孫皓伝~其の参~ | EA三国志2005

孫皓伝~其の参~

西への侵攻案が流れた年の十月に前の首都であった建業で事件が起きる。永安の山賊である施但が数千人の徒党を集め、孫皓の異母弟である永安侯の孫謙を脅迫して自分らの首領として担ぎ出し孫皓の代わりに皇帝に立てようと反乱を起こす。彼らは鳥程まで進むと孫和の墓陵にあった財産を奪っていった。父親に対する異常な愛情を見せていた孫皓にとっては一大事であったと考えられるが、この反乱軍は建業に着くころまでには一万人までに膨れ上がっていた。


しかし、この反乱軍は丁固、諸葛靚によって鎮圧される。反乱軍は敗北が濃厚になると散り散りに逃げだし、頭領として担ぎ出した孫謙も見捨てられてしまう。孫謙は一人、ぽつんと馬車に残っていたと書かれているが、恐らく訳の分らない内に脅されて担ぎ出され、最期は見捨てられてしまった哀れな人物である。当然、彼は後に孫皓に毒殺されてしまう・・・・。


いずれにしても、建業で起こった反乱は結局、孫皓が武昌に遷都したことが原因になってしまう。もちろん、この場所は長いこと首都であり治安も安定した場所であったと思われるので孫皓にとっても計算外の反乱であっただろう。晋に対して建業の安定は地理的にも必須であり、武昌にいても晋への侵攻が望めないとなれば孫皓の建業への再度の遷都もやむを得ない。だが、これは民衆に取っては更に負担がかかることになり、武昌への遷都を反対していた陸凱にとっても、それみたことかという結果になってしまう。


正に孫皓に取ってみれば悪い状況が続き立場を悪くするだけである。これらの背景は孫皓の政治・軍事に対するモチベーションを激しく下げたのでは無いだろうか?そして、彼は行き場のない気持ちを抱えて更に暴虐になってしまったのではないだろうか?


遷都の二つ目の理由である建業での反乱のあぶり出しであるが、漢晋春秋には孫皓は荊州には王者の気があり揚州の気を圧倒しているが故に建業では物事が順調に運ばないと言われる。そこで孫皓は武昌に遷都をし、荊州の貴族、名家の墳墓や連なった丘陵を掘らせて王者の気を鎮めようとした。すると、先に述べたように施但が反乱を起こしたので、孫皓は遷都の計が見事に当たったと考え一気に反乱を鎮めたと書かれている。


恐らくこちらの理由は後付けと考えられる。やはり、対魏戦略で遷都を行ったものの結局は事がうまく運ばず、それを表立たせないために反乱の事実を上手く使い、いかにも孫皓の読み通りであったように書かれているだけであろう。というのも、漢晋春秋には“宣伝していうには、天子が荊州の兵を派遣して揚州の賊を打ち破り、これまでの気を鎮めた”と書かれている。再度、遷都するのは実はこういう理由があったと言わなければ孫皓も顔が立たなかったのであろう。


さて、孫皓と陸凱の関係に注目をしたい。先に述べたように人材の少なくなった呉では陸凱に代わる有能な人物はいない。また陸氏は呉の四姓と言われるほどの有力豪族であるが故、人望もあり孫皓としては逆らえない人物である。ここでの関係がしっくりと行けばいいのだが、どちらが正しいかは別として明らかに二人の考え方は違う。本来なら陸凱はそこで孫皓を上手く洗脳するなり、譲るところは譲るなりして孫皓との関係を良好なものにしなければ呉の命運は短くなるだけである。


だが、残念ながら陸凱の人物像を考えると兎に角、孫皓を諫めていただけである。理由としては陸凱が自分の信念を変えない頑固な人間であったか、陸氏の立場は呉では相当なものであったか、陸遜が孫権から受けた仕打ちなどから陸氏が孫家から一線を引くようになったことなどが考えられる。陸遜がいなくなったものの軍権を持つ陸氏の勢力は相当なものであり、その上、何となく孫家とは関係がぎくしゃくしており、孫皓としては皇帝であるものの彼に逆らえることはできずに欝憤が募る一方だけであったのではないだろうか?


陸凱伝には更に驚くべきことが書かれている。それは、陸凱が266年12月、即ち彼が左丞相に就任し、孫皓が再び建業に遷都をした年であるが、陸凱は丁奉、丁固らと謀り孫皓を捕えて彼を廃しようとしていたと書かれている。この件に関して陳寿は“次のような事件があったという者もある”と言っており、つまり真実は分からないと前置きしている。これが事実だとしたら陸凱はクーデターを起こそうとしていたことになる。


この孫皓クーデター未遂事件には二つの記述がある。まずは陸凱伝であるが、陸凱伝によると左将軍であった留平が兵を率いて儀仗の先導の任務に当たっていたことから、留平に孫皓捕縛の話を持ちかけた。しかし、留平はこれを拒絶し同時にこの話に関しては人には漏らさないと誓った為に計画は実行されなかったと書かれている。


もう一つは呉録に孫皓が宗廟に参詣するときに護衛をつけるので、その護衛を丁奉に任命して計画を実行しようとした。しかし、孫皓はこの人選が気に入らなかった為に留平が任命される。留平は平素から仲が悪く、陸凱の息子である陸禕がこの計画の話を持ちかけようとした際に留平が丁奉の軍営に野豚が入り込みこれは不吉なことが起きる前兆であると喜んでいたために、留平にこの謀を持ちかけるのは難しいと判断し計画は立ち消えになったと書かれている。


実際に陸凱がクーデターを起こそうとしていたかどうか真実は定かではない。しかし、陸凱と孫皓の関係の悪さは間違いないであろう。もし、呉が衰退していく状況で陸凱がクーデターを仮に起こしていれば彼は孫綝のように不忠、専横の臣として、汚名を後世に残すことになったであろう。どんな理由があろうとも賢臣は決してクーデターを起こすものではないと私は考える。仮にこの陸凱のクーデター未遂事件が真実であれば、陸凱という人物が果たして有能であったかどうか疑問に思えてくるうえに、呉に人材は全くいなかったと言えるであろう。


陸凱伝には孫皓の性格についても書かれている。それは、孫皓はその性格から他人が自分を見つめるのを好まず、群臣たちは誰も真正面から孫皓を見返すものがいなかった。しかし、陸凱はそれを諌めると孫皓は、陸凱は自分のほうを見ることは許したと書かれている。こういう記述からも陸凱と孫皓の立場が想像できるかと思う。


くどいようであるが、もう一点、陸凱と孫皓の関係で気になるのが陸凱の弟である陸胤に存在である。陸胤は二宮の変が発生して、孫皓の父親である孫和が廃嫡されかかった際に陸遜に諫止の上表を依頼している。そして彼は孫和と繋がりがあったために厳しい取り調べを受けるが最後まで孫和をかばっている。最初に書いたように孫皓の父親に対する愛情は異常である。そんな背景も孫皓と陸凱の関係に影響があるのではないだろうか?


さて、話を建業遷都以降に戻す。建業に遷都した孫皓はその翌年267年の春に大赦を行うと顕明宮を建てる。この顕明宮であるが、大きさは孫権が建てた太初宮の2倍弱で1.2キロ四方と書かれているので相当大きなものである。江表伝には顕明宮を建てるための出費は巨大な額にのぼり、陸凱らが必死で諌めたが孫皓は聴かなかったと書かれている。確かにこれは浪費である。決して褒められる行動ではない。


何となくであるが、武昌の遷都でやることが裏目に出た孫皓はこの頃には半分きれ気味だったのではないだろうか?もしくは後ほど出てくるが、何定という愚臣が実は欝憤、落胆していた孫皓の心の隙間に付け入ったのがこの頃では無いかと私は予想している。いずれにしても、呉の国力を考えると顕明宮の建設は客観的に見ても無意味である。


顕明宮を建てた翌年、孫皓は東関に出陣し、丁奉は合肥まで軍を進める。この戦果は全く意味のないものになってしまうが、今まで陸凱に抑えられてきた気持ちを堪え切れずに出陣したというところではないだろうか?というのも翌年、その陸凱が死去していることを考えれば陸凱はその頃に体調を崩していたことも考えられる。


更に同年、孫皓は反乱の起きていた交趾に兵を向けさせるが逆に大敗してしまう。これは孫皓にとってもショックであったと思われる。まず、交趾の反乱であるがこれは263年に起きている。つまり呉はこの反乱を5年間も放っていたことになる。そして、交趾の反乱は呉にとっては一部の地域の反乱にも関わらず散々に打ち破られている。この戦果はいかに呉が弱体化しているかの表れであろう。