天下の副将軍と呼ばれた水戸光圀(水戸黄門)が水戸藩28万石の2代藩主となる1661(寛文元)年の61年前の1602(慶長7)年、生瀬村(現在・茨城県久慈郡大子町小生瀬) で無抵抗な村人を子供まで虐殺して、1つの村を全滅させた「生瀬の乱」が起きました。

 大子町のHPの説明は、「地元の伝承によると、事の起こりは年貢の取立てにありました。年貢取立ての役人が来たので、いわれるままに完納しました。するとまもなく別の役人が年貢取立てに現れ、年貢の納入を督促しました。既に納めたことを申し立てましたが、聞き入れられませんでした。農民の側でも年貢を二重取りされたのではたまらないと、村役人と相談した結果、後から来た役人がにせ役人であると判断し、後から来た役人を殺してしまいました。ところが、前の取立て役人が偽役人で、後からの取立て役人が本物でありました。そのため、藩の怒りに触れ、秋の取り入れが終わった10月10日(陰暦)の未明、突如として芦沢伊賀守を総大将とする一隊が袋田口、高倉口、小里口の三方から小生瀬村を襲いました。突然の事で驚いた農民達は、あわてふためいて隣の高柴村岡ノ内坪にある小さな沢(浸食谷)に逃げ込みました。この沢は袋状のため逃げ場を失い、一村皆殺しにされてしまったという事件です。

 当時、小生瀬村は、戸数は100戸~150戸、文化年中149戸。人口は一世帯平均5人として500人~750人(推定)として、一千人有余人が皆殺しにあったということは疑問です。それにしても、伊奈備前守が命令し、芦沢伊賀守が部下を引率しての一村成敗であり、大勢の水戸藩兵(約150人ともいわれる)が逃げまとう農民を斬り殺しながら地獄沢に追い詰めての農民虐殺であったといえます。
大勢の農民が逃げ込んで皆殺しにされたといわれる岡ノ内坪の深沢が、現在も地獄沢という正式な地名が残っています。また、命乞いをした入口付近を嘆願沢、沢の中程で血の付いた刀を洗った場所を刃拭き沢、斬られた者の首を埋めた首塚、胴を埋めた胴塚などの呼称が残っています。」とあります。        「訪問日・2021(令和3)年11月5日(金)」

 

 

水戸藩初代藩主・徳川頼房(とくがわよりふさ)と藩の重役が命令して村人を虐殺しました。因みに徳川頼房は、水戸光圀(水戸黄門)の父親です。本来なら、年貢をだまし取った偽の役人が一番問題があるので、その連中を捕まえれば良いだけの話ですが、、、、。その後に、役人を殺害した村人を吟味すれば、何事もなく終了したと思います。

 

 

※吟味 とは、物事をよく調べること。念入りに調査すること。

※地獄沢⇒追い詰め農民を皆殺しにした場所 。

※嘆願沢⇒農民が命乞いをした場所 。

※刃拭き沢⇒血の付いた刀を洗った場所 。

※首塚⇒斬られた者の首を埋めた場所 。

※胴塚⇒胴を埋めた場所。

 

 

地獄沢一帯。地獄沢の地名は、虐殺があった場所や姥捨てがあった場所に命名される事が少なくありません。そう云えば、アメリカでも似たような事件がありましたね。1864年のサンドクリークで、先住民のシャイアン族は、アメリカ国旗と白旗の2つの旗を掲げていたにも関わらず、アメリカの正規軍である騎兵隊に、女性や子供が大虐殺されました。サンドクリークの大虐殺事件です。映画にもなりましたが、無抵抗な女性や子供を剣で、バラバラにする吐き気を催す最悪の映画でした。しかし、実際は、映画で表せないような悍(おぞ)ましい内容でした、、、。

 

 

 

 

 

 

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この先で、命乞いをする村人たちに、恐らく身の毛もよだつ、吐き気を催すような殺戮が行われた様です。その村人の恨みの念か、祟りかどうかは分かりませんが、約260年後、水戸徳川家は、10代徳川 慶篤(とくがわよしあつ)の時の1864(元治元)年、筑波山で挙兵した水戸藩内外の尊王攘夷派(天狗党)によって起こされた天狗党の乱(てんぐとうのらん)により、藩内は天狗党と諸生党の対立で分断されました。本来なら御三家として徳川幕府を護る筈が、内部分裂で、まったく機能しなかった為か、約260年続いた徳川幕府は崩壊しました、、、、。そして、水戸藩は藩内の分裂で、藩士同士が果てしなく殺しあった為、有能な人材がいなくなり、明治新政府に人材を送り出せなくなったそうです。

 

 

※身の毛がよだつ。恐怖のあまり、毛が逆立つような思いがするさま。 ぞくぞくするさま。

 

 

 

何やら、ひんやりとする地獄沢で、理不尽に殺戮された村人達の霊に合掌して、この旧・小生瀬村を後にしました、、、。

 

 

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