闇からの叫び!~丸岡城の人柱(ひとばしら)伝説~ | mefilas's blog

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過去から現在までの旅行、ドライブ、登山、パワースポット・負のスポット巡り、桜巡り、街歩き、紅葉狩り、食べ歩き、自衛隊イベント、不思議な体験談などを適当に書いていこうと思います。

 今を遡る事440年前の安土桃山時代の1576年、丸岡城(福井県坂井市)は築城される最中、城の土台である石垣が何度も崩れる有様で、神の祟りを疑い、その為、この時代の風習で神の怒りを鎮める生贄として、人柱(ひとばしら)を立てる事にしました。

 人柱に選ばれたのは、2人の子供を女手1つで育てていた貧しい隻眼の「お静」という女性でした。彼女は子供の一人を侍に取り立ててもらう条件で自ら人柱になりましたが、無事、城が完成しても約束は反故にされ、息子は侍にして貰えませんでした。その為か、地中で人柱になったお静の亡霊が、これを恨み、毎年、年に1度の堀の藻刈りを行う旧暦の4月になると、春の雨で堀が水で溢れかえったそうです。まさしく、お静が子供達の将来を憂いて流した涙のように、、、、。その後、供養の為に小さな墓を建てたそうですが、お静さんの恨みが晴れたかどうかは、今のところ不明です。

 城のガイドの方に聞いたところ、供養塔は城の築城中に亡くなった方の霊を供養したという話のようですが、人柱の話が本当にあったかも知れないとの事でした。

 

 

 

 

             「訪問日・2016(平成28)年1月26日(火)」

 

 


現在の丸岡城。1945年(昭和20年)7月19日(木)、1576人もの犠牲者を出した米軍のB-29爆撃機よる福井空襲でも天守閣は無事でした。因みに天守閣以外の城下は燃えてしまったそうです。

 

 





北の庄城の支城である丸岡城が完成した天正4年(1576年)から7年後の天正11年(1583年)、柴田勝家の甥である丸岡城を築城した柴田勝豊は病死、そのわずか8日後、織田信長の後継者を決める清州会議で、豊臣秀吉に敗れた柴田勝家(実子がいなかった為、甥である柴田勝豊を養子にする)も、その後、北の庄城を豊臣秀吉に攻められ滅亡しました。その事が、お静さんの呪いであったかは、今もって定かでありません、、、、。

 

 

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