たいそうなことを言うつもりもありませんが、子育てに関し私なりの考え方があるので、もし迷える方の参考にでもなればと書いてみます。

まずは晩の食事時くらいテレビは消す、という簡単なこと。

同じ部屋に居ながら、皆同じ方向を向き、無言で箸だけがカシャカシャと動く、同じ環境に居ながら各々が個別である、こんな情景がなぜか不愉快と感じたのでやってみた。
その結果、しだいにその日一日の出来事など対話する時間が増え、そのせいか二人の息子達は今でも父親の私ともよく話をする。それと食事を用意してくれた人への敬意と、人が生きる為に命を提供させられた動植物に対しての感謝の意識は持っていなければならないのではないだろうか。

しかし子供も10歳を過ぎると、自我も芽生え強制するのは難しくなるので、始めるのはそれ以前からということでしょう。
今回の事件のような心のない教師にはほとほとあきれるが、むしろその背後に目を向けなければならないのではないだろうか。

公立学校側、教育委員会、文部科学省これらはすべては事なかれ主義で一貫していて、トラブルは学内に無いものと隠蔽したがる体質は一向に改善されていない。公務員的体質の教師は教委の顔色を見ながら、何とか無事故で願わくば校長までのルートを登りつめたいと望む。その将来のビジョンに対し学内のいじめ等のトラブルはとんでもなく迷惑なことでしかない。だから教委や文部科学省側が変わらなければいけない。学内でトラブルは避けては通れないのが現実なのだから、それに対しどれだけ対応し、無くすための努力をしたかを成果のポイントとして認めてあげる制度の確立が必要じゃないだろうか。

このままでは、死んでいった子の願いは、いつまでたっても成就できないように思われてしかたない。




腹立つなあ!とうとうドームで敵の胴上げを見せつけられてしまった。2年連続の胴上げアシストだ。なんとも情けない!

この際言うが、以前から巨人ファンの私は朝日巨人軍にならないだろうかと思っていた。巨人は好きでも読売新聞は好きになれなかった。

いっそ巨人戦平均視聴率が5パーセント以下にでもなれば、利益の出ない球団を維持する意味もなくなり、読売新聞社は身売りするかもしれない。誰かが言ってた、ミウリ新聞になるって。

チームバランスも考えずFAとなれば片っ端から欲しがり、外人選手も自力では見つけられず、他チームで実績を上げた選手に触手を伸ばしたりと、ほんとに節操が無く情けない。今年あたりは若い野手が伸びてないとなれば、やはり慌てて窓際のピストルみたいな選手を掻き集めていた。若い選手は一軍の試合で使わなけりゃ伸びないはずなんだから。

読売グループは金が有るから頭を使わない。

オーナー企業は朝日新聞に期待するしかない。いっそ神奈川新聞でも良いんじゃないだろうか。資金に余裕がない分、堅実な采配をするような気がする。
父親が作った料理は後にも先にも、ただひとつだった。

それは買ってきたうどんをどんぶりにあけ、温めることさえせず、やおらソースをかけただけの究極のレシピだ。すべての虚飾をかなぐり捨てたそのシンプルさは、冷徹にして大胆、潔さすら感じさせ、まさにプロレタリアートの鑑ともいえる一品だった。

父は東京の墨田区本所で洋傘メーカーを営む比較的裕福な家に大正7年長男として生まれ、学業も優秀で大学を目指していたが、父の突然死により、進学どころか5人の兄弟の生活を支えねばならないという過酷な状況に直面する。さまざまな職を転々とするが若年の父には一家を支えるほどの高収入の道は無く、やがて家族は離散し、自暴自棄の生活を一時期はしていたようだ。

戦後の横浜で母と知り合い、家庭を持つがギャンブル癖は治まらず、おまけに蒸発癖も兼ね備えと、母の赤貧の苦労は計り知れなかった。

私が小学校低学年、父が2度目の蒸発から帰還した後だと記憶しているが、何を思ったか後楽園球場に巨人戦を観に行こうと、唐突にいわれ私は舞い上がらんばかりに喜んだ。

当日、憧れの長嶋や王を観に球場までやって来た。するとなぜか父は“ちょっとここで待ってろ”といい、その場を離れた。誰かがホームランでも打ったのだろう、歓声がこだます球場の高い壁を私はひとり見上げていた。

小一時間も経ったか父は戻ってきたが、充血した目で、口を開くなり“帰ろう”と言い出した。私は状況を理解するのに戸惑った。

なんとその当時となりに併設されていた後楽園競輪場で、ひと儲けし息子にもっといい思いをさせてやろうと意気込んだあげく、帰りの電車賃を残しすべて負けてしまったというわけだったのだ。
(でもまだ良いほうだ、この人は以前大井競馬場でとことん負け、着ていたコートや背広までその場で売り、とうとう冬場にワイシャツ姿で横浜まで歩いて帰るという快挙をなしとげた伝説の男だからだ。) 

帰路、父の痩せていて少し首が左に傾いた癖のある後姿は寂しげで、情けなく、それをまるで昨日のことのように憶えている。
それ以来大人になるまで、二度と野球観戦には来たことがない。

いつしか子を持つ立場になり、自分としての父親像というものは父親のとった行動のすべて真逆をするということに他ならなく、それはまさにスーパー反面教師であったわけだ。

この頃私も気が向けばいろいろと料理もつくる。体のためを思い栄養バランスを考えて素材を吟味し努力しているのだが、うちの子供たちの評は、やれ“野菜の占める比重が大きいだの、生だのと、あまり宜しくない。ため思うはためならずかもしれない。そうだ、あの家伝の究極の味を今度一度食わしてやろうか。

二人の息子たちも間もなく成人を迎えるが、いったい彼らの目に私の後ろ姿はどう映っているのだろうか。



 母親の生家のある信州諏訪の夏は、ことのほか涼しく快適である。

 ここでとくに思いで深い人といえば、その生家と親しい付き合いをしていた熊谷さんで、皆一様に“鱒池のクマさん”と呼んでいた。

 小太りの体に焼けた肌、豪放磊落で人懐っこい笑顔が印象的なこの人は、八ヶ岳のすそ野の美しい山々に囲まれた場所で鱒の養殖場を経営していたのだ。毎夏そこでバーべキューなどで、もてなされ夜晩くまで楽しい時間を過ごさせてもらった。

 しかしなんの屈託もないように見えたこの人にも苦悩があったという事実を私は後々知ることとなる。

 子供には刺激が強すぎるとの理由から封印されていた、クマさんの旧満州での兵士としての戦時体験は、高校生の頃だったか父親の口から聞いた。それはやはり充分に衝撃的だった。子供や女子に関わらず中国民間人に対しての虐殺の手段は想像を絶するもので、さまざまに手段を変え、まるで人の死を愉しむかのごとくであった。あの優しい人が・・・異常な状況の中で人はどこまで変われるものなのか・・・いろいろと考えさせられた。

 そしてクマさんは晩年には孫にも恵まれたが、そんな頃からか夜床に入るとかつて殺した中国人の顔が現れ、うなされて困るんだと、叔母にうちあけることがしばしばだったそうだ。この人もやはりある意味、戦争の犠牲者なのだろう。

 戦後61年の間かろうじて平和は続いていているが、戦争はどちらの民衆にも悲劇のみをもたらすものだ。不戦の誓いを改めて意識しなければいけないのだろう。

 そしてクマさんも父親も亡くなり、かなりの歳月が流れた。この夏も高齢の母を連れ我が子の運転で信州を訪れた。取り巻く人達も時の流れで交代してゆくが、いつもの美しい山河は今年も寡黙に出迎えてくれた。
 
 まるで真夏に焚き火にあたるような気がして、ここ近年避けていた甲子園大会を今回ばかりは夢中で観てしまった。

 もとをただせば、たまたま都民でもないのに西東京決勝戦を観ていて、日大三校を応援していたのだが、死闘の末延長11回サヨナラ負けを喫し、その相手投手が早実の斉藤佑樹君だったわけなのだ。

 そんな理由から甲子園大会を観ていたのだが、一戦一戦を観るたび彼を応援するボルテージは高まる一方だった。なんと憂いを秘めた端正な顔立、そこに小さく畳んだ水色のハンカチをあてる上品な仕草、努力をひけらかさない謙虚さ、そしてそれらを早実のアンダーの白いハイネックが貴公子然とさせてしまっていた。

 そんな印象とは対照的に斉藤君はなんと驚くべき精神力で7試合を948球投げ抜いての今回の栄冠、心のそこからおめでとうと言いたい。特に引き分けとなった決勝の最終15回本間君への147キロの速球には、おもわず鳥肌が立ってしまった。

 昨今見渡せば金とエゴが絡み合った亀田親子によるボクシング界のドロドロ劇、伝統の終末を感じさせる読売巨人軍の崩壊ぶりと、情けないやら、腹立たしいやらでほんとにすっきりしない夏だった。

 けれどこの高校野球が久方ぶりに清清しい感動と興奮を与えてくれた。

 連投が故に片や肘を痛め、将来の期待を集めながらも、選手生命を失いこの大会を最後に消えていった投手が何人もいたという事実に、今回の斉藤君も我が子でもないのにやたら懸念してしまった。こんな素晴らしい選手は是非プロ入りしてもらい、その活躍を観続けたいと願うのは私だけではないだろう。

 そして今回は気の毒にもヒールの役回りにならざるを得なかったように見えてしまった駒大苫小牧の田中将大君と、いつかまたプロのマウンドで投げ合う日が訪れることを考えただけで、今からワクワクと胸躍ってしまう。


 やっぱり野球って、素晴らしい!

 

 (前回からの続き)

 中学校の前に文具と本を商う小さな店があり、なんとそこの長男N君が自分と同じクラスであった。早速拝み倒して泊めてもらった。 家人が寝静まった頃合をみて、二人で薄暗い店舗内へ足音忍ばせ入った。N君は自分の家なので、なんらはばかることは無いのだが理由が理由だけに、一緒に声を殺していた。

 あった! 夢にまで見た平凡パンチだ。今の男性誌から比較すればはるかに穏健なものだが,それでも目の当たりにするヌードグラビアに心臓はバクバクと高鳴り、その鼓動で家人が起きるんじゃないかとさえ思った。そして“女の子の攻略法”的なハウツー記事もまだ白紙の脳裏にここぞとばかりに焼き付けた。


 よしこれで予備知識は万全だ。


 とうとうその日が来た、その頃好きだったスパイダースの「ノー・ノー・ボーイ」あたりを口ずさみS子の住む団地へと足早に向かった。


 チャイムを鳴らせば、S子とその母親の二人が笑みを浮かべ立っていた。早速彼女の部屋へ通うされ、空々しく参考書なんかひろげてはみたが、まったく頭に入ろうはずもない。ギクシャクとした会話が交わされ間もなくお茶をもった母親が部屋に入ってきた。


 ありふれた言葉のやり取りの後もその母親がなかなか戻る気配を見せない。妙な気配を感じた。親子二人の視線が私にしっかと固定され、それはさながら獲物を前にした猛禽類のそれに酷似していた。母親はやおら「あなたは神様を信じる?」と云いだしそこから延々と話が始まった。


 すべてが視えてきた。その当時盛んだった某新興宗教の勧誘だったわけで、胸苦しさを感じた自分は、前日仕込んだ知識も置き去りに、そそくさと家路に向かったように憶えている。



 そんなもんだって、やっぱり!



 それからしばらくして全校マラソン大会みたいなものがあり、入賞まではしないが私は陸上部でないにもかかわらず上位グループに入るという活躍をみせた。その理由は、とにかく授業中集中力が無くふざけてばかりいるので、どういったわけか廊下によくたたされた。たたされても退屈でしょうがない、それでよその教室とか徘徊するものだから、教師たちが相談をしてグランドでも走らせておけということになったらしく、そのおかげで長距離は得意種目となってしまっていたのだった。


 

 まあ、自慢も所詮この程度だって!私の中学時代は。

 


 中学時代はバレー部のY子が好きだった。サラリと長い髪に可愛い笑顔、発達した体を包むタイトなブルマー姿が今も印象に残っている。


 自分はといえば貧弱で身長はクラスで前から2番目、これといった取り柄も無く好印象などあろうはずもない
。どう考えても友達になることすら無理だろうと思い、部活の練習を遠くで見るのが関の山だった。


 その頃を振り返ると心の中をよくランチャーズの「真冬の散歩道」が流れる。


 中学の3年間バレンタイン・デイにはいつも自分で買ったチョコレートを食べていた。まあ節分の豆のように季節感を受け容れていたというだけで,そんな自分が特別寂しいとも感じてはいなかった。



 そんな自分が3年生のある日突然“日曜日私の部屋で二人で受験勉強しない?”とS子に云われた。K子とは比較にはならないが、まあ好きな順からいえば4,5番目位に位置している陽気が取り柄くらいの娘ではあった。それでも自分にとってはまさに晴天の霹靂だったのだ。

 あらぬ想像で頭はいっぱいになった。妄想は膨らむいっぽうだが、なんら経験が無いので具体性も無い。想像しようにも顔以外ほとんどの部分にモザイクがかかった状態だった。

 以前本屋で当時話題の平凡パンチに恐る恐る手を伸ばした。しかし幼く見えたため売ってもらえなかったうえ、他の客がいる前で説教までされた苦い経験がある。

 
 (次回に続く)

 さっそくフジテレビのテケテケ・ア・ゴーゴーを見てしまった。

 

 おそらくフジテレビあたりで、こんな企画が持ち上がっているんじゃなかろうかと考えている矢先で、風を読むことに敏な局という点、さすがと思わされた。内容はというと、やはり中年バンドということで無理もないが、どこもややエネルギー感とテンションにかける。それでも飲み屋仲間の余興と思えば中々ほほえましくて良かった。


 アマチュア出演番組にありがちだけれど、演奏内容よりメンバーの職業の意外性とかの二次的なものに重点を置きすぎ、覇を競うコンテスト番組としての視点がぼやけてしまったように思えた。はなからオジサンにそんなことは期待していないというように、真摯に評価を下せる審査員は置かず、若い女性タレントで固めていた。まあこれはアンテナ番組と捉えれば良いのかな?


 それと番組を盛り上げるため使いたかったのだろうけど、国会議員のバンドは裏側にあるものが見え隠れしていて、良い印象を受けなかった。


 しかしお医者さんバンドの中にいたローウェル・ジョージを彷彿とさせるルックスでテレキャスターを弾いていた人のセンスが光っていて印象に残った。テレキャスターの良い点をうまく引き出していて、もし瀬谷のマリアンナ病院にいられるのだとしたら一度診てもらいたいものだ。


 久しぶりにのんびりと過ごした日曜の午後、そんなことを考えていた。

 パパのニューバック  番外編


 「たまには真面目に平和について、考えてみよう」 




 昭和天皇のA級戦犯合祀に関するメモ問題が、先日からマスコミを賑わしているが、戦後史のうやむやの部分に光をあてる衝撃的なスクープとして、日経新聞にはおおいに敬意をはらう。 私もこの機に乗じ平和という事に関しすこしばかり意見を言わせてもらいたい。



 音楽を楽しむには、まず基本的に平和でなければならない。


 日本のポピュラーミュージックの歌詞はなぜかほとんどがラブソング、これが戦時下だったら歌うだけで軟弱な非国民として弾圧された。敵国欧米の歌も同様だった、歌えるのは軍歌だけ、という暗い時代がかつてこの国にはあった。

 この頃の若い人は政治に興味は無いと簡単に言ってのけるが、その間に偏った考えの政治家と私欲に溺れた一部企業家によってひたひたと目立たぬように平和憲法は蝕まれてゆくんだ。


 興味を無くさせている一因は大人の側にもある、代謝のないあまりに長すぎる自民党の一党支配や官僚や政治家の連綿と繰り返される汚職が絶望感だけをあたえてしまった。


 だからといってこのままではいけない。よく“自分の一票じゃ何も変わらない”と選挙を棄権するが、だったらなぜ考えを人に伝え、あるいは歌に乗せ二乗三乗にしようとしないなのだろうか。せめて音楽を愛する人達だけでも、そう行動できればと考える。


 気が付いたときはもう遅いのだ、勢いがついてしまうと憲法というものはそんなに簡単に元に戻せるものじゃない。だから普段から意識して国会の動きに目を向け、その意思表示としてて投票所に足を運ぼうじゃないか。


 60年もの長きにわたり直接戦争に関与していない国は珍しく、おまけに適当に豊かで平和ボケするのも無理からぬことかも知れない。


 がしかし自由と平和というものは空気のようにいつでも身の回りにあるものではない。多くの人々が血を流し死をかけてこそ、手に入れることができたものなのだという事を心の片隅に置いておこう。失って初めてその大切さに気づく、という愚かなことを繰り返さないように。

 




 大声で歌を唄い自由にギターを弾ける時代がいつまでも続くことを願ってやまない。