その列車には俺を含めた、6人の人間がいた。
俺には、いつその列車に乗ったのか-いや、それだけじゃない。俺は、自分が誰かという事自体思い出せなかった。しかし、別に恐怖も湧かず、ただ体の中を空虚感が支配していた。
ガタンゴトン、と揺れる列車。窓の外は真っ白に光っていて、俺は眩しくて顔をあげる事が出来ない。だから他の五人の人間達がどんな姿形をしているのか分からない。そもそも俺は自分の姿さえ知らないのだけれど。
そんな中一人が俺の隣に座ってきた。
「ねぇ?あなたはどうしてここにいるの」
音階の高い清純そうな声。声質からして女の人だと分かった。
顔も見ようとしたけれど、窓からの逆光のせいでよく見えず、諦めてまた俯いた。
「分からない。気づいたらこの列車の中にいた」
俺は俯きながら、そう答える。
「あら、そうなの?変な人ね。…自分が死んだ事にも気がつかないなんて」
彼女は言った。俺は死んだ、と。
「死んだ…?……そうか、俺は死んだのか」
しかし記憶がない俺には、死んだところで未練なんかない。だから、すぐに死を受け入れる事が出来た。それは良いことだったのかは分からなかったが。
「死んだことにも気付かないなんて、余程抜けてるのね。で、君は死んだときの記憶がないんだ?」
彼女はクスクスと笑う。そんな動作も嫌みに感じさせないような人だった。
「あぁ。ついでに自分が誰なのかも分からない」
俺のその言葉を聞いて、彼女は何を思ったのか、自分の死に様を話し始めた。
「私は殺されちゃったの。ナイフで刺されて、あっという間だったわ。私も相当抜けてるわね」
「それにしても私の後ろにいたお婆ちゃん、大丈夫だったかしら」
彼女の言葉に違和感を持った俺は、聞いてみた。
「…あんたはその人を守って死んだのか?」
俺の問いに彼女は少し考えてから、答えた。
「だって、近くで人が困っていたら、助けるでしょ?」
彼女は、小学校の道徳の教科書のような答えを返してきた。
はっきり言って、おかしい人間だなと思った。
「私は皆が皆に優しければいいなって思ってたから。だってそうすれば世界は平和でハッピーでしょう?」
「…なにいってんだよ」
俺には理解できなかった。
「そりゃ、親切にすることが良いことだってことくらいは分かる」
いくら記憶のない俺でも、他人のために死ぬなんて考えられなかった。
「でも、あんたのそれはやりすぎだ。他人のために死ぬなんて、そんなの勝手な自己満じゃないか」
それに、皆が皆を気遣う世界なんて
「守られた側はその後どうやって生きていくんだ。見ず知らずの他人が自分を守って死んだなんて、逆に迷惑だ」
そんな世界、怖すぎる。
「親切ってもんにだって、越えちゃいけない一線だってあるだろ。それを越えたら、誰もお前を信用できなくなる」
腹の内が見えない。
「あんたは、人間じゃなくて神様にでもなればよかったんだ」
なにを考えてるのか分からない。
「皆平等に助け合いなんて、宙の上から人間を見れば無理だって分かるはずさ」
いつ寝首をかかれるか分からない。
「それでも諦めきれないから、ほんの少しの奇跡を与える。そんなことをすれば良かったのさ」
世界が自分に優し過ぎて
「どうせ、何もできないのだから」
不安なのだ。
長い沈黙を置いて彼女は口を開いた。
「そういう考え方もあると思う。確かに君の考えも分かる」
「君の言うとおり、迷惑なことかもしれない」
「自己満なのかもしれない」
「でも私は助けずにはいられない」
「世界みんながハッピーっていう子供らしい夢を捨てることができない」
「人助けこそが私の趣味だから」
「それでも君と話していて、私は生き急いでいたんだなって思ったから」
「次は、それこそ君の言うとおり、神様にでもなろうかな」
彼女が話し終えたちょうどぴったり。列車内にアナウンスがかかった。
「まもなく天道。天道。お降りの方はお荷物、お忘れ物ないようにご注意してください。まもなく天道でございます」
彼女はそのアナウンスを聞いて立ち上がる。
「じゃあ、私はここで降りるわ。最後にあなたと話せて良かったわ」
プシュー、と音を立て、開くドア。外は窓の外と同じように真っ白に光っていて、その中に消えてゆく彼女を俺は見送った。
「俺もあんたと話せてよかった」
まず一人、完璧な善人が列車を降りた。