1-3 AT WHITE BEAR
守護のロジック
1.ENCOUNTER
1-3.AT WHITE BEAR
ホワイト・ベアの入口の横にメニューの蝋細工が並んだガラスケースがある。マジック手書きの値段のカードが立っている。「スパゲティーセット インディアン¥600」などだ。カレーソースのかかったパスタである。こんな昭和後期レトロなところが直樹には面白かった。
店内に客はいない。エアコンの音が聞こえる。二人は西側の大きなガラス窓に向かって並んで座った。やわらかい布製のソファ。座ると沈み込む。窓の向こうに大講堂を超えて都心の建物とさらに遠くに山並みが見えた。直樹のいつものポジションである。ロングスカートのウェイトレスがにこやかにオーダーを取りに来る。直樹はアイスコーヒーを、智美はアイスレモンティーを注文する。
エアコンが乾燥した冷気を強力に循環させていた。汗が急速に乾いて、思考が戻ってくる。二人の心には相手への好奇心が成長していたが、この場はまず「本題」を片づけることに集中しようと二人とも決めていた。
「無意味な生き方や価値の低い生き方がある、って不満だね?」教授の回答を繰り返して直樹が切り出す。
「うん。」智美の目が大きく開いて輝く。真剣な表情である。何て綺麗な瞳だろうと直樹は思う。しかし話を進めなければならない。
「どんな人のどんな人生にも価値がある、その証明が欲しいんだよね。」直樹がもう一度確認する。智美の表情は続きを待っている。
「高校の時に読んだ物語でね。」直樹が続ける。「爺さんがね、死の間際に、失敗だらけの何も成し遂げなかった自分の生涯を振り返って、泣くんだ。無意味な人生だったって。でも、物語の作者は『でも、あなたは生きたではないか。それで十分ではないか。』というようなことを言うんだ。そう思う?」直樹がもう一度たたみかける。話す気持はまんまんではあったが、話した後で違うことについてだったらバツが悪い。
「うん。」智美の声が弾む。一層、瞳が輝く。直樹の本心では、ずっと黙ってこの人の瞳を見ていたい。しかし話を進めなければならない。
「僕もそう思う。」直樹が続ける。もう大丈夫だと思う。「誰もが生きたということだけで祝福されるべきだ。」
「そう思う。」智美が強く同意する。「でも、生きるだけでいい、というのは結論で、理由を説明してないよね。証明が知りたいの。笑われちゃうんだけど。」
「もちろん、それをこれから話すよ。でなきゃ、僕は詐欺師だ。トモちゃんはおかしくない。」直樹はこれ以上確かめる必要のないことを確信した。
「ナオちゃんが詐欺師ならそれでもいいよ。今まで本を読んで何度も期待を外されてきたから、それは平気。でも、そうじゃないんでしょ。」何故かわからない、しかし、智美は直樹が裏切らないと思えた。ほんの少し前に講義室で見たばかりの直樹に対して自分が何故こんな信頼を与えているのかわからない。そして、それには説明の必要を感じない。
飲み物が運ばれてくる。ウェイトレスはスカートを翻して慣れた身のこなしで去っていく。直樹はストローを差さずにアイスコーヒーを一気に飲み干す。智美はストローから一口啜った。智美は指輪をしていた。割に大きな透明の石だった。直樹は綺麗な指輪だと思った。智美がグラスを置いて、直樹を見た。
「要点だけを話すね。」直樹はゆっくりした口調で窓に向って語った。自分の中では何度も繰り返した表現である。
「意味を知るのは心だ。」
「心は脳で起きてる。」
「脳は物でできてる。」
「物そのものには意味がない。」
「しかし意味は幻ではなく確かに物に宿って実在する。ここはいいよね?意味が神秘的な領域に誘拐されるのを防ぐための話。証明はこれから。」直樹はちょっと注釈を入れてから続ける。
「意味とは物の組織化された動きだ。」
「それは目的を達成する組織化だ。」
「目的は生きることだ。」
「ゆえに、生きようとし、生きるならば、意味というものがある。」
「つまり、生きていることにはそれだけで意味がある、以上。書けば4行、短すぎたかな?」直樹は話し終わって、智美を見る。
智美は、視線を窓の向こうにおいて考え始めたようだった。
長々と話すのに抵抗があったから、核心部だけを喋った。もし足りなかったらもう少し説明をしようと思っている。とはいえ、この証明を点検するのには時間がかかる。今日だけで終わる性質のものでもない。慌てることはない。直樹は智美の言葉を待つ。
太陽が西に移動した。その光が智美の指輪に当たっている。宝石がプリズムになってきらきらと虹色に分光している。直樹がその光に気づく。智美が動くと鮮やかな紫、青、赤と原色の光輝が入れ替わる。直樹は突然に子供の時の記憶を思い出す。西日の当る子供部屋の窓ガラスがプリズムになっていた。直樹はその光を飽きずによく見ていた。プリズムでしか見えない純粋な澄み切った色。心が吸い込まれるような光。
「人間だけじゃなく、犬や猫、それに、全ての生きる物には意味がある?」智美が質問のシーケンスを開始した。
「うん。ミジンンコにも意味がある。」直樹は追想から議題に意識を戻す。
「心があれば意味を感じることができる?」
「うん。」
「物には意味がないのね?」
「意味っていう言葉もいろいろだ。ある見方では物には意味がある。物なくして生きれないし、僕たち自身が物でもある。でも、物について言っている意味は、トモちゃんが捜してる意味とは別。」
「心だけが意味を問題にするということ?」
「うん。心でなくてもいい。因果関係でことが起きるのを記録するだけだったら意味は存在しない。物理的な現象が起きているだけ。そのことの意味は何か、と考える存在があるときに、この証明が必要になる。」
「人間でなくても?」
「うん。実際に人間がいなくも生きる物には意味がある。ただ、心のない生き物は生きる意味を知る必要がない。意味を知ろうとする能力をもっているならば意味を知ることができるわけだ。」
「宇宙から生きる物が消えても意味は残るの?意味があると知るものがなくても?」
「うん。哲学は客観的なものだから世界とともに存在する。もしその世界の法則が生命を生むポテンシャルを持っているなら意味は存在する。そういう世界がなければこの問題が生まれない。」
直樹には智美の質問が気持よかった。証明の内容が理解されたと感じることができた。そんな質問をしてもらいたかったのだと気づく。
「親に叱られた。私なんか生きてる意味無いんだ。そう思う時に感じる無意味感とはどんな風につながるの?」智美の質問が次の段階に移行した。
「パフュームって知ってる?」
「うん。3人組の?ワンルームディスコとかの?」
「そう、あの子たち。ドリームファイターって歌があるんだ、聞いたことあるかな。短く言うと、辛いことを感じるのも前に進む能力である、みたいな歌詞で、とても勇気付けられるんだけどね。つまり、逆説的なこともあるけれど、必ず生きるため、という目的を軸にして、それから外れるときに無意味を感じる仕組みになっている。」
「仕組みって、どういう?」
「きっと論理的な説明ができると思う。それが証明可能だろって希望は進化論から来てる。僕たち人間は生存競争の圧倒的な覇者だ。僕たちのもつ能力は必ず生存を強化することに役立っているはず。自分を無意味な存在だと感じてへこむことが、実はすごく大事な生き残るための能力、ってこと。」
「そういうことかあ。意味を現実的に定義できてるね。人に希望を与えられそうね。」
直樹は意味という言葉の意味範囲を限定した。智美の質問は、それが普通に使う意味とどうつながるかの説明を導いた。直樹はますます智美が馬鹿じゃないとわかって嬉しくなる。この人とならこの話を続けることができると思った。
「生き延びることが目的。目的のための動きが意味。私、掴めたと思う?」智美が直樹を見て訊ねた。
「うん。その纏めに賛成!トモちゃんは優秀。」直樹は感嘆し、少し言葉に力がこもった。この子に会えて良かったと思う。
「よかった。」智美の表情が柔らかい人懐こいものに変わった。直樹の胸のあたりに何か暖かいものが湧きあがった。
「ナオちゃんはその証明をいつ知ったの?それとも自分で作ったの?」智美は違う方向に質問の舵を切った。口調がさっきよりもさらに穏やかに親しげになっている。
「実は証明を作ったのは叔父きなんだ。」直樹は智美の方向転換に快く応じる。この話も大事なことだと思っている。そして直樹自身のことから至近距離にある。
「その素敵な叔父さんは、何故この証明を作ったのかしら。」智美は叔父を褒めつつ、証明の出所を知りたい。
「高校生の時に深刻に自我の危機に陥って、自分の意味を証明する必要が生じたらしい。」直樹は説明を続ける。「で、事柄の性質として、自分だけの意味の証明にはならず、生きる物すべての意味の証明に、結果としてなったらしい。叔父きは実に30年かけて考え続けたんだ。僕は何故だか、叔父きに見込まれてて、叔父きの思考を継承することを、期待されてる。中学生の頃から何度もこの話を聞かされたよ。」
「責任重大だね?」智美が軽い調子で言う。
「実に。僕がここにいるのも責任を果たすため。」直樹がわざとしかめつらで答えて笑う。智美も笑う。直樹はこのテーマが自分にとって大事であることをトモちゃんに伝えることができたと思う。そうしたかったのだ。
「ねえ、聞いていい?」しばし間が空いて、今度は直樹が質問する番だ。
「うん、なんでも答える。」智美の心の準備は整っている。なんだか親しげに転じた直樹の口調も嬉しかった。
「トモちゃんはどうして意味の証明が知りたかったの?」直樹が尋ねる。
「楽しい話じゃないんだ、ごめんね。高校の仲良しの後輩が電車の事故で去年、亡くなったの。まだ高三で、何もかもこれからなのに、何もしてないのに、どうして、って思った。でも彼女がいたことには意味があると思った。思いたかった。」智美が少し沈んだ声で答える。
「それは気の毒だったね。聞いて悪くなかった?」直樹は想像して悲しくなった。すごくつらい経験だっただろうと思った。
「ううん、そんなことない。一応乗り越えてるし、私のことナオちゃんに知ってもらいたいし。」智美は自分の気持ちを伝えてもいいかなと思った。ここに来るまでの会話の口調が直樹の智美への好意や気遣いを示していた。証明の説明、その後の質問と答えの中にも、智美は直樹の好意を感じることができた。それは話していることの意味ではなくて、声の調子、間の取り方、ちょっとした表情の変化といった感覚的なものだった。智美の中に、この人を信じ頼っても大丈夫だという気持ちができていた。
「ナオちゃんに今日会えて良かった。」智美が言った。
「そう思ってくれてよかった。」直樹もそんな感じの言葉が聞きたいと思っていた。
「ほんとはね、声をかけてくれるといいなって思ってた。」智美はこれから自分が言うことを受け入れてくれると感じながら話す。「今日は講義室に遅れて行ったんだけど、ちょうどナオちゃんが質問しているところだった。面白い質問するなと思って、後ろに座って見てたら、1人だけ真面目にレクチャーを聴いているし、ノートに挿絵を入れてて面白かった。ごめんね、覗いちゃった。それに、ナオちゃんはタイプだし。もしナオちゃんが、私の疑問に答えてくれたら、って思った。あの質問は、本当に知りたいことだったけど、ナオちゃんがキャプチャーして欲しかった。そしたら、本当に誘ってくれて、しかも、思っていた以上の証明が聞けちゃった。大げさなんだけど、さっき、生きてて良かったと思っちゃったくらい。」
「どうしよう。」直樹には智美の告白めいた話が嬉しい。「人生の意味の証明は僕にとっても重大事だけど、そんな話につきあってくれる友達もなかった。トモちゃんだってめちゃくちゃ僕のタイプ。僕は自分が頑張って声をかけたつもりだったけど、トモちゃんがきっかけを作ってくれてたのでもあるんだね。」
「もう一杯飲む?」ちょっと唐突に智美が訊く。
「いいね。」一通り胸の中にあるものを出した満足を感じながら直樹が答える。
ウェイトレスは二人の注文をにこやかに聞いてスカートを軽やかに翻した。飲み物を運んできた時も同じだ。無駄なことは言わない。変な好奇心も見せない。プロなウェイトレスだ。先ほどもちょうどのタイミングで水を持ってきた。実は直樹はウェイトレスと話したことがある。水を飲み干すと氷がカランという。その音を聴いているんだという。直樹は感心したのだった。
二人はしばらく黙ってそれぞれの飲み物を飲んだ。冷たい味が快かった。
太陽が移動の歩みを早めたようだった。光が黄色く変わってくる。逆光の中で遠くのビルが段々と霞んでくる。街は夕方に向かってせわしなくなっていく時間だ。
二人ともこの後どうしようか考え始める。明日の約束をしてバイバイしようか。今日話したことについて一人で考えたい。でももう少し話したい、存在の意味についてでなく、相手について、自分について。
ここでこの人といることが急に不思議に思えてくる。
君は何所で生まれたの?育ってきたの?
一瞬、夢の中にいるような感覚が襲う。集中して話をしてた。その緊張が切れてくる。夢の中では突然にシーンが始まるのにずっとそこにいたと疑わない。初めて来たという感覚がない。ずっと前から知っていたような。何度も来た事があったように思い込んでいる。
この人と会ったことが初めてではないような錯覚がしばらく前から続いていることに気付く。それなのにこの人が誰なのか全然知らない。ずっと前に会ったことがあったのではないか。何故にこの人にこんなに惹かれるのか。この人の顔や声が特別に感じられるのか。もうタイプだとかの次元ではない。
この人とこれから、いつまでかはわからないけれども、話を続けるだろうことはわかった。
「指輪、綺麗だね。」唐突に直樹が言う。プリズムの光はまだそこにあった。
「気がついた?ちょっといわれがあるの。話すと長いから今度説明するね。」智美が自制するような調子で言って、直樹はそれ以上聞かなかった。時々智美は謎めく。でもきっと理由があってのことだと感じられる。自分のように焦って後先考えずに短く話すタイプではないんだなと解釈する。
それから直樹は自分の子供部屋のガラスの虹の話をした。智美はその話を楽しく聞いた。そして智美はストーンズのシーズ・ア・レインボウを口ずさんだ。ずいぶん古い歌だ。智美は自分でどうしてここでこんな古い歌を自分が思い出すのかよくわからないと思った。アップルコンピューターのコマーシャルにも使われていた。直樹は叔父から聞かされて知っていた。好きな歌である。直樹は智美がその歌に出てくる綺麗な虹のような女の人であると言って、智美は「褒めすぎ、照れる。でも、ありがとう。」と言った。
西日に近づいた陽が二人の胸元に当たるようになった。閉店の時間も近い。
「僕の歴史の一番重要な出来事が今起きてるのかもしれない。僕はトモちゃんを好きになると思う。トモちゃんはきっと僕の大切な人になると思う。」
「これからうち来てくれる?城山にあるんだ。もうさっきほど暑くないと思う。僕はもっとトモちゃんと話したい。話しながらいつもの帰り道をトモちゃんと歩いてみたい。」直樹が誘った。
「いいよ。全然暇だし。嬉しいし。」智美は自分の口調が変わっているのを感じた。二人ともそれが嬉しくもあった。
「歩いて30分くらいかな。」直樹がそう言って勘定をすませる。「ここは僕のおごりな。」
「はい、喜んでおごってもらうね。でも、次は私よ。」
「うん、わかった。」
外に出ると意外なほど涼しい風が吹き始めていた。陽はまだあるが雲が南の方角から寄せてきているようだった。
「夕立ち来るかな。」智美が空を見上げていう。
「どうかな。来ても全然いいけど。」Tシャツにジーンズの直樹は気楽にいう。
「そうだね。夕立ちって好きだし。」智美も濡れて困るような服装ではなかった。もっとも、多少濡れて困る服であっても同じことを言っただろう。
二人は並んで歩き始めた。
守護のロジック
1.ENCOUNTER
1-3.AT WHITE BEAR
ホワイト・ベアの入口の横にメニューの蝋細工が並んだガラスケースがある。マジック手書きの値段のカードが立っている。「スパゲティーセット インディアン¥600」などだ。カレーソースのかかったパスタである。こんな昭和後期レトロなところが直樹には面白かった。
店内に客はいない。エアコンの音が聞こえる。二人は西側の大きなガラス窓に向かって並んで座った。やわらかい布製のソファ。座ると沈み込む。窓の向こうに大講堂を超えて都心の建物とさらに遠くに山並みが見えた。直樹のいつものポジションである。ロングスカートのウェイトレスがにこやかにオーダーを取りに来る。直樹はアイスコーヒーを、智美はアイスレモンティーを注文する。
エアコンが乾燥した冷気を強力に循環させていた。汗が急速に乾いて、思考が戻ってくる。二人の心には相手への好奇心が成長していたが、この場はまず「本題」を片づけることに集中しようと二人とも決めていた。
「無意味な生き方や価値の低い生き方がある、って不満だね?」教授の回答を繰り返して直樹が切り出す。
「うん。」智美の目が大きく開いて輝く。真剣な表情である。何て綺麗な瞳だろうと直樹は思う。しかし話を進めなければならない。
「どんな人のどんな人生にも価値がある、その証明が欲しいんだよね。」直樹がもう一度確認する。智美の表情は続きを待っている。
「高校の時に読んだ物語でね。」直樹が続ける。「爺さんがね、死の間際に、失敗だらけの何も成し遂げなかった自分の生涯を振り返って、泣くんだ。無意味な人生だったって。でも、物語の作者は『でも、あなたは生きたではないか。それで十分ではないか。』というようなことを言うんだ。そう思う?」直樹がもう一度たたみかける。話す気持はまんまんではあったが、話した後で違うことについてだったらバツが悪い。
「うん。」智美の声が弾む。一層、瞳が輝く。直樹の本心では、ずっと黙ってこの人の瞳を見ていたい。しかし話を進めなければならない。
「僕もそう思う。」直樹が続ける。もう大丈夫だと思う。「誰もが生きたということだけで祝福されるべきだ。」
「そう思う。」智美が強く同意する。「でも、生きるだけでいい、というのは結論で、理由を説明してないよね。証明が知りたいの。笑われちゃうんだけど。」
「もちろん、それをこれから話すよ。でなきゃ、僕は詐欺師だ。トモちゃんはおかしくない。」直樹はこれ以上確かめる必要のないことを確信した。
「ナオちゃんが詐欺師ならそれでもいいよ。今まで本を読んで何度も期待を外されてきたから、それは平気。でも、そうじゃないんでしょ。」何故かわからない、しかし、智美は直樹が裏切らないと思えた。ほんの少し前に講義室で見たばかりの直樹に対して自分が何故こんな信頼を与えているのかわからない。そして、それには説明の必要を感じない。
飲み物が運ばれてくる。ウェイトレスはスカートを翻して慣れた身のこなしで去っていく。直樹はストローを差さずにアイスコーヒーを一気に飲み干す。智美はストローから一口啜った。智美は指輪をしていた。割に大きな透明の石だった。直樹は綺麗な指輪だと思った。智美がグラスを置いて、直樹を見た。
「要点だけを話すね。」直樹はゆっくりした口調で窓に向って語った。自分の中では何度も繰り返した表現である。
「意味を知るのは心だ。」
「心は脳で起きてる。」
「脳は物でできてる。」
「物そのものには意味がない。」
「しかし意味は幻ではなく確かに物に宿って実在する。ここはいいよね?意味が神秘的な領域に誘拐されるのを防ぐための話。証明はこれから。」直樹はちょっと注釈を入れてから続ける。
「意味とは物の組織化された動きだ。」
「それは目的を達成する組織化だ。」
「目的は生きることだ。」
「ゆえに、生きようとし、生きるならば、意味というものがある。」
「つまり、生きていることにはそれだけで意味がある、以上。書けば4行、短すぎたかな?」直樹は話し終わって、智美を見る。
智美は、視線を窓の向こうにおいて考え始めたようだった。
長々と話すのに抵抗があったから、核心部だけを喋った。もし足りなかったらもう少し説明をしようと思っている。とはいえ、この証明を点検するのには時間がかかる。今日だけで終わる性質のものでもない。慌てることはない。直樹は智美の言葉を待つ。
太陽が西に移動した。その光が智美の指輪に当たっている。宝石がプリズムになってきらきらと虹色に分光している。直樹がその光に気づく。智美が動くと鮮やかな紫、青、赤と原色の光輝が入れ替わる。直樹は突然に子供の時の記憶を思い出す。西日の当る子供部屋の窓ガラスがプリズムになっていた。直樹はその光を飽きずによく見ていた。プリズムでしか見えない純粋な澄み切った色。心が吸い込まれるような光。
「人間だけじゃなく、犬や猫、それに、全ての生きる物には意味がある?」智美が質問のシーケンスを開始した。
「うん。ミジンンコにも意味がある。」直樹は追想から議題に意識を戻す。
「心があれば意味を感じることができる?」
「うん。」
「物には意味がないのね?」
「意味っていう言葉もいろいろだ。ある見方では物には意味がある。物なくして生きれないし、僕たち自身が物でもある。でも、物について言っている意味は、トモちゃんが捜してる意味とは別。」
「心だけが意味を問題にするということ?」
「うん。心でなくてもいい。因果関係でことが起きるのを記録するだけだったら意味は存在しない。物理的な現象が起きているだけ。そのことの意味は何か、と考える存在があるときに、この証明が必要になる。」
「人間でなくても?」
「うん。実際に人間がいなくも生きる物には意味がある。ただ、心のない生き物は生きる意味を知る必要がない。意味を知ろうとする能力をもっているならば意味を知ることができるわけだ。」
「宇宙から生きる物が消えても意味は残るの?意味があると知るものがなくても?」
「うん。哲学は客観的なものだから世界とともに存在する。もしその世界の法則が生命を生むポテンシャルを持っているなら意味は存在する。そういう世界がなければこの問題が生まれない。」
直樹には智美の質問が気持よかった。証明の内容が理解されたと感じることができた。そんな質問をしてもらいたかったのだと気づく。
「親に叱られた。私なんか生きてる意味無いんだ。そう思う時に感じる無意味感とはどんな風につながるの?」智美の質問が次の段階に移行した。
「パフュームって知ってる?」
「うん。3人組の?ワンルームディスコとかの?」
「そう、あの子たち。ドリームファイターって歌があるんだ、聞いたことあるかな。短く言うと、辛いことを感じるのも前に進む能力である、みたいな歌詞で、とても勇気付けられるんだけどね。つまり、逆説的なこともあるけれど、必ず生きるため、という目的を軸にして、それから外れるときに無意味を感じる仕組みになっている。」
「仕組みって、どういう?」
「きっと論理的な説明ができると思う。それが証明可能だろって希望は進化論から来てる。僕たち人間は生存競争の圧倒的な覇者だ。僕たちのもつ能力は必ず生存を強化することに役立っているはず。自分を無意味な存在だと感じてへこむことが、実はすごく大事な生き残るための能力、ってこと。」
「そういうことかあ。意味を現実的に定義できてるね。人に希望を与えられそうね。」
直樹は意味という言葉の意味範囲を限定した。智美の質問は、それが普通に使う意味とどうつながるかの説明を導いた。直樹はますます智美が馬鹿じゃないとわかって嬉しくなる。この人とならこの話を続けることができると思った。
「生き延びることが目的。目的のための動きが意味。私、掴めたと思う?」智美が直樹を見て訊ねた。
「うん。その纏めに賛成!トモちゃんは優秀。」直樹は感嘆し、少し言葉に力がこもった。この子に会えて良かったと思う。
「よかった。」智美の表情が柔らかい人懐こいものに変わった。直樹の胸のあたりに何か暖かいものが湧きあがった。
「ナオちゃんはその証明をいつ知ったの?それとも自分で作ったの?」智美は違う方向に質問の舵を切った。口調がさっきよりもさらに穏やかに親しげになっている。
「実は証明を作ったのは叔父きなんだ。」直樹は智美の方向転換に快く応じる。この話も大事なことだと思っている。そして直樹自身のことから至近距離にある。
「その素敵な叔父さんは、何故この証明を作ったのかしら。」智美は叔父を褒めつつ、証明の出所を知りたい。
「高校生の時に深刻に自我の危機に陥って、自分の意味を証明する必要が生じたらしい。」直樹は説明を続ける。「で、事柄の性質として、自分だけの意味の証明にはならず、生きる物すべての意味の証明に、結果としてなったらしい。叔父きは実に30年かけて考え続けたんだ。僕は何故だか、叔父きに見込まれてて、叔父きの思考を継承することを、期待されてる。中学生の頃から何度もこの話を聞かされたよ。」
「責任重大だね?」智美が軽い調子で言う。
「実に。僕がここにいるのも責任を果たすため。」直樹がわざとしかめつらで答えて笑う。智美も笑う。直樹はこのテーマが自分にとって大事であることをトモちゃんに伝えることができたと思う。そうしたかったのだ。
「ねえ、聞いていい?」しばし間が空いて、今度は直樹が質問する番だ。
「うん、なんでも答える。」智美の心の準備は整っている。なんだか親しげに転じた直樹の口調も嬉しかった。
「トモちゃんはどうして意味の証明が知りたかったの?」直樹が尋ねる。
「楽しい話じゃないんだ、ごめんね。高校の仲良しの後輩が電車の事故で去年、亡くなったの。まだ高三で、何もかもこれからなのに、何もしてないのに、どうして、って思った。でも彼女がいたことには意味があると思った。思いたかった。」智美が少し沈んだ声で答える。
「それは気の毒だったね。聞いて悪くなかった?」直樹は想像して悲しくなった。すごくつらい経験だっただろうと思った。
「ううん、そんなことない。一応乗り越えてるし、私のことナオちゃんに知ってもらいたいし。」智美は自分の気持ちを伝えてもいいかなと思った。ここに来るまでの会話の口調が直樹の智美への好意や気遣いを示していた。証明の説明、その後の質問と答えの中にも、智美は直樹の好意を感じることができた。それは話していることの意味ではなくて、声の調子、間の取り方、ちょっとした表情の変化といった感覚的なものだった。智美の中に、この人を信じ頼っても大丈夫だという気持ちができていた。
「ナオちゃんに今日会えて良かった。」智美が言った。
「そう思ってくれてよかった。」直樹もそんな感じの言葉が聞きたいと思っていた。
「ほんとはね、声をかけてくれるといいなって思ってた。」智美はこれから自分が言うことを受け入れてくれると感じながら話す。「今日は講義室に遅れて行ったんだけど、ちょうどナオちゃんが質問しているところだった。面白い質問するなと思って、後ろに座って見てたら、1人だけ真面目にレクチャーを聴いているし、ノートに挿絵を入れてて面白かった。ごめんね、覗いちゃった。それに、ナオちゃんはタイプだし。もしナオちゃんが、私の疑問に答えてくれたら、って思った。あの質問は、本当に知りたいことだったけど、ナオちゃんがキャプチャーして欲しかった。そしたら、本当に誘ってくれて、しかも、思っていた以上の証明が聞けちゃった。大げさなんだけど、さっき、生きてて良かったと思っちゃったくらい。」
「どうしよう。」直樹には智美の告白めいた話が嬉しい。「人生の意味の証明は僕にとっても重大事だけど、そんな話につきあってくれる友達もなかった。トモちゃんだってめちゃくちゃ僕のタイプ。僕は自分が頑張って声をかけたつもりだったけど、トモちゃんがきっかけを作ってくれてたのでもあるんだね。」
「もう一杯飲む?」ちょっと唐突に智美が訊く。
「いいね。」一通り胸の中にあるものを出した満足を感じながら直樹が答える。
ウェイトレスは二人の注文をにこやかに聞いてスカートを軽やかに翻した。飲み物を運んできた時も同じだ。無駄なことは言わない。変な好奇心も見せない。プロなウェイトレスだ。先ほどもちょうどのタイミングで水を持ってきた。実は直樹はウェイトレスと話したことがある。水を飲み干すと氷がカランという。その音を聴いているんだという。直樹は感心したのだった。
二人はしばらく黙ってそれぞれの飲み物を飲んだ。冷たい味が快かった。
太陽が移動の歩みを早めたようだった。光が黄色く変わってくる。逆光の中で遠くのビルが段々と霞んでくる。街は夕方に向かってせわしなくなっていく時間だ。
二人ともこの後どうしようか考え始める。明日の約束をしてバイバイしようか。今日話したことについて一人で考えたい。でももう少し話したい、存在の意味についてでなく、相手について、自分について。
ここでこの人といることが急に不思議に思えてくる。
君は何所で生まれたの?育ってきたの?
一瞬、夢の中にいるような感覚が襲う。集中して話をしてた。その緊張が切れてくる。夢の中では突然にシーンが始まるのにずっとそこにいたと疑わない。初めて来たという感覚がない。ずっと前から知っていたような。何度も来た事があったように思い込んでいる。
この人と会ったことが初めてではないような錯覚がしばらく前から続いていることに気付く。それなのにこの人が誰なのか全然知らない。ずっと前に会ったことがあったのではないか。何故にこの人にこんなに惹かれるのか。この人の顔や声が特別に感じられるのか。もうタイプだとかの次元ではない。
この人とこれから、いつまでかはわからないけれども、話を続けるだろうことはわかった。
「指輪、綺麗だね。」唐突に直樹が言う。プリズムの光はまだそこにあった。
「気がついた?ちょっといわれがあるの。話すと長いから今度説明するね。」智美が自制するような調子で言って、直樹はそれ以上聞かなかった。時々智美は謎めく。でもきっと理由があってのことだと感じられる。自分のように焦って後先考えずに短く話すタイプではないんだなと解釈する。
それから直樹は自分の子供部屋のガラスの虹の話をした。智美はその話を楽しく聞いた。そして智美はストーンズのシーズ・ア・レインボウを口ずさんだ。ずいぶん古い歌だ。智美は自分でどうしてここでこんな古い歌を自分が思い出すのかよくわからないと思った。アップルコンピューターのコマーシャルにも使われていた。直樹は叔父から聞かされて知っていた。好きな歌である。直樹は智美がその歌に出てくる綺麗な虹のような女の人であると言って、智美は「褒めすぎ、照れる。でも、ありがとう。」と言った。
西日に近づいた陽が二人の胸元に当たるようになった。閉店の時間も近い。
「僕の歴史の一番重要な出来事が今起きてるのかもしれない。僕はトモちゃんを好きになると思う。トモちゃんはきっと僕の大切な人になると思う。」
「これからうち来てくれる?城山にあるんだ。もうさっきほど暑くないと思う。僕はもっとトモちゃんと話したい。話しながらいつもの帰り道をトモちゃんと歩いてみたい。」直樹が誘った。
「いいよ。全然暇だし。嬉しいし。」智美は自分の口調が変わっているのを感じた。二人ともそれが嬉しくもあった。
「歩いて30分くらいかな。」直樹がそう言って勘定をすませる。「ここは僕のおごりな。」
「はい、喜んでおごってもらうね。でも、次は私よ。」
「うん、わかった。」
外に出ると意外なほど涼しい風が吹き始めていた。陽はまだあるが雲が南の方角から寄せてきているようだった。
「夕立ち来るかな。」智美が空を見上げていう。
「どうかな。来ても全然いいけど。」Tシャツにジーンズの直樹は気楽にいう。
「そうだね。夕立ちって好きだし。」智美も濡れて困るような服装ではなかった。もっとも、多少濡れて困る服であっても同じことを言っただろう。
二人は並んで歩き始めた。