月曜の朝、金沢は嵐のように激しく降ったかと思うとカラッと雨が上がる、
そんな繰り返しの一日だった。
最近天気がおかしい、そう思うのは私だけではないのだろう。


そう感じる半面、2日連続で出勤時に道路を横断する鴨と遭遇した。
金沢にはまだ住宅地で鴨が歩いている、そう思うとホッとする。

これは月曜の朝の鴨、くちばしの先端が黄色いのでカルガモか。
鴨さん、優雅に横断中

今日道路を横断していたのはもう少し首の長い鴨だった。
(ガンかしら?)
後ろから車が来たので写真を取り損ねたのがすごく残念。

雨上がりの散歩
(雨上がりの散歩)


嵐のあとの、荒れた木々や草花を見るのが好きだ。
明け方、窓を開けて風がサッと冷たく顔にしみるたりするのは
たいそう気持ちがいい。

嵐の日も、わざと外出したりする。
あ、それは私が「あまのじゃく」だからかな。


嵐のあと、倒れた草木もまたいつの間にか知らぬうちに元に還っている。
いや、すべてが元に戻っているわけではないのだろうが、
いつの間にか別のものに覆い隠されて、いつもの場所になる。
それが自然というものなんだろう。

歩道を臆せず歩く
(ピースは歩道も臆せず歩く)


なんというのか、完璧でなく、少しほころびのある美、
人も自然も、完璧さより少し欠けたところが美しい気がする。
満開の桜より散り際の桜、満月より雲のかかった月、だ。

畑のくぼみがたいそう気に入ったらしい
(畑のくぼみが気に入ったのダ)


以前、尊敬する建築家が言っていた。
芸術とは「告白」であり「問い」である、と。
デザインや芸術の創作活動は「表現」でなく、
表現である前の「美を探す行為」だともいっていた。

美の定義は難しい。そもそも「美」とはなんであるのか?
自然の一部として生きてきた日本人の美意識は、一神教の国々とは全く違う。
整然とした、完璧な秩序ある美しさよりも
時に憐れで不完全な、辿りつかないものにも美しさを感じてきた。

散っていく桜もしかり、廃墟でさえも、あるいは人の死でさえも。

くぼみからあれこれチェックする
(窪みからあちこちを観察してチェックする)

ここでいう「告白」や「問い」はむしろ、表現と言う明確な内容でなく、
苦渋に満ちた、吐き出されるような告白であり、
祈るような問いのことであろう。

美を探すことは、だからなにもいわゆる綺麗なものばかりではないのだ。
何の変哲もないモノにも、壊れたものにも美は見いだせる。

チェック完了?
(チェック完了?)

それが日本人の特性なのかもしれない。

キリスト教などの一神教が、太い幹を持つ大樹のような存在であるなら
多神教である日本は、小さな樹、さまざまな樹が集まる森かもしれぬ。
豊かな森、あやういものを覆い隠す森、荒れ狂う森、祈りの森。

そこに西洋のような哲学は生まれないかもしれないが、美意識はある。

自然を愛し、その一部となって、壊されても、流されても、
また元に還ってきた歴史が日本人にはある。

嵐のあと、またいつの間にか静かな森になるように。