう思えるようになったからこそ
傷付けてしまった人には本当に申し訳なかったなって思えるし
心から謝れる気がする。