sarah‐mercy

sarah‐mercy

イエスの愛と共に
猫にも花にも愛は注がれている

 

からの続きです

 

「 質問と答え」<Q&A-> 

 

        https://ichthys.com/mail-eschatology-issues161.htm 

        ロバート・D・ルギンビル博士著 からの抜粋翻訳 

 

質問 #6: 

では、「いのちの書」についてはどうお考えでしょうか。

これはしばしば、天にある文字どおりの書物で、生者や死者、

また救われた者たちの名前が記されているものだと考えられていますが、

「同じ名前の人はたくさんいるではないか」と疑問に思う人もいます。

もしかすると、地上での名前そのものではなく、

それぞれに固有の識別のようなものが記されているのでしょうか。

それとも、そもそも文字どおりの書物ではなく、単なる比喩なのかもしれません。

 

たとえば、神が常にすべてを把握しておられる

(神は全知であり、誰が死ぬか、誰が救われるか、

あるいは信仰から離れるかを知っておられる)ということを

表す言い方なのかもしれません。

このことについて、あなたはどう思われますか。

これは、この世にいる間には分からないままの事柄の一つなのでしょうか。 

 

 

返信 #6: 

はい、「いのちの書」は存在します。該当箇所参照) 

 

 何一つ汚れたものはそこに入ることはなく、

 忌むべきことや偽りを行う者も決して入ることはない。

 ただ、小羊のいのちの書に名が記されている者たちだけが入るのである。

黙示録21章27節/NIV訳;

 詩篇69篇28節; ピリピ4章3節黙示録3章5節,13章8節,17章8節,20章12節,20章15節参照)

 

「いのちの書」には、もともとすべての人間、すなわち神が創造された

すべての人間の霊の名が記されていましたが、

不信仰な者たちは、主を拒んだことによってその書から消されるのです該当箇所参照) 

 

 しかし今、どうか彼らの罪をお赦しください。

 もしそうでなければ、どうかあなたがお書きになったあなたの書から、

 私の名を消し去ってください。」

 主はモーセに言われた。

 「わたしに罪を犯した者を、わたしの書から消し去るのである。」

出エジプト32章32–33節/NIV訳) 

 

混乱について言えば、私たちの神は(適切な言葉が他に見当たりませんが)

私たちの小さな思いでは想像もできないほど「大きな」方です。

神は宇宙の最果てにあるすべての素粒子の動きの一つ一つを、

初めから終わりまで定められました。

そしてこれまで起こったすべてのこと、これから起こるすべてのことも同様です。

すべては神の完全で全体を見渡したご計画の中にあります――

そうでなければ、それは起こり得ないのです。

ですから、神のかたちに造られた存在という(それに比べればはるかに少ない)数を

把握することなど、神にとってはまさに容易なことなのです。 

 

 「二羽の雀は一アサリオンで売られているではないか。

 だが、その一羽でさえ、

 あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはない。」

マタイ10章29節/NKJV訳) 

 

イエスにあって 

ボブ・L. 

 

 

質問 #7: 

こんばんは。 

私はいつも、創世記には

「イスラエルを祝福する者を神が祝福し、イスラエルを呪う者を神が呪う」

と書かれていると聞いてきました。

そこでその箇所を読んでみると、その祝福はイスラエルというより、

アブラハムに与えられているように見えました。

聖書では「アブラハムのうちにある」ことや「アブラハムの子孫である」ことが

救いに関連して語られていることも知っています。

そうすると、その祝福は肉体的・政治的なイスラエルではなく、

霊的イスラエルに対するものではないのでしょうか。 

 

また、終わりの時の預言の中に、イスラエルが一夜にして生まれるというものがあり、

その時代に生きている世代が神の御国を見ることになるとあります。

これは、イエスがイスラエル/世界の王として千年王国を始められる最初の日に、

イスラエルが文字通り一夜にして生まれることを指している可能性はあるのでしょうか。

イエスはハルマゲドンの直後に降臨し、文字どおり統治を開始されます。

そうだとすれば、それは1948年に「一夜にして誕生した」

政治的国家イスラエルを指しているのではない可能性もあるのでしょうか。

もしそうであれば、現在のイスラエルはどのように理解すべきなのでしょうか。

何の関係もないのでしょうか。 

しかし一方で、

イスラエルの聖書的な国境の元の土地とのつながりがあるようにも感じています。

1948年に再び国ができて以来、何らかの神の守りと摂理があったように思えるのです。

彼らは信じがたいほどの困難の中で生き延びてきましたし、

神が彼らを守っておられるように感じずにはいられません。

また、イスラエルの地を分ける者を神が呪うという聖句もあると聞いています。

 

さらに、大艱難期の間には「信じるイスラエル」

荒野で特別な守りを受けるという預言もありますし、

黙示録には14万4千人のユダヤ人の証人についての預言もあります。

彼らは二人の預言者(おそらくモーセとエリヤ)によって導かれるとも言われています。

そのようなことが起こるには、イスラエルという存在が必要なはずです。

ですから、1948年のイスラエルを、創世記の「一夜にして」の預言の

イスラエルとして見るべきなのかどうか、よく分からなくなっています。 

 

あなたのご意見として、イスラエルに対する正しいクリスチャンの姿勢とは

どのようなものでしょうか。

私はイスラエルを支持する側にいますが、盲目的に支持しているわけではなく、

現在の政治的イスラエルのすべての決定を支持しているわけでもありません。

ただ、彼らが守られ、導かれるように祈りたいという思いがあります。

これは聖書的な責任なのでしょうか。 

キリストにあって 

 

 

返信 #7: 

創世記12章3節でアブラハムに与えら れた約束は、

彼の子孫にも与えられています。

(すなわち、彼から生まれたイスラエル民族、そして特にメシア:ガラテヤ3章16節

創世記12章2節で神が「あなたを大いなる国民とする」と言われたときにも、

そのことが示されていますし、これはこの箇所だけに見られるものではありません。 

 

 『彼は伏し、獅子のように横たわる。 

 雄獅子のように、だれが彼を起こし得ようか。 

 あなたを祝福する者は祝福され、 

 あなたを呪う者は呪われる。』  

民数記24章9節/NKJV訳) 

 

もちろん、この原則は聖書全体を通して繰り返し確認されており、

人類の歴史の中でも実際に示されてきました。(「反ユダヤ主義」の項を参照してください) 

 

現在のイスラエル国家についてですが、

メールページにある「終末論の諸問題(Eschatology Issues)

最近二十から三十の投稿を読まれるなら、

この問題が頻繁に取り上げられていることが分かるでしょう。

要点は次のとおりです。

すなわち、「イスラエルから出た者すべてがイスラエルなのではない」

ローマ9章6節とあるように、

神はイスラエルの中でも”信じる者””信じない者”とを明確に区別しておられます。

 

しかし、不信仰な者たちであっても

「先祖たちのゆえに愛されている者たち」であり、ローマ11章28節

「神の賜物と召命とは取り消されることがない」ローマ11章29節)のです。

したがって、不信仰な者たちは神の御心の中にあるとは言えませんから、

現在の世俗国家としてのイスラエルが、

主によって直接支えられている国家であるとは言えません。

 

しかし、それでもユダヤ人に対して敵対的な態度を取ることは、

たとえ不信仰な者たちであっても、神の立場を侵害することになり、

神の大きな不興を招くことになります。

これはイスラエルに対して与えられた約束でもあり、

歴史によっても示されてきたことです。 

 

はっきり申し上げておきますが、「1948年」という年には、

霊的にも聖書的にも、また特別な意味においても、

何の預言的意義もありません。

十字架から艱難期の開始までの間の出来事についての預言は存在しないのです。

 

イスラエルが再び集められるのは、

メシア艱難期の終わりに再臨されるときであり、

その時にはユダヤ民族全体が一度に集められます。

現在のように一部だけが集められている状態ではありません。

その時こそが、地理的な意味で「神のイスラエル」が存在する唯一の時となるのです。

(該当箇所参照) 

 

イエスにあって 

ボブ・L. 

 

ーーーーーーーーーーーーーー

ご意見、ご感想、また右差しオーディオクラスに関心のある方は、

shizuku365@proton.meまでご連絡ください。

ーーーーーーーーーーーーーー

 

 わたしたちは、この事を知っている。

わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。

それは、この罪のからだが滅び、

わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。
 

 それは、すでに死んだ者は、

罪から解放されているからである。
 

 もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、

また彼と共に生きることを信じる。

(ローマ6:6~8)

 

感謝します

*:..。o○☆゚・:,。*

 

 

私たちの中にある古き自分

保身の為の言い訳ばかりの自分

イエス様に罪が赦され、解放されているにも関わらず

尚、罪の奴隷のままにされることがないように

御霊にあって自由になり

日々、新しいものとされますようにと

 

お祈りしますお願い

*:..。o○☆゚・:,。*

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                 きくらげ  はんぺん

今日もありがとう~ラブラブ

 

からの続きです

 

「 質問と答え」<Q&A-7> 

 

        https://ichthys.com/mail-eschatology-issues161.htm 

        ロバート・D・ルギンビル博士著 からの抜粋翻訳 

 

質問 #4: 

ルギンビル博士へ 

ちょっとした見落としかもしれない点(それと追加の質問)について確認したいと思います。 

 

人身売買(特に性的人身売買)と戦う状況においては、

政治的行動は状況次第では許されるのでしょうか。

たとえば、多くの信者が政府で働いています。

政府職員の中には、人身売買と戦うことを職務として給料を受け取っている人もおり、

それが生活の糧の大きな部分を占めています。

これは政治的行動とは考えないのではないでしょうか。

私には、それは軍隊で戦ったり、法執行機関で犯罪と戦ったりする職業(刑事など)

本質的に変わらないように思えます。

この点について同じ理解に立っているか確認したいのです。 

 

まったく別の話題ですが、以前、救いにおいて「行い」が信仰の証として必要なのか、

それとも行い自体を信頼してしまうことになるのか、という議論がありました。

たとえば、水のバプテスマが救いに必要だと信じている人々がいます。

しかし、その中にも二つの異なるグループがあるように思えます。 

 

第一のグループは水のバプテスマそのものに何か魔術的な救いの力があると信じており、

それゆえに救いのために必要だと考える人々です。

もし本当にそう信じているなら、その人は実際には救われていないのではないか、

と私は思います。 

 

しかしもう一つのグループは水のバプテスマ自体が救うとは考えておらず,

(救うのはキリストへの信仰だけだと認めている)

ヤコブ2章26節「行いのない信仰は死んだものである」という理由から、

水のバプテスマは必要だと考えています。

言い換えると、水のバプテスマを拒む人は、本当に救われていない証拠だと考えるわけです

彼らは、「主の命令に従いたくない人がいるだろうか」と言うかもしれません。

(聖書のどこにも命令されていないとは思いますが、

議論のために彼らの立場としてこのように表現しています)

この第二のタイプの人々(第一のグループとは区別して)は、

救われているとお考えでしょうか。 

キリストにあって 

 

返信 #4: 

警察官や検察官が犯罪組織やネットワークの取り締まりに従事するのは当然のことです。

それが彼らの職務だからです。

しかし、それは私たちの職務ではありません。(彼らのために祈ることは別として)

こうした問題について、キリスト者による運動がいかに的外れになり得るかを

見たいのであれば、「禁酒法(Prohibition)の例を見れば十分です。

それは多くの企業や人生や家庭を破壊し、組織犯罪を急増させました……

そして、おそらく酒を飲もうと決めていた人が、

酒を手に入れるのを一人として止めることはできなかったでしょう。 

 

さて、「信仰の証として行いが救いに必要である」という点についてですが、

これは全く異なる二つの事柄を混同しています。

本物のキリスト者の良い行いは、その人の信仰の証拠です。

これこそがヤコブの言いたかったことのすべてです。

しかし、行いは救いのために必要ではありません。

むしろ、もしカインのように、自分の行いによって救われようとして神に差し出すなら、

それは救いに対して敵対するものとなります。

次の箇所を注意深く読めば明らかです。 

 

(8) あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われたのである。

 それは自分自身から出たことではなく、神の賜物である。

(9) 行いによるのではない。

 それは、だれも誇ることがないためである。

(10) 私たちは神の作品であって、良い行いをするために、

 キリスト・イエスにあって創造されたのである。

 神は、私たちがその中を歩むようにと、

 あらかじめそれらを備えておられたのである。

(エペソ2章8–10節/NKJV訳) 

 

人々はしばしば最後の部分を見落とします。

敬虔で本物の良い行いは、救われて神の恵みに応答した結果であって、

救いの原因ではありません。

律法主義者はこれを完全に逆に考えています。

すなわち「私たちが行うから神が祝福する」と考えますが、

実際には

「神が行ってくださり、

その結果として私たちが行えるよう祝福してくださる」のです。 

 

ここで次の問題は、「良い行いとは何か?」ということです。

その答えは、「神が実際に私たちにしてほしいと望んでおられること」です。

私たちはこれを簡潔に「霊的成長、前進、そして実り」と呼んでいます。

これは前進することを含みますが、同時に聖別(きよさ)も含みます。

すなわち、神が望まれることを行い、望まれないことを避けることです。 

 

では、神は私たちが水のバプテスマを授けたり受けたりすることを

望んでおられるでしょうか。

この問題についてはこれまで何度も扱ってきましたし、

Ichthys には多くの資料があります。リンク参照)

答えは非常に明確に「いいえ」です。

したがって、それを行うことは、神が望んでおられないことをすることになり、

それは良い行いの反対です。

それは律法主義であり、したがって霊的に非常に危険なものです。 

 

「昔からそうしてきた」という理由で、<水のバプテスマを受けようとしない>

聖書を信じているキリスト者に罪悪感を抱かせようとする人々がいるからといって、

私たちが実際に罪悪感を抱く必要があるわけではありません。

私たちはこの点でも、また関連する点

(たとえば、実際の成長に役立たない教会に通うことなど)においても、

罪を犯しているわけではないのです。 

 

ですから、「主の命令に従いたくない人がいるだろうか」という問いに対しては、

私たちはこう答えます。

「もちろん従いたいし、できる限り従っている」

そして私は逆にこう問います。

「なぜあなたがたは、律法に戻り、規則を作り出し、『主がこう言われた』と、

主が言っていないことを主の言葉として語ることによって、

主の命令と御心に反しているのですか?」。 

 

 

 「彼らの預言者たちは、しっくいを混ぜずに壁を塗る者のように、

 むなしい幻を見、偽りの占いをして、

 『神である主はこう言われる』と言うが、主は語っておられない。」

(エゼキエル22章28節/NKJV訳) 

 

誰が救われているかは、神のみが知っておられます。

しかし、私たちは霊的に疑わしい行動に関わっている人々や団体から

距離を置くべきであることを、十分知っています。 

 

仕事の状況はいかがですか。 

イエスにあって 

ボブ・L. 

 

 

質問 #5: 

こんにちは。 

ご家族ともどもお元気のことと思います。

改めて、キリストのからだのためのあなたの多大な働きと献身に感謝したいと思います。Ichthys は、私にとっても私の信仰にとっても本当に大きな祝福となっています。

私は朝に聖書を読み、仕事中の時間があるときには一日を通して Ichthys を読んでいます。

私の父は神学の修士号を持っており、現在博士号取得に向けて勉強していますが、

あなたのサイトは彼の学びにも大いに役立っています。 

 

今日は、しばしば心に浮かぶことがあり、あなたのご意見を伺いたいと思いました。

もし的外れな考えや非合理的な論理でしたら、お許しください。

私たち信者は、信仰やキリストとの関係において成長していくとき、

悪しき者とその手下からの反対や攻撃を受けることがあると知っています。

しかし、私自身は霊的成長に対して、

そうした反対をまったく経験していないように思えるのです。

 

それで、自分は本当に正しく成長しているのだろうか?と考えてしまうことがあります。

妻も子どもたちも、そして私自身も、本当に祝福されています。

皆健康で幸せですし、必要以上の資源さえ与えられています。

もしかすると、反対はあっても、それほど気にしていないだけなのかもしれません。

私は疑いなく、天の父が私たちに必要なものを、御心の時に必ず備えてくださると

知っているからです。

三人の娘がいる家庭ですので、もちろん普通の問題はありますが、

特別に大きなストレスや信仰を試されるような出来事だとは感じていません。 

 

考えすぎているだけかもしれませんが、あなたのご意見を伺いたいと思いました。

私は、どんな状況や問題も神からの試みとして受け止め、

家族の目を常に神へと向けさせ、正しく理解し、

信仰によって乗り越えるよう努めています。

もしかすると、大きな試練がこれから来るのかもしれません。

しかし、それが来るなら、神に頼って私と家族を支えていただき、それに耐え、

それを信仰を強める機会、そして信仰が本物であることを示す機会として

用いたいと思っています。

神の祝福がありますように。

お忙しい中お答えくださることに、あらかじめ感謝いたします。 

 

 

返信 #5: 

ご連絡いただき、うれしく思います。 

すべてが順調に進んでいるとのこと、私もとても喜んでいます。

それを問題として見る必要があるのかという点についてですが、

もし現在、厳しい試練を受けていないのであれば、それは現時点では成長のために

それが必要ないか、あるいは特に有益ではないからかもしれません。

主は、私たちすべてに対してそうであるように、必要な時に必要なものを備えてくださいます。それが訓練であれ祝福であれ、試練であれ休息であれ、同じです。 

 

普通は、これとは逆の内容のメールを受け取ることのほうが多いのです。

すなわち、自分は限界を超えるほど試されていると感じ、その結果として自分自身を責め、

ヨブのように過去を振り返って原因を探そうとする信者たちからです。

ヨブのことを思い出してみてください。

彼は測り知れないほど祝福され、その後測り知れないほど試され、

そして再び測り知れないほど祝福されました。

私たちのほとんどは、彼が最初や最後に受けたほどの祝福も、

またその間に受けたほどの試練も経験しません。

ヨブはそれらすべてをよく対処しました。

(彼の「友人たち」に悩まされるまでは、試練にもよく耐えました)

 

もし私たちが試練を受けるとしても、それは困難ではあってもヨブほどではないでしょう。

もし祝福を受けるとしても、それはすばらしいものであっても、

彼ほど大きなものではないでしょう。

私たちが主と親しく歩み続けるなら、主はどのような状況を乗り越えるにも

必要なものを与えてくださいます。

ですから、試練からの救いを心配する必要も、(試練はいずれ必ず来ます)

試練がないことを心配する必要もありません。

(遅かれ早かれ、私たちは皆試されるのです)

むしろ、主がすべてを最善の形で整えておられることを信頼すべきなのです。 

 

(12) 私は乏しい中にあることも知っており、豊かな中にあることも知っている。

 私は、満ち足りることにも、飢えることにも、豊かであることにも、

 乏しいことにも、あらゆる場合に対処するすべを、すでに学んでいる。

(13) 私を強くしてくださる方によって、私はすべてのことに耐える力を持っている。

(ピリピ4章12–13節) 

 

……そして、もし私たちが艱難期に入ることになれば、

そこには十分すぎるほどの試練と試しが待っていることでしょう。 

 

イエスにあって 

ボブ・L. 

 

<Q&A-8>に続く下差し

 

ーーーーーーーーーーー

ご意見、ご感想、また右差しオーディオクラスに関心のある方は、

shizuku365@proton.meまでご連絡ください。

ーーーーーーーーーーー

 

 

わたし(バプテスマのヨハネ)は悔改めのために、

水でおまえたちにバプテスマを授けている。

しかし、わたしのあとから来る人(イエス・キリスト)

わたしよりも力のあるかたで、

わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。

このかた(イエス・キリスト)は、

聖霊とによっておまえたちに

バプテスマをお授けになるであろう。

(マタイ3:11)

 

感謝します

*:..。o○☆゚・:,。*

 

朝からまとまった雨が降っていますね

週明けの通学、出勤、またはお出かけの方の足元が

守られますますように

また、山火事の消化の雨となりますように

お祈りしますお願い

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                きくらげ & はんぺん

今日もありがとう~ラブラブ

 

4月22日からの続きです

 

「 質問と答え」<Q&A-> 

 

https://ichthys.com/mail-eschatology-issues161.htm 

ロバート・D・ルギンビル博士著 からの抜粋翻訳 

 

質問 #2 

ルギンビル博士へ 

お元気でお過ごしでしょうか。 

 

さて、あなたも聞いておられるかもしれませんが、__ が銃撃されました。

(悲しく、また残念なことです)

私は今まで彼のことを知りませんでしたが、彼はキリスト教右派の政治活動家であり、

信仰、道徳的問題、そして政治に関係するさまざまな主題について、

リベラルな大学や大学院の学生たちと討論していた人物であったと聞きました。

もちろん、彼の信念や価値観のいくつかは聖書的なものでした。

(そして、彼が地上にいた期間に行った

すべての真実の善い働きのために、彼は大きな報いを受けるだろうと私は信じています)

 

しかし私は、投票しない者は神に対して反逆しているとする彼の立場に異議を感じました。

彼はエレミヤ29章7節を、信者は投票し政治に関与すべきであることを

「証明する」ための主要な「証明聖句」の一つとして用いています。

私は、この節が彼の主張を証明しないことは理解していますが、

「どのようにしてそれが証明にならないのか」という点を、

頭の中でうまくまとめることができません。

彼はこの節を文脈から取り外して用いている、とあなたは思われませんか。

彼は、聖書には政治の主題に関連することが非常に多く語られており、

それが私たちが政治に関与すべきことを裏づけていると述べましたが、

彼がそれらの多くの箇所をどこから持ってきているのか、私には分かりません。

ある人々は、ダビデやヨセフのように、

多くの旧約の人物が高い指導的地位にあったことを挙げています。

(これは思いつく例のうちの、ほんの二つにすぎませんが) 

 

__は、教会は世界で起こっていることを気にかけるべきであると述べています。

もちろん、私たちは気にかけるべきです。しかし、それが本当の問題ではありません。

なぜなら、気にかけること、(それは最大限の霊的成長によって最もよく達成されます)

そしてそれゆえ、自分の国、その指導者たち、そして政府のために祈ることは、

政治に関与することと同じではないからです。

問題は、この世界に非常に広く存在している悪に対して、

私たちはどのように反応すべきか、ということです。

霊的成長、前進、そして生産によってです。

人々の前で自分の光を輝かせ、地の塩となる方法は存在しますが、

政治への関与はその解決ではありません。

ラオデキヤへのキリストのメッセージは、私たちに悔い改めるように告げています。

したがって、本当の問題が悔い改めである黙示録3章19節にもかかわらず、

神が実際に私たちにそうすることを望んでおられるかのように、

教会が政治に自らを押し込むことに、どのような権利や根拠があると

教会は考えているのでしょうか。教会は霊的に変わる必要があります。 

 

さて、私はこのような言い方をすべきではないことは理解していますが、

真に地の塩であることは、ある意味において、より多くの不信者をキリストへ導き、

また私たち一人一人に割り当てられている奉仕を通して信者が霊的に成長するのを

助けることによって、この世界をより良い場所にしようとすることだと

言えるのではないでしょうか。

もし教会がそれほど生ぬるくなく、自分の務めを正しく果たしていたなら、

私たちは自然とより敬虔な指導者を持つことになったのではないでしょうか。

そして、その指導者たちの中に信者がいたとしたら、

そのような地位にいることは間違いなのでしょうか。 

 

私が言おうとしているのは、

教会は霊的な方法によって世界に働きかけ存在であるということです。

(そして、それは結果として、多くの積極的な変化が世俗的および政治的領域において

自然に起こることにつながる可能性があります)

(私たちはそれには同意していませんが)

人は政治に関与すべきだと信じているクリスチャンたちは実際にいます。

私は、彼らの目標は、私たちのものと似ているか、

もし同じでないとしても非常に近いものだと思います。

(たとえ、私たちが地上に天国を作ることは決してできず、

最終的に「すべてを正す」ことができるのは神のみであるとしても)

しかし、大きな違いは、私たちすべてが目指しているその目標を達成しようとしている方法、

手段、あるいはやり方にあります。霊的手段は政治的手段に勝ります。

(ちょうど、同じ木を切り倒すためには普通の釘打ち用の金づちよりも

斧の方が明らかに優れているのと同じです。金づちは木を倒すには単に役に立たないのです) 

 

私は、より神を敬う残された者たちが存在するならば、

犯罪や道徳的問題は自然と少なくなるだろうと思います。

たとえそれらのものが完全に消え去ることは決してないとしてもです。

そして、千年王国の終わりに起こるゴグとマゴグの反乱は、

このことを非常にはっきりと証明するでしょう。

なぜなら、神の知識が至るところに満ちている、

ほとんど完全で「エデンの園のような」状況でさえも、

悪魔の大義の最も頑固な支持者たちを思いとどまらせるには十分ではないからです。 

 

__ は、もし政治に関与しないなら、

あなたはそれらを気にかけていないのだと信じていました。

(それはおそらく正しい言い方でしょう)

しかし彼らは、それを、この世界で何が起こっているかを気にかけていない、

あるいは知らないことと同一視しています。もちろん私たちクリスチャンは、罪深い行為や、

起こっているすべての苦しみや痛みを気にかけるべきです。

私にとって本当の問題は、「サタンの世界体系に対して、私たちはどのように反応すべきか」

ということです。

その答えは、霊的成長、前進、そして生産によってです。

そして政治は、それらのことにとって逆効果となります。

(身体的に関与する場合であれ、感情的に関与する場合であれ) 

 

しかしその後に出てくるのが、「政治への関与」とはどこで線を引くのか、という問題です。

私にとって、投票すること自体には何の問題もありません。

(もっとも、教会の悔い改めがない限り、それがこれから起ころうとしていること、

すなわち艱難期を変えることにはならないでしょうが)

感情的な関与はどうでしょうか。それも含まれます。身体的な関与はどうでしょうか。

それも含まれますが、しかしどのようにしてでしょうか。

私は、行進に参加したり、さまざまな種類の公職に立候補したりすることなどだと思います。

(以下のリストを参考として挙げています) 

 

しかし、(ほんの一つか二つの例として)性的人身売買と戦ったり、

被害者に奉仕したりすることは、何らかの意味で「政治」と見なされるのでしょうか。

私はそうは思いません。

(実際に、そのような働きのために召されており、

彼らに対する宣教師となる信者たちが存在すると私は本当に信じています)

軍隊についてはどうでしょうか。

特に、他国が危険な状況で交戦しているきに支援する場合です。

はい、軍務を(自国に仕える、あるいは恩返しをする方法として)

政治への関与の一形態と見なす人々もいます。

そして私は、召されて奉仕する信者たちがいることを疑っていません。

そうであるならば、私たちは「政治への関与」とは何を意味するのか、

そしてどこで線を引くのかを、明確に定義する必要があるのではないでしょうか。

なぜなら、もしそれをしないなら、あなたや私のような人が、

神が実際に望んでおられるかもしれない場所で、

自分の霊的賜物を用いて助ける人々に反対しているのだと

考えてしまう人が出てくるかもしれない、ということが私の懸念だからです。 

 

私は、これが何を意味するのかについて、簡単にGoogle検索をしてみました。

そして限られた答えから、完全ではないリストを得ました。

政治への関与には、投票、選挙運動、寄付(候補者または政治団体への)

役人への連絡、抗議、請願、そして政治団体への参加が含まれます。 

キリストにあって敬具 

 

返信#2: 

私は、あなたの分析に全面的に同意します。投票することには何の問題もありませんし、

あなたが最後の段落で挙げている他の活動も、罪ではありません。

私の要点は、霊的成長、前進、そして生産が、はるかに重要であるということ、

そしてまた、実際に自分の国を助けるという点においても、

はるかに実際的であるということです。 

なぜなら、神は何でもおできになるからです。

しかし、人間は、神の助けなしには、ほんのわずかなことしかできません。

そして、もし私たちが話しているその個々のクリスチャンが、

そもそも霊的に成熟していないのであれば、

彼らが成し遂げようとしているそのわずかなことが、

果たして正しいことであるのか、また正しい方法で行われているのか、

その可能性はどれほどあるでしょうか。 

 

これらの問題を扱っている箇所へのリンクを、ここにいくつか挙げておきます<英文>: 

Politics versusSpiritual Growth I (政治と霊的成長 I) 

Politics versusSpiritual Growth II (政治と霊的成長 II) 

Politics versusSpiritual Growth III (政治と霊的成長 III) 

Politics versusSpiritual Growth IV (政治と霊的成長 IV) 

 

私は、この人物の運動からは、十分に距離を置くことを強く勧めます。

私は亡くなった人を中傷したくはありませんが、霊的安全の観点から言うなら、

私は彼と彼の「活動」について、非常に憂慮すべきいくつかのことを聞いています。

それらは、あえて言うなら、明らかにキリスト者的ではないものです。 

 

政治家や利益を狙う詐欺的な人物が、自分たちの被害者をよりよく利用するために、

羊の衣をまとって身を包むということは、よくあることです。

クリスチャンは羊であり、主が狼について警告しておられ、

また、蛇のように賢くあるべきであると

(そして同時に鳩のような純真さをもって行動するべきであると:マタイ10章16節

明確に語っておられるにもかかわらず、しばしば非常にだまされやすい傾向があります。 

 

イエスは答えて言われた、

「だれにも惑わされないように気をつけなさい。」

(マタイ24章4節) 

 

イエスにあって、 

BobL. 

 

質問 #3 

ご注意くださってありがとうございます。

そしてあなたの言うとおりで、彼は羊の衣を着た狼であった可能性があります。

彼が主と共にいるかどうかについて、私が判断して断言することはできませんが

私には気にかかることがあります。 

 

私が彼のことを知ったのは、彼の死がニュースに出たときでした。

しかし、彼から距離を置く者は神への反逆の中にあると言うような人に対しては、

気を付けていたいです。

(それは、このことだけで自動的にその人が不信者であると言っているのではありませんが、

そうした人が本当に救われているかどうかという意味です)

あなたのメールを読んだあと、彼についてもう少し調べてみましたが、

確かにあなたの言うとおり、彼はいくつかの憂慮すべき見解を持っていました。

(最初は私が気づいていなかったものです)

しかしそれを見つけるのに、まったく時間はかかりませんでした。 

 

教会が政治に関与すべきかどうかについての彼の動画の一つを初めて見たとき、

私は非常にいら立ちを覚え、25分の動画を、いら立ちのために絶えず一時停止せずには

聞き続けることができませんでした。

(それは、実際にはあなたからのメール返信を受け取る前のことでした)

なぜ私はあの動画を見ることを自分に強いたのか分かりませんが、

それは完全にくだらないものでした。

多くの人々が、まるで彼がキリスト教の殉教者であったかのように彼を擁護していますが、

私はそうは思いません。

弁証(apologetics)が彼らの召しであるなら、

人々が道徳的また霊的な主題について討論することに、私は何の問題も感じません。

しかし、この人物の政治への関与と全体的な信念は、控えめに言っても憂慮すべきものでした。

ええ、彼についてさらに知らせてくださって、ありがとうございます。 

 

前のメールで私が挙げた質問のいくつかに関してですが、

エレミヤ29章7節(投票や政治への関与を強制するために、

ある人々が用いる「証明」箇所)を、あなたはどのように解釈されますか。 

 

何が政治への関与であり、何がそうでないのか、その線はどこで引くべきでしょうか。

性的人身売買と戦うことや、被害者に奉仕することを、

あなたは否定的なものだとは思われませんか。

私はそうは思いません。

なぜなら、警察や軍隊に関与している信者たちについてはどうでしょうか。

それは、私たちが考える意味での否定的な政治への関与ではありませんが、

ある意味ではそれも政治への関与と見なされることがあるからです。

私たちが、この世におけるあらゆる種類の関与が悪い考えであると

信じているわけではないのです。 

 

そういうわけで、私たちが「政治への関与」と言うとき、

それが何を意味するのかを明確に定義すべきだと、あなたは思われますか。 

 

これを手短にあなたにお伝えしようと思いました。

そして、もしあなたにとって何らかの慰めや励ましになるのであれば、

私は(いくらかの時間、研究、祈り、そして熟考ののちに)

ヤコブがへブルの後に書かれたのであり、伝統的見解が言うようにそれよりかなり前ではない、

というあなたの見解に同意するようになりました。

それは完全に理にかなっており、私はそれに同意しない理由が見当たらないと感じました。 

キリストにあって 

 

返信 #3  

へブル/ヤコブについての信頼の言葉を、ありがとうございます。 

 

「性的人身売買と戦うことや、被害者に奉仕すること」に関してですが、

私は、これらはまったく別の二つの事柄であることに注意したいと思います。

ゆるやかな例えを用いるなら、奴隷制度は、

私たちの多くが完全に忌まわしいと感じるものですが、

もちろん古代世界にはそれが存在していました。

パウロや他の人々は、それを根絶するための何らかの政治運動を提唱したことが

あったでしょうか。

まったくありませんでした。彼らは、自由人に対してと同じように、

奴隷たちにも奉仕するために自分たちにできることをしたでしょうか。

はい、彼らはそうしました。

それは、彼らに福音を与え、霊的に前進させることを目的としてであり、

単に彼らの束縛の中で慰めを与えること自体を目的としたのではありませんでした。

なぜなら、すべての人に必要なのは、救われ、そして成長することだからです。 

 

私は、「すべての人に善を行う」ことに努めることに何の問題も感じませんが、

私はその節をこう締めくくりたいと思います。

「特に信仰の家族に属する人々に対して」と。

このことによって、不信者に対して善を行うことは、

主として彼らをイエス・キリストへの信仰へ導くことを目的としている、

ということを指摘しておきます。 

 

しかし、政治的な行動を取ることは、私たちが本来取り組むべきことではありません。

あなたも私も、国内外を問わず、数十にも及ぶさまざまな悪しき行為や犯罪的な企て、

そして目に余る不正を、容易に、しかもすぐにいくつも挙げることができるでしょう。

もし私たちが、それらを正そう、「世界を正そう」として取り組むなら、

神がその中におられる場合にのみ、私たちは何らかの成功を収めることができるでしょうし、

もしそれが神が私たちに望んでおられることであるなら、

確かに神はその中におられるでしょう。

もしそれが神が私たちに望んでおられることであるなら、

確かに神はその中におられるでしょう。

しかし、もしそれが神が私たちに望んでおられることでないなら、

もし「悪と戦う」ことによって、私たちが実際には悪魔の遊びに加わってしまい、

神が本当に私たちに望んでおられること(成長し、前進し、生産すること)から

自分たちをそらしてしまっているのであれば、

そのとき神はその中におられないでしょう。

そして最終的に、私たちは誰にも何の真の益ももたらさないことになり、

何よりも無益なものになってしまうのは私たち自身でしょう。

神を「助ける」ために政治に過度に関与することは、グノーシス主義を思わせるものです。

ドミニオニズム(Dominionists)<主が再び来られるようにするために、

地上にそれを作り出すことによって、政治的行動を通して「王国をもたらそう」とすること>

(対照:「神の国は、目に見えるかたちでは来ない。」ルカ17章20節

が主張しているように、地上的な政治的手段によって「王国をもたらそう」とすることは、

まさにサタン的なことです。リンク参照) 

 

 また、わたしがあなたがたを捕え移した町の平安を求め、その町のために主に祈れ。

 その町が栄えれば、あなたがたも栄えるからである。

エレミヤ29章7節) 

 

この節の前半は、後半によって説明されています。

私たちはどのようにして自分の国の「平安と繁栄を求める」のでしょうか。

第一に、その国のために祈ることです。(そしてもちろん、私たちは皆そうすべきです)

第二に、私たちは、霊的成長に自分を委ね、奉仕にふさわしい者とする試練の中で前進し、

そして主が私たちに与えてくださる奉仕において、

主のために良い実りを結ぶよう最善を尽くすことです。

もし私たちがそうするなら、私たちは主が与えてくださる連帯による祝福を通して、

一つの国を保つ「塩」となっていくのです。

しかし、自分たちを神の立場に置いて、神のためにそれを「正そう」とすることは、

霊的観点から見て、まったく逆のことです。次のリンクを参照してください: 

 

Politicsand Political Action on the Eve of the Tribulation 

(艱難期直前における政治と政治的行動) 

Politicsversus Spiritual Growth II 

(政治と霊的成長 II) 

 

イエスにあって 

BobL. 

 

<Q&A-7>へ続く下差し

 

ーーーーーーーーーーーーーーー

ご意見、ご感想、また右差しオーディオクラスに関心のある方は、

shizuku365@proton.meまでご連絡ください。

ーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

わたしがあなたがたをつかわすのは、

羊をおおかみの中に送るようなものである。

だから、蛇のように賢く、

鳩のように素直であれ。

(マタイ10:16)

 

良い週末をお過ごしください

お祈りしていますお願い

 

ハナミズキ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

               きくらげ & はんぺん

今日もありがとう~ラブラブ