孫皓伝~其の壱~ | EA三国志2005

孫皓伝~其の壱~

39回目の呉将紹介である。かなり久しぶりです・・・。



今回、紹介する呉将は呉の最後の皇帝となった孫皓である。大和三国志では諸葛靚殿が元気の無い呉国を励まそうと愛着のあった名前を捨て、新たに孫皓の名前を選び皇帝として国を引っ張る決意をしてくれた。



しかし、この孫皓であるが三国志の世界においては暴君として知られているだけに善として書くのが非常に難しい。過去に悪女として名高い孫魯班を善の立場に置き換えて書いたことがあるが孫皓に関してはほぼ無理である。



出来るだけ孫皓を善の立場として書いていくつもりであるが、かなり強引な考察になることも多々あるかと思います。その点はご容赦ください。



孫皓、字は元宗である。



孫皓は孫権の孫で、孫権の三男となる孫和の息子である。孫和は孫魯班伝にも書いたように二宮の変に巻き込まれ失脚してしまった人物である。孫皓が生まれたのは242年で父親の孫和が皇太子の立場から失脚して庶人に身分を落とされ長沙に流されたのが250年であるので、8歳の時から孫皓は不遇な時を過ごすことになる。



更に、252年には孫皓より一歳若い孫亮が、孫権が死去したことにより呉国の皇帝となり、253年には父親の孫和は孫峻に脅され自殺をすることになる。幸いにも母である何姫は自分の息子の行く末を案じ孫和と共に自殺をすることは無かったが、孫皓の立場になって考えると悲劇の連続である。そして、この幼少の頃の悲しい体験が後の残虐な孫皓の人格に影響したのではないかという説も存在する。



さて、孫皓が長沙に流されている間、孫峻、孫綝らの専横政治により呉の内政は悪化を辿る一方で、更には魏への無謀な侵攻が行われ激しく国力が落ちる状態となる。孫権の後を継いだ孫亮も孫綝により、その身分を廃され、次の皇帝となった孫休は聡明な人物であったものの、学問に没頭するあまり濮陽興、張布らに勝手に政治を行わせることになり、やはり呉は衰退していくばかりであった。



一方の孫皓であるが、孫亮が廃され孫休が皇帝となると少しずつ運が上昇してくる。彼は孫休から鳥程侯に封じられる。つまり庶人からいきなり爵位を持つ身分へとなる。孫休が何故突然に孫皓に爵位を与えたか疑問であるが、孫休のお陰で孫皓は実は皇帝への道を歩み始めることになる。



更にこの頃、西湖の平民である景養というものが孫皓の人相を占うと、孫皓は必ず高貴な人物になると言い孫皓はこの占いを密かに喜んだが決して他言はしなかったと書かれている。平民に占い?と疑問を持つが、恐らくこれは孫皓伝の話を盛り上げる作り話では無いかと思う。



しかし大事なことは不遇であった孫皓の環境は大きく変わろうとしていたことである。それと、孫皓が決してこの占いの結果を他言しなかったということも大事なポイントであろう。孫亮のように失脚した後に天子になるという噂が流れ自殺を命じられたことを考えると、こういう慎重な態度も彼を皇帝に導いた要因の一つであろう。



また鳥程侯に封じられたことで、孫皓は当時の鳥程の令であった万彧と親交を持つことになるのであるが、この出会いは孫皓を皇帝にする最大のきっかけとなった。まさしく、鳥程の地は孫皓にとっては幸運の地になるわけである。



さて、鳥程に孫皓がいたころの呉であるが、2635月、交趾において呂興が反乱を起こし、これに九真、日南も呼応する。背景には蜀は魏から攻められ滅亡寸前であり、呉の国力は著しく低下し、交趾は魏を頼り呉の支配下から離れてしまう。呉の大きさから考えれば小さな土地での反乱かもしれないが、長江の北には巨大なる魏がおり、西の蜀は瀕死の状態なうえ後方にも魏が存在するという危機的な状況を迎えてしまう。



更にその五ヶ月後、魏から攻められ瀕死の状態の蜀は呉に使者を送り、助けを求める。そこで呉は丁奉や施績を魏に向かわせ蜀の負担を軽くしようとするが、時既に遅く蜀は魏に降服をすることになる。こうして、長かった三国時代は終わり、蜀という同盟国を失った呉は大国魏に対して単独で立ち向かわなければならない立場となった。



そんな状況からのストレスであろうか、孫休は蜀滅亡の次の年に倒れてしまう。突然、倒れ言葉がしゃべれなくなってしまう事を考えれば恐らく脳溢血になり麻痺状態となったのではないだろうか?孫休はいよいよ自分の死期が近づいてくることを悟ると丞相の濮陽興を呼び自分の長男に拝礼させ後事を託して他界した。



しかし、魏に対して同盟国を失い、南方では交趾の反乱を抱え、内政状態が悪化する一方の呉の状況で孫休の長男は皇帝になるのには幼すぎた。彼らにとっては幼帝を抱えるよりは、このような状況を打破できるようなカリスマ性のある、しっかりとした人物が皇帝になることが必須であった。



当時、左典軍の地位にあった万彧は彼が鳥程の令であったときに知り合った孫皓には孫策にも劣らない深い才知と見識があり、加えて学問を好み、法を遵守している人物であると政権の中枢にいた濮陽興と張布に進言をしていたこともあり、濮陽興らは孫休の妃であった太后の朱氏に孫休の長男ではなく孫皓を皇帝に立てたいと申し出る。



朱氏は、自分はただ単に孫休の妃であっただけで国家の為にいかに計ればいいか分かるような立場ではなく、呉の政治の中枢を握るあなた達が呉にとってそれが最善の選択肢と言うのであれば構わないと、孫皓が皇帝になることに関して全く反対をしなかった。



264年7月、22歳の時に孫皓は皇帝に就任する。父親が失脚して14年後のことである。



このように、孫皓は幸いにして皇帝に就任することになったが、果たして孫皓以外に皇帝に相応しい人物は呉にいなかったのであろうか?まずは、初代皇帝である孫権の血筋を本流として見てみると、孫権の長男である孫登には3人の息子がいた。孫璠、孫英、孫希であるが、彼らは既にこの頃には他界しており、彼らに子供がいたとしても幼すぎたであろう。



次に二男の孫慮であるが、彼は病弱で早世したので後継ぎはいなかったのかもしれないし、いたとしても名は残っていない。三男は孫皓の父親の孫和で、孫皓が長男であるので孫皓が選ばれるのは自然である。四男は孫覇で彼は二宮の変の際に自殺を命じられており、息子には孫基と孫壱がいるが、孫基は皇帝であった孫亮の馬を盗み獄に降されたような人物であった。孫壱にはこれといった話がないので彼は候補の一人として考えられたかもしれない。



五男には孫奮がおり三十前半の歳であったと考えられるが、色々と問題を起こしており、ろくな人物ではない。六男の孫休の息子は若すぎ、末子の孫亮に子供がいたかどうかは定かではない。こうして見ると本流の血筋では孫皓、孫壱ぐらいが妥当な線であろうか?



亜流で行くと、孫策の孫の孫泰は234年に死亡しており、この後の家系が分らない。孫翊の息子には孫松という素晴らしい人物がいたが、恐らくこの頃には他界しており、この後のことは分からない。孫匡には孫秀という孫がいたが、この孫秀は恐らく素晴らしい人物であったと思われる。後に彼は孫皓に狙われ、命の危機を覚え魏に亡命する。



こうしてみると、皇帝の候補となりえたのは、孫皓、孫基、孫壱、孫奮、孫秀ぐらいであった。孫秀は亜流の血筋であったため、最初から該当する候補にならなかったのであれば孫皓が皇帝になるのは自然であるし、多少、万彧が大げさに孫皓を評価していたとしても、孫皓には孫策と比べられるぐらいの器はあったと思われる。



こうして、孫皓は皇帝となると、年号を元興と改めて大赦を行った。この年、軍部では上大将軍の施績と丁奉を左右の司馬に任じて、張布を驃騎将軍に任じる。濮陽興はそのまま丞相の地位におり、その他、今後の鍵となる、陸凱、陸抗を見ると彼らは鎮西大将軍に昇進しており、魏の西からの侵入阻止の筆頭となっている。