sarah‐mercy

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イエスの愛と共に
猫にも花にも愛は注がれている

 

からの続きです

 

「 質問と答え」<Q&A-7> 

 

        https://ichthys.com/mail-eschatology-issues161.htm 

        ロバート・D・ルギンビル博士著 からの抜粋翻訳 

 

質問 #4: 

ルギンビル博士へ 

ちょっとした見落としかもしれない点(それと追加の質問)について確認したいと思います。 

 

人身売買(特に性的人身売買)と戦う状況においては、

政治的行動は状況次第では許されるのでしょうか。

たとえば、多くの信者が政府で働いています。

政府職員の中には、人身売買と戦うことを職務として給料を受け取っている人もおり、

それが生活の糧の大きな部分を占めています。

これは政治的行動とは考えないのではないでしょうか。

私には、それは軍隊で戦ったり、法執行機関で犯罪と戦ったりする職業(刑事など)

本質的に変わらないように思えます。

この点について同じ理解に立っているか確認したいのです。 

 

まったく別の話題ですが、以前、救いにおいて「行い」が信仰の証として必要なのか、

それとも行い自体を信頼してしまうことになるのか、という議論がありました。

たとえば、水のバプテスマが救いに必要だと信じている人々がいます。

しかし、その中にも二つの異なるグループがあるように思えます。 

 

第一のグループは水のバプテスマそのものに何か魔術的な救いの力があると信じており、

それゆえに救いのために必要だと考える人々です。

もし本当にそう信じているなら、その人は実際には救われていないのではないか、

と私は思います。 

 

しかしもう一つのグループは水のバプテスマ自体が救うとは考えておらず,

(救うのはキリストへの信仰だけだと認めている)

ヤコブ2章26節「行いのない信仰は死んだものである」という理由から、

水のバプテスマは必要だと考えています。

言い換えると、水のバプテスマを拒む人は、本当に救われていない証拠だと考えるわけです

彼らは、「主の命令に従いたくない人がいるだろうか」と言うかもしれません。

(聖書のどこにも命令されていないとは思いますが、

議論のために彼らの立場としてこのように表現しています)

この第二のタイプの人々(第一のグループとは区別して)は、

救われているとお考えでしょうか。 

キリストにあって 

 

返信 #4: 

警察官や検察官が犯罪組織やネットワークの取り締まりに従事するのは当然のことです。

それが彼らの職務だからです。

しかし、それは私たちの職務ではありません。(彼らのために祈ることは別として)

こうした問題について、キリスト者による運動がいかに的外れになり得るかを

見たいのであれば、「禁酒法(Prohibition)の例を見れば十分です。

それは多くの企業や人生や家庭を破壊し、組織犯罪を急増させました……

そして、おそらく酒を飲もうと決めていた人が、

酒を手に入れるのを一人として止めることはできなかったでしょう。 

 

さて、「信仰の証として行いが救いに必要である」という点についてですが、

これは全く異なる二つの事柄を混同しています。

本物のキリスト者の良い行いは、その人の信仰の証拠です。

これこそがヤコブの言いたかったことのすべてです。

しかし、行いは救いのために必要ではありません。

むしろ、もしカインのように、自分の行いによって救われようとして神に差し出すなら、

それは救いに対して敵対するものとなります。

次の箇所を注意深く読めば明らかです。 

 

(8) あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われたのである。

 それは自分自身から出たことではなく、神の賜物である。

(9) 行いによるのではない。

 それは、だれも誇ることがないためである。

(10) 私たちは神の作品であって、良い行いをするために、

 キリスト・イエスにあって創造されたのである。

 神は、私たちがその中を歩むようにと、

 あらかじめそれらを備えておられたのである。

(エペソ2章8–10節/NKJV訳) 

 

人々はしばしば最後の部分を見落とします。

敬虔で本物の良い行いは、救われて神の恵みに応答した結果であって、

救いの原因ではありません。

律法主義者はこれを完全に逆に考えています。

すなわち「私たちが行うから神が祝福する」と考えますが、

実際には

「神が行ってくださり、

その結果として私たちが行えるよう祝福してくださる」のです。 

 

ここで次の問題は、「良い行いとは何か?」ということです。

その答えは、「神が実際に私たちにしてほしいと望んでおられること」です。

私たちはこれを簡潔に「霊的成長、前進、そして実り」と呼んでいます。

これは前進することを含みますが、同時に聖別(きよさ)も含みます。

すなわち、神が望まれることを行い、望まれないことを避けることです。 

 

では、神は私たちが水のバプテスマを授けたり受けたりすることを

望んでおられるでしょうか。

この問題についてはこれまで何度も扱ってきましたし、

Ichthys には多くの資料があります。リンク参照)

答えは非常に明確に「いいえ」です。

したがって、それを行うことは、神が望んでおられないことをすることになり、

それは良い行いの反対です。

それは律法主義であり、したがって霊的に非常に危険なものです。 

 

「昔からそうしてきた」という理由で、<水のバプテスマを受けようとしない>

聖書を信じているキリスト者に罪悪感を抱かせようとする人々がいるからといって、

私たちが実際に罪悪感を抱く必要があるわけではありません。

私たちはこの点でも、また関連する点

(たとえば、実際の成長に役立たない教会に通うことなど)においても、

罪を犯しているわけではないのです。 

 

ですから、「主の命令に従いたくない人がいるだろうか」という問いに対しては、

私たちはこう答えます。

「もちろん従いたいし、できる限り従っている」

そして私は逆にこう問います。

「なぜあなたがたは、律法に戻り、規則を作り出し、『主がこう言われた』と、

主が言っていないことを主の言葉として語ることによって、

主の命令と御心に反しているのですか?」。 

 

 

 「彼らの預言者たちは、しっくいを混ぜずに壁を塗る者のように、

 むなしい幻を見、偽りの占いをして、

 『神である主はこう言われる』と言うが、主は語っておられない。」

(エゼキエル22章28節/NKJV訳) 

 

誰が救われているかは、神のみが知っておられます。

しかし、私たちは霊的に疑わしい行動に関わっている人々や団体から

距離を置くべきであることを、十分知っています。 

 

仕事の状況はいかがですか。 

イエスにあって 

ボブ・L. 

 

 

質問 #5: 

こんにちは。 

ご家族ともどもお元気のことと思います。

改めて、キリストのからだのためのあなたの多大な働きと献身に感謝したいと思います。Ichthys は、私にとっても私の信仰にとっても本当に大きな祝福となっています。

私は朝に聖書を読み、仕事中の時間があるときには一日を通して Ichthys を読んでいます。

私の父は神学の修士号を持っており、現在博士号取得に向けて勉強していますが、

あなたのサイトは彼の学びにも大いに役立っています。 

 

今日は、しばしば心に浮かぶことがあり、あなたのご意見を伺いたいと思いました。

もし的外れな考えや非合理的な論理でしたら、お許しください。

私たち信者は、信仰やキリストとの関係において成長していくとき、

悪しき者とその手下からの反対や攻撃を受けることがあると知っています。

しかし、私自身は霊的成長に対して、

そうした反対をまったく経験していないように思えるのです。

 

それで、自分は本当に正しく成長しているのだろうか?と考えてしまうことがあります。

妻も子どもたちも、そして私自身も、本当に祝福されています。

皆健康で幸せですし、必要以上の資源さえ与えられています。

もしかすると、反対はあっても、それほど気にしていないだけなのかもしれません。

私は疑いなく、天の父が私たちに必要なものを、御心の時に必ず備えてくださると

知っているからです。

三人の娘がいる家庭ですので、もちろん普通の問題はありますが、

特別に大きなストレスや信仰を試されるような出来事だとは感じていません。 

 

考えすぎているだけかもしれませんが、あなたのご意見を伺いたいと思いました。

私は、どんな状況や問題も神からの試みとして受け止め、

家族の目を常に神へと向けさせ、正しく理解し、

信仰によって乗り越えるよう努めています。

もしかすると、大きな試練がこれから来るのかもしれません。

しかし、それが来るなら、神に頼って私と家族を支えていただき、それに耐え、

それを信仰を強める機会、そして信仰が本物であることを示す機会として

用いたいと思っています。

神の祝福がありますように。

お忙しい中お答えくださることに、あらかじめ感謝いたします。 

 

 

返信 #5: 

ご連絡いただき、うれしく思います。 

すべてが順調に進んでいるとのこと、私もとても喜んでいます。

それを問題として見る必要があるのかという点についてですが、

もし現在、厳しい試練を受けていないのであれば、それは現時点では成長のために

それが必要ないか、あるいは特に有益ではないからかもしれません。

主は、私たちすべてに対してそうであるように、必要な時に必要なものを備えてくださいます。それが訓練であれ祝福であれ、試練であれ休息であれ、同じです。 

 

普通は、これとは逆の内容のメールを受け取ることのほうが多いのです。

すなわち、自分は限界を超えるほど試されていると感じ、その結果として自分自身を責め、

ヨブのように過去を振り返って原因を探そうとする信者たちからです。

ヨブのことを思い出してみてください。

彼は測り知れないほど祝福され、その後測り知れないほど試され、

そして再び測り知れないほど祝福されました。

私たちのほとんどは、彼が最初や最後に受けたほどの祝福も、

またその間に受けたほどの試練も経験しません。

ヨブはそれらすべてをよく対処しました。

(彼の「友人たち」に悩まされるまでは、試練にもよく耐えました)

 

もし私たちが試練を受けるとしても、それは困難ではあってもヨブほどではないでしょう。

もし祝福を受けるとしても、それはすばらしいものであっても、

彼ほど大きなものではないでしょう。

私たちが主と親しく歩み続けるなら、主はどのような状況を乗り越えるにも

必要なものを与えてくださいます。

ですから、試練からの救いを心配する必要も、(試練はいずれ必ず来ます)

試練がないことを心配する必要もありません。

(遅かれ早かれ、私たちは皆試されるのです)

むしろ、主がすべてを最善の形で整えておられることを信頼すべきなのです。 

 

(12) 私は乏しい中にあることも知っており、豊かな中にあることも知っている。

 私は、満ち足りることにも、飢えることにも、豊かであることにも、

 乏しいことにも、あらゆる場合に対処するすべを、すでに学んでいる。

(13) 私を強くしてくださる方によって、私はすべてのことに耐える力を持っている。

(ピリピ4章12–13節) 

 

……そして、もし私たちが艱難期に入ることになれば、

そこには十分すぎるほどの試練と試しが待っていることでしょう。 

 

イエスにあって 

ボブ・L. 

 

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ご意見、ご感想、また右差しオーディオクラスに関心のある方は、

shizuku365@proton.meまでご連絡ください。

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わたし(バプテスマのヨハネ)は悔改めのために、

水でおまえたちにバプテスマを授けている。

しかし、わたしのあとから来る人(イエス・キリスト)

わたしよりも力のあるかたで、

わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。

このかた(イエス・キリスト)は、

聖霊とによっておまえたちに

バプテスマをお授けになるであろう。

(マタイ3:11)

 

感謝します

*:..。o○☆゚・:,。*

 

朝からまとまった雨が降っていますね

週明けの通学、出勤、またはお出かけの方の足元が

守られますますように

また、山火事の消化の雨となりますように

お祈りしますお願い

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                きくらげ & はんぺん

今日もありがとう~ラブラブ

 

からの続きです

 

「 質問と答え」<Q&A-> 

 

https://ichthys.com/mail-eschatology-issues161.htm 

ロバート・D・ルギンビル博士著 からの抜粋翻訳 

 

質問 #2 

ルギンビル博士へ 

お元気でお過ごしでしょうか。 

 

さて、あなたも聞いておられるかもしれませんが、__ が銃撃されました。

(悲しく、また残念なことです)

私は今まで彼のことを知りませんでしたが、彼はキリスト教右派の政治活動家であり、

信仰、道徳的問題、そして政治に関係するさまざまな主題について、

リベラルな大学や大学院の学生たちと討論していた人物であったと聞きました。

もちろん、彼の信念や価値観のいくつかは聖書的なものでした。

(そして、彼が地上にいた期間に行った

すべての真実の善い働きのために、彼は大きな報いを受けるだろうと私は信じています)

 

しかし私は、投票しない者は神に対して反逆しているとする彼の立場に異議を感じました。

彼はエレミヤ29章7節を、信者は投票し政治に関与すべきであることを

「証明する」ための主要な「証明聖句」の一つとして用いています。

私は、この節が彼の主張を証明しないことは理解していますが、

「どのようにしてそれが証明にならないのか」という点を、

頭の中でうまくまとめることができません。

彼はこの節を文脈から取り外して用いている、とあなたは思われませんか。

彼は、聖書には政治の主題に関連することが非常に多く語られており、

それが私たちが政治に関与すべきことを裏づけていると述べましたが、

彼がそれらの多くの箇所をどこから持ってきているのか、私には分かりません。

ある人々は、ダビデやヨセフのように、

多くの旧約の人物が高い指導的地位にあったことを挙げています。

(これは思いつく例のうちの、ほんの二つにすぎませんが) 

 

__は、教会は世界で起こっていることを気にかけるべきであると述べています。

もちろん、私たちは気にかけるべきです。しかし、それが本当の問題ではありません。

なぜなら、気にかけること、(それは最大限の霊的成長によって最もよく達成されます)

そしてそれゆえ、自分の国、その指導者たち、そして政府のために祈ることは、

政治に関与することと同じではないからです。

問題は、この世界に非常に広く存在している悪に対して、

私たちはどのように反応すべきか、ということです。

霊的成長、前進、そして生産によってです。

人々の前で自分の光を輝かせ、地の塩となる方法は存在しますが、

政治への関与はその解決ではありません。

ラオデキヤへのキリストのメッセージは、私たちに悔い改めるように告げています。

したがって、本当の問題が悔い改めである黙示録3章19節にもかかわらず、

神が実際に私たちにそうすることを望んでおられるかのように、

教会が政治に自らを押し込むことに、どのような権利や根拠があると

教会は考えているのでしょうか。教会は霊的に変わる必要があります。 

 

さて、私はこのような言い方をすべきではないことは理解していますが、

真に地の塩であることは、ある意味において、より多くの不信者をキリストへ導き、

また私たち一人一人に割り当てられている奉仕を通して信者が霊的に成長するのを

助けることによって、この世界をより良い場所にしようとすることだと

言えるのではないでしょうか。

もし教会がそれほど生ぬるくなく、自分の務めを正しく果たしていたなら、

私たちは自然とより敬虔な指導者を持つことになったのではないでしょうか。

そして、その指導者たちの中に信者がいたとしたら、

そのような地位にいることは間違いなのでしょうか。 

 

私が言おうとしているのは、

教会は霊的な方法によって世界に働きかけ存在であるということです。

(そして、それは結果として、多くの積極的な変化が世俗的および政治的領域において

自然に起こることにつながる可能性があります)

(私たちはそれには同意していませんが)

人は政治に関与すべきだと信じているクリスチャンたちは実際にいます。

私は、彼らの目標は、私たちのものと似ているか、

もし同じでないとしても非常に近いものだと思います。

(たとえ、私たちが地上に天国を作ることは決してできず、

最終的に「すべてを正す」ことができるのは神のみであるとしても)

しかし、大きな違いは、私たちすべてが目指しているその目標を達成しようとしている方法、

手段、あるいはやり方にあります。霊的手段は政治的手段に勝ります。

(ちょうど、同じ木を切り倒すためには普通の釘打ち用の金づちよりも

斧の方が明らかに優れているのと同じです。金づちは木を倒すには単に役に立たないのです) 

 

私は、より神を敬う残された者たちが存在するならば、

犯罪や道徳的問題は自然と少なくなるだろうと思います。

たとえそれらのものが完全に消え去ることは決してないとしてもです。

そして、千年王国の終わりに起こるゴグとマゴグの反乱は、

このことを非常にはっきりと証明するでしょう。

なぜなら、神の知識が至るところに満ちている、

ほとんど完全で「エデンの園のような」状況でさえも、

悪魔の大義の最も頑固な支持者たちを思いとどまらせるには十分ではないからです。 

 

__ は、もし政治に関与しないなら、

あなたはそれらを気にかけていないのだと信じていました。

(それはおそらく正しい言い方でしょう)

しかし彼らは、それを、この世界で何が起こっているかを気にかけていない、

あるいは知らないことと同一視しています。もちろん私たちクリスチャンは、罪深い行為や、

起こっているすべての苦しみや痛みを気にかけるべきです。

私にとって本当の問題は、「サタンの世界体系に対して、私たちはどのように反応すべきか」

ということです。

その答えは、霊的成長、前進、そして生産によってです。

そして政治は、それらのことにとって逆効果となります。

(身体的に関与する場合であれ、感情的に関与する場合であれ) 

 

しかしその後に出てくるのが、「政治への関与」とはどこで線を引くのか、という問題です。

私にとって、投票すること自体には何の問題もありません。

(もっとも、教会の悔い改めがない限り、それがこれから起ころうとしていること、

すなわち艱難期を変えることにはならないでしょうが)

感情的な関与はどうでしょうか。それも含まれます。身体的な関与はどうでしょうか。

それも含まれますが、しかしどのようにしてでしょうか。

私は、行進に参加したり、さまざまな種類の公職に立候補したりすることなどだと思います。

(以下のリストを参考として挙げています) 

 

しかし、(ほんの一つか二つの例として)性的人身売買と戦ったり、

被害者に奉仕したりすることは、何らかの意味で「政治」と見なされるのでしょうか。

私はそうは思いません。

(実際に、そのような働きのために召されており、

彼らに対する宣教師となる信者たちが存在すると私は本当に信じています)

軍隊についてはどうでしょうか。

特に、他国が危険な状況で交戦しているきに支援する場合です。

はい、軍務を(自国に仕える、あるいは恩返しをする方法として)

政治への関与の一形態と見なす人々もいます。

そして私は、召されて奉仕する信者たちがいることを疑っていません。

そうであるならば、私たちは「政治への関与」とは何を意味するのか、

そしてどこで線を引くのかを、明確に定義する必要があるのではないでしょうか。

なぜなら、もしそれをしないなら、あなたや私のような人が、

神が実際に望んでおられるかもしれない場所で、

自分の霊的賜物を用いて助ける人々に反対しているのだと

考えてしまう人が出てくるかもしれない、ということが私の懸念だからです。 

 

私は、これが何を意味するのかについて、簡単にGoogle検索をしてみました。

そして限られた答えから、完全ではないリストを得ました。

政治への関与には、投票、選挙運動、寄付(候補者または政治団体への)

役人への連絡、抗議、請願、そして政治団体への参加が含まれます。 

キリストにあって敬具 

 

返信#2: 

私は、あなたの分析に全面的に同意します。投票することには何の問題もありませんし、

あなたが最後の段落で挙げている他の活動も、罪ではありません。

私の要点は、霊的成長、前進、そして生産が、はるかに重要であるということ、

そしてまた、実際に自分の国を助けるという点においても、

はるかに実際的であるということです。 

なぜなら、神は何でもおできになるからです。

しかし、人間は、神の助けなしには、ほんのわずかなことしかできません。

そして、もし私たちが話しているその個々のクリスチャンが、

そもそも霊的に成熟していないのであれば、

彼らが成し遂げようとしているそのわずかなことが、

果たして正しいことであるのか、また正しい方法で行われているのか、

その可能性はどれほどあるでしょうか。 

 

これらの問題を扱っている箇所へのリンクを、ここにいくつか挙げておきます<英文>: 

Politics versusSpiritual Growth I (政治と霊的成長 I) 

Politics versusSpiritual Growth II (政治と霊的成長 II) 

Politics versusSpiritual Growth III (政治と霊的成長 III) 

Politics versusSpiritual Growth IV (政治と霊的成長 IV) 

 

私は、この人物の運動からは、十分に距離を置くことを強く勧めます。

私は亡くなった人を中傷したくはありませんが、霊的安全の観点から言うなら、

私は彼と彼の「活動」について、非常に憂慮すべきいくつかのことを聞いています。

それらは、あえて言うなら、明らかにキリスト者的ではないものです。 

 

政治家や利益を狙う詐欺的な人物が、自分たちの被害者をよりよく利用するために、

羊の衣をまとって身を包むということは、よくあることです。

クリスチャンは羊であり、主が狼について警告しておられ、

また、蛇のように賢くあるべきであると

(そして同時に鳩のような純真さをもって行動するべきであると:マタイ10章16節

明確に語っておられるにもかかわらず、しばしば非常にだまされやすい傾向があります。 

 

イエスは答えて言われた、

「だれにも惑わされないように気をつけなさい。」

(マタイ24章4節) 

 

イエスにあって、 

BobL. 

 

質問 #3 

ご注意くださってありがとうございます。

そしてあなたの言うとおりで、彼は羊の衣を着た狼であった可能性があります。

彼が主と共にいるかどうかについて、私が判断して断言することはできませんが

私には気にかかることがあります。 

 

私が彼のことを知ったのは、彼の死がニュースに出たときでした。

しかし、彼から距離を置く者は神への反逆の中にあると言うような人に対しては、

気を付けていたいです。

(それは、このことだけで自動的にその人が不信者であると言っているのではありませんが、

そうした人が本当に救われているかどうかという意味です)

あなたのメールを読んだあと、彼についてもう少し調べてみましたが、

確かにあなたの言うとおり、彼はいくつかの憂慮すべき見解を持っていました。

(最初は私が気づいていなかったものです)

しかしそれを見つけるのに、まったく時間はかかりませんでした。 

 

教会が政治に関与すべきかどうかについての彼の動画の一つを初めて見たとき、

私は非常にいら立ちを覚え、25分の動画を、いら立ちのために絶えず一時停止せずには

聞き続けることができませんでした。

(それは、実際にはあなたからのメール返信を受け取る前のことでした)

なぜ私はあの動画を見ることを自分に強いたのか分かりませんが、

それは完全にくだらないものでした。

多くの人々が、まるで彼がキリスト教の殉教者であったかのように彼を擁護していますが、

私はそうは思いません。

弁証(apologetics)が彼らの召しであるなら、

人々が道徳的また霊的な主題について討論することに、私は何の問題も感じません。

しかし、この人物の政治への関与と全体的な信念は、控えめに言っても憂慮すべきものでした。

ええ、彼についてさらに知らせてくださって、ありがとうございます。 

 

前のメールで私が挙げた質問のいくつかに関してですが、

エレミヤ29章7節(投票や政治への関与を強制するために、

ある人々が用いる「証明」箇所)を、あなたはどのように解釈されますか。 

 

何が政治への関与であり、何がそうでないのか、その線はどこで引くべきでしょうか。

性的人身売買と戦うことや、被害者に奉仕することを、

あなたは否定的なものだとは思われませんか。

私はそうは思いません。

なぜなら、警察や軍隊に関与している信者たちについてはどうでしょうか。

それは、私たちが考える意味での否定的な政治への関与ではありませんが、

ある意味ではそれも政治への関与と見なされることがあるからです。

私たちが、この世におけるあらゆる種類の関与が悪い考えであると

信じているわけではないのです。 

 

そういうわけで、私たちが「政治への関与」と言うとき、

それが何を意味するのかを明確に定義すべきだと、あなたは思われますか。 

 

これを手短にあなたにお伝えしようと思いました。

そして、もしあなたにとって何らかの慰めや励ましになるのであれば、

私は(いくらかの時間、研究、祈り、そして熟考ののちに)

ヤコブがへブルの後に書かれたのであり、伝統的見解が言うようにそれよりかなり前ではない、

というあなたの見解に同意するようになりました。

それは完全に理にかなっており、私はそれに同意しない理由が見当たらないと感じました。 

キリストにあって 

 

返信 #3  

へブル/ヤコブについての信頼の言葉を、ありがとうございます。 

 

「性的人身売買と戦うことや、被害者に奉仕すること」に関してですが、

私は、これらはまったく別の二つの事柄であることに注意したいと思います。

ゆるやかな例えを用いるなら、奴隷制度は、

私たちの多くが完全に忌まわしいと感じるものですが、

もちろん古代世界にはそれが存在していました。

パウロや他の人々は、それを根絶するための何らかの政治運動を提唱したことが

あったでしょうか。

まったくありませんでした。彼らは、自由人に対してと同じように、

奴隷たちにも奉仕するために自分たちにできることをしたでしょうか。

はい、彼らはそうしました。

それは、彼らに福音を与え、霊的に前進させることを目的としてであり、

単に彼らの束縛の中で慰めを与えること自体を目的としたのではありませんでした。

なぜなら、すべての人に必要なのは、救われ、そして成長することだからです。 

 

私は、「すべての人に善を行う」ことに努めることに何の問題も感じませんが、

私はその節をこう締めくくりたいと思います。

「特に信仰の家族に属する人々に対して」と。

このことによって、不信者に対して善を行うことは、

主として彼らをイエス・キリストへの信仰へ導くことを目的としている、

ということを指摘しておきます。 

 

しかし、政治的な行動を取ることは、私たちが本来取り組むべきことではありません。

あなたも私も、国内外を問わず、数十にも及ぶさまざまな悪しき行為や犯罪的な企て、

そして目に余る不正を、容易に、しかもすぐにいくつも挙げることができるでしょう。

もし私たちが、それらを正そう、「世界を正そう」として取り組むなら、

神がその中におられる場合にのみ、私たちは何らかの成功を収めることができるでしょうし、

もしそれが神が私たちに望んでおられることであるなら、

確かに神はその中におられるでしょう。

もしそれが神が私たちに望んでおられることであるなら、

確かに神はその中におられるでしょう。

しかし、もしそれが神が私たちに望んでおられることでないなら、

もし「悪と戦う」ことによって、私たちが実際には悪魔の遊びに加わってしまい、

神が本当に私たちに望んでおられること(成長し、前進し、生産すること)から

自分たちをそらしてしまっているのであれば、

そのとき神はその中におられないでしょう。

そして最終的に、私たちは誰にも何の真の益ももたらさないことになり、

何よりも無益なものになってしまうのは私たち自身でしょう。

神を「助ける」ために政治に過度に関与することは、グノーシス主義を思わせるものです。

ドミニオニズム(Dominionists)<主が再び来られるようにするために、

地上にそれを作り出すことによって、政治的行動を通して「王国をもたらそう」とすること>

(対照:「神の国は、目に見えるかたちでは来ない。」ルカ17章20節

が主張しているように、地上的な政治的手段によって「王国をもたらそう」とすることは、

まさにサタン的なことです。リンク参照) 

 

 また、わたしがあなたがたを捕え移した町の平安を求め、その町のために主に祈れ。

 その町が栄えれば、あなたがたも栄えるからである。

エレミヤ29章7節) 

 

この節の前半は、後半によって説明されています。

私たちはどのようにして自分の国の「平安と繁栄を求める」のでしょうか。

第一に、その国のために祈ることです。(そしてもちろん、私たちは皆そうすべきです)

第二に、私たちは、霊的成長に自分を委ね、奉仕にふさわしい者とする試練の中で前進し、

そして主が私たちに与えてくださる奉仕において、

主のために良い実りを結ぶよう最善を尽くすことです。

もし私たちがそうするなら、私たちは主が与えてくださる連帯による祝福を通して、

一つの国を保つ「塩」となっていくのです。

しかし、自分たちを神の立場に置いて、神のためにそれを「正そう」とすることは、

霊的観点から見て、まったく逆のことです。次のリンクを参照してください: 

 

Politicsand Political Action on the Eve of the Tribulation 

(艱難期直前における政治と政治的行動) 

Politicsversus Spiritual Growth II 

(政治と霊的成長 II) 

 

イエスにあって 

BobL. 

 

<Q&A-7>へ続く下差し

 

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ご意見、ご感想、また右差しオーディオクラスに関心のある方は、

shizuku365@proton.meまでご連絡ください。

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わたしがあなたがたをつかわすのは、

羊をおおかみの中に送るようなものである。

だから、蛇のように賢く、

鳩のように素直であれ。

(マタイ10:16)

 

良い週末をお過ごしください

お祈りしていますお願い

 

ハナミズキ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

               きくらげ & はんぺん

今日もありがとう~ラブラブ

 

からの続きです

 

来たる艱難期:黙示録の歴史  第6部 <24>

                                                                                                  ロバート・D・ルギンビル博士著                          

最終の事柄:千年王国と新しいエルサレム 

 

III. イエス・キリストの千年王国:黙示録20:4-6  

 

 1.千年王国における特有の物理的状態 

  a. キリストの千年統治 <i>: 

 

(1) 神よ、王にあなたの公正を授け、 

 王の子にあなたの義を授けてください。 

(2) 彼はあなたの民を義によってさばき、 

 あなたの苦しむ者たちを公正によってさばくでしょう。 

(3) 山々は民に繁栄をもたらし、 

 丘は義の実りをもたらすでしょう。 

(4) 彼は民の中の苦しむ者たちを守り、 

 貧しい者の子らを救い、 

  しいたげる者を打ち砕くでしょう。 

(5) 彼は太陽のある限り、 

 また月のある限り、 

 代々にわたって長く続くでしょう。 

(6) 彼は刈り取られた野に降る雨のようになり、 

 地を潤す夕立のようになるでしょう。 

(7) 彼の時代には義人が栄え、 

 月がなくなるまで豊かさが満ちあふれるでしょう。 

(8) 彼は海から海まで治め、 

 大河から地の果てに至るまで支配するでしょう。 

(9) 荒野の民は彼の前にひれ伏し、 

 彼の敵はちりをなめるでしょう。 

(10) タルシシの王たちと遠い島々の王たちは 

 彼に貢ぎ物を持って来るでしょう。 

 シェバとセバの王たちは 

 彼に贈り物をささげるでしょう。 

(11) すべての王は彼の前にひれ伏し、 

 すべての国々は彼に仕えるでしょう。 

(12) 彼は、叫び求める貧しい者を救い、 

 助ける者のない苦しむ者を救うからです。 

(13) 彼は弱い者と貧しい者をあわれみ、 

 貧しい者のいのちを救うでしょう。 

(14) 彼は彼らを圧迫と暴虐から救い出し、 

 彼らの血を尊いものと見なされるからです。 

(15) 彼が長く生きるように。 

 シェバの金が彼にささげられるように。 

 人々が絶えず彼のために祈り、 

 一日中彼を祝福するように。 

(16) 国中に穀物が豊かに満ち、 

 丘の頂でもそれがたわわに実り、 

 その実りがレバノンのように豊かになり、 

 野の草のように栄えるように。 

(17) 彼の名がとこしえに続き、 

 太陽のある限りその名が存続するように。 

 すべての国々が彼によって祝福され、 

 彼らが彼を祝福された方と呼ぶように。 

(18) 主なる神、イスラエルの神がほめたたえられるように。 

 ただ主のみが不思議な御業を行われる。 

(19) その栄光に満ちた御名がとこしえにほめたたえられるように。 

 全地がその栄光で満たされるように。 

 アーメン、アーメン。 

(詩篇72篇1-19節

 

旧約の預言は、メシヤの来たる統治を待ち望む数多くの箇所に満ちています。

なぜなら、メシヤこそ、イスラエルに対する神のすべての約束の成就であり、

その中心であるからです。

サムエル記下7章14節;エレミヤ33章14-17節;ルカ1章32-33節

上の詩篇において、ダビデの子としてダビデのより偉大な子、

すなわちメシヤの型であるソロモンによって記されたその詩の中に、

私たちはイエスの千年統治の最も重要な側面の多くが表現されているのを見ることができます。

その時代は、あらゆる意味において祝福の時となります。

(そしてそれが、反キリストの艱難期の支配のもとにあった

最悪の時代の直後に続くものであることを考えれば、なおさらそうです)

しかし、主の統治と王国に関するいくつかの特定の特徴は、

預言において繰り返し強調されています。 

 

 1) 千年王国の確立の際にもたらされる、特別な喜びと歓喜

 

私たちの主が再臨される日は、全世界にとって喜びの日となり、

とりわけイスラエルにとって、しかしまた他のすべての人々にとっても

(すなわち、主に敵対してきた者たちを除いて)喜びの日となります。

イザヤ9章3節,12章3節,6節35章1-10節42章11節,44章23節,49章13節,55章3-11節60章1節,61章3-7節65章18節;

エレミヤ31章4-13節,33章9-11節ゼパニヤ3章14-20節;ゼカリヤ8章19節,10章7節) 

 

(7) 山々の上にあって、良き知らせを伝える者の足は、なんと美しいことであろう。

 平和を告げ知らせ、良い知らせを伝え、救いを宣べ伝え、シオンに向かって

 「あなたの神は王となられた!」と言う者の足は。

(8) 見張る者たちの声が聞こえる。彼らは声を上げ、共に喜び叫ぶ。

 主(すなわちメシヤがシオンに帰られるとき、

 彼らは[すべて]顔と顔を合わせて[主を]見るからである。

(9)喜びの声を上げて共に歌え、エルサレムの廃墟よ。

 主はご自分の民をあわれみ、

 エルサレムを贖われたからである。

(10)主はその聖なる腕をすべての国々の目の前に現された。

 地の果てのすべての者が、われらの神の救いを見るのである。

(イザヤ52章7-10節

 

 主なる神の霊が、わたしメシヤの上にある。

 主がわたしに油を注がれたからである。

 主はわたしを遣わして、苦しむ者たちのために勝利を告げ知らせ、

 心の打ち砕かれた者たちの傷を包み、

 捕らわれ人には解放を、囚人には自由を宣言し、

 主の恵みの年(期間)[千年王国]と、

 われらの神の復讐の日[再臨]とを告げ知らせ、

 すべての嘆く者たちを慰め、

 シオンのために悲しむ者たちのために備えをなし、

 彼らの悲しみに代えて冠のような喜びを与え、

 弱り果てた霊に代えて賛美の衣をまとわせるためである。

(イザヤ61章1-3節前半) 

 

 2) 千年王国における並外れた公正と義

 

キリストの義なる統治は、私たち自身の経験において非常に顕著である罪の性質の影響

(例えば犯罪や戦争;ゼカリヤ5章参照)を抑え、

すべての悪を行う者に対して、また不当にしいたげられているすべての者のために、

迅速で完全な公正を行うことになります。

詩篇2篇9-12節72篇1-2節12-14節

イザヤ1章26-31節,9章6-7節11章3-5節16章4-5節32章1-8節33章5節,42章1-4節51章4-7節;

 エレミヤ23章5-6節,33章15節;エゼキエル34章16節;ゼカリヤ9章9節)。 

 

 主はとこしえに王として座し、さばきのために御座を据えられる。

 主は義をもって世界をさばき、公正をもって諸国の民をさばかれる。

(詩篇9篇7-8節

 

 公正は荒野に住み、義は実り豊かな野に宿る。

(イザヤ32章16節

 

 あなたの国の中で、もはや暴虐のことは聞かれず、

 あなたの領域の中で荒廃や滅びのことも聞かれなくなる。

 あなたはあなたの城壁を「救い」と呼び、

 あなたの門を「賛美」と呼ぶようになる。

(イザヤ60章19節/NIV訳) 

 

<25>に続く 

 

 

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私達が主の御声を聞くことにおいても成長できますように。

また、ご意見、ご感想、また右差しオーディオクラスに関心のある方は、

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 だれでもキリストにあるならば、

その人は新しく造られた者である。

古いものは過ぎ去った、

見よ、すべてが新しくなったのである

(第2コリント5:17)

 

感謝します

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安定した平穏無事の生活は何よりですが

わだちの中にいることで安心してしまうと

神様を求めることも

委ねることも出来なくなって

自分の思いの中だけで歩いてしまいがちです

 

飛び立つために、殻から脱皮し

自由な霊を与えられますように

古い抜け殻に執着することがありませんように

 

お祈りしますお願い

 

 

八重咲ヤマブキ

 

 

 

春の花たちも賛美に溢れているね✨

 

 

 

 

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長男さんから写真が送られてきました

早く猫たちに会いたいな~ハート

GWは忙しくなるので、来月中ごろには会いに行けそうです音符

 

きくらげ、あんしんしてねむるにゃ~ぐぅぐぅハート

今日もありがとう~ラブラブ