小塚原刑場は、 慶安4年(1651年)から明治初期まで存在した刑場で、大和田刑場、鈴ヶ森刑場と並ぶ三大刑場の内の1つです。ここで処刑された有名人は、大名屋敷を専門に狙った泥棒の鼠小僧次郎吉、将軍継嗣問題に介入したことを問われて処刑された幕末の志士・橋本左内、老中暗殺計画で処刑された長州藩の吉田松陰がおります。刑場の広さは間口60間(108m)、奥行30間余(54m)ほどです。 刑死者は20万にとも言われ、ほとんどが、処刑後に捨てられたりした為、鉄道工事の時は、人骨が、ざくざく出たそうです。そのためか、因果関係はわかりませんが、南千住駅前を通る道が「コツ通り」と呼ばれています。
この場所では、杉田玄白らの蘭方医が腑分け(解剖)をおこなったり、御様御用(おためしごよう)を務めた山田浅右衛門が刑死者を刀の試し斬りに使っていました。
「訪問日・」2009(平成21)年11月27日(金)」

刑死体の扱いは、罪の重さで扱われ、「片付」なら、この回向院に運ばれ葬られ、「取捨」なら字のごとく捨てられ野犬やイタチの餌となりました。

ここに大名屋敷を専門に狙った泥棒の鼠小僧次郎吉、越前藩士・橋本左内、長州藩士・吉田松陰らの墓があります。
橋本佐内の墓。

首切り地蔵は、寛保元年(1741年)に刑死者の菩提を弔う為、造立されたそうです。
この地蔵様が、この地で永遠に佇んで欲しいと思いたいです。
造立されて270年。この地蔵は、この風景の変化を、どう見つめているのでしょうか。ふと、そう思い、合掌して、この地を後にしました。








