お疲れ様です。
さて非常に、難しく考えていることを語ってみようと思います。
筆者の日本語遣いの至らなさは、お赦しをして頂ければ幸いです。
・自己と点
私は物事を知るときに、知り得た言葉を用いてイメージを復元します。
鉄の四辺体があれば、表の3面を見て裏の3面も同じであろうと定義します。
故に表から見た3面のみで、鉄の立方体であるという事を私が認識します。
しかし、裏の3面とは観測していないため真実か否かは不明です。
これを短絡的且つ社会命題として提起したのは、シュレーディンガーの猫でしょう。
即ち人の認知範囲とは、想像を含んだ世界認知である事が語られるでしょう。
しかし、ここには大きな欠落が存在します。
表の3面を見て簡易的な判断を下す事を、私たちの脳は正当化して考えます。
即ち世界不変ではなく因果律を含む世界事象を許容して、脳が効率化されているのです。
それは、見えるものの本質ではなく象られた事象から推察する断片で十分なのだと。
私が日本語に魅入られ自ら文を創るのは、日本語は本質を推察する文学だと感じているからです。
言葉が多様であれば、文の中で事象の点と点を類似関数で結ぶことができます。
日本語のひら・かな・漢字、そして文節に組み込んでも意味が通じる外来語を使える特有文節。
自らの思想の核となる、過去や経験からの憶測そして類似点を出すには日本語が最適解です。
しかし最小単位の点では、言葉の意味を理解するに過ぎない。
次に必要なことは文章として、自分と時間軸を掛け合わせる必要があると考えました。
・自己と円
物事には大きな枠組みとして、始点→動点→始点という始まって終わる事が円の運動のように表せます。
即ち脳の認識イメージも、始まりの固定位置があり、動き、そして元の場所に戻る必要があるのです。
しかし小さな時間軸では、それが途方もなく感じられ。断片を切り取ることになり、線のように表せます。
まるで、それは動画サイトの再生時間のように。
しかしそれは生まれて、見られて。見られたことによって生まれる、つまり繰り返す。
線は本来円であり、しかしその円を生む物体は時間と共に場所が移り変わっていきます。
それは私の体でも表せられるかもしれません。
腕を大きく回した時に、腕は必ず腰の横に下がった定位置から大きく回します。
しかし回した私自身が、老化していっているので必ず回せなくなる日が来ます。
ですが私以外にもその点たる言葉があれば、私でなくても【同じやり方で】できるでしょう。
しかし腕をある場所で止めるには、負荷が発生します。
つまり一連の円の中には流動の速さにも相違があり、一律の速度ではないということです。
でも円という動きの認識は他のものに引き継がれ無くならない、仮に私がいなくてもです。
このことから自己と認識は古来より言語のイメージから、円を描くように受け継がれていくものでしょう。
その円が歪であれば世界にある認識を現した点である言葉を、歪にとらえることもあるでしょう。
しかし私という短い時間軸で見た際、その帰結では私は満足しなかった。
・自己と真球
歪な円を描く不格好な球を多く見た私にとって、目指すべきは真球でありました。
真球とは認識の到達点であり、言語が完璧に構成された誰から見ても真理に見紛う知識です。
しかしそんなものは地球上には存在しない。宇宙にもないでしょう。
何故なら原子自体がそもそも真球ではない可能性のほうが高いからです。
動く、結合するというのは即ち外界の干渉を免れない。
如何に耐久度があろうと円の中では必ず朽ちて、再生するという分子の構造がある。
消費しているように見えて、空気中や地表に分子がまき散っているだけであり総数は変化していない。
そのような永劫を生きている原子は、真球であろうはずもないでしょう。
まあこの説でいえば、私の体を作っている原子のルーツは途方もないものになるのでしょう。
しかし真球ではない。私を構成しているものでさえも、歪みは必ずあるのでしょう。
では何を以って真球を定義し、目指すのか。
そう目指すしかなく、決して到達しないことを分かっていながら。
私は円を引き続け、自分の不格好な球をその線という傷の数を以って、真球を夢見て象っていくのです。