居場所を求める人生 | merlinus-stonehengeのブログ

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光があれば影があり、昼があれば夜がある。

 

お疲れ様です。

 

最近の探求は、人間の体力余剰が引き起こす弊害と魔性の誘惑についてです。

これは過去の繁栄をした文明の文献や資料にも、記されており大変興味深いです。

 

現代において最も素晴らしいと感じているのは、他国の文書翻訳が容易になったこと。

これは各国の情報が手に入るだけでなく、古代へのアプローチも可能としています。

これは人間が辿り着いた叡智の結晶であり、同時に人間という種のアカシックレコードであるでしょう。

 

さて現代文明への賛美はこのくらいにして、本題に入っていきます。

例の如く表現は少し強めの文章になる為、よろしくお願いいたします。

 

繁栄の裏を返せば、それは人口の増加を意味します。

それって集団の行動力は頭数分増えるから良いではないのか?

そんな単純な問題であるなら、この世界はもっと平和なのです。

 

人口増加に伴って必要なのは、何ができるか?なのです。

増えてどうなった?がセットであり、それがなくてはただ物資が枯渇するだけです。

これは現代社会の会社と呼ばれる、事業団体の構図と酷似するのでわかりやすいでしょう。

 

例えば水槽の例えを使ってみましょう。

 

メダカが10匹いたところに、水槽に空きがあるからと単純に30匹追加しました。

水草や餌を10匹の頃と同じ量で飼育したらどうなるか?

単純明快、弱肉強食で10匹になるまで淘汰され、水槽はその残骸で濁るでしょう。

 

濁った水槽は10匹に病気や変異を与え、その平和だった過去を思い返すことはもうないでしょう。

 

まあ極論ですが、人口増加をすると現れるのは奪い合いと手段を択ばない集団が増えます。

この集団が膨らむことによって、文明は崩壊していくのです。

ですが何故これが起こるのか考えてみた時、それは人の心が脆い為だと感じたのです。

 

私たちの社会でも、資源は限られており立場と見識無くてはもう職にもありつけません。

しかし体は健康な20代が仕事しなくてはどうなるか、体力だけが余りあるでしょう。

そうなった時使うことができない体力をもった、職のない人はどう考えるのか。

 

そう自分を使ってくれる人や集団を、探して求めるでしょう。

しかし会社や世界は優れた者を優遇し、自分を蔑ろにしていると感じるでしょう。

私からしてみれば、蔑ろにしているのは自分自身で他責も過ぎるとは感じますが。

 

行き場のない怒りと過度の不安から、仲間同士で結託し暴れるようになるでしょう。

それはただ居場所が欲しかった子供たちの、ある意味成れの果てなのです。

 

さて別に同情する気も実は無くて、可哀そう等とは微塵も思いません。

何故ならそんなの全員共通の悩みで、なんで個別扱い特別待遇求めてんだって噺です。

自分も含め百も承知で生きたいから、生きる為に前向いてやってるんです。

 

まあ自分の意見はさておき、結局日本という水槽の物資は減る一方という事です。

出生率の低さは其れを表しており、過度な贅沢はもうできる国ではないのです。

 

この背景には人海戦術が必要なくなり、AIもしくは機械という最高の働き手がいます。

これによって体力ある若者より、知性が優れた若者が必要となってしまったのです。

しかし知性は環境や個人差が大きく、まるで会社が選民するような錯覚があるでしょう。

 

そうやって篩いから落とされた彼らは、居場所を求める人生に彷徨います。

ただ今の時代体力仕事もルールがあり、殆ど機械で行っています。

 

機械や知識がなくては仕事もさせてもらえず、そうなると家庭も持てません。

でも勉強の仕方が分からないから、そこから抜け出すこともできません。

そこに借金などが重なれば、魔性の手が差し伸べられもう抜け出すことはできないでしょう。

 

さて。この世界は美しいですが、人間は美しいのでしょうか。

私は見て見ぬふりを続けるでしょう。世界だけを見て、美しいというでしょう。

何故なら私の心が見ている世界であり、その世界では私以外の人間は■■でしかないのですから。