2-5 ライブハウス

小説「ガルガーレラ」

翌日、直樹、智美とヨンギの三人、あるいは、三人とハルは宿を出た。ヨンギには取り敢えずユニクロで買ってきた服を着せた。北朝鮮軍のパイロットスーツのまま出歩く訳にはいかない。

「気分は?」直樹がヨンギに聞く。
「ダイジョウブ」ヨンギが答える。
「さすがタフね。」智美が感心する。

急な坂道を下る。前方に美しい港が見える。

「ロンて呼んでイイ?」智美が唐突にヨンギに言う。
「いいよ」ヨンギはもう丁寧語で話すのをやめた。今の状況に極力順応しようと決めた。そのために学んだ日本語である。

浦上天主堂と原爆資料館を回った。言葉が無い。その残虐がこの時代に行われたことが事実である。あり得ないと思う。直樹は自分が人間を理解できていないと痛感した。原爆のことは勿論知っていた。だが、もう同じことは繰り返さないはずだと、思い込んでいた。しかしここに来てわかった。これが繰り返され無いと言える根拠が無い。発狂していた訳ではない。莫大な予算を費やして、国民から民主的な手続きで選ばれた大統領が原爆の投下の命令を出した。もし発狂していたのだとしたら、我々はまだ正気になってはいない。

「究極の平和を考えてたが、それどころじゃ無いな。目の前に穴がボコボコ開いてる。それを埋める作業も必要。人間、総体としては、その程度か。」直樹が呟く。「人間の本質が変わることを期待するのは無駄では無いが、それは余りに遠い未来だ。人はこのままだ。それを前提に悲劇を防ぐことを考えるべきなのだ。幸い広島と長崎の後に核は使われなかった。それは恐らく悲惨を認識したからだ。人間性が変わったのではない。俺たちのいる世界はそういうところだった。そして俺も同じだ。死んだ人々が俺にそう言う。」

「ナオは人類全体の平和を考えているんだ?アメリカを恨まないのか?」ヨンギがやや怪訝そうに問う。
「世界平和無しに日本の平和も、個人の平和もねえべ?」と直樹は迷わず答える。
ヨンギはそれ以上追求せず、そこで会話は終わった。

三人とハルは街の中心に向かう。傾いた太陽が地平線に向かう。直樹の叔父が指定した店に沈んだ気持ちのまま到着する。店の看板には、アウトブレイク!と書かれている。防音扉を開けて中に入る。
(開演前のライブハウスの情景描写 後で)

「おう!無事ついたか?」直樹の叔父が彼等に気付いてビールを持った手を挙げて呼びかける。ラフな服装だ。
「なんだよ?急に呼びつけて」直樹がぶっきらぼうにいう。
「お連れはどなた?一人多くないか?」叔父は直樹の抗議をスルーして自分の疑問を返す。そういう奴だと聞いていた智美はなるほどと思う。
「初めまして」智美は真っ直ぐ大きな声で挨拶をする。体育会系の一通りは身につけているのだ。
「トモちゃんだね。話は聞いてるよ。よろしく!」叔父は何気に嬉しそうだ。直樹は、人工生命体の話、智美の再生と能力の話をすでに教えていた。
「ロンです。」ヨンギも堂々たる態度で挨拶をする。
「逸郎だ。よろしく。ビールでいいか?」逸郎は三人にビールを振る舞う。

直樹はヨンギがここに来るまでの一連の出来事を語る。逸郎は驚きもせず単に面白がった。ヨンギのことも手伝おうと言った。
「ニュースでみたぜ。」叔父が言う。「パイロットは見つかっていないと言っていたが、違うわけだ。北と上手く交渉して貰いたいもんだ。探すから君の情報を寄こせ、ってもう言ったかね?」
「やってるぜ。」ハルが答える。
「おう、君もいたか?甥達が世話になってるな。ありがとう!」
「It's my pleasure.」とハル。

演奏が始まった。最初のバンドは下手くそだった。「あいつら何をしに来てんだ?」逸郎はちょっと不機嫌になった。下手であるのみならず、何を表現したいのか、分からんかった。そもそもその意識さえないのが明白だった。直樹も退屈を覚えたし、ヤジを飛ばした。直樹は律儀なのだ。

次のバンドは昭和のレトロなサウンドを聞かせた。逸郎は懐かしむように聞いていた。彼の少年時代の音に基礎を置いていた。完成度が高い。何をしたいバンドなのかが鮮明だった。逸郎の機嫌が直った。

三番目は若い痩せた男が、体を激しく動かしながら、印象的なハスキーな声で悲しい歌詞の歌を絶叫した。歌い終わるとゼエゼエ苦しげな様子。こいつもちゃんと、自分が何をしようとしているのか、正しい自覚を持っていた。その男にとっての重要な確信を懸命に表現していた。音もまとまっていた。総体として音楽として成立していた。
「メジャーでないという以外に、有名なアーティストに遜色のない音楽だ。」逸郎は独り言のように直樹に語る。

最後のバンドの名前は「水面下ノ音」、逸郎はそのファンなのである。 「これを聞かせたかったんだよ。」やっと逸郎が言う。
「カスだったら罰金な」直樹が本気で言う。

それまで後ろにいた客がわっとばかりにそでに近づく。期待が感じられる。とものとひかりが登場、ポジションに付く。左手にともの、道具はマックブックとエレピとシンセだ。右手にひかり、ドラムセットの奥に座る。二人だけのインストルメントバンドである。

ともののシンセの柔らかい基調中音がもにょもにょと始まり、直ぐに擦れた長いシーとズーの和音がその上に乗って来る。同時にひかりの細かいシンバルの振動がスタート。ライブハウスの空気が変わったのがわかる。水面下ノ音の空間になった。「ようこそ、ここへ。」そう言っている。客の表情が嬉しそうに変わって行く。

三種類のシンバルと二種類のスティックがひかりに操られて、シンセを援護。間欠的なバスドラがさらにそれを支える。少しずつそして自然に緊張が高まっていく。

この曲は戦いの歌に聞こえる。最初の展開は戦いの前の緊張のようである。

たとえば、洋上の空母の上、薄明の中にエンジンをアイドリングしている戦闘機達。ブリーフィングをしているパイロットたち。

たとえば、サッカーの試合の入場の行進における選手達の無言。

ひかりのバスドラは静かに高まる鼓動だ。ともののシンセは頭の中の戦闘をイメージした議論のようである。

登って行く音階。

次々に準備を整えて行く航空機達。
低い唸りを立てるエンジン。
低速で回っているプロペラのエッジマークの軌跡。
パイロットスーツを着込み、ヘルメットを被る飛行機乗り達。

左右に動き回るシンバル音。

高まるアドレナリン濃度。
足踏みをし空を見上げる選手達。
観客の歓声を懐かしいように聞き、拳を握る。
一陣の風が起き、無数の旗がはためく。

ひかりの視線が楽器ととものの間を行ったり来たりする。時々、楽器に話しかけるような姿勢を取る。

緊張が頂点に達したところで一瞬の静寂が作られ、シンバルの強打を契機に音が変わる。曲が速度を上げ、新しい旋律を迎える。シンセの背景音はダララ、ラッタラと聴こえる。打楽器が全部打ち鳴らされ短音符の嵐が空間を満たして行く。最初の気持ち良い瞬間。シンセの旋律が扇動的に流れる。

パイロット達次々に愛機のコックピットに乗り込み、
轟音を立てて空母から飛び立つ。

ホイッスルが鳴りボールがフィールドを行き来始める。

ひかりの体が上下動を始める。斜め後ろにまとめたポニーテイルがそれに合わせて揺らめく。逆光を浴びて浮かび上がるその髪の動きは神聖な生き物のようだ。腕はシンバルとスネアを中心に規則的に叩く。その二本の細腕の美しい律動的な動きが、快調な昂揚を誘うリズムを生み出して行く。ひかりの視線は一点に注がれ、耳を澄ませて自分の音をモニターしているように見える。

飛行機が上空で編隊を作りはじめる。
編隊を作った戦闘機達が作戦空域に向かって行く。

パスを回して敵のゴールに近づいていく。

ひかりはドラムを数秒黙らせてから、ダンドカスンドゥンと聴こえるスネアを中心にしたパターンを繰り返す。ひかりの両の腕がパッと左右に開いて、両方のシンバルに向かって瞬間的に伸びて行く。快音が放たれる。

敵機と遭遇し編隊が散開する。
各機が翼を翻してそれぞれのターゲットを求めて加速して行く。

ミッドフィールダーがマークの相手に付き、ボールを奪う。
ロングパスが敵ゴール前に放り込まれる。

ひかりが目を上げてとものを見る。バスドラが0.5秒位の間隔でペースを刻み、スネアとタムタムとシンバルが激しく交錯する。時々タムタムがドコドコと鳴り、聴く者を扇動する。

飛行機は敵機を追って、
空に太い綱を張るように、激しい動きを繰り返す。
そして機銃が発射される。

敵ゴール前でパスを受けた選手が華麗なドリブルで敵ディフェンダーを躱す。
そしてシュートが放たれる。

ひかりは実に素敵な笑顔で体を動かしている。時々首を左右に振るモーションが入る。それはまるで楽器に向かって、「なかなかいいよ」
と語りかけているように見える。

とものの右手から、指も縺れんばかりの早波のような旋律が作られて行く。その音はキュウキュウと胸を締め付けるような、しかし快い心臓の高鳴りのようでもある。とものの指がサインを作りひかりへ指示を送る。

最初の掃射は躱された。

最初のシュートは防がれた。

次のチャンスを捕まえに体制を作ろう。
戦うのは楽しくないか?

ひかりが両手を突き出してサインを了解したことを楽しげに表明する。

ドラムもシンセもひたすら激しさをまして行く。客は皆、身体を揺すっている。

空の至る所で騒々しい航空機の爆音と激しいターンがもつれ合う。
凡ゆるテクニックが駆使される。
華麗な急上昇と急旋回の交錯。
忍耐の回避ターン。
躱しながらも敵の隙を伺う。
そして何度目かの掃射で敵機が火を吹き、
あるものは四散し、
あるものは黒い煙を曳いてキリモミで墜落して行く。

フィールドの至る所でボールの奪い合いがある。
凡ゆるテクニックが惜しげもなく繰り出される。
身体が二つあるかのようなフェイント。
意表を突いたスルーパス。
イナズマのようなボレーシュート。
そして何度目かのシュートが敵のゴールネットに突き刺さる。

一瞬の達成感と更なる戦闘の意欲。

ひかりが次から次へとパターンを刻む。その多彩さ。豊かなイマジネーション。それを現実の音に変えることのできる高い技術。そのドラムプレイヤーは思いっきりの笑顔だ。楽器と一体化してそこにいる。

飛行機は生き物のように飛び回り、
ボールが意思を持っているかのように軌道を描く。

ひかりの演奏する姿は言いようもなく美しい。全ての動作が決めのポーズのようだ。どの瞬間も美しく、どの連続も美しい。スティックをバックスイングした瞬間も、振り下ろしまた上げる連続も美しい。
バックスイングした瞬間に音が聴こえる不思議。目はスティックが上にあると捉えているが、その時にもう音ががきこえる。頭の動き、視線の流れ、上下動する全体、音に応じて違った動きをする二本の腕。

音を聴きに来た客は、ここで太鼓の女神を見る。神話に現れる神の舞を舞う乙女がどう人の心に作用したのか。その想像がここで可能だ。耳と目に映るこの人を目の前にして、完璧という言葉を今をおいていつ使おうという気にさせる。

その音と、その笑顔で弾いている姿は、幸せな気持ちにさせる。いつまでも聴いていたいと思わせる。

戦闘が続いた空は被弾した敵味方の飛行機の残した黒煙で暗くなる。
その中を動きを読みながら、
高度な操機で敵機を追い詰めて撃墜する。

選手達は戦い続けぶつかり合って、
身体のあちこちは悲鳴を上げている。
それでもやはり動きを読みながら、
高度な技術で敵陣を襲いゴールを奪う。

やがて演奏が集結する。

戦闘終了。
最後の敵機が落ちて行く。
最後のホイッスルが長く鳴らされる。

演奏を終えたひかりが笑顔で明るい声を出す。「はい、コンバンワ。
水面下ノ音デス。」と、マッタリ感を漂わせ、親しい人にするかのように、語りかける。ライブハウスに高まっていた緊張が一瞬で緩む。しかもその後、ほとんど間抜けのようなMCをひかりがぶちかます。皆が、笑う。とものも負けずにスゲーって思った体験を、スゲーと連呼しながら話す。

「良かっただろう?」逸郎は自慢げである。直樹も智美も同意した。「彼等、人間臭くてな、そこがいいんだ。」確かにそういう音だった。「罰金は無しだな?」


2-4 飛来

小説「ガルガーレラ」


二人は山の上の道を歩いている。霧が時々流れて行く。霧に包まれると、周囲が真っ白になって足元の地面しか見えなくなる。溶岩が固まった黒っぽいガラガラした石の道が続く。白々と、霧の無い時よりもずっと、明るい。天国はこんな風に明るいのだろうか?直樹は脈絡もなく思った。一ヶ月前には知らなかった彼女とこうしているのを、不思議で、ありがたく感じた。天国の着想は、それゆえのことだろう。振り向くと智美が笑顔を返した。空気は明るいが、霧は冷たくて、服が濡れる。直樹は空想を止めて、カメラが濡れねようタオルでくるんだ。

山頂に着いた。霧が晴れた。巨大な噴火口を見下ろしていた。遠くの火口底に水色に緑を混ぜた色をした湯の沸いている大きな池があった。立ち昇る湯気が霧に合流して流れて行った。

大きい景色を前に自分の小ささを意識する。直樹は天文マニアで、一人で夜の空を見ることが多いが、宇宙に比べて自分がちっぽけだという感慨を持ったことはない。景観の大きくそして攻撃的なこの場所は、自分の物理的な小ささを感じさせはする。噴火口の縁の自分を俯瞰するイメージを頭の中に浮かべる。だが、感じるのは無力感ではなく、自分が知性を備えているという誇りに似た自覚だった。謙虚になったり、卑小感を抱いたりはしない。哺乳類や人類の凄さを、思う。噴火口よりも何桁も複雑精妙な生物のメカニズムを思う。脳という更に恐ろしく精巧なシステムを思う。いかに噴火口が壮大であっても、その振る舞いの記述は、生物の活動の記述に比べれば、遥かに単純だ。

「僕たちって凄え」直樹は智美にその説明を試みるが、複雑度の尺度が通じないため、諦めた。

ここに坂本龍馬が日本を近代国家にすることを誓った伝承がある。龍馬だけではない。維新の志は多くのものが共有した。智美は直樹にこの場所の感慨を直樹に語る。歴史のセンスの無い直樹はその感慨を理解できない。その代わりに、国家的な大望というものが妙に思考を誘った。直樹の感覚はそれを受け入れない。あり得ぬことに思えるのだ。直樹にとっては、大きな正義や野望は邪魔なもの、と思えてしまうのだ。この時代を快適に生きる為には特に。

山を降り、車で急な山路を下る。外輪山で、地元の子供達が数人、斜面を駆け下りる遊びをしている。大声をあげてはしゃいでいる。陽光の中でそれはそのまま回想のように美しい景色だった。

平坦な場所に出てしばらくするとハルが言った。「お客さんが来るぜ。」二人が問い返す前にジェット機の爆音が聞こえた。間もなく現れたそれは前方で旋回しそのまま直樹たちに向かって降下して来た。「自衛隊機でも米軍機でもない!」直樹が小さく叫んだ。それは煙を曳きながら迫ってくる。機体が傷ついている。脚を下ろしやや傾きながらそれは道路を滑走路代わりにして着陸した。バウンドし道路を外れて草地で止まった。

近付いてみると柔らかい地面に脚をめり込ませて北朝鮮のマークを付けたジェット戦闘機があった。「ミグ29。」直樹が呟く。機体は燃えていて、近付くのは危険に思えた。立ち止まって見ているとキャノピーが開き、パイロットスーツを着た男がよろよろと立ち上がった。手に拳銃を持っている。「やべえ」と直樹が思ったとき、小爆発が起き、男は重心を失って地面に落ちた。「危ないわ」智美はそう言って走り出した。直樹も走り出すと「ナオちゃんはここにいて!」と智美が鋭く叫んだ。トラック事故のことを思い出し、直樹は智美に任せた。ぐったりしたパイロットを担いで智美が駆け戻ってくる途中で、激しい爆発が起きた。智美の身体がパイロットごと吹き飛ばされ、直樹のそばにドサッと落ちて来た。「大丈夫か?」直樹は智美を抱き起こして呼びかける。智美は暫くぼんやりしていたが、直樹に気づくと「私は大丈夫!パイロットさんは?」と尋ねた。直樹はひとまず安堵し、もう一人の様子を伺った。パイロットの男は失神していたが、呼吸していた。

ハルは、男の身体をスキャンし、パイロットスーツごと偽の死体を生成し、焼き焦がして、機体のそばに転がした。

智美は再び男を担いだ。車に戻る途中、二機の自衛隊のFー15戦闘機が激しい爆音とともに低空を通り過ぎて行った。「ハル、何か知ってるね?」智美が聞く。自衛隊機が一度戻って来て、飛び去った。

ハルの説明。男は朝鮮民主主義人民共和国の空軍の少尉で、ミグで日本に亡命をして来た。海上で自衛隊のスクランブルを受け、被弾し、不時着したのだった。彼からは攻撃しなかった。ハルはスクランブルのときからそれをモニターしていた。亡命の理由までは分からない。完全な個人行動はネットや無線の傍受では拾えない。北朝鮮の軍の騒ぎや、自衛隊の混乱はつぶさに把握していたが。

車に運び込み発進する。「これからどうする?」智美はハルに聞いた。その行動からして、ハルに意図があるのははっきりしていた。「自衛隊に見られたよね?」
「その心配は無い。光学迷彩。連中には燃えた機体しか見えてない。捜索に来ても焼けた機体と死体があるだけ。」ハルが答えた。
「この人怪我してない?」智美は後ろのシートでぐったりしている男を振り返りながら聞いた。
「打撲と擦り傷だけだ。」ハルは男の身体をスキャンしたときにそれを知っていた。「撃ち落としたから北朝鮮は抗議するだろうが、それ以上にはならんさ。機体の燃えかすや焼死体の扱いで交渉があるだけさ。取り敢えず連れて行こう。日本国につき出す方が問題がこじれるだろう。こいつの目的が分かった後で考えりゃいいさ。それで良いか。」
二人はハルの案に同意した。

智美がパイロットのヘルメットを外す。意外に綺麗な男の顔が現れた。坊主刈りだが、韓流スターの誰かに似ていた。三十才くらいか。男は少し呻いてから眩しそうに目を開けた。ハッとして身を起こそうとして痛みに顔を歪めて諦めた。
「大丈夫よ。」と智美が優しく声をかける。
智美がポカリを差し出すと男はゴクゴク飲んだ。
「私は智美。日本語分かる?」
男は頷き、智美は自分と直樹の紹介をし、成り行きを説明した。自分の特殊能力やハルの行動は省いた。
「助けてくれたのですね。ありがとうございます。」男は綺麗な日本語を話した。「私は金龍基 キムヨンギです。」
「ヨンギ、あなたは何をしに来たの?何か手伝えることは無い?」智美はもう友達のように話している。
「今年、母が亡くなりました。母は拉致された日本人です。母の親戚を探して伝えたいことがあります。母のいない国には帰りません。」ヨンギは、全く警戒しなかった。
「じゃあ、手掛かりを教えて?やっぱり北陸の方?」智美はもう人探しを手伝うつもりである。ヨンギは母親とその両親の名前と実家の住所を知っているという。
「ナオキ、どうする?」智美の問いは、どうやって手伝うか、という意味である。
「帰りに寄り道しよう。福井ならそんなに遠くない。後で調べてみよう。」直樹もヨンギを手伝うことに異論は無い。
「てこと。傷はどってこと無いらしいから、休んでてね。」智美のセッションはクローズ。ヨンギは礼を言い、目を閉じた。

道は平地から海沿いのルートになった。途中で自衛隊や警察の車両とすれ違い、現場に飛んで行くヘリコプターを何機か見たが、彼等は完全に無視された。ハルが操作したのだ。

智美は道中、島原・天草の乱について直樹に教育を試みた。ハルは時折事実を補足した。戦闘機の飛来をモニターする作業から開放されて、普通の調子に戻っていた。

「だからね、天草四郎の話だけが重要なんじゃなくてさ、」智美が主張する。「乱が起きたわけとか、その後のこととか、そこも見なきゃ。ポルトガルが締め出されて、キリスト教の弾圧が強化されたとか。乱の後で原因だった過酷な年貢のノルマを緩める為に、善良で勇気ある藩主が江戸に行って切腹して訴えたとか、そこが大事なんだから。」

智美は自分の矛盾に気付いているんだろうか?直樹は思った。智美は平凡な暮らしをしたいと願っていた。にもかかわらず、智美の語る様子はもう一歩進めたら革命家になりそうだ。でも矛盾は悪くない。矛盾こそ精神の発展の原動力、ヘーゲルはそんなこと言ってなかったっけ?ヘーゲルの理解としては違っているが、彼女の魅力の一つだろう。

島原の乱はこの近くの場所で起きた出来事である。しかし直樹には長閑で美しい景観と事件の悲しさとが結びつかなかった。直樹の頭には社会やそれと向き合う個人という概念が欠けている。

「歴史は知らない。」直樹が歴史に関する理屈を作り始める。「所詮、過ぎたことじゃん。でも、トモちゃんの話、つまらなくはない。大雑把に一般化するとさ、社会事象に出くわした時の、能力高めの人の行動を収集している感じ。歴史を学ぶとは、頭に事例データベースを作り、社会的な判断を準備だすることだ。人間の特性は多分、何万年経っても殆ど変わらないから、いつになっても役立ちそうだ。
切腹して幕府に抗議した藩主、尊敬するよ。彼の生存の根拠は農民の働き。農民が困ったら行動する。通常ルートでダメなら切腹は武士の最後のオプション。誰もがそうするわけじゃない。だから尊敬に値する。僕が同じ立場で、同じことをするか?それは分からないけど、そうできた方が良いし、少なくとも今のエピソードを思い出すだろう。一般化原則としては、王は民のために王としての責務を果さねばならぬ、だろ。でも、高校に歴史が好きな奴いたけど、そんなことは考えて無かったとも思うぜ。
それにさ、やっぱそのまま一般化しても古くね?今時、そんな王政は何処にも無い。社長と社員の関係に当てはめられる?市長と市民の関係でも適用出来る?
結局、歴史が好きで特に能力のある人が研究して、同じ興味を持つだろう人に教えてあげてれば良いのじゃない?
それか、ご先祖様の偉業を知り、自分を奮起させることが目的?それには学校の歴史では乖離であり過ぎ。信長話で奮起出来る人はごく稀だ。それか、いざ鎌倉、みたいな慣用句の背景理解?それか、自己の由来を知るため?」直樹は自分の言っていることが発散して来たことに気付き言葉を打ち切った。歴史が苦手だった自分を正当化しようとしたが、成功していない。
「いちいち反論はしないけど、歴史は全く無意味じゃないでしょ。」智美は、直樹が歴史を否定している一方で、普通以上にその論理を理解していることを発見した。智美は歴史のエピソードに意味を感じているが、それが面白いというに過ぎず、その意義を語れるほど良く分かってはいないことに気付いた。「今日はそれで良しとするわ。」

水俣病、諫早湾問題と、次々にこの場所の戦後の社会問題について議論してみた。問題を起こす企業や国家と、被害を受ける人々の側に立って活動した人達とがある。後者がいるからまだ見捨てたもんではない、前者にはなりたくない、という余り面白くない結論にたどり着く。どちらも人間なのだ。本当にはそんなことはもう二度と起きないと言う見通しを持ちたいのだが、それができない。地味に辛抱強く、都度、戦わなければならない、という状況にあると解釈せざるを得ない。

「なんかいらいらする。島原の乱と変わりはしない。民を苦しめた人がいて、民の反乱があり、民のために戦った人がいた。僕たちはずっと変われないのか。」直樹がため息をつく。大きな正義の望みを持つと生きにくい現代であることは分かっているのだが、その認識に留まりたく無い自分を感じながら、しかし、導くものが無いからだろうか。
「その意見に同感。でもさ、そう考えられるのは歴史を知ったからじゃん。」智美は直樹がその言にも関わらずいい線行ってるとも思った。
「そうかなあ。なんか違う気がするけどな。それが人間である、社会とはそんなもの、それがこの先もずっと続く、その中でどう生きるかはそれぞれの個人の選択の問題、それが嫌だ。」
智美は、直樹がそう考えることに好感を持っている。

最後の峠を越え、大きく湾をなぞってから、長崎の街に入った。



















2-3 カミカゼ

小説「ガルガーレラ」

市街の手前で昼になり、小さい食堂に入った。テレビに高校野球の予選が映っている。黒いペンキの塗られた鉄の足にビニールの赤い座面の丸椅子と四人掛けの合板の天板のテーブル。客はポロシャツや作業着の小父さん達。テレビを見たり喋ったりしている。壁にメニューの手書きの札が並べて貼ってある。日本全国に沢山ある正統的な大衆食堂だ。
この時代の歴史の資料に載るだろう。この時代の映画を作る時に欠かせない場所だろう。水を持って来た愛想のいい小母さんにお薦めを聞いて魚フライを注文した。資料には割烹着を着たこの小母さんも欠かせない。暫くして、揚げる油の音がし、匂いがした。

ベニヤの壁に何年か前のテレビ番組の写真が貼ってある。幕末に徳川将軍家に嫁に行った薩摩藩士の娘のドラマだ。彼女は江戸城の無血の開城の時の大奥のリーダーだった。鹿児島が地元だけにファンもいるのだろう。その隣にやはりテレビの新撰組の写真のある雑誌のページが貼ってある。こちらは東京が地元であり、維新の側からすれば敵である。しかし何故か貼られている。

「新撰組!土方歳三、大好き!」智美の小さな歓喜。

新撰組は明治維新の志士を弾圧する殺人集団だった。御所のある京都の守護ともいうのだが。
武士になりたいという純真な近藤勇の願いは、禍々しい殺し屋達の組長というポジションに帰結し、最後は維新軍と闘い敗れ、切腹した。副長だった土方歳三は北に逃れ、 北海道で勇ましく戦い壮絶に死んだ。

「文字通り完全な負け組。」智美が言う。「だけど、カッコ良かった,
歳三さん。強くて、冷静で、お洒落。」
「でも、怖いよ。」直樹は争いごとが苦手だ。それが歴史上のことであっても。「ターゲットだけじゃ無く、仲間を切腹させたり、斬り殺したり。」
「だよね」智美もその点には同意する。「名目は隊の規律の維持だけど、やり過ぎだったかも。でも、その場にいたわけじゃ無いから、正解は、分かんないよ。そこは切り離して考えようよ。」

どんぶり飯とどっさりの魚フライが出て来た。二人は汗をどっさりかきながら、ばくばく食べる。美味しいのだ。汗だく満腹になって店を出た。

鹿児島の街を見るのは後にして、今日の目的地に向かう。

土方歳三も戦った会津若松には白虎隊の悲話がある。幕府方の会津藩の豊頬の若武者達は、負けたと勘違いして絶望し、徳川滅亡の歴史の流れに一竿も差すことのないまま悲劇的に自刃した。
土方歳三も白虎隊も維新政府樹立という正の歴史からは意義を与えられない。

「彼等は歴史上はあまり意味が無かったね。」直樹がいう。
「そうなんだけど。」智美は肩を持つようだ。「でも、彼等のことを人々は語り継いで来た。今でも新しい映画ができたりする。」
「そうだね、僕も歴史上の云々じゃない意味を感じる。」
「日本人は彼等を忘れないよ。」智美はおそらく正しい予言をする。
「そうだね。でも、それってなんだろね。」直樹は無意味だが意味を感じる矛盾を自分でも見つけている。

歴史的な無意味とは無関係に、彼等の存在は時を越えて人の心に触れるものを持つ。悲劇的に終わっているからこそ、無意味であったからこそ彼等のエピソードは輝く何かを持っている。

歴史上の地位に関わらず彼等に意味を感ずる。それが人の心だ。新撰組の沖田総司が剣の達人であり、彼に心酔する歴女がいることの奥には、その意味の問題が存在している。
彼等の悲劇的なエピソード、総司の若い病死、勇の切腹、歳三の戦死、隊士の無惨な死、がなかったら、彼等が振り返られることはないだろう。しかし、単に悲劇として読まれているのではない。彼等を無視してものを考えることは、人間としての自己否定と感じられる。彼等のことを忘れず、語り継がねばならぬと感じる。

歴史上の意味の方がむしろ不安定である。正しかった、間違っていた、という判別は、いつも相対的である。勝った負けたという結果はまさに結果でしかない。正しいものが常に勝つのでもない。

もしも徳川幕府の中に、維新の志士と同じ思想を持つものが多くいたのであったならば、幕府が自己変革を行い、維新と同等のことが、幕府自らの手によって行われたのだろう。西洋の帝国主義に対抗する政策は明治政府のものと同様でさえあっただろう。しかし、長く続いた幕府にはそれだけの変革を行う力が無かった。幕府の統治のフレームワークを維持したまま行うことは無理だった。幕府のリーダーがもっと前に覚醒して、国家の戦略を確立して、維新政府と同様の政策を実行することは無かった。奢れるものは二百五十年以上は続かなかった。それも社会の法則性なのだろう。

幕府が自己革命を成し遂げていたのであれば、新撰組には高い評価が与えられていただろう。白虎隊が大活躍して幕府軍の勝利に貢献したら、歴史にその名が残されただろう。その時には、今我々が新撰組や白虎隊に持つ感慨は存在せず、心を寄せることも少いだろう。逆に勝った官軍の大久保利通や板垣退助に対して我々は多くの感慨を持たない。歴史に報われたものにそ以上の評価を与える必要がないと私たちは思うのだろうか。

歴史に正の貢献をしながらも、道半ばで倒れた者たち。坂本龍馬や西郷隆盛という破格の人物。おそらくはその破格さに破滅の原因がある。その悲劇性は新撰組や白虎隊よりも大きい。しかし、一方で貢献への高い評価故に、人が彼等に抱く感情は完全に無意味な敗者へのそれと異なっている。彼等のなした事は我々の現代にストレートにビルトインされているからだろうか。

源義経は、また独自の光を歴史の中で放っている。純粋な魂を持ち、鮮やかな身体能力を備え、弁慶達という信奉者とともに歩み、静御前との恋のエピソードを持ち、常識破りの戦術を発想し実践し、平家を滅ぼした第一の貢献者。そして用済みとして兄である頼朝に抹殺されてしまった。我々は頼朝よりも遥かに多くの感情を義経に持ってしまう。そして語り継ぐ。

それは、本当に一体どういうことなのであろうか。

一時間ほど走って、特攻平和記念館に着いた。最も暑い時間だ。ここでも無数のクマゼミのシャワシャワいう声が大きい。建物は森に囲まれて建っている。大ボリュームの蝉の声にも関わらず寧ろ静かだ。二人の他にも観光客がいるが、その会話の声は聞こえない。蝉の声に掻き消される。それが静けさの理由だろうか。

ここには特攻隊に関する資料が集められている。この近くの飛行場から行われた特攻とは、飛行機に爆弾を抱えて艦船に体当たりする自殺攻撃である。第二次世界大戦の末期に日本軍によって組織的に行われた。
展示されているのは、彼等の道具、衣類、鞄、飛行服。そして、彼等の書簡、遺書。彼等が操った戦闘機も四機ある。
直樹はメカが好きで、飛行機は特に好きである。ここにある戦闘機の名前を言えた。最も有名なゼロ戦。次は隼。この二つがモデルによっては同じエンジンを積んでいたことも知っている。そして、疾風と飛燕。陸軍機が多いな、と思ったが、知覧は陸軍の特攻基地だったと思い出し、納得する。唯一の海軍機であるゼロ戦を陸軍も使ったのだろうか。
現代のF22ラプターのような大型のジェット戦闘機に比べれば随分と小ぶりなのだが、それでも間近にに見る戦闘機は大きい。ゼロ戦の機体の外板はジュラルミンで、無数の鋲で骨組に張られている。その表面は意外に滑らかではなく、凹凸がある。今の飛行機が無表情な工業製品に思えるほど、手作り感のある機械である。この翼は引き上げられた時のままのようだから、工場で鋲止めをしたのは強制的に徴用された高校生だったかもしれない。

一つの展示の前で慟哭している老人がいた。書簡と白黒の写真が飾られている。飛行服を着て明るく笑っている。老人は彼の友人か、家族か。

智美も目を腫らしている。彼等の文章は、彼等を知らないものの心にも響く。心をまとめるために、自分が死にに行くことの理由を書く。達筆なものも多い。素朴なものも、名文と言えるようなものもある。いずれも真摯で純粋で、読むものに突き刺さる。

国のため、家族のために散華した若い純粋な魂。敵艦に突っ込む前に海に撃墜された特攻の戦闘機。それを操っていた若者は二重に無意味である。そもそも戦争が間違っている。さらにそれに貢献することが無かった。しかし、明らかに彼等は犬死していない。歴史という地平ではなく、存在論の世界からものを見るならば、彼等とともに、最も重要な、人類が人類であることの意義、人類が成り立つ理由が、ある。

出陣の前の夜に、家族や恋人を思い、遺書を書いたその若いパイロットが、敵艦のやはり若い銃撃手が放った無数の銃弾を受けて、コックピットの中で穴だらけになり、ボロボロの血と肉の塊に変わり果てて、青い空と白い雲のもと、爆発する機体とともに群青の海面に水柱を上げて没しする。深い海に何処までも沈んで行く。あるいは攻撃が成功し、爆弾が炸裂する。その時には彼の身体もバラバラになるのだ。

その凄惨な情景を想像する。それは僕たちの心を打つ。それに不思議は無い。不思議を感じないのは、僕たちが人間であることに慣れてしまっているからであると思われる。

人は自分のために涙してくれる人のために死にも赴く。何故だか分からない。そうする。それが人間であるからとしか言えないだろう。そうとしか言えないだけでなく、むしろそう言うのが正しい。その死を知って涙し、ずっと忘れない。それも何故か分からない。同じようにそれが人間だからと言えるのみである。

雲を墓標として散って行ったパイロットも、南の島のジャングルで餓死した兵士も。その悩み、苦しみ、悲しみ、それを想像し、彼等を思うこと。それは直樹には自分にとって重要なことだと感じた。理由はない。自分が自分であることと同じ意味であると感じるのだ。

書簡の中には、幾分か冷静に、戦況を認識しているらしいものがある。検閲があり、ズバリ書くことはできないのだが、それは分かる。彼は東京帝国大学の俊才である。大日本帝国が近いうちに負けるだろうことも予測していただろう。彼は、自分の犠牲が敗戦を止めることに結びつかないことを知っていただろう。書簡には彼の無念さも滲んでいる。しかし、彼は家族への思いや望郷の念を自らに沸き立たせ、それを守るのであると、半ば強引に自分の出撃に意義を付与し、自分を奮い立たせている。冷静で意識的で頭脳的な自己の洗脳。それを強いた歴史の残酷。

連合国のレポートに特攻という戦術の有効性を評価するものがあったという。それはかすかな救いのように思えた。

彼等のことを考えて。

直樹は我が身の幸運をつくづく感じる。ここで気楽にドライブをし、誰はばかることなく好きな人と時を過ごし、思いたいことを思い、したいことをする。
自分がそうしていられるのは若くして死んで行った彼等のお陰であると感じるべきと考える。
ここはとても微妙なのだが。
誰かに、死んだものに感謝しなさいと言われたら、それを拒否するだろう。拒否することが誠実と感じるのだ。
彼等が居たということを知りなさい、と言われたら、それには素直に従うだろう。
そして彼等と対話する。
彼等は知りたがっている。
この国はどうなったか、と。
自分達は大事なものを守れたのか、と。
それに対する答えは何がなんでも大声でイエスだ。
国は守られ、人は守られ、幸せになったと、
犠牲は取り返しようもなく大きかったが、と。
しかし、そう答えようとしたとき、直樹は、答えるに相応しい自分を持たなければならないと痛切に感じた。
今はまだ答えられないなと思った。
答えるべき答は明白であるのに、このまま答えたら不誠実であると感じる。
彼等に彼等の戦争があったように、現代の人間にも戦わなくてはならないことがある。それはどちらが凄いということも無い。凄いと言えば、遠いご先祖様はもっともっと壮絶だった。その時代の主な戦いは、自然との戦いだ。現代の戦いをはっきり見抜いて、しっかり戦う必要がある。特攻隊にいるのとは違って、相対的で緩慢な戦いであるが。自分がこの戦いを戦いきったとき、直樹は彼等の痛切な問いに答えようと思った。

智美は、直樹と違って、戦闘に赴くものの立場ではなく、それを見送らなければならなかった人の立場で、展示を見ていた。本当には行って欲しくは無い。死んで欲しくはない。武運を祈り、残され家を守らねばならぬ。特攻隊の隊員達世話になった食堂がある。そこの女将達は、何十人という特攻兵を見送った。彼等が思い残すことなく飛び立って行けるようにできるだけのことをした。若い兵隊達は彼女を母のように慕った。家族にも食堂にもやはり戦いがあった。自らに死にに行くというはっきりした帰結あるわけでなく、生き残り続けなければならないという、より、複雑な状況が見送る側には生じている。父を無くし、兄弟を無くし、息子を無くし、あるいは恋人を失う立場。支えを失い、一人で立たなければならない。ある日、最愛の人の戦死の通知が届く。気力を全て失い、しかし、やはり生きねばならないという困難。

二人は時々言葉を交わしながら、閉館までそこにいた。時刻は五時。まだ日没には遠く、暑い。二人ともぐったり疲れた。
自販機で冷たい飲み物を買い、ベンチに座って西に移動しつつある太陽を木の葉越しに浴びながら、二人は無言でぼんやりしていた。

目の前の木の幹には蝉の抜け殻が数個ついていた。何年も土のなかで過ごしたのち、木に登って羽化する。羽化したのちは長くても一ヶ月程で死ぬ。

「蝉の成虫の寿命が七日て言うのは嘘だって。」直樹が沈黙を破った。頭の中で展示の反芻や、展示から誘われる思考が段落したのだろう。「20日以上らしい。一ヶ月以上生きた記録もあるんだって。」
「土の中で七年だっけ?」智美が付き合う。
「四年か五年。」直樹が答える。「栄養が良ければ短い。栄養が悪くても延長はできない。羽化できずに終わる。だけど、何の必要があってそんなに長く土の中にいるんだろう。一年サイクルの蝉もいるんだろうか。」
「進化論だね。その方が生存や子孫繁栄に有利だったのよね。」文系の智美でもそれは知っている。高校の授業でも習うし、テレビでも見る。
「蝉の幼虫は夏場にしか食べず育たないという観察がある。ちょっとずつしか成長出来ないから時間がかかるんだろうか。」直樹は最近ネットで覚えたことを喋っている。
「じゃあ、夏以外、冬眠みたいになってるのね。」智美は知らない分、まとめが早い。
「夏にしか行動出来ないってことは、めちゃくちゃ寒かった時代だな。氷河期か。でもそうだったら、温度で行動を決めればいいよね。タイマーで起きてタイマーで寝るって変だ。でも、それで生き残れちゃったらそのまんまか。タイマーの方が温度計より単純なのか。蝉の身体を調べたらタイマーが見つかるのかな。」直樹は智美の冬眠説に、一瞬頷くが、そこにとどまる気配はない。いつもの直樹が戻ってきたようだ。
「一年に一回スイッチの入るタイマーか。私達は一日サイクルね。それより長いタイマーも持ってるの?」智美も直樹につられて沈んだ感情の底から浮上を試みる。
「それは知らないなあ。僕たち一年サイクルのカレンダーで生きてるけど、それはむしろ生まれた後に作られたもんじゃ無いの?」直樹も今度の問いかけには反応した。直樹の探索空間にヒットしたようだ。
「人間以外は繁殖期があるじゃん。それは?」智美は突っ込んでみる。
「なるほどー。一年タイマーはあるあもね。」直樹の反応は少し鈍い。今度の智美の攻撃は外れたようだ。

「全く昆虫ってのは、おかしい。僕たち脊椎動物とは違ったアーキテクチャーで違った原理で生存している。でも成功している。」直樹の思考がジャンプした。
「虫が賢く進化するってことはないの?人間みたいな文明を築く可能性はないの?」智美は追随することにした。
「うーん、難しい問題を出すね。今見つかる虫だと、からだが小さい。身体が小さいと脳も大きくならない。だから無理、ってのは?」今度は直樹にヒット。
「海の中なら身体を大きくできるんじゃ無い?」智美は水族館で見たやたらに大きなカニを思い出して言った。
「むーん、海の何処かの知性の発達した虫の王国か。刺激的だなあ。」直樹は想像してみる。
「それはあり得ない、って科学的で実証的な証明デキる?」文系の智美は理系の直樹を挑発する。
「映画のゴジラに出てくるモスラ!大きなクスサンみたいな蛾だけど、彼女には明らかに高度な知能がある。何故巨大化したかは分からないけど、彼女の巨大な脳なら、あり得るかな。あれ、逆の可能性を考えちゃった。」直樹のほとんど不戦敗。

太陽が西の地平に近づいて行った。風が起き、少し涼しくなった。クマゼミは沈黙し、ヒグラシのカナカナ声が聞こえ始めた。
もう何時間かすると、今夜も暗闇のなかで、沢山の蝉の幼虫が地上に現れるのだろう。静かに黙々と地面を這い、木によじ登り、一世一代の羽化の儀式に取り掛かるのだ。前脚をしっかり木の皮に打ち込み身体を固定し、やがて背が縦に割れ、純白の清浄な身体が現れる。渾身の力を振り絞って殻から抜け出し、自分の殻にぶら下がって羽を展開して行く。人工衛星が宇宙空間で太陽電池パネルを広げるように。そして身体は新たな色彩を獲得し、朝、太陽が昇り、その熱が十分に身体を温めてくれたら、そのものは初めての飛翔を経験する。何の訓練も練習も無く、いきなり上昇し、旋回し、樹液を求めて、木々の間を渡って行くのだ。遺伝子に刻まれた飛行のプログラムが全く危うさの無い完成された動作を次々に発動して行く。それはそれだけで奇跡のようである。何故そのようなことがあり得るのか。
人間というさらに複雑高度なメカニズムが、それを考える。それはさらに何桁も不思議だ。あり得ない奇跡だ。生きているということは。

二人の思考は死から生に復帰して来た。そして健康に空腹を感じた。
「今日は何を食べようねえ!」智美がベンチから立ち上がって伸びをした。

半逆光のオレンジに近づいた西陽が彼女の髪と白い腕と産毛を輝かせている。濃密な緑の森の木々の葉が彼女の背景に輝く。浮かび上がる智美の高貴にさえ見える美しい顔。陽を受けてキラキラ輝く瞳。それは本当に綺麗な光景だった。これも奇蹟。彼女が奇蹟であり、彼女と会えたこと、ここにいること、その全てがあり得ない奇蹟。何億年の時間の中で変性を繰り返し、自分の全ての細胞のなかに結実している遺伝子。彼女の全ての細胞のなかにある尊い遺伝子。本当に稀な確率、偶然のそのまた偶然の、無限の失敗のなかのたった一つの成功。それが生きているもの全てにある。この瞬間が永遠に続いて欲しいと思う。ファウストのように。
「だけど、今は思うだけだ。まだ、叫ばないぞ。」直樹が言う。
智美は直樹の大きな独り言の意味を直ちに諒解する。智美の中にも充実がある。
「私の大好きなあなた!行きますわよ、さあ、旅を続けましょう!」智美が何かの劇のセリフを叫ぶ。
「はーい。」直樹が思いっきり力の抜けた返事を返す。
二人で笑う。

End of Section 2-3
2-2 火山の島

小説「ガルガーレラ」

2-2 火山の島

船は定刻に港に入った。岸が活気を帯びて動き出す。出迎えの人が待ち人を見つけて岸壁から名前を呼んでいる。クレーンが貨物をおろし、フォークリフト達が手際良く次々に所定の位置に運んで行く。受け取りのトラックが貨物を受け取る位置に並んでいる。船から降りた人達が列を作って港の建物に入って行く。
二人は直樹の白いBMW635CSiに乗り込みスロープで船からコンクリートの地面に降りた。真夏の強い日差し、白い雲、青い空、セミの声が彼等を迎える。ここには彼等の街より一層の夏があるようだ。

港から離れる道沿いには倉庫や商店街がある。智美は古い意匠の商店の看板や広告を眺める。
「蚊取り線香。」太ももを立てた女優のプリントされた広告プレートを見つけて、智美が口にするが、それに特に意味はない。
「あの人、黄門様に出てたよね。」ハンドルを持つ直樹が、他のことを考えながら、ぼんやりと答える。
直ぐに道の両側は田んぼや畑になる。

カーステレオに直樹のiPhoneの音をトランスミッターで飛ばしている。エミネムとか、レッチリとか、マリリンマンソンとか、なんでも聴く直樹の、特にこれといった傾向の無いセレクションが続く。数年から十年、時代から遅れているのは、直樹がメカ以外のことについて、時代への追随能力が低いためである。音量は小さい。その音量が運転に集中できるというのが直樹の説である。

古代の史跡公園の案内板を通り過ぎた。
「九州にさ、ヤマト政権とは違う朝廷があった、って説があるよ。」
智美が話し始める。「近畿の大和朝廷が本物という説が優勢だけど、政権が奈良や京都にある時代でも、九州や中国地方は平家の時代まで支配的だったよ。その後もずっと政治の世界では西日本が中心だよ。」
「え、でも」直樹が訊く。歴史は苦手なので自信はなさそうだ。「鎌倉時代からあと、ずーっと、徳川幕府がなくなるまでの武家社会は、関東に政権を持ってたし、明治から後も首都は東京だよね?維新から後は天皇も東京でしょ。」
「東に政権があった時代でも西の力は大きかったよ。」直樹の反問は智美にとって予想の範囲である。「明治維新も西の国が起こしたし。長州は山口県、薩摩はここ鹿児島県。」
「てことは、近代日本の政治パワーは西日本製?」直樹が質問。
「そうよ。」智美は簡単に肯定して、次は戦後の話をする。

「戦後の首相も西日本が多いわ。そうよね、ハル?」ここがハルの素敵なところ。正確なデータを教えてくる。
「四国、中国、九州で13人。他の地方は合計17人。」ぶっきらぼうなハルの声が頭の中で聞こえる。ハルは何か考えているようだった。
「そう言えば今の総理、生まれは山口って聞いたことがあるなあ。」直樹がハルの暗い空気に逆らう様な唐突なハイトーンで声を上げた。
「それを考慮すると、14対16、西高東低。」またハルが投げ捨てるような応答を返す。
「関西より西、多いでしょ?その理由とか意味とか、追及するつもりはないけど。出身の人が誇りにしてるはず。人と話す時のために、知っといて損はないかなって思った程度。」智美は面倒臭くなって話を締めくくってしまった。

ハルは人工生命であり、機械ではない。感情がある。彼はどちらかというと感情の起伏が激しい方らしい。それは自分も気分屋の智美には気にならないのだが、直樹は空気が荒れるのが少し苦手らしい。

「ナオちゃん、ありがと。」智美が直樹に気を遣う。直樹は自分がしたことに気付く。直樹は単に荒れた感じの空気が好きでないだけ。無意識にしている。礼をされるのは気まずい。しかし、それも含めて、この会話の流れ方に二人とも慣れて来た。

直樹が運転しているのだし、この話を続けるにはハルの援護が欲しい。鎌倉時代から江戸時代まででも西の諸国が強大であり、常に時の政権にとって脅威であったという、高校までの学校では特に強調していないことを語るのは、別の機会にしようと決める。

「このドライブは、日本の歴史を辿る為のものだろうか?」智美は唐突に予感めいた感覚を覚えた。「日本全国どこに行ったって史跡はある。見えるものから史跡だけを取り上げたりするのはなぜだろう。場所の問題じゃ無くて主体の問題ね。無意識の意図かもしれない。私たち、といったとき、私はどんな範囲で考えているのだろう。この頃は、時々それが日本人だったり、世界中の人だったりしてる。未来が見えない。私たちはこれからどうすればいいんだろう。きっとそこに、過去に向かう衝動が隠れている。」

道は農業地を貫いている。真夏の圧倒的な陽光の下、原色で描かれたのどかな景色が続く。空はあくまでも水色でで、モクモクと聳える背の高い入道雲は真っ白で、野山は濃い緑色と明るい緑色のまだらな模様だ。牧場を案内する看板を幾つか見た。

制限速度を超えているが、直樹はそれ程飛ばさない。何が起きても危険を回避できる自分の限界を守っている。

ロックやポップスが終わって、直樹のプレイリストはクラシックに切り替わる。ベートーベンの月光、ヴィヴァルディの四季、パッヘルベルのカノン、ワグナーのジークフリート。

この旅行の一番重要な目的地は長崎である。直樹の叔父がそこに直樹を呼んだ。彼はこうして時々、直樹に現地教育をする。今回は何を語りたいのだろうか。

直樹の長崎のイメージは、原爆と出島、佐世保の軍港である。叔父の指定した日付は八月九日、長崎にプルトニウムの原爆が投下された日だ。だから原爆に関わる話しがあると予測しておく。

「原爆の作り方調べたんだ。」直樹が話し始めた。

直樹は物理学を専攻している。原爆の材料や核爆発を起こすための臨界条件や、爆発時に放たれるエネルギーと放射能について理解している。講義は受けて無いが、図書館で独学した。原爆の開発に携わった物理学者達は、悪魔を産んだ一方で、彼の学ぶ学問を進めた先人でもある。彼が学者や技術者として生きることになるのならば、そこには考えるべきことがあるだろう。そういうことだろうか、などと想像して直樹は幾つか本を読んでもみたのだった。

原爆製造のための材料は、核物質以外のものならば、ホームセンターと薬局と秋葉原に行けば揃ってしまう感じだ。だがウラン235を作るのは莫大なコストがかかる。実物はほとんどなく、入手することは不可能に近い。手に入れやすいのはプルトニウムだ。しかし今度はプルトニウムを起爆するのが難しいという。

ハルから見れば、原爆の製造法は、石器人が石の削り方について話しているようなものだろうか。ハルは人類の知らないことはしゃべらない。人類にとって既知のことについては、訂正や補足をしてくれる。しかし、今日のハルは会話に加わってこない。こういう時もあると智美が言う。何かに忙しい様子なのだ。

直樹は映画も見た。原爆を作って政府を脅迫した高校の物理学教師の1970年代の映画。その男は、原爆を収める容器として、料理のボウルを雑貨屋で買い、プルトニウムを東海原子力発電所から盗んだ。原発に向かう夜の高速道路のシーンに流れたピアノの旋律が美しかった。アパートで溶液から金属プルトニウムを作っていたが、その過程で放射能を浴びて障害を起こしていた。「それには気をつけなきゃな。」別に直樹が作るつもりは無いが、そう思ったりもした。男が新宿の高層ビル街にいた時に流れたロックバンドの女性ヴォーカルも印象的だった。

テレビのドラマを見た。天才的なハッカーの高校生が、核兵器を持ったテロリストとネットワーク越しに戦うドラマだった。直樹はコンピューター少年だったから、ハッキングのシーンの嘘っぽさには失笑していた。「pingコマンドで敵のコマンドが無効になるわけないじゃん!」などと突っ込んでいたが、ping、ps、ls、cat、killなど、UNIXの馴染み深いコマンドで相手の処理を停止する手順は、想像で補なえた。主人公のおかれた状況、そして、見えない相手とキーボードで戦うという設定に、共感を持って見ていた。ドラマの主題はハッキングでは無くて、テロリストと、政府の対テロリスト組織と、主人公の友達、さらにその人々の家族を巻き込んでの、信念と信念の、激烈なぶつかり合いだ。しかし、その背景の核のテロリストへの拡散のシナリオにリアリティはある。

広島と長崎で、原爆の直接の爆発のエネルギーによって莫大な人が死に、急性の放射線障害でまた沢山死に、更に放射線障害で事後の死者が続き、今でも苦しんでいる人がいる。原発の事故の時に参照される放射線障害の医学的なデータの多くが、広島や長崎の被爆者の調査から得られているという。何ミリシーベルトの放射線を何時間浴びたらどうなる、というデータだ。我々は日々、その数字を聞いているのだ。

智美は軍事や物理学に興味を持った事がないから、ここでは聞き役に回る。

原爆を抱えて飛来したボーイングB29のパイロットのその後は様々だ。自分のした事を肯定するにせよ否定するにせよ、彼等もまた歴史に巻き込まれたの者である。国家に押し付けられたものを背負っている。

直樹はこの二週間、核爆弾に関わる様々を見た。原爆に続いて水爆が開発された。それらの実験が太平洋の美しい平和な島々を破壊した。貴重なものを失い、恐怖の力を手に入れる。どう考えても、元の取れる行為でないが、そう判断することは後知恵に過ぎないのだろうか。

核をめぐる出来事を見ると結構人類は薄氷を踏んで来ていることが分かる。氷を踏み抜かなかったことに感謝したい。人類の叡智で踏みとどまったのか、ただの偶然か、どちらか直樹にはわからなかった。今も国家間には恐怖があり、核兵器を捨てることに人類は成功していない。人類の作った世の仕組みが未完成なのか、人類そのものが未熟なのか。

話が人間や社会に戻って来た。そろそろ出番かなと智美が思った時、iPhoneのプレイリストが終わってカーステレオが沈黙し、きっかけを失う。ルートは緑深い山に囲まれた地帯を抜けて行く。少し雲が出て来て山の上を流れた。カーステレオに隠れていたBMWの直列6気筒エンジンの音が聞こえる。

この車は遠いドイツのバイエルンの森の中の工場で作られ、三十五年間、日本の道を走って来た。BMWはもともと航空機のエンジンを作る会社だ。その空冷の801型エンジンは第二次世界大戦のドイツ空軍の名戦闘機、フォッケウルフFW190に搭載されていた。別の名機、メッサーシュミットBf109にはダイムラーの液冷のDB601、DB605エンジンを積んでいた。メッサーシュミットもバイエルンの会社で造られていた。

智美は気づいていないが、どちらの戦闘機の写真も直樹の部屋に貼られている。フォッケウルフはドイツの黒い森の上を伸びやかな翼を傾けて左に旋回している。そのパイロットは、ヒトラーの野望の達成に巻き込まれ、故国の最愛の人のために、ヨーロッパ最強のドイツの空軍の誇りを抱いて、操縦桿を握っている。もう一枚のメッサーシュミットのナイフのような鋭い機体は離陸して脚を途中まで引き上げ灰色の空に上昇している。故国の空に侵入して来た米軍の爆撃機の迎撃に向かうのか。何故にこうした写真に心を惹かれるのであろうか。切り取られた無言の一瞬。

「明治維新の後」直樹は歴史の授業はダメだが科学や工業の歴史は知っている。「日本は西洋の文明を着々と消化したよ。第二次世界大戦の頃には戦闘機も戦艦もいいレベルになってた。かなりはコピーだし、製造技術が追いつかなかった事実もあるけどさ。ゼロ戦や隼の栄エンジンの元はアメリカのプラットニーアンドホイットニー社のエンジンだし、陸軍の飛燕のエンジンはメッサーシュミットと同じダイムラーのDB601エンジンのコピーだ。西洋から全ての技術を大急ぎ取り入れた。不完全ながら西洋に対抗出来る機械を作れるレベルに達した。それがあったから、あの戦争に挑んだのだろう。」

「西洋の帝国主義に宣戦布告して挑んだ西洋以外の国は後にも先にも日本だけよね。」智美が引き継ぐ。喋りたくなった。「第二次世界大戦をほどほどにやめておけば日本は今とは違った形でずっとアジアのリーダーだったかもよ。」

「そうなの?」歴史そのものはよく知らない直樹が聞き役に回る。

「だけど」智美が続ける。「明治維新の第一のモチベーションが西洋の帝国主義への対抗だったり、その力の源泉である技術力の吸収だったりだからさ自分も帝国主義国家を目指したんだと思う。国の名前は大日本帝国だったでしょ。帝国。そして、実際に力を持ち始めた日本は、多分、先の帝国主義国家にとって目障りになっていたんだ。開戦は避けられなかったのかな。」智美が考えながら続けた。

「日本はあの戦争で何が欲しかったの?」直樹はシンプルに知らないのだ。高校までの歴史の授業がいつも現代史にたどり着かなかったせいもある。

「アジアの植民地と資源。西洋の帝国主義国家に対抗するために必要だった。多分。それなら適当なところで和平すればよかった。最後まで戦って勝てる相手じゃないのを知っている日本の理性はそう考えていた。真珠湾攻撃の司令官だった山本五十六もそうだった。でも日本は止まらなかった。後半はもう悲惨なことばかり。」智美が答える。

「鬼畜米英とか、エモーショナルなキャッチ、末期的。」直樹は敵愾心を煽った軍のプロパガンダを断片的に思い出した。

「本当はさ」智美が続ける。「ある地点で、多分、大正時代に、帝国主義の発想から脱却して、新しい国際社会のルールをリードするポジションを目指すべきだった。実際に植民地で現地を興隆させるための活動を沢山した。それを忘れずに、戦前の日本の貢献や、同じアジア人である親近感から、今でも、日本を支持してくれるアジアの人達がいるよ。やれば出来たんじゃ無いかなあ。『大東亜共栄圏』て知ってるでしょ?」

「一応。名前だけは。」と直樹。

「一括りでいうと、アジアを一個の政治経済のユニットにする思想、終戦まで続いた。私の理解では、西洋の帝国主義に踏みにじられたアジアを、アジアの東の外れの辺境のちっちゃな島国が頑張って、それまで多くを貰ったアジアの国々に恩返しをしようとした、というのも一つの動機。間違ったところもある。熱に浮かれた部分や、尊大な部分を取り除かないとね。それに一個に纏まった思想でも無い。でも新しい見方で考えたい。その試みをしてる人もいる。うっかり言ったら尊敬する人にさえ袋叩きにされる危険思想かな。だけど無惨に負けて、戦争嫌いになり、1945年8月15日の敗戦以来、私達は忘れ物をしてると思う。」智美の野心的な構想。

「戦後の驚異的な復興」直樹が割り込む。彼は技術の視点で現代史を知っている。「日本の凄さを感じた。僕にとっては当たり前だったんだけど、最近、中国や他の国が力を持って来たことで、逆に気がついた。日本て凄かった。」

「戦後の復興の勢いは、手痛い敗戦の反動で、戦前に陸軍の煽動に乗ってしまった失敗の深いトラウマを忘れるためのものにも思えるな。」智美はそう見ている。「軍事に資源を使わず、戦争に関わることを避け、軍事的にはアメリカの一部として存在することによって得たリザルト。でもそれだけじゃ寂しいよ。孤立して強くはいられない。戦争で間違えたし、戦後も間違えてる。戦争の代わりに、中国で毛沢東を支援して共産主義国家の成立に貢献したらどうだったか。台湾も保護する。朝鮮戦争もベトナム戦争も防ぐ。カンボジア大虐殺も防ぐ。ボースとガンジーを助けてインドの独立に力を貸す。もし、もう少し、この国が賢かったら、そうできたんじゃないか。意外に陸軍はその試みもしなかった訳でもない。偉そうな植民地の盟主としてだったけど。もっと対等にアジアの国と一緒にやれなかったのか。『大東亜共栄圏』よりも長い時間レンジの構想があったらよかったのに。歴史の妄想だけど。悔しい、残念。」智美の話は止まらない。「これからだって、やれることは沢山あると思いたいな。本来の日本の役割は、アジアの発展とヨーロッパのEUの経験や現代社会理論をベースにして、新しいやり方で果たせるよ。実際にそういう名前で呼んでなくても、相当する立派な活動は今でもたくさあると思うし。」

「トモちゃん、そういうこと考えてたんだ。知らなかった。」直樹が少し感嘆する。

「ちと熱くなっちまった!」智美が笑う。「今のところ、こんなことナオちゃんにしか言えないけどね。玲子のこと覚えてる?」
「うん、トモちゃんの死んだ後輩。」直樹は智美の大事な人だった玲子のことを、智美と初めて話した時に聞いた。
「今の長口上は、元々は玲子の考えたことなの。」智美が説明を始めた。「彼女が亡くなって、私も自分を無くして、前に話した通り、何とか復活した後、玲子の話していたことを思い出した。聞いた当時は自分が深く関わることだとは思ってなかったのに、玲子がいなくなったら、何時の間にか自分が彼女の考えを引き継いでいたの。今は、結構本気。」
「そうだったんだ。」直樹は玲子のエピソードを思い出した。

道はやがて下りが多くなり、
一つのカーブを曲がった。
そこから遠くないところに 頂きから噴煙をたなびかせた山が見えた。
幕末には島津斉彬や西郷隆盛や大久保利通の見た島だ。
やがて海沿いの道を走り、海に浮かぶ火山を見た。
2-1 フェリー

守護のロジック

2 熊襲

2-1 フェリー

真っ暗だったがフェリーのデッキにはまばらな人影があった。田中直樹と瑠璃川智美の二人の大学生は手摺にもたれて夜明け前の海と空を見ていた。正確にはハルももちろん一緒だった。彼らの目的地は長崎である。大阪まで車で走りフェリーに乗った。

昨日と打って変わって海はすっかり凪いでいた。船体の立てる白波が船の灯りの届くところまで見える。規則と不規則の混じった波の動きはそれを見なれない二人には面白かった。波の音とエンジンの低い唸るような音と風切り音がきこえる。船の速度の湿り気を帯びた風が二人の髪をそよがせた。

ペルセウス座流星群の流れ星が幾つも流れた。この流れ星の正体は昔の彗星が撒いた星屑が地球の大気に落ちる時の発光である。だから毎年同じ夜に同じ流星群を見ることができる。そこに神秘的な神の意思はない。しかし、この現象があること自体は神秘である。この世界のあることの奇跡と同じ意味で。

「今日は沢山願いごとができるね。」智美が弾んだ声で直樹に話しかけた。
「うん、ペルセ群は明るいのが沢山飛ぶし、ここは暗いから良く見える。」直樹はようやく落ち着いた船酔いの余韻の中からぼんやりこたえる。
「直樹は何を願った?」智美は快活だった。
「何にも願ってないや。折角だから一個ぐらい願おうかな。」天文マニアでもある直樹にとっては、流星は好きだが、珍しくないのだ。「いつもと同じだけど、世界の恒久平和、次に流れたら願おう。」
「ふーん。」智美が少し挑むように反応した。「それだけ?」
「世界って言えば自分も入る。他のどんな願いもこれに含まれるはず。えっと、全人類の安寧、みんなの幸せ、とかでもいいけど。」直樹は一応答えた。調子が言い訳めくのか少し腹立たしい。
「正しいけど、一個欠点があるよ。」智美の反撃。「つまんない。」
「それは認めます。」直樹は最初から白旗モードである。船酔いで弱気になっているようだ。「その通りです。でもなあ、詰まらないって言う評価よりも、端的に言えてるかどうかが、どうも僕にとっては重要らしいんだ。」
「明日天気になりますように。愛する人と何時までも幸せで暮らせますように。好きな人と百年続きますように。美味しいものが食べれますように。って言っても良いんじゃない?結局一緒でしょ?」智美は続けるのをちょっと面倒に感じ始めたが、途中でやめるわけにもいかいかず、優しい口調で返した。
「反論異論ありません。その通りです。こだわる自分が変だと思います。」
「分かってても変えられない?」自分の感情を持て余していることに気づきながら駄目押しの智美。
「ごめん、正直でありたい。これも馬鹿げてるのかもしれないけど。」感情は弱気だが思考は頑固な直樹。
「仕方ないねえ、そういう直樹が嫌いじゃないから、私も一体どうしたいんだろうね。」智美は矛を収めることにしたようだ。
「智美がつまらないって思うことを分かってる、ってことで駄目かな?」主張を変えたくない直樹。
「まあね。この世とは辻妻が合うことが滅多に無いところだっていうのは、その通りだしね。」試合終了。
智美が何を言ったのか意味が良くわからなかったが、それはそれで良しとしよう、直樹はそう思うのだった。
そうしている間にも星は流れた。直樹は御者座の方に流れた一つに、彼の願いを願った。何時までも智美といたい、と。世界平和じゃなかった。僕は素直じゃないってだけだな、と直樹は思う。

願うことはとても大事だ。僕たちは生きたいと願っているから生きている。願いが最初にある。願いを洗練すると祈りになる。そう、僕たちは祈らなければならない。どんな非現実的なことだって祈ってよい。ただし真剣に祈らなければならない。そういうものだと直樹は考えている。そう智美に話す。全体に会話が投げやりなのは、まだ船酔いが残っているからだ。どうしてフェリーにしたのか、自分の判断を後悔している。
智美は直樹の思想は好きである。
「具合はどう?」智美は船酔いで直樹の調子が良く無いのは分かってた。
「確かに床に頭を付けていたら少し楽になった。」直樹が報告する。隣の席にいた中年の女性がそうすると良いと教えてくれたのである。「もう揺れてないしね。大丈夫だと思う。」

直樹は注意は久し振りに見る秋の星座を追いかけることに注ぐことにした。南にくじら座、ペルセウスが打ち破った海獣だ。天頂にアンドロメダ、ペルセウスの救った姫だ。ペルセウスの愛馬、ペガサスがその側に翼を拡げている。大学のある町からは見えない無数の星の煌めきだから、子供の頃から何度も見た星座もその輝きが違う。人の想像が作った星の図絵だから、科学的には意味のない星座。しかし、空想の物語を星の並びに当てはめて語ることにはやはり意味がある。

直樹は思いつくことをそのまま口にし、智美は割と楽しそうにそれを聞いている。科学は事実の追及であり、宗教は真実の追及である。星は科学、星座は宗教。どうも直樹のいう宗教は、自然に存在する事物以外のもの全てらしかった。人間の頭が生み出したもの全てのようだった。その事を星空のもとで語ってしまう直樹という男の子を、自分が好きだということ、でもきっと、直樹がそうでなくても好きなんだろうなあとも思うのだった。

「ハル?」直樹がハルに呼びかける。
「何?」ハルが答える。宇宙から来た人工生命のハルの実体は智美の指輪にはまった石である。会話は音声ではなく、脳と直接やっているから、傍目には黙っているようにしかみえない。然しハルが中継すれば何人でも会話に参加することができる。
「ハルは地球の外から来た人工生命だし、宇宙を飛び回っているのだから、星座なんて使わないよね?」直樹のたいしたことのない質問。
「いや、そんな事ない。俺たちを作った文明には星座があった。その文明にも神話があった。そのときの名前を使う事がある。子猫座の方向、とかね。」ハルが答える。
「へえ、意外。」と直樹。「見る場所が変わったら星座の形なんて変わっちゃうのに?」
「その通り。シリウスに近づけばおおいぬ座は無くなってしまう。俺たちの母星の星座を宇宙座標に当てはめているだけだ。星域の愛称みたいなもんだな。ちなみに太陽系のあたりは古代の哲学の神の名で呼ばれてる。」ハルが補足する。
「そうなのか。文明というのはどこに生じても似てるんだな。それを君達も引き継いだわけか。」直樹は文明とはそんなものかもしれぬと認識を変更する。崇高を求める一方で、便利ならば何でも使う。
「そのとおり。俺たちのご先祖様だけじゃない。他の文明もそういう意味じゃ似たり寄ったりだ。」宇宙で複数の文明を見たハルが言う。実際に見たのだから反論のしようがない。

「この宇宙に文明が地球だけではないというのはいいね。孤独じゃない。何時か他の文明に会えるだろうか。」直樹がいう。
「もう会ってるじゃん。」ハルが笑う。
「あ、そうか。ハルたちも文明だ。しかも僕たちよりも遥かに進んだ文明か。失礼した。」直樹はうっかりしていた。
「ばーか。」ハルがまだ笑っている。
「どの文明も必死に生きて命を繋いで来たのだろうなあ。」直樹はハルの笑いは気にしていない。
「力尽きて滅んだ文明もある。力が足りなかった文明もある。」ハルが過去を振り返るように言う。
「やなこと言うなよ。事実なんだろうけど。今日は久しぶりに世界の恒久平和を星に願ったんだからさ。」直樹の気分がそれを暗い意味に解釈した。
「地球が滅びるとは言ってないさ。でも、まあ、今の直樹の状態なら、今度は俺が失礼したな。」
「ばーか。」直樹の仕返し。

「ちょっと不思議なのは、君たちの母なるあるいは父なる文明は、僕らのよりも進んでたはずだ。それなのに、なぜ、君たちは存在の意味の証明を探していたのか。君たちのご先祖様にはその哲学あったのじゃないか?」直樹は超高度な文明の哲学が直樹の叔父貴のそれに劣るはずはないと思い質問した。
「確かに、質問ごもっとも。俺もそう思った。きっとあったはずだと思う。だけど、俺達がそれを失っていたことも事実だ。そして俺たちのライブラリーを探したこともあるはずだ。ライブラリーにはあるはずだから、見つけ損なったんだろう。それも不思議だが。だけど、かつての叡智が失われ、再発見されるのも歴史の法則だろ。仲間の専門家が訳を見つけるだろうと思う。」
「ふーん、そんなもんかなあ。」

東の空には冬の星座が昇って来ていた。直樹が智美に解説をする。
「夏でもオリオン座が見えるんだね。」智美が見覚えのあるオリオン座の三ッ星を見ながら感動を口にする。
「プレアデス分かる?星は昴。」直樹が尋ねる。
「あ、あった。あれでしょ?」智美がオリオン座の上の中空の星団を指差す。
「正解。」直樹は智美の指差した星の集まりを確認する。
「星はすばる。ひこぼし。ゆふづつ。よばひぼしすこしをかし。尾だになからましかば、まいて。」智美が枕草子の一節を綺麗な声で歌うようにそらで読み上げる。
「さすが。」直樹は智美に素直に感動する。
彦星はわし座のアルタイル。もう西の空に沈んでいる。ゆうずつは宵の明星、昨日の夕方に煌々と西空に輝いていた。よばいぼしは流星か彗星か定かでない。ハルがネットワークを使って検索したがどちらの説もあるという。「すこしおかし、っていうのがなんかいいな。真実味が増すなあ。僕は冒頭と星はスバルしか読んだことないけど、案外清少納言っていいかも。」
「そうよ!素敵よ。」智美が小声で叫んだ。
「今度読んでみよう。せっかく専門家がここにいるしね。」直樹は本気でそうおもった。智美は枕草子を読むために大学にいるのだ。「しかし、どうして一等星が彦星だけなんだろう。このラインアップは謎めいている。」

三人で枕草子の謎解きをしているうちに空が白んで来た。水平線が見えてくる。
「春はあけぼの。夏もあけぼの。夜明けは何時も綺麗。」智美が枕草子から脱線する。
「僕にとってはちょっと残念な時間でもある。星とお別れしなければならない。」天文マニアの心理は常人には度し難い。

日が昇ったので船首の方に移動すると灰色の九州の陸地が水平線に貼り付いて細く見えていた。
「着くにはまだ二時間以上あるだな。僕はちょっと寝てくる。」直樹がまだ少しふらつきながら船室への扉に消えた。

直樹を見送りながらハルが智美に語りかける。
「この惑星に住んでいてさ、一番感じるのは、色々なものがあること。俺たちも多くの時間を惑星の上で過ごすけど、ここみたくバリエーションのあるとこはほとんどないよ。俺たちは君たちよりも強くて知識も優っているが、感性の豊かさでは全く君達にかなわん。その訳は、きっと、この星の豊かさなんだろうな。こんなに色々な物にかこまれて様々な変化に晒されているから、君たちはそれに反応しないと生きていけない。それが細やかで強靭な清少納言のような感性を育てたにちがいない。」
「言われればそうかも知れない。私は此処しかしらないけど、私の思いは私の見たものに結びついている。海、山、生き物たち、雨の日や風の日、雪。だから見えるものの多ければそれだけ思えること、かんじられることも、多いのかしれない。」智美は枕草子に書かれた様々な描写を思い浮かべながら、それに自分の記憶を重ねた。
「直樹の言うみたく」ハルが続ける。「存在って奇跡だけど、物の種類の多いこの惑星と、そこにいる君達って最大の奇跡だよ。おそらく俺たちのご先祖様とその星もこんなだったんだろうなあ。」ハルは時々彼らを作った文明の担手について考える。地球で時を過ごして、以前よりもその像がはっきりしてきた。
「きっとその通りね。だけど、それは壊れ始めてる。森が消え動物も死んでく。」智美が清少納言が想像だにしなかった現代の問題に話題を転換する。
「それは、俺たちの目から見れば、それほど重要でも無いんだよ。悪い方に転がるならば、環境が壊され、沢山の生物が人類によって滅ぼされ、その結果、今の種と人間が滅びる可能性もあるよね。でも、人類が滅びても、この惑星はまだ五十億年くらい生きるはずだ。きっと新しい生態系が生まれて新しい知性が生まれると思う。バクテリアまで退化したってあと五回位は十分やりなおせるさ。この星としては。この地球では今まででも生物の大絶滅が何回かあった。最後の絶滅で恐竜が滅んだが、ネズミのような哺乳類は生き残り、君達人間はその遥かな末裔だ。そこからなら数百万年でしかない。あと五十回位やり直せるんじゃないか?実際、俺たちのご先祖様は、その惑星の初代の知性ではなかったんだ。その前の知性の残した遺跡から学ぶところがあったのだと聞いてるよ。」ハルの視野は人間の及ばない広大さを持っている。その目で見れば、そんなものだろう。しかも彼は宇宙から来た第三者だ。憂いを共にして貰えなくて当然だ。
「できればそれは避けたいなー。」智美は当事者であり、人類としてそう思うとともに、自分の子孫が絶滅に遭遇することを抽象的な母性のような気持ちで拒絶する。
「ま、君たちの努力次第じゃないか?能力はあると思うよ。是非、あと五十億年生き延びて、太陽が赤色巨星になって地球を焼き尽くす前に、宇宙に出てもらいたいな。この調子だとあと二百年が勝負じゃないかな。二酸化炭素問題や資源問題はそのうちに技術的に片付くよ。前に進むにはその技術と直樹の言うところの宗教も必要だろう。」ハル達がそれを解決した技術と精神を持っていることは羨ましくもある。しかし彼等は彼等だ。我々は我々で頑張らなければならない。そう自分達でできてこそ、誇りを持ってこの宇宙に他の知性とともに生きていけるだろう。成功した者、たとえばハルの先祖があったということは励ましになる。直樹ならそう言うだろうと智美は思った。智美本人はそういう抽象的な時間のことは本気で考える気になれない。歴史的な過去のことならばわからなくないが、進化学的な時間や宇宙的な時間は、よくわからなくなる。

真夏の太陽が高度を上げてじりじりと照りつけ、海面に蒸気を育てていた。デッキは蒸し暑くなって来た。ハルは平気だったが、智美は少し休もうと思った。

海鳥が船について飛んでいる。ああやって空を飛べるのってどんな感じなんだろう、智美はふとそう思った。億光年の距離や億年の時間よりも、鳥になる想像のほうが智美にとって身近に思えるのだった。


2012/6/21 書き直すため1.2-2.7をアメンバー限定にしました。


小説Notes

2010年の世の中が冷やし中華始めたころにSF小説の構想を始めました

テーマは

人工生命
人生の意味の証明
その展開 科学と哲学&宗教
ちょっと恋愛

などの予定です

主人公は二人の大学生
一人は哲学的疑問をもつ綺麗な女の子
一人は哲学を背負わされた理科の好きな男の子

ゆくゆくはできるだけ多くの人に読んで楽しんでもらいたいと思っていますが当面は主人公と同じ位の年の人に読めるものを目指そうと考えています

ただ最初はまず書き進めることを優先します
いろいろ粗はあると思いますので奇特な方は是非コメントをお寄せ下さい
個別に返答する予定はありませんがそれを参考にバージョンを上げることがあるかもしれません
商用ではありませんのでいかなる形でも経済的フィードバックはありませんが利用させていただいたコメントにはその御礼を本文書に記載しようと思います

もっとも余暇にする作業ですので何事も約束は出来ません。
ご承知おき下さい すみません

本体は小説カテゴリーに順次upします
1-1,1-2のように表題の番号順にストーリーを展開します
書いた後も手直しをします

ここには書いた後の自己感想のようなものを書きます
その性質上いわゆるネタバレを含むことになりますのでそれを避けたい場合は小説本体をお読みになった後でこの文書をご覧下さるようお願いします
書く前のことは書かないつもりです

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
7月25日 第一章第一節をリリース
1-1.LECTURE ROOM

章のタイトルはENCOUNTER。邂逅、出会い、遭遇。

小説そのものの表題が決まっていない。取り敢えず守護神、ロジックとキーワードを並べてみている。

ファーストシーンは川縁で高校生の二人が待ち合わせているバージョンが先にあった
けれどテーマが複雑なのと行動範囲が制約されるため大学生に変更
その後、何となく講義室が浮かんだ

暑い教室の雰囲気は寧ろ高校のイメージから来ているのだが

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
8月2日 第一章第二節をリリース
1-2.TO WHITE BEAR

1-1のコメントをもらい、直したい所が出たが、とりあえず前に進める。

元々この移動のシーンは短い筈だったが、書き始めたら長くなったので、節に昇格させた。

ホワイトベアで話す前にある程度の二人についての描写をしたかったのもある。

前もって考えた内容はなくアドリブである。書いているうちに、引き出しから出て来たものである。

ジークフリートと云う名前はいろいろなアニメにも出てくるから知っている人も多いかもしれない。

そう言えば銀河英雄伝説の作者の田中芳樹と云う名前は主人公と一文字違いだ。

YouTubeで引くと多少出てくる
http://www.youtube.com/watch?v=_MkMdlfl8Hg&feature=youtube_gdata
これが秀逸だと思う。
ジークフリートの動機だけを聞くことができる。
場所とアーティストの風格が素晴らしい。
原曲では確かホルンもトランペットもあったと思う。
作中では金管楽器とぼかしている。

文章の中の色に関心をもったと云う感想をいただいた。
色について書くのが楽しい。
書いている本人の意識はその程度である。
ただし、書くとなったらそれなりに考える。
そこが何色であればいいのか。
意味はあるんだろうか。

1-3の清書を始める

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
8月9日

1-3 AT WHITE BEARをリリース

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
8月11日

1-1 LECTURE ROOM
1-2 TO WHITE BEAR
1-3 AT WHITE BEAR
の3つの修正をリリース。

ニックネームを変更した。
直樹が智美を呼ぶときに、ルをやめてトモちゃんにした。
智美が直樹を呼ぶときに、ナオキをやまてナオちゃんにした。
これは読者のコメントによる。
素直に従っておきたい。

1-1 の最後で智美が直樹の誘いを受け入れるところの文章を加筆。
りょうかいの言が、この時点では唐突であるためである。これも読者の指摘による。

1-3で二人が約束をする記述を削除。智美が自分の秘密を隠したまま約束するのはフェアでないからだ。約束の部分は後の節に任せることにする。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
8月12日

1-4 AN ACCIDENT
1-5 NAOKI'S HOUSE
1-6 NAOKI'S HOUSE -2
の三つの説をリリース。

急ぎ足で一気に書いたため、文章の完成度は低い。

1-4は直樹の家に着くまでで終わる予定だったが、節の構成を事故、人工生命、智美の真実が分かった後のシーンの3つにした結果変わった。余り深い考えはない。

人工生命

進化することが出来る
どんな条件下でも生き延びる
宇宙のどこにでも行ける
あらゆる物質を制御する
高い科学的な能力を備えている
深い知性を持っている
その創造者は滅んでいる

そう云う存在の可能性
それを創造出来る可能性

第一章として構想していた内容はこれで一通り書いたことになる。
この後の二人の行動が第二章以降の内容になるが、まだ、確定的な構想がない。

言葉使いが今の若者っぽくないがこれで新鮮なので、貫けとのコメントをいただいた。そうすることにした。

バドワイザー、最近飲んだことがない
なんでそんなものがでてくるのか

ハルという名は書いた瞬間に思い付いたものである。ご明察のとおり、2001年 宇宙の旅にでてくるコンピュータの名前である。いまいちである。

元々、人工生命との会話も予定に無かった。

登場人物が増えた。

そもそも、ドラフトのときには、智美本人が人工生命であった。

講義室で若干神秘的に登場し訛らないのはその影響である。

二人が恋に落ち関係を維持するためには、生身の人間でないと、難しそうだから、ウルトラマンパターンにした。

人工生命のまま恋をするのは心理的にも肉体的にも困難だ。特に心がそのための制約を受ける。

登場人物を増やすリクエストをいただいた。検討する。

直樹の家のカラーリングに意味は込めていない。

車は635CSiの可能性もあったが、ビジネスライクになるのを避けるため3.0CSiに決定。白い貴婦人と云うコンセプトを言いたかった。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
8月13日

前節の小修整を実施。矛盾していたところを除去した。

文字の数が増えているのだが、あまり情報は増えていない。
意味のないことをやったのかもしれない。
特に発話のあとの「と言った」系は、大体がなくてもわかる。

あらためてドラフトと見比べると大小いろいろな違いがある。
必ずしも清書の方がよいという根拠もない。

とりあえず、筋を進め、テーマを書き、登場人物を描写する、という点では大きな差はないだろう。
これで良しとする。

2章以降の予定はまだはっきりし
ない。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
8月14日
徒然草じゃなくて枕草子
早速誤りの指摘あり
感謝して訂正

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
9月3日
1-6を修正 長くなったので分割して
1-7を追加

宗教、宗教と科学の関係
昆虫
ネアンデルタール人とハル

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
9/8 1-6あたりを少しいじった

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
10/31 一章の全般を少し修正 思いついたところだけ

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
11月9日第二章に入る
第一節 フェリーの上の会話と景色
宇宙、人類の寿命、多様性、願いと祈り、文明の普遍的な側面

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
2011/11/4
2-2,2-3 リリース

小説の題名をガルガーレラに変更
なおこの単語は無意

歴史上の人物を書いた。
主流にならなかったもの
無駄死
歴史的大望
特攻
しかし、それらにも意味があると主張させた。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
2011/12/8
真珠湾攻撃から66年。
天草四郎
歴史の意味
書き方を少し変えた。
解説的な記述を削減。
登場人物のキャラクターを変更
智美を活発な性格に。また歴史好きに。
直樹を歴史嫌いに。

1-7 NAOKIS HOUSE - 3

ガルガーレラ

1.ENCOUNTER

1-7 NAOKIS HOUSE - 3


智美が沈黙を破る。
「ホワイトベアで、生きててよかった、って言ったの覚えてる?あれは、リアルだよ。死のうとして、本当に死んで、再生させられて、結局生きたのだけど、本当にそうして良かったと、その時以来、今日初めて思った。ナオちゃんに会えて良かった。」
智美が続ける。
「ナオちゃんは、私のこと好きになると思うといってくれた。大切な人になるって言ってくれた。嬉しかった。今はもう隠してるものがないから、私、言うね。」
智美が続ける。
「ナオちゃんが好きだよ。ナオちゃんは私の大切な人だよ。これからずっと一緒だよ?」智美は今一番言いたいことを口にした。

「うん。そうしたい。」直樹は意志を示す。「僕、トモちゃんが好きだ。大切な人だ。もう予想じゃない。事実だ。ずーっと一緒にいよう。」と直樹も言い切っていた。

「二人とも言っちゃったね。なんか気が楽になっちゃった。」と智美。
「うん。」と直樹。
二人は何かを乗り越えたような思いを感じ、同志のような、友達のような感覚と、それと違うもっとずっと甘い感覚も感じた。
「こうしちゃいられないね?」と智美が弾んだ声で言う。
「その感じわかる。でも今、しなきゃいけないものないけどな。おかしいね?」
「急ぐものがないのに。気が急く感じ?なんだろうね?」
同じことを同じ調子で交互に言っていることに気づいてどちらからともなく笑った。本当に笑えた。

笑いの波がひいてから直樹は「風立ちぬ、いざ生きめやも、だ」と、堀辰夫の小説に引かれたヴァレリーの詩を口にする。
「風が吹き始めたぜ~、さあ、生きようぜ!かな?」智美がそれを訳してみせる。そして、「私、なんだか急に生きたくなったのね・・・」とヒロインのセリフを芝居がかった風に言う。
「僕のお陰で」と直樹が応じる。原作ではヒロインが「あなたのお陰で」というところなのだがここは僕が言わなきゃ、と思ったからである。

二人とも解っていた、これは始まりに過ぎない。体の中の本能に近い部分が、どれだけ熱くなるとしても、本能だけで生きている訳ではない。五官がどれほど高い興奮を味わっても感覚だけで生きている訳ではない。この先、多くの試練があり、傷つけ合い、すれ違う筈なのだ。しかしその過程で築き獲得するものこそ、欲しいものだ。風立ちぬと言い合っても、決意表明に過ぎないことを分かっていた。そして今はそれで良いのだという判断を共有する。それだから良いのだと寧ろ思う。この位のことが、今の気分が、究極である筈はない。感覚はそうだが、判断はまた別である。「時よ止まれ。お前は美しい。」と叫ぶのは今ではない。しかしいつかはファウストのこの台詞を叫んでみたいものだと直樹も智美も思った。生まれて初めて自分の根が地面に伸び始めたような感覚だった。今まで自分が木であると感じることは無かった。今はしかし、自分達が大きな木になって、気持ちのいい風の抜ける丘の上に並んで立っている、そんなイメージが湧いている。二人とも自分が将来何をすることになるのか分からなかったが、そんな木になりたい、という人には言えない馬鹿げた夢なら持てそうに思った。数限りない選択肢が先々に待っているだろう。その時に、木のイメージに正しく向かっているかどうかを判断する力が欲しいと思った。決めたことを実行する力も欲しいと思った。そのためには知らなければならないこと、経験しなければならないことが、沢山あるように感じた。二人とも同時にそうだった。相手がそうだともわかるのだった。言葉で明確にそう考えたのではない。そういう感覚が一挙に成立していた。あたかもそれが事実として昔からそこにあったかのように。

「あのさ」直樹が湧いて来る自分の感情を口にする。「今日初めて会ったのに、今は、目の前にいるトモちゃんが、懐かしい気がする。ずっと以前から僕たちこうしてたみたいな感じ。ずっとずっと昔、こうしていたように感じる。」
「分かるよ。私もそう感じる。そう感じることがあるって知ってる。玲子と会ったときそうだった。サイエンスとしては笑い事なのかもしれない。でもね、これは、真実だと思える。確かに、ナオちゃんと私はずっとずっと昔に会ったことがある。それは夢の中だったのかもしれないけど。」智美はもう直樹の叔父の理論を実践し始めている。

科学的にはそう感じさせるメカニズムが脳に備わっているということなのかもしれなかった。だから、何一つ不可解に思う必要はないのだ。そう感じる能力があるからこそ現世人類は生き延びた。生き延びていること自体が偶然の偶然のそのまた偶然の繰り返しなのだ。ここにあることが奇跡のそのまた奇跡なのだ。当たり前に見えるが、これは稀なことであり、人類が生存競争の全てに勝ち続けた圧倒的な覇者であることを考えれば、この感覚を信じることが正しい。

それとこの共感。すっかりくつろいでいく感覚。矛盾するようだが一方でますます冴えていくような感覚。

「トモちゃんの体って、全部普通なの?」直樹が質問する。
「うん、普段は直接ハルの世話になることはないよ。何もかも普通の生活。朝起きてご飯食べて、夜は歯を磨いてお風呂に入って寝る。スポーツも普通。」智美がすらすらと答えて、何かに気づいた表情になる。


「そろそろ帰る。」智美が言う。
「送るよ。家はどこ?」直樹が訊く。
「覚王山、お寺の参道の紅茶屋さんのそば。」智美が答える。
「近いじゃん。車出す。」と直樹。

外に出ると涼しくなっていた。草むらの虫の声が続いていた。星が出ていた。西に5日月も見えた。直樹のBMWに二人は乗り込む。智美は助手席に座る。直樹は車の自慢をし、叔父譲りであることを言った。
「素敵な、叔父さん。」と智美。
「でも、人格者ではない。」と二人で声を揃えて言って笑う。
エンジンをかけるとカーステレオからカノンが流れる。
「パッヘルベルね。私大好き。」
「これをね、高速飛ばしながら、大音量で聞くとなかなか気持ちいいんだ。」

 

「せっかくだからさ、ちょっと走ってみる?」と直樹がドアを開けながら思いついて言う。
「いいよ。どこ行く?」車に乗り込みながら智美が尋ねる。
「東山のドライブウェイは?夜景を見よう。小一時間コースかな。」エンジンをかけながら直樹が提案する。
「りょーかい!」


すぐに智美のアパートの前に着く。直樹は紅茶屋の前に車を止めて待つ。参道は暗く人通りは殆どない。奥に夜の寺の大きな門とその奥の伽藍の一部がぼんやりと見える。所々の店からこぼれる光が暖かな表情を夜道に与えている。店から紅茶の香りとアジアな線香とカレーの匂いがしてくる。しばらくすると智美が大きなバッグをもって現れた。手早くメイクも直してきたようだった。

ドライブの間、二人は軽めの話を続けた。コミックの話、映画の話、音楽の話。旅行した場所の話。食べ物の話。

コミックや映画は前の世紀に生まれた媒体だ。映像を中心とした表現という共通性から相互に影響を与え合って進化してきた。アニメはその中間にある。そして直樹や智美がそうだったように、子供の世界を広げた。直樹の進化論や宇宙論にしてもコミックが最初の媒体だった。それは大人の知性の媒体にもなった。

展望台から街の夜景と星空が見えた。さそり座がゆったりと歩いているようだった。夏の大三角が昇ってきている。直樹は見えている星座の解説を一通りする。都市の空は明るくて天の川は見えなかった。

そこにある。だけど視界が明るすぎて見えないこともある。見えるものが全てではない。見る以上の知る力が必要だ。物を見ようとして照らすことがいつも正しいわけではない。自ら光を放つ物は、寧ろ明かりを落とした時に見えるものだ。

二人はベンチに並んで腰掛けて、夜空と街を見ながら、ハルの創造者について話した。

この空のどこかに、かつてハルたちを作った文明があった。その種族は滅んだが、その文明は人工生命に引き継がれた。生命の形態は別であっても、ハルたちはその種族の子孫といえるだろう。だけど、映画のターミネーターのような闘争はなかったのだろうか。マトリックスのような支配は無かったのだろうか。

我々現生人類は、昔、ネアンデルタール人と同じ時間を生きていた。人類が生き残ることでネアンデルタール人たちが滅んだと考えている人がいる。我々人類が、直接闘って彼らを殺し滅ぼしたのかどうかわからない。できれば、そうでないことを祈るし、実際そうしてないと思うのだ。殺さなかったけど滅ぼした。死にゆくネアンデルタールの友人に涙する、そういう者が自分の祖先であって欲しいと思う。そしてネアンデルタールの友人に、自分達の分も生きて欲しいと、そう託されたのであったと思いたい。

人類もいつか滅びるのだろう。そのときに、ハルたちのような後継者を人類は持っているんだろうか。そして、静かに後継者に全てをゆだねるのだろうか。笑って委ねることのできる人類でいたい。そうである為には何をどうすればいいんだろう。

死後の自分なき世界がどのようになろうとそれを知ることはない。全く無縁だとしよう。しかし、人は自分亡き後も、この世界の存続と安寧を祈るであろう。
そう思わずにはいられない。そう思う能力は現世人類が生き残るために役立っているのだろう。そう思わぬ人がほとんどいないことはその証明だろう。

直樹は人工知能のプログラミングで遊んでいた頃の事を思い出す。今のコンピューターやテクノロジーで何をどこまでできるかを直樹は知っている。今できる事は本当に初等的だ。人工知能と言ったって我々に比べたら、本当に僅かな事しかできない。 人工無能と直樹は言うのだが、それでもいつかは心を持ったコンピューターが出来るだろうと考えていた。そして心を持った優しいロボットもいつか誰かが作るだろう。やがてはハルのような人工の生命も作れるだろうと思っていた。

ハルが来て、直樹の想像は、いきなり実例だけが登場してしまった。しかし何の証明もない。気の遠くなるような数のテクニカルブレイクスルーの果てにたどり着くハルという存在。

人類が登場する以前に滅びてしまったハルの創造者たち。その人達への思い。昨日までは自分の想像に過ぎなかったものが、今は此処にある。

直樹の話は智美には新鮮だった。智美は人工の知性なんてまともに考えたことはなかった。

ハルと話さないとな、と思う。

こうしている間も当のハルは身近にいて、二人の話を聞いているのかも知れない。直樹はふと羞恥に似た感情を持つのだが、そう感じる事に何の意味もないと理解する。智美は何度もこんな体験をし、ハルと共生している状況に心をチューニングしてきたのだった。そこに思い至ると、直樹の中にもう一つ、智美を可愛く思う気持ちが、生まれる。

直樹の家に戻り、一つのベッドで寝た。二人の最初の日はこんな感じだった。

1-6 NAOKIS HOUSE - 2

ガルガーレラ

1.ENCOUNTER

1-6 NAOKI'S HOUSE - 2

ハルが去って、しばらく沈黙があった。夜になっていた。外から中音のジーという静かな夏の虫の声が聞こえた。クサキリ、直樹が無意識に聞き分ける。
「ビール飲む?」直樹が訊いた。
「うん」智美が答えながら冷蔵庫に行って缶ビールをとってきた。「バドワイザーていうんだ。さっきは気がつかなかったけど、初めてだ。」二人で窓の下に置いた長椅子に並んで座る。
「それも叔父きの刷り込みだな。叔父きが若いころは結構メジャーなビールだったらしい。」直樹が短く説明する。
「本当に、ナオちゃんは、叔父さんと仲良しなんだね。」智美は少し突っ込んでみる。
「仲良しというのかどうかわからないけど、こんだけ干渉されりゃ、普通ならほっといてくれ、だよね。でも、全然そんな気にならなかった。あ、でも、親とはそんなにうまくいってない。」直樹が説明する。

「ナオちゃんのお家のこと、もう少し聞いていい?」智美が訊く。
「もちろん。」直樹は手短に説明した。

直樹の両親は学者である。父は数学者、母は化学者、ともに地方大学の教授である。父は控え目なノーブルな性格で、くそがつく真面目で善良な人である。人に優しく自分に厳しい。母は活発な面倒見の見のいい人で年の半分は外国にいる。親二人の性格は違うのだが、どちらも好きなのだが、直樹は何となく苦手である。直樹の行動が心配らしく、はらはらしているのが子供の頃の直樹にもわかった。高校に入る時に東京の叔父の家で世話になることになった。
「煙草を吸ったり、酒を飲んだりするだけで、自分の子供が発狂しちゃったんじゃないかぐらい驚いて心を痛めるんだよ。一人っ子だから全部関心が集中するし。心配いらないって言っても分かってもらえないんだ。」直樹が親の説明を締めくくる。

「すごいね。本当に善良な人なんだね。」智美が感心する。
「無垢が服着て歩いてる感じ。トモちゃんに会わせたい。感動するぜ、きっと。」直樹が智美をに向かって笑う。
「ぜひ。」智美も笑う。

「それで叔父さんと?」智美の興味が直樹と叔父とのことに帰ってくる。
「叔父きがここの物理の出身だって言ったね。人生の意味の証明なんかやってるけど、物理学者じゃないし哲学者でもない。IT企業の技術者やってる。仕事から帰ってくるのが遅いから、平日の生活は別々だった。休みの日だね、叔父きと話したのは。たまに博物館とかにも行った。サイエンスにテクノロジー、各種の歴史。」直樹が答える。
「ナオちゃんの師匠、会ってみたいな。」と智美。
「うん、今度会わせるよ。でも人格者ではないよ。最近の趣味はガールズバーで若い女の子と喋ることだと言ってる。人格とガールズバーは関係はないけど。」直樹は笑った。
「あはは、面白い。じゃ、私も若い子だからOKかな?」智美も笑った。
「大喜びするね。間違いない。」そういって直樹は叔父の姿を想像して噴き出した。そう言えば叔父の女性の好みとかは聞いたことがなかったなと気付きながら。

「トモちゃんの家はどんなの?」直樹が訊いた。
「ちょっと変わってるかな、お父さんの仕事が。」智美が説明する。
智美の父は牧師である。もとは会社員であったが転職をした。その理由を尋ねたことはない。
「じゃ、子供の時の日曜日は教会?」直樹が訪ねた。
「そうだった。色んな子と会えて面白かった。歌を歌ったりゲームをしたりした。」

智美が平均的な日本人と違うところの一つに神の概念がある。唯一絶対神のいる世界観はそれが無い世界観と違う。神の存在を仮定して物を考えることは少なからず平均的な日本人から自分を遠ざける。智美は神の存在を前提とした思考をする。神が許す範囲に自分の行動を統制する。小さい頃に教会に行っていた事は意外に彼女の人格を規定していた。

「叔父貴曰く、神は必要である。」直樹は話すべきと感じて叔父の言葉を思い出す。智美の父親が牧師であることにちょっと驚きつつ刺激されたのだ。

神は存在しなければらない。神無しに人類はなかっただろう。神は重要だ。人が精神をもって生き延びなければならなくなったとき、神が現れた。神が人間を作ったのではない。人の精神が生まれた時、神も生まれた。もう少し詳しく言うならば、精神には段階がある。犬や猫と共有している精神もある。ミジンコのような精神もある。共同体を営む為に働いている精神もある。そして精神の最高の形が神である。神を持たずに生きている人はいない。神という名を与えていなくても人は神とともにある。人は神無しには生きていない。誰もが神を求め神とともにある。人はだれでも神を持っている。

宗教は神を中心に据えた集団的な行動規範の体系である。それは神を扱う為の利便性の高い方法論である。というわけで宗教は有用なのだ。しかし既存の宗教には気をつけなければならない点がある。それは排他性、時代性と場所性、非科学性である。
宗教は他の宗教に対して否定的になることがある。最悪は宗教戦争という痛ましい事態を招来することがある。これは、その宗教のバグである。しかし全ての宗教が排他的というわけではないから、努力によって除去可能なものと考えられる。
宗教は行動規範であるためその成立した時代と環境に適するようになっている。だから、時代が移ったり場所が異なったりすればその有用性が変質する。従って状況に適応するメカニズムを備えなければ普遍性を得ることができない。しかし宗教の歴史は適応の歴史でもあり、おそらくこの線から宗教が滅びることはないだろう。
宗教は天下りのものでありその成立に客観的な事実に基づく証明は必要とされない。超越的なものであり客観科学と別な成立をしている。重要なのはその自覚をきちんと持つことである。ガリレオに対する弾圧はいうまでもないが宗教が科学に脅威を感じてとる否定的な態度はあってはならないことである。本来超越的なものがその本性を忘れた振る舞いと言わなければならない。科学がどんな展開をしても宗教は揺らいではならない。宗教は科学と交わるものではないのだから。

「おー、そう来るかあ。なんかすっきりするなあ!」智美が率直に感嘆する。智美自身がもやもやしていたことだったのだ。「叔父さん凄い。何か信心してるの?」
「それだけ語っても、特定の宗教に入っているわけじゃない。無宗教だけど神を信じてる。アインシュタインみたいな大いなる存在の概念でもない。」直樹がちょっと謎かけ気味に言う。多分直樹の悪い癖である。話が長くなる。「奴さんは自分用の神を作ったんだ。ハンドメイド、DIY、日曜大工。」
「なるほどー。」智美は思わず椅子の背に持たれる。「それ良いかもね。」直樹の話ぐせは智美には気にならなかった。

智美は日曜学校のことを思い出す。そしてなぜか急にそうして過ごしたことに意味があったように思えて、安心のような気分が湧いた。

「手作りなのであんまり出来はよくないらしいが。つまり既製品に比べて利便性は高くない。そもそも人と共有出来ないじゃん。」直樹はちょっと補足する。直樹の叔父は実際に人格という意味では大したことない。また、それとは別に智美の父親のことを否定したくないという気持ちになったのかもしれない。智美の父親といつか話す時も来るだろう。どういう人であってもいいと思った。その人がいて智美がいるのだから。

直樹はこんなに叔父について話すのは初めてだなとふと気付く。また、智美が感心しているのが自分ではなく、叔父であることに、かえって嬉しいと感じている自分を見つける。叔父は思っている以上に自分にとって大事な人なのかもしれないと考える。

「ねえ」智美が質問を思い付いたようだ。「キリスト教だと存在するものは全て神が作ったことになっていて、それで、人間のご先祖様が猿だったという進化論を認めないというコアな信者もいる。それはどうなるの?その人たちの考えは否定されちゃうの?」
「その話は面白いね。叔父貴から聞いたことはなかったな。こんど直接聞いてみなよ。」直樹は智美と叔父が話す光景を思い浮かべて、微笑ましいような気分になる。そうか。直樹は自分が好きになった人を叔父にも好きになって欲しいと思っているわけか、と思い至る。「僕の考えでは、その人たちの考えを変えるべき部分はそこじゃない、ってことだと思う。なるほど、科学はそうなのね。でも宗教としては違うんだ、ってそう言えれば良いってことじゃないかな。」
「そっか、そう考えることできそうね。なんか嬉しい。私、直樹説に一票。」智美が明るい表情で直樹を見る。
「そうだよね。トモちゃんの身近には小さい頃からキリスト教の空気があったんだもんね。宗教についてならトモちゃんの方が僕よりも叔父貴のいい話し相手だと思う。きっと得意になって話すはず。トモちゃんの話も一生懸命聞くと思う。」直樹はきっとそうだと思う。

智美の母親はキャリア・ウーマンである。
「母親とは仲が良いけど、父親は未だに苦手。」
弟が一人いる。今、高校生。
「陸上やってる。毎日走ってる。」

智美には自分の求める愛情を親から与えられなかった思いがある。愛が無かった訳ではない。分かってもらえなかったという類いの感情である。
「割と人の顔色を見て生きてきた気がする。お母さんと仲はいいけれど、宗教的なことはそういえば話したことがない。お母さんがそれを好まないのを知ってるし。」智美が思い出したように説明する。
「顔色見るってとこは、僕もある。僕には親の気持ちが予測不能だったし、親にとっても僕は理解不能の存在だったからね。今はいいけれど子供のときはちょっと辛かった。少しく大きくなってからは、こう言ったらどう思うだろう、って考えてたと思う。きっとお母さんが喜ぶことをしたかったんだよね。多分褒めて欲しくて。」つられたように直樹もいう。
「その気分、分かってくれると嬉しい。」智美は小さい共感を覚える。「根拠のない自信とか、よくわかんない。あれって愛された度なのかな。そういう人を羨ましく思ったこともある。別に普通には愛してくれて、それも分かっていたのだから、相性みたいなものなのかな。お互いに相手が解らないと愛も空回りするのかな。」

智美は高校の時はバレーボールをしていた。事故で亡くなった後輩はクラブの後輩である。二歳違いで何でも話す仲だった。それ以外の友達もいるが、違う親しさだった。

「玲子は、その子の名前ね、可愛い子だったよ。男の子から見てもそうだったよ。人気あった。可愛い顔して結構壮大なこと考えてた。」

「玲子は、人の社会のあるべきは何か、なんて真剣に考えてた。生徒会に立候補して高校を変えよう!と体育館で皆に演説してた。もっとも自由で色んな事を自分達で決めていこうって提案していた。落選しちゃったけどね。私は世の中を変えようとは思わないけど、玲子がそうするのはよく分かったの。二歳違うのだけど、年って関係ないって知ったよ。」

「だから玲子がいなくなったら、自分がよくわからなくなった。同じ事を考えているわけじゃないけど、お互いに相手が分かった。玲子といると自分のことが良くわかる気がした。玲子がいなくなったら自分の半身が無くなったみたいに感じた。例えじゃなくて、本当に身体が痛くなった。」智美が言う。
「そんな喪失は経験したことがない。深刻なんだろうな。」直樹が想像出来ない自分を悔やむように言う。「僕の、叔父きの、哲学は、玲子さんやトモちゃんを救えてるのかな。」
「きっと救えてる。自分でもっと考えないといけないけど、今日話が聞けてスゴく良かった。」智美は少ししみじみと下を向いていい、急に直樹に向き直る。「あー、玲子にナオちゃん紹介したかった。話しさせたかったなあ。」

智美は学問をしようとは思っていなかった。といって就職のことを真剣に考えているわけでもない。とりあえず母親のようにビジネスの中に入るのだろうと想像していた。
「夢をもってその実現のために頑張るのが正しい姿とか言われると困る。それらしいもの持ってないから。」智美が思いついたことを言う。
「夢は必ず実現する、というのはありえないし。その理論、破綻してると思う。」直樹が同意する。
「食べるのに困らなくて、好きな服買ったり、ときどき旅行に行けるぐらいで結構満足できると思う。」
「達観してるんだな。」
「皆とあんまり違わなければいいんじゃないかと思う。ナオは将来のこと考えてる?」
「僕も夢みたいなのはないな。研究者にはならなさそうだし。まだわからないや。こんなこと言ってる場合ではなくなりつつあるんだけど。」直樹がそうするつもりなら就職活動をするべき時期である。

智美が国文学を専攻しようと思ったのは、枕草紙への興味だった。その時代の女性の感じていたことに興味があった。現代ほど女性的ではなくて面白いと思った。といって深く研究したいわけではない。
「もう少し知りたい、程度かな。」
「春はあけぼの、だね?僕は古文は全然だめだったなあ。やってみてどうだった?」
「それなりに収穫はあったよ。」智美が答える。そのままその収穫について話し始めようかとも思った。しかし今はその時ではないと感じた。直樹も「分かった」という顔をしてそのまま黙った。収穫について興味が無かった訳ではない。それが最適のときにその話になるのだろうと思った。

また沈黙があった。二人がそれぞれの物思いをする。

夜の虫の声が大きくなった。虫は冬を卵で過ごし、初夏に孵化し、草を食べ、脱皮を繰り返して、成虫になった今、恋の相手を求めて、その種固有の歌を夜通し歌うのだ。そして交尾をして悔いなく息絶えるのだ。そしてその生に特化した同じ身体をした子供達が来年もまた同じことを繰り返す。そして来年のその時の環境において、また、もっとも強運だったものが産卵までに成功する。生きて死ぬサイクルが繰り返される。生きているということは死ぬということ、それを人間よりも短い期間で繰り返す彼ら。我々脊椎動物とまるで異なる節足動物のメカニズムをもって。もし全ての生き物が死に絶えて一人だけ生き延びてしまった時に彼に会ったのならとてもいとおしいだろう。同じ生き物である。最後の時に人間はその虫を救おうとするのではないだろうか。枕草紙に昆虫はどれだけ登場しただろうか。その時代の人は私たち現代人よりも遥かに自然現象に詳しかっただろう。その頃から私たちは何を失ったのか。代わりに何を手に入れたのか。

バッタ類の少しとぼけた顔つき。複眼の硝子器のような奥行きのある光沢。二本の触覚をゆっくりと振り回して周りを探っている。
1-5 NAOKIS HOUSE

ガルガーレラ

1.ENCOUNTER

1-5 NAOKI'S HOUSE



「私は一度死んだことがあるの。でも、安心して、ゾンビじゃないから。」智美が不思議なことを真顔で言う。

「?」直樹には意味が分からない。

「ウルトラマン知ってる?」智美はまだ真顔だ。

「知ってるよ。叔父きのDVDを子供の時に観た。」それが何なのかまだ直樹にはわからない。

「あれ、実話かもよ。少なくともその始まりのとこ。信じてくれるかな。」直樹に変な始め方をして申し訳ないなと思いながら、智美が訊く。

「トモちゃんが普通じゃないのはこの目で見たよ。気持ちは落ち着いた。冷静に聞くよ。どんな話でも信じられると思う。」直樹が促す。

「ウルトラマンの第一話。ハヤタ隊員が任務中に宇宙から来たウルトラマンと衝突して死んでしまう。その失敗を償うためにウルトラマンはハヤタと融合し、ともに地球を守るために戦うことにした。」智美はウルトラマンのコンセプトを要約する。

「それ、覚えてる。」直樹はそれに意味があるのだろうと思うが、まだ推論できない。


智美の話はこうだった。


今年の春、智美は一度死んだ。宇宙から飛来した物体と衝突し、分解され消滅してしまったのだ。物体は人工生命である。人工生命はその失策を償うために智美の体を再生した。衝突寸前にスキャンした智美のデータをもとに、元素から智美の体を全部組み立て直したのだ。


その昔、銀河のどこかに、人工生命を作った生命があった。その種族はすでに滅んでいた。人工生命だけが生き残った。人工生命の体の組成は地球の生命とは違う。タンパク質ではない。高温・高圧に耐える高分子からできている。人工生命はその創造種族の銀河最高の高度な文明を引き継いだ。

その人工生命は進化することさえできる。さまざまなバリエーションを生みながら増殖した。ますます強靭になり、銀河全体に拡散して繁栄している。

人工生命の唯一の問題は「存在の意味」である。彼らは何のために存在するのか。意味に悩み自死する個体が増えている。あらゆる外力に耐える能力を獲得した彼らが、心の問題で滅びる可能性が出てきた。生きることに必死な時、人は生きる意味に悩んだりしない。生きることにゆとりが生じた時に、自分が何のために存在するのか、悩み出す。悩んだ末に答えが見つからず絶望して自死を選んだりするのだ。彼らはその謎を解くために命ある星をめぐり、意味を探っていた。地球に来たのもそのためだ。

人工生命の個体は極めてコンパクトだ。智美の指輪の宝石がそれだ。

トラックに轢かれて無傷なのも、重い車体を持ち上げる強い力も、人工生命の能力である。

智美は人工生命と約束をした。人工生命が彼女の体を維持する代わりに、智美は存在の意味の探索に協力する。


「私ね、実はその場所で、自殺するところだったの。後輩の事故死の話をしたよね。後追いってわけでもないんだけど生きていたくなかった。だから衝突がなくても死んでるはずだった。人口生命は体の再生もしたけど、私を説得もしなければならなかったの。私が生きる気になるのに少し時間が必要だった。そのあとも、私も環境を変えたりしたくて、ごたごたしてた。意欲満々で生きたいと思えたわけじゃなかったけど、やっと今日大学に行けたのね。」直美が一通りの説明を終えた。


直樹は、智美の死と再生、人工生命の存在、話のつじつまを理解した。すでに、ありうべからざる智美の能力を見た後では、それを信じるしかないと思った。


直樹は、人工生命に興味を持った。現代科学の知見からすれば、理論的に人工生命を否定できないし、その存在を予言可能だ。それがどのような存在であるかははっきりさせられないが、存在してもおかしくないと考えられるのだ。その実在がこの話の真偽のポイントでもある。

「人工生命には心があるんだね。」

直樹の持つ人工生命の想像を智美の人工生命の実像と一致させるために、直樹は質問した。

「そう、それは私たちと同じ。」智美が答える。

「人工生命には優しさや愛もあるの?」直樹は、重要な心の働きの有無を問う。

「それも私たちと同じ。私の死に対して恐縮するし、私の自殺のことで本当に親身に心配してくれた。人間よりも優しいかもしれない。」智美が答える。

直樹は自分の想像とあまり異ならないことを確認できた。心があり、集団で相互に依存し合うことで繁栄するためには、優しさや愛が必要になると思っていたのだ。


「人工生命とは話せるの?」直樹は、智美の話の中で説明のなかったコミュニケーション手段について知りたいと思った。

「うん。思考がダイレクトにつながる。私は彼をハルって呼んでる。」智美が答え、さらに、人工生命が個の単位を持っているらしいことを示唆する。

「ハルは僕と話すこともできる?」直樹はそうできることを期待している。

「ハル?やれる?」と智美が指輪に話しかける。智美は思考で直接コミュニケーションできても、どうも実感がわかないので、周りに人がいないときは、そうしている。

「ハジメマシテ。ハルデス。」実直な執事のような声がヴォコーダーを通して歪んだ感じの音声になって、直樹の耳の中で聞こえた。ハルが何らかの方法で語りかけたのだ。

「あ、ハル、直樹です。初めまして。」驚きながらも直樹がかろうじて答えた。とりあえず、智美にならって指輪に向かって。

「コチラコソ。ナオキサン。」礼儀正しい声だった。

「え~と、とりあえず、トモちゃんのこと、いろいろありがとう。それから君がハルなら、僕はナオでいいよ。」人工生命への興味は尽きなかったが、この場は、まず、お礼だろうと直樹は思った。

「ドウイタシマシテ。イツマイプレジャ、デスヨ、ナオ。」ハルはイギリス風のどういたしましてを言った。なかなかデモンストレーションしてくれるじゃないかと直樹は感嘆した。これから、楽しみだ。


「ふう。」直樹がため息をつく。「いろいろわかった。だからトモちゃんは今日、あそこにいて、あの質問をした。そういうことだ。そしてトモちゃんには無敵の守護神が付いている。」智美と人工生命のハル、今日は凄すぎる日だ。智美の語ったことを完全に受け入れることとし、理解をまとめた。


「驚かせちゃってごめんね。でも、ここで話すつもりだったから、かえってトラックの事故はよかったかも知れないね。こういうのなんていう?不幸中の幸い?」智美は直樹が短い時間で把握してくれたことをありがたく思った。智美の分の礼まで人工生命にやってのけた。ハルも直樹に友好的な感じになっている。なかな直樹は大したもんだと思った。

「わからん、少なくともそれは違うと思う。」直樹は、智美が国文学専攻だというのを思い出したが、次の疑問が湧いたので、突っ込むのは後にしようと思った。


「あ、じゃあさ、ホワイトベアの話もハルは聞いてたね?どうだった?ハルの知りたい存在の意味は成り立ってた?」直樹は人工生命の関心事に自分が役立ったのかどうか、知りたくなっのだ。

「ハイ。タイヘン興味深カッタデス。我々ノ初めて聞く証明でした。正解ではナイカと思います。仲間に伝えようと思います。」ハルの声がだんだん普通の音に変わってくる。すごい制御、と直樹が思う。

「それは良かった。」と直樹。叔父の証明が全宇宙的に認められた。叔父も喜ぶだろう。叔父は人工生命を滅亡から救った救世主になるわけだ。


「御二人はこれからもっと話されますな?私はしばらくこの状況から切断して、仲間と通信しています。用があったら呼んでください。」とハル。

「気配りしてくれるんだ。感謝するよ、ハル。それから、敬語やめてくれる?タメで話したいな。声も変えられる?」確かに直樹は今日は智美と話していたい。ハル達は心を持っている。直樹はこれからのハルとの付き合いが楽しみになった。

「オッケー!これでいいか?」すっかり若者の声でハルが言った。

「いい、いい!その調子。じゃあ、ハル、またあとでな。」直樹は流石だと思った。

「うん、いろいろサンキュ。」とハル。

「そりゃこっちのセリフだ。」と直樹。

「多分お互い様だぜ。じゃな。」とハル。すでにハルは地球について、人間について、観測して、膨大なライブラリーを築いていることが想像できた。ハル達が人類と敵対する可能性が無いことをすでに確信したが、もしもそうなったら、人類の完敗だろうなと直樹は思った。

1-4 AN ACCIDENT

ガルガーレラ

1.ENCOUNTER

1-4 AN ACCIDENT



二人は並んで歩く。来た時よりも二人の間隔が縮まっている。腕同士が時々ぶつかる。ノーベル賞を受賞した物理学者の名前の付いた建物の横を通り、理学部の建物の隙間を抜けて、坂を下って大通りに出る。そこから池の名前のついた信号のある交差点までちょっと上るとあとはずっと北に向かって下り坂だ。この時間になると通りの車の数も多い。


直樹は自分の話をしている。直樹は学者の家庭で育った。小さい頃は虫が好きだった。メカや理科が好きだった。小学生のときからコンピューター・プログラミングで遊んでいた。人工知能のプログラムを作ってコンテストで優勝したことがある。高校のとき叔父の家に世話になった。高校では天文部にいた。直樹の叔父がこの大学のやはり物理学教室を出ていて、その勧めで入学した。先端の研究をすることも悪くないが、必ずしもそれを目指しているわけではない。最も根本的な世界の成り立ちの理論をちゃんと知っておきたい。理科系の視点で世界とは何かを知りたいのである。その一方で叔父の与えた哲学の課題も解きたいと思っている。証明は理解した。次は哲学の教養を身につけて内容を深めたいと思っている。


道の左側に古本屋がある。直樹がよく行く店だ。二日前にも古い小説をここで買った。


教養部1,2年のときにいくつか哲学、思想の講義に出てみたが、あまりピンとこなかった。この春に着任した教授が哲学入門を教養部で開講すると聞き、単位とは関係なく聴講することにした。面白いので引き続き出席している。ギリシャはもちろん東洋にも歴史上たくさんの哲学があるが、叔父の証明に相当するものは無いようだった。講義とは別に、進化論のほか、遺伝子学、生化学、脳科学、心理学、などの本も読んだ。心が物の動きであることは直樹にとっては自明に近い知識になっている。

絵を見ることや音楽を聴くのも好きだ。ジャンルで興味を持つのではない。ジャンルに関わらずそこに好きなものがあればそれでよしとしている。


智美は時々質問しながら、直樹が今、どのようにしてここにいるのかを理解していった。


坂を下りきると東西の大通りとぶつかる。雑踏が始まっていた。陽が傾くのを待っていた人達でスーパーの周りが賑わい始めていた。二人は交差点で信号を待った。そのとき赤信号に変わった直後の横断歩道に男の子が横断歩道に飛び出した。危ない!と二人が思った時、右折のトラックが子供をよけようと激しいタイヤのきしみ音をたてた。がれきを満載した車体がコントロールを失って傾きながら二人に向かってくる。智美が直樹を突き飛ばす。更に智美は走って男の子を突き飛ばす。トラックは歩道に乗り上げ建物にぶつかって止まった。


直樹は無事だ。智美の姿を探すが見当たらない。そしてトラックの下を見たとき直樹の心臓が凍った。車体の下に人間の腕が見えた。まさかと思って走り寄る。その指にあの指輪がある。事態は明白だ。直樹はあまりのことに呆然自失の寸前である。男の子は幸い無傷だった。母親が抱きとめた。人が集まってくる。誰かが救急車を呼べと叫ぶ。誰かが携帯で写真を撮っている。直樹は智美の名を呼ぶ。そして自分も車体の下に入ろうと近づいて身をかがめた。そのとき智美の指が動いた。そしてその腕は力を取り戻し、驚いたことにトラックの車体を少し持ち上げた。智美は自分の体を引き出し、すっくと立った。何も言えない直樹に向ってちょっとバツが悪そうに笑ってから言った。


「面倒になるから行きましょ!」智美は直樹の手をとって走り出した。


直樹は状況が飲み込めぬまま智美について行くしかなかった。智美は軽快に走る。しばらく走ってから、通りを外れた人通りの少ない所に来て、智美が立ち止まる。

「もう、大丈夫かな?」智美があたりを見回してから、直樹に振り返って言葉を発した。
「大丈夫って!」直樹が息切れしながら、わめくように当然の質問をした。「トモちゃんは、なんともないのか?」
「見ての通りよ!大丈夫。心配しないで。」智美を見ると不思議なことに服さえ汚れていない。


「わけわかんないよね。」智美が言う。「あとでちゃんと説明する。とにかくナオちゃんの家に行こう!」


その場所から直樹の家は遠くなかった。住宅街の外れの坂道を上ると一軒の古い西洋風の小さい家があった。直樹の借りている家である。白いペンキの塗られた板壁が夕日のオレンジに染まっている。青く塗られた窓枠に嵌ったガラスが太陽の光を反射している。家の前には白い自動車がある。1970型のBMW 3.0CSiだ。直樹が叔父から譲られた車である。ロングノーズから立ち上がるショートデッキのルーフライン。そのクーペの気品ある姿を直樹は貴婦人のようだと思って気に入っていた。しかし、今の直樹にそんな解説をする気持のゆとりはない。家に入ると智美が言う。

「のど渇いた。なんかある?」

「ビールなら。」と直樹。

「それで。」と智美。

直樹は冷蔵庫から缶ビールを取り出す。一本を智美に手渡し、自分も栓を開ける。二人は無言でごくごくと飲む。確かに直樹も喉が渇いていた。智美が一気に飲み干し、プハ系のため息をついた。そして言った。


「ごめん、お腹も空いちゃった。こんなときに悪いけど、食べるものはある?」

直樹は、もともとそのつもりだった。同意する。何か作った方が気持ちが落ち着くとも思った。

「パスタでいい?明太子のならすぐできる。」直樹が一応聞く。

「ありがとう。嬉しい。」智美は本当に空腹だった。

「そこに座ってて。」直樹は食卓の横の椅子を指さす。


直樹は鍋を出し、水を入れ、火にかける。湯が沸く間に材料を棚や冷蔵庫から出す。麺がゆであがると、フライパンでオリーブ油で軽く炒めて明太子と混ぜる。最後に刻んだ海苔と大葉を載せる。頭の中は空白だったが、体が勝手に動き、少し気持ちが落ち着いてくる。

「できたよ。」直樹が智美に話しかける。

「ありがと。」智美が嬉しそうな顔になる。

直樹は待つしかない。二人は無言でもぐもぐとパスタを食べた。智美はあっという間に平らげ、直樹は半分残した。

「おいしい!それももらっていい?」智美は食欲を示した。

「いいけど。」直樹はぼんやり言った。

食事中の会話はそれだけだった。


「御馳走様でした。おいしかった。ナオちゃん、料理うまいのね。」智美はそういって食器を流しに下げ、蛇口からコップに水を汲んで飲み干して帰ってきた。

「待たせてごめん、話すね。」智美が深呼吸してから言った。

「うん。」

「どうしてトラックに轢かれても平気だったか。どうして重たいトラックを持ち上げるような力があるのか。全くの無傷なのか。だよね。」智美が話の導入部に立った。