孫皓伝~其の肆~ | EA三国志2005

孫皓伝~其の肆~

269年十一月、先に述べたように陸凱が死去する。すると孫皓は荊州から陸路で、建安から海路を取らせ合浦で終結して交趾に攻撃をかけようとさせたが、建安経由の軍は李勖に率いていたのであるが、道程が難渋したことから、李勖は道案内にあたった馮斐を殺し、軍を帰還させる。すると、孫皓に取り入っていた何定が李勖はみだりに馮斐を殺害し軍を勝手に引き返したと上言をすると李勖の一家眷族は全て誅殺されたと書かれている。


さて、この何定であるが、元々は孫皓の給史で孫皓に取り入り出世をするのであるが、彼は悪政の引き金になる。江表伝には何定が李勖の讒言をしたのは、過去に何定が自分の息子を李勖の娘の嫁にしたいと持ちかけそれを断られた恨みからと書かれている。しかし、何定にそういう目的があろうとも一度失敗した過ちを経て国を挙げて交趾反乱の征伐に行った軍が引き返してきているのであるから李勖の責任は大きいし一家眷族の処罰は行き過ぎた行為であったとしても、李勖自身が孫皓の怒りをかって処罰されたとしても仕方がない事であろう。


何定は同年、兵士5千人を率いて長江を遡り夏口で狩りを行ったと書かれている。これに敏感に反応したのが夏口都督の孫秀で彼はその時、命の危機を感じて妻子や子飼いの兵士たちを連れて晋に亡命する。というのも、孫皓は血の繋がり近く夏口の兵権を握っている孫秀に不安を感じており、孫秀もそのことに薄々気づいていたとされている。つまり、孫秀は狩りの目的で5千人もの兵を率いた何定は自分の命を狙っている可能性があると思い亡命を決意するのである。


しかし、非常に謎である・・・・。孫秀は孫匡の孫にあたり孫家の中でも優秀な人物である。それが故に孫皓が不安に感じる部分があるのは分かるが、何定が5千人の兵を率いたぐらいでそれに恐れて亡命をするだろうか?彼は夏口の兵権を握っており何定がいきなり攻めてこようとも、それを撥ね退けるぐらいの実力はいくらでも持っているだろうし、意味もなく孫皓が攻めたとなれば呉の国力は更に弱まり孫皓は臣下より相当な批判を受ける。


もちろん、孫秀が万が一に備え自分の家族に被害を出さないための最善の方策として晋へ亡命したことも考えられるが、これは孫皓と孫秀の間で仕組まれたシナリオでは無いだろうか?孫皓は同じ孫家の人間で最も有能なる者は孫秀と理解していた。既に国力が衰えた呉はもし晋に降服するようなことがあれば、孫皓は処罰される可能性が高い。最悪の場合、他の孫家の人間も流罪等の処罰にあうであろう。それであれば、優秀な孫秀をこの時点で晋に亡命させる。そうすれば、晋は喜んで彼を迎え入れるであろうし孫家の人間が後世にもそれなりの地位でその血を残せることができる。


これはあくまでも孫皓という人物を良く考えた場合にこじつけた理由であるが、可能性が無いことは無い。なぜなら、孫秀の亡命はどう考えても自然ではないような気がする。


翌年の正月、孫皓は多くの人数を引連れて建業の西にある華里まで進む。実は孫皓伝を書くにあたって、この行為をどう解釈すれば良いのかが一番難しいところであった。というのも、どう考えてもこれは無意味な行動である。この件に関して書かれている江表伝の内容を見ると、文章の節々に孫皓の事を悪く思わせるような意図を感じられる。とは言え、孫皓の真意が分らないので正当化する説明も出来ない。


取りあえず江表伝に書かれていることを説明すると丹楊の刁玄は呉の人を誑かせようと使者として蜀に赴いたときに手に入れた司馬徽と劉ヨクの議論を勝手に解釈して天下を手に入れる荊州・揚州の王が東南に現れると言われ、寿春の城下では呉の天子が現れるという流行り歌がうたわれていると説明すると、孫皓はこれぞ天命だ!と喜び母親、妻子、後宮の女性等、多数を引連れて牛渚から陸路を取って西に向かう。しかし進むうちに大雪に会い、寒さのために半死半生で怒り狂い口々に敵に遭遇したら敵と一緒になって呉に刃を向けるのだと言い始めると恐れた孫皓はやむをえず都に戻ったと書かれている。


まず、この江表伝で怪しいのは刁玄が呉の人を誑かせようとしているということである。刁玄はその人格から孫登の賓客に任ぜられ、その後には孫亮の側近にもなっている。そんな人物がこんな行動をとるだろうか?更に、大雪に会い半死半生の兵士たちが露骨に不満を表し呉に刃を向けると言ったと書かれているが、恐れ多くも帝の前でそんな台詞を言えるだろうか?それに、大雪で寒いのは孫皓とて同じで彼が乗っている車に現代の車のように暖房がついているわけでもなんでもない。普通に考えてこの江表伝に書かれていることはおかしいのである。


更に江表伝には孫皓が華里まで行った際、万彧は丁奉や留平と内密に万が一、今、都を留守にするのはまずい。万が一のときは我々でも都に戻らなければならないと相談するとそれが孫皓に伝わる。それを快く思わなかった孫皓は毒酒を用意して万彧と留平を殺害しようとする。結局、二人ともそれに気づき死ぬことはなかったが憤りの余り、万彧は自殺し留平も一か月あまりで死ぬことになる。


この二つの江表伝を読めば、孫皓は勝手に踊らされて華里まで行き兵士の不満を聞き怯えて帰る。その後、万彧や留平の件を聞き、あいつらが兵士を焚きつけやがった!というこで毒を盛ったということであろうか?丁奉も殺害したかったが、彼の軍事力は怖くて手を出せなかったということだろうか?だが、どう読んでも孫皓を悪く仕立てようとしている悪意が感じてならない。正史三国志では万彧は譴責を受けてその翌年に憂死していると書かれているが、留平に関しては何も書かれていない。留平も征西将軍であり毒を盛られるようなことがあれば、亡命するなり、反乱をおこすなり、それなりの行動を起こしても良いものだと思われるのだが事実は分からない。


因みに何も書かれていない丁奉であるが、彼はこの年に死去する。彼がいつ生まれたかは定かではないが甘寧の下でも活躍したことを考え、赤壁の戦いにも参加したと想定するなら恐らく80近い年齢だったのではないだろうか?つまり彼は寿命で死んだと考えるのが普通であるが、彼は陸凱と共にクーデターを起こそうとしていた人物である。この華里の行動は実は彼が標的だったのでは無いだろうか?


一方の万彧であるが、彼が譴責を受けて死んだのが翌年で、その年に先に述べた何定も悪事が発覚して誅殺されている。陸凱死後の政治の筆頭は万彧であり、万彧は何定の件で譴責を受けて死んだのでは無いだろうか?

さて、話は戻るが華里御行が行われた年に呉は交州に攻め込む。激戦の末に何とか交州を取り戻し後方の憂いを取り除いた呉ではあるが、翌年、西陵の歩闡を都に呼び戻そうとしたが、これに対し歩闡は中央に呼び戻されて兵を奪われることを恐れ晋への投降を決意し叛旗を翻す。この反乱は呉にとっては絶体絶命の事態であったが、呉最後の軍神である陸抗の活躍により晋軍を退け反乱を鎮静化させることに成功する。


少し気になる部分があるが、実はこの歩闡の乱より4年後の276年、孫皓の親族である孫楷が晋に投降をしている。これは建業で施但が反乱をおこしたとき、彼は讒言により孫謙と孫皓に二股をかけたとされ孫皓より難詰をされていたが、276年に都に呼ばれた際に命の危機を感じて晋に亡命している。気になるのは歩闡の場合もそうであるが彼は都に呼ばれた為に反旗を翻している。実は万彧も中央から離れて巴丘の守備についていたことがあり、彼は中央に戻ってから譴責されて死んでいると言っても良い。都に戻る=死。これは偶然だろうか?


さて、歩闡の乱以降、呉は大きな軍事行動を取っていない。あるのは、277年に孫慎が汝南に攻め込み略奪をして帰還しているのと、279年の郭馬が反乱をおこしたときの鎮圧ぐらいである。それ以外、孫皓伝では孫皓の暴虐性のみが書かれている。


273年、陳声というものが孫皓の妾の讒言にあい首をのこぎりで切られその死体を四望山のふもとに棄てられる。274年、孫奮が天使になるのではないかという噂が流れると、孫奮の一族は誅殺され、その噂にかかわった人間も処罰される。276年、車俊と張詠が所得税を上納してないことで斬首。277年、張淑の悪事が暴露すると車裂きの刑にする。


陳声の場合は妾の讒言であるが、他の者は理由だけを見ると処罰されても仕方がないように思われる。ただ、車俊と張詠の場合は江表伝には彼らは税に苦しんでいる民の行動のためと書かれている。しかし、江表伝の場合、あまりにも孫皓を酷評している部分があるので怪しい部分が多い。いずれにしても、処罰の仕方があまりにも酷かったのでは無いだろうか?それが孫皓の人物像を悪くさせているのでは無いだろうか?


さて、265年に建国した晋ではあるが、15年後の280年にようやく本格的に呉に侵攻する。15年も晋から侵攻されなかったというのは呉としても運があったのだろうが、晋としては国内の情勢を落ち着かせるのに時間がかかったのもあるだろうし、呉という国が長江に守られた険阻な場所であることも理由にあるだろう。特に272年に歩闡が反旗を翻したときは晋にとっては呉攻略の最大の機会であったが、これを陸抗が完璧に退けているのは、陸抗自身の才能も当然ながら呉が要害の地であったためでもある。


280年、晋は一挙に6方面から呉に侵攻してくる。長江方面から侵入してくる敵に対して呉はそれなりに対峙ができたのであるが、全く防ぎ切れなかったのが蜀方面から長江を下ってくる晋軍に対してであった。西方面から攻め込まれた呉は晋の侵攻を防ぎ切れずに一気に壊滅する。その中で武昌を守っていた陶濬は建業に戻り、二万の兵と大船があれば蜀軍をまだ撃破できると献策をするが、その夜、全ての兵は逃亡してしまった為に孫皓は晋への降服を決意した。


280年2月15日、晋の王濬が先頭をきって建業まで軍を進めてくる。孫皓は自らを縛り、そして自分の棺を側に置いて降服の意を示した。彼は自分の死をもって乱世を終わらせる覚悟をしたといえる。しかし、孫皓は結局、処罰されることなく帰命侯の号を賜り、その4年後に洛陽で死去する。孫皓の降服により、魏、蜀、呉は歴史から消えた。


孫皓は降服する際に群臣たちに謝罪の手紙を書いている。その内容はこのような事態になったのは全て自分が間違った政治を行ったからであり、全ては自分の責任であり、群臣達には晋への出仕を拒むことなく自らの志を伸ばして欲しいというものである。自らを縄で縛り、死を覚悟し、群臣達に謝罪の手紙を書いていることから孫皓はただの暴君・暗君ではないのではないだろうか?という説があるが、その事実は現在の我々には分らない。