sarah‐mercy

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イエスの愛と共に
猫にも花にも愛は注がれている

 

からの続きです

 

質問と答え<Q&A-> ~重ねられる祈り ~

 

            https://ichthys.com/mail-cumulative%20prayer.htm 

            ロバート・D・ルギンビル博士著 からの抜粋引用 

 

質問: 

こんにちは、ボブ。 

複数の人が一人のために祈る場合、それはどのように影響するのでしょうか。

言い換えると、主はそれをどのように見ておられるのでしょうか。

私はこれまで他の人のために祈ってきましたが、

それが主の御前でどのようにその人の益となるのか、よく分かりませんでした。 

 

返信: 

これは非常に良い質問であり、私自身もかなり考えてきたことです。

祈りは、私が現在資料を集めている主題の一つでもあります。

(いずれ「聖書の基礎」シリーズで扱う予定です)

 

私はこう信じています。

キリスト者の口から出る義なる祈りはすべて聞かれており、

何らかの形で必ず答えられているのです。

しかし、多くのことと同様に、その詳細については私たちには分かりません。

私たちの周囲で渦巻いている目に見えない霊的戦いを見ることができないのと同じように、

私たちが天に向かって放つ一つ一つの「ミサイル(祈り)」が

どのような具体的影響を与えているのかを知ることもできません。

 

しかし、確かに影響はあるのです。

黙示録8章3–5節にある「聖徒たちの祈り」

大切に蓄えられており、その時に一斉に答えられます。

そこでは確かに艱難期のさばきに関する特定の祈りが扱われていますが、

この箇所は、すべての信者の祈りが考慮されていることを示唆しています。

 

またもちろん、祈りが答えられることについての多くの約束もあります。

(例:ルカ11章5–13節

ある人々は神の御前で特に大きな影響力を持っており、

その祈りは特別な重みを持ちます。

ダニエル9章23節; ヤコブ5章16–18節

そして、多くの人が同時に祈ることについては、

使徒行伝12章1–17節でペテロが牢から解放されたのが、

ちょうど教会が彼のために共に祈っていた時であったことが記されています。

またパウロも、特に積み重なる祈り(累積的な祈り)を通して

互いに支え合うことの重要性を強調しています。

第二コリント1章11節;同9章12–14節参照) 

 

したがって、どれほど小さく、短く、弱々しい祈りであっても、

それは聞かれ(そして答えられ)ますが、

同時に、祈りを「より効果的」にする要素があることも確かです。

たとえば、 

 

複数の人が祈ることマタイ18章19節) 

粘り強く祈り続けることルカ18章1–6節) 

祈る人の義ヘブル5章7節参照) 

断食ダニエル9章3節参照) 

 

これらすべてには、祈りに「重みが加わる」効果があると言えるでしょう。

こうしたことを聞いて、特定の祈りが答えられるためには

多くの要素が必要なのだと考えて落胆する人もいるかもしれません。

しかし、それは物事を逆に見ていると思います。

祈りが答えられることが、より大切で、より重要で、より困難であるほど、

私たちは待つことを通して信仰が鍛えられ、築き上げられ、

そして答えられたときには、

神に対していっそう深い感謝を抱くようになるのです。 

 

そもそも、私たちがイエスを信じた後もこの世に留められている主な理由の一つは、

信仰を築き上げ、信仰を証明し、信仰を示すためです。

待つことなく、主を信頼する必要がなければ、これは決して起こらないでしょう。

(もしすべての祈りがすぐに、私たちの思った通りに答えられるならば) 

 

イスラエルの民は、神の御手が紅海を分け、

彼らを滅ぼそうとしていた敵を打ち倒すという、

非常に驚くべき出来事を目の当たりにしました。

そして彼らは主を恐れ、主を信じました。

出エジプト14章31節

しかし、そのわずか数日後には疑い、不平を言っていたのです。

出エジプト15章22–26節

この有名な否定的例(パウロも第一コリント10章で祈りに関連して言及しています)

とは対照的に、私たちは、神が決して私たちを見捨てず、

常に私たちの最善を考えておられるという視点を持たなければなりません。

(肉の目にはそう見えなくても) 

 

私は確信しています。

もし私たちが知識においても、信仰においても、

キリスト者としての歩みにおいても完全であったなら、

私たちの祈りはエリヤやダニエルやモーセの祈り、

さらには主ご自身の祈りのように効果的であったでしょう。

なぜなら、その時には神の御心に完全に一致して祈ることになるからです。

もちろん、私たちは完全ではありません。

ですから、私たちの「打率」はダビデやパウロほど高くはありません。

しかし私たちは祈り続けなければなりませんし、

同時に祈りの質を高める努力もし続けるべきです。

そして、他のキリスト者たちも同じように私たちのために祈ってくれていること、

そして一つ一つの祈りがすべて意味を持っていることを覚えておくべきなのです。 

 

これらのリンクもぜひご覧ください: 

 

「主の祈り」 

ゲッセマネにおけるイエスの祈り(聖書の基礎第4部A: イエス・キリストについての研究) 

祈りは天からささげられることがあるのか?<英文> 

霊的成長の要素としての祈り(ペテロ・シリーズ#17の15頁「7.祈り」の項参照) 

共同の祈り:『地上で二人が心を合わせるとき』」 

信仰が弱りつつあるときのための祈り<英文> 

祈りにおいて聖なる手を上げること<英文> 

呪いを求める祈り(インプレカトリー・プレイヤー)<英文> 

イエスの御名によってささげる祈り<英文> 

知恵を求める祈り:ヤコブ1章5節<英文> 

祝福・呪い・祈りと神のみこころ<英文> 

父なる神への祈りの道と、私たちのためのキリストのとりなし<英文> 

 

私たちの祈りを聞き、私たちをいやしてくださるお方、 

私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの御名によって 

出エジプト記15章26節)。 

 

Bob L. 

 

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ご意見、ご感想、また右差しオーディオクラスに関心のある方は、

shizuku365@proton.meまでご連絡ください。

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 キリストは、その肉の生活の時には、

激しい叫びと涙とをもって、

ご自分を死から救う力のあるかたに、

祈と願いとをささげ、

そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。

(へブル5:7)

 

感謝します

*:..。o○☆゚・:,。*

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*:..。o○☆゚・:,。*

 

今朝は曇り空

なんとなく遅く起きたけど

11年前に虹の橋を渡った初めての猫

みゅうちゃんの夢を久しぶりに見た

抱き上げたときの感触まで残っているハート

二度寝したら、今度は子供の頃の愛犬チロも夢に出てきた

本当に可愛かった~💕

 

誰かの祈りが夢の中で癒してくれたように思った

ありがとうハート

 

 

きくらげ、じ~っと何を見つめているのかにゃラブラブ

今日もありがとう~ラブラブ

 

からの続きです

 

「 質問と答え」<Q&A-> 

 

        https://ichthys.com/mail-eschatology-issues161.htm 

        ロバート・D・ルギンビル博士著 からの抜粋翻訳 

 

質問 #6: 

では、「いのちの書」についてはどうお考えでしょうか。

これはしばしば、天にある文字どおりの書物で、生者や死者、

また救われた者たちの名前が記されているものだと考えられていますが、

「同じ名前の人はたくさんいるではないか」と疑問に思う人もいます。

もしかすると、地上での名前そのものではなく、

それぞれに固有の識別のようなものが記されているのでしょうか。

それとも、そもそも文字どおりの書物ではなく、単なる比喩なのかもしれません。

 

たとえば、神が常にすべてを把握しておられる

(神は全知であり、誰が死ぬか、誰が救われるか、

あるいは信仰から離れるかを知っておられる)ということを

表す言い方なのかもしれません。

このことについて、あなたはどう思われますか。

これは、この世にいる間には分からないままの事柄の一つなのでしょうか。 

 

 

返信 #6: 

はい、「いのちの書」は存在します。該当箇所参照) 

 

 何一つ汚れたものはそこに入ることはなく、

 忌むべきことや偽りを行う者も決して入ることはない。

 ただ、小羊のいのちの書に名が記されている者たちだけが入るのである。

黙示録21章27節/NIV訳;

 詩篇69篇28節; ピリピ4章3節黙示録3章5節,13章8節,17章8節,20章12節,20章15節参照)

 

「いのちの書」には、もともとすべての人間、すなわち神が創造された

すべての人間の霊の名が記されていましたが、

不信仰な者たちは、主を拒んだことによってその書から消されるのです該当箇所参照) 

 

 しかし今、どうか彼らの罪をお赦しください。

 もしそうでなければ、どうかあなたがお書きになったあなたの書から、

 私の名を消し去ってください。」

 主はモーセに言われた。

 「わたしに罪を犯した者を、わたしの書から消し去るのである。」

出エジプト32章32–33節/NIV訳) 

 

混乱について言えば、私たちの神は(適切な言葉が他に見当たりませんが)

私たちの小さな思いでは想像もできないほど「大きな」方です。

神は宇宙の最果てにあるすべての素粒子の動きの一つ一つを、

初めから終わりまで定められました。

そしてこれまで起こったすべてのこと、これから起こるすべてのことも同様です。

すべては神の完全で全体を見渡したご計画の中にあります――

そうでなければ、それは起こり得ないのです。

ですから、神のかたちに造られた存在という(それに比べればはるかに少ない)数を

把握することなど、神にとってはまさに容易なことなのです。 

 

 「二羽の雀は一アサリオンで売られているではないか。

 だが、その一羽でさえ、

 あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはない。」

マタイ10章29節/NKJV訳) 

 

イエスにあって 

ボブ・L. 

 

 

質問 #7: 

こんばんは。 

私はいつも、創世記には

「イスラエルを祝福する者を神が祝福し、イスラエルを呪う者を神が呪う」

と書かれていると聞いてきました。

そこでその箇所を読んでみると、その祝福はイスラエルというより、

アブラハムに与えられているように見えました。

聖書では「アブラハムのうちにある」ことや「アブラハムの子孫である」ことが

救いに関連して語られていることも知っています。

そうすると、その祝福は肉体的・政治的なイスラエルではなく、

霊的イスラエルに対するものではないのでしょうか。 

 

また、終わりの時の預言の中に、イスラエルが一夜にして生まれるというものがあり、

その時代に生きている世代が神の御国を見ることになるとあります。

これは、イエスがイスラエル/世界の王として千年王国を始められる最初の日に、

イスラエルが文字通り一夜にして生まれることを指している可能性はあるのでしょうか。

イエスはハルマゲドンの直後に降臨し、文字どおり統治を開始されます。

そうだとすれば、それは1948年に「一夜にして誕生した」

政治的国家イスラエルを指しているのではない可能性もあるのでしょうか。

もしそうであれば、現在のイスラエルはどのように理解すべきなのでしょうか。

何の関係もないのでしょうか。 

しかし一方で、

イスラエルの聖書的な国境の元の土地とのつながりがあるようにも感じています。

1948年に再び国ができて以来、何らかの神の守りと摂理があったように思えるのです。

彼らは信じがたいほどの困難の中で生き延びてきましたし、

神が彼らを守っておられるように感じずにはいられません。

また、イスラエルの地を分ける者を神が呪うという聖句もあると聞いています。

 

さらに、大艱難期の間には「信じるイスラエル」

荒野で特別な守りを受けるという預言もありますし、

黙示録には14万4千人のユダヤ人の証人についての預言もあります。

彼らは二人の預言者(おそらくモーセとエリヤ)によって導かれるとも言われています。

そのようなことが起こるには、イスラエルという存在が必要なはずです。

ですから、1948年のイスラエルを、創世記の「一夜にして」の預言の

イスラエルとして見るべきなのかどうか、よく分からなくなっています。 

 

あなたのご意見として、イスラエルに対する正しいクリスチャンの姿勢とは

どのようなものでしょうか。

私はイスラエルを支持する側にいますが、盲目的に支持しているわけではなく、

現在の政治的イスラエルのすべての決定を支持しているわけでもありません。

ただ、彼らが守られ、導かれるように祈りたいという思いがあります。

これは聖書的な責任なのでしょうか。 

キリストにあって 

 

 

返信 #7: 

創世記12章3節でアブラハムに与えら れた約束は、

彼の子孫にも与えられています。

(すなわち、彼から生まれたイスラエル民族、そして特にメシア:ガラテヤ3章16節

創世記12章2節で神が「あなたを大いなる国民とする」と言われたときにも、

そのことが示されていますし、これはこの箇所だけに見られるものではありません。 

 

 『彼は伏し、獅子のように横たわる。 

 雄獅子のように、だれが彼を起こし得ようか。 

 あなたを祝福する者は祝福され、 

 あなたを呪う者は呪われる。』  

民数記24章9節/NKJV訳) 

 

もちろん、この原則は聖書全体を通して繰り返し確認されており、

人類の歴史の中でも実際に示されてきました。(「反ユダヤ主義」の項を参照してください) 

 

現在のイスラエル国家についてですが、

メールページにある「終末論の諸問題(Eschatology Issues)

最近二十から三十の投稿を読まれるなら、

この問題が頻繁に取り上げられていることが分かるでしょう。

要点は次のとおりです。

すなわち、「イスラエルから出た者すべてがイスラエルなのではない」

ローマ9章6節とあるように、

神はイスラエルの中でも”信じる者””信じない者”とを明確に区別しておられます。

 

しかし、不信仰な者たちであっても

「先祖たちのゆえに愛されている者たち」であり、ローマ11章28節

「神の賜物と召命とは取り消されることがない」ローマ11章29節)のです。

したがって、不信仰な者たちは神の御心の中にあるとは言えませんから、

現在の世俗国家としてのイスラエルが、

主によって直接支えられている国家であるとは言えません。

 

しかし、それでもユダヤ人に対して敵対的な態度を取ることは、

たとえ不信仰な者たちであっても、神の立場を侵害することになり、

神の大きな不興を招くことになります。

これはイスラエルに対して与えられた約束でもあり、

歴史によっても示されてきたことです。 

 

はっきり申し上げておきますが、「1948年」という年には、

霊的にも聖書的にも、また特別な意味においても、

何の預言的意義もありません。

十字架から艱難期の開始までの間の出来事についての預言は存在しないのです。

 

イスラエルが再び集められるのは、

メシア艱難期の終わりに再臨されるときであり、

その時にはユダヤ民族全体が一度に集められます。

現在のように一部だけが集められている状態ではありません。

その時こそが、地理的な意味で「神のイスラエル」が存在する唯一の時となるのです。

(該当箇所参照) 

 

イエスにあって 

ボブ・L. 

 

<Q&A-9>へ続く下差し

 

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ご意見、ご感想、また右差しオーディオクラスに関心のある方は、

shizuku365@proton.meまでご連絡ください。

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 わたしたちは、この事を知っている。

わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。

それは、この罪のからだが滅び、

わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。
 

 それは、すでに死んだ者は、

罪から解放されているからである。
 

 もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、

また彼と共に生きることを信じる。

(ローマ6:6~8)

 

感謝します

*:..。o○☆゚・:,。*

 

 

私たちの中にある古き自分

保身の為の言い訳ばかりの自分

イエス様に罪が赦され、解放されているにも関わらず

尚、罪の奴隷のままにされることがないように

御霊にあって自由になり

日々、新しいものとされますようにと

 

お祈りしますお願い

*:..。o○☆゚・:,。*

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                 きくらげ  はんぺん

今日もありがとう~ラブラブ

 

からの続きです

 

「 質問と答え」<Q&A-7> 

 

        https://ichthys.com/mail-eschatology-issues161.htm 

        ロバート・D・ルギンビル博士著 からの抜粋翻訳 

 

質問 #4: 

ルギンビル博士へ 

ちょっとした見落としかもしれない点(それと追加の質問)について確認したいと思います。 

 

人身売買(特に性的人身売買)と戦う状況においては、

政治的行動は状況次第では許されるのでしょうか。

たとえば、多くの信者が政府で働いています。

政府職員の中には、人身売買と戦うことを職務として給料を受け取っている人もおり、

それが生活の糧の大きな部分を占めています。

これは政治的行動とは考えないのではないでしょうか。

私には、それは軍隊で戦ったり、法執行機関で犯罪と戦ったりする職業(刑事など)

本質的に変わらないように思えます。

この点について同じ理解に立っているか確認したいのです。 

 

まったく別の話題ですが、以前、救いにおいて「行い」が信仰の証として必要なのか、

それとも行い自体を信頼してしまうことになるのか、という議論がありました。

たとえば、水のバプテスマが救いに必要だと信じている人々がいます。

しかし、その中にも二つの異なるグループがあるように思えます。 

 

第一のグループは水のバプテスマそのものに何か魔術的な救いの力があると信じており、

それゆえに救いのために必要だと考える人々です。

もし本当にそう信じているなら、その人は実際には救われていないのではないか、

と私は思います。 

 

しかしもう一つのグループは水のバプテスマ自体が救うとは考えておらず,

(救うのはキリストへの信仰だけだと認めている)

ヤコブ2章26節「行いのない信仰は死んだものである」という理由から、

水のバプテスマは必要だと考えています。

言い換えると、水のバプテスマを拒む人は、本当に救われていない証拠だと考えるわけです

彼らは、「主の命令に従いたくない人がいるだろうか」と言うかもしれません。

(聖書のどこにも命令されていないとは思いますが、

議論のために彼らの立場としてこのように表現しています)

この第二のタイプの人々(第一のグループとは区別して)は、

救われているとお考えでしょうか。 

キリストにあって 

 

返信 #4: 

警察官や検察官が犯罪組織やネットワークの取り締まりに従事するのは当然のことです。

それが彼らの職務だからです。

しかし、それは私たちの職務ではありません。(彼らのために祈ることは別として)

こうした問題について、キリスト者による運動がいかに的外れになり得るかを

見たいのであれば、「禁酒法(Prohibition)の例を見れば十分です。

それは多くの企業や人生や家庭を破壊し、組織犯罪を急増させました……

そして、おそらく酒を飲もうと決めていた人が、

酒を手に入れるのを一人として止めることはできなかったでしょう。 

 

さて、「信仰の証として行いが救いに必要である」という点についてですが、

これは全く異なる二つの事柄を混同しています。

本物のキリスト者の良い行いは、その人の信仰の証拠です。

これこそがヤコブの言いたかったことのすべてです。

しかし、行いは救いのために必要ではありません。

むしろ、もしカインのように、自分の行いによって救われようとして神に差し出すなら、

それは救いに対して敵対するものとなります。

次の箇所を注意深く読めば明らかです。 

 

(8) あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われたのである。

 それは自分自身から出たことではなく、神の賜物である。

(9) 行いによるのではない。

 それは、だれも誇ることがないためである。

(10) 私たちは神の作品であって、良い行いをするために、

 キリスト・イエスにあって創造されたのである。

 神は、私たちがその中を歩むようにと、

 あらかじめそれらを備えておられたのである。

(エペソ2章8–10節/NKJV訳) 

 

人々はしばしば最後の部分を見落とします。

敬虔で本物の良い行いは、救われて神の恵みに応答した結果であって、

救いの原因ではありません。

律法主義者はこれを完全に逆に考えています。

すなわち「私たちが行うから神が祝福する」と考えますが、

実際には

「神が行ってくださり、

その結果として私たちが行えるよう祝福してくださる」のです。 

 

ここで次の問題は、「良い行いとは何か?」ということです。

その答えは、「神が実際に私たちにしてほしいと望んでおられること」です。

私たちはこれを簡潔に「霊的成長、前進、そして実り」と呼んでいます。

これは前進することを含みますが、同時に聖別(きよさ)も含みます。

すなわち、神が望まれることを行い、望まれないことを避けることです。 

 

では、神は私たちが水のバプテスマを授けたり受けたりすることを

望んでおられるでしょうか。

この問題についてはこれまで何度も扱ってきましたし、

Ichthys には多くの資料があります。リンク参照)

答えは非常に明確に「いいえ」です。

したがって、それを行うことは、神が望んでおられないことをすることになり、

それは良い行いの反対です。

それは律法主義であり、したがって霊的に非常に危険なものです。 

 

「昔からそうしてきた」という理由で、<水のバプテスマを受けようとしない>

聖書を信じているキリスト者に罪悪感を抱かせようとする人々がいるからといって、

私たちが実際に罪悪感を抱く必要があるわけではありません。

私たちはこの点でも、また関連する点

(たとえば、実際の成長に役立たない教会に通うことなど)においても、

罪を犯しているわけではないのです。 

 

ですから、「主の命令に従いたくない人がいるだろうか」という問いに対しては、

私たちはこう答えます。

「もちろん従いたいし、できる限り従っている」

そして私は逆にこう問います。

「なぜあなたがたは、律法に戻り、規則を作り出し、『主がこう言われた』と、

主が言っていないことを主の言葉として語ることによって、

主の命令と御心に反しているのですか?」。 

 

 

 「彼らの預言者たちは、しっくいを混ぜずに壁を塗る者のように、

 むなしい幻を見、偽りの占いをして、

 『神である主はこう言われる』と言うが、主は語っておられない。」

(エゼキエル22章28節/NKJV訳) 

 

誰が救われているかは、神のみが知っておられます。

しかし、私たちは霊的に疑わしい行動に関わっている人々や団体から

距離を置くべきであることを、十分知っています。 

 

仕事の状況はいかがですか。 

イエスにあって 

ボブ・L. 

 

 

質問 #5: 

こんにちは。 

ご家族ともどもお元気のことと思います。

改めて、キリストのからだのためのあなたの多大な働きと献身に感謝したいと思います。Ichthys は、私にとっても私の信仰にとっても本当に大きな祝福となっています。

私は朝に聖書を読み、仕事中の時間があるときには一日を通して Ichthys を読んでいます。

私の父は神学の修士号を持っており、現在博士号取得に向けて勉強していますが、

あなたのサイトは彼の学びにも大いに役立っています。 

 

今日は、しばしば心に浮かぶことがあり、あなたのご意見を伺いたいと思いました。

もし的外れな考えや非合理的な論理でしたら、お許しください。

私たち信者は、信仰やキリストとの関係において成長していくとき、

悪しき者とその手下からの反対や攻撃を受けることがあると知っています。

しかし、私自身は霊的成長に対して、

そうした反対をまったく経験していないように思えるのです。

 

それで、自分は本当に正しく成長しているのだろうか?と考えてしまうことがあります。

妻も子どもたちも、そして私自身も、本当に祝福されています。

皆健康で幸せですし、必要以上の資源さえ与えられています。

もしかすると、反対はあっても、それほど気にしていないだけなのかもしれません。

私は疑いなく、天の父が私たちに必要なものを、御心の時に必ず備えてくださると

知っているからです。

三人の娘がいる家庭ですので、もちろん普通の問題はありますが、

特別に大きなストレスや信仰を試されるような出来事だとは感じていません。 

 

考えすぎているだけかもしれませんが、あなたのご意見を伺いたいと思いました。

私は、どんな状況や問題も神からの試みとして受け止め、

家族の目を常に神へと向けさせ、正しく理解し、

信仰によって乗り越えるよう努めています。

もしかすると、大きな試練がこれから来るのかもしれません。

しかし、それが来るなら、神に頼って私と家族を支えていただき、それに耐え、

それを信仰を強める機会、そして信仰が本物であることを示す機会として

用いたいと思っています。

神の祝福がありますように。

お忙しい中お答えくださることに、あらかじめ感謝いたします。 

 

 

返信 #5: 

ご連絡いただき、うれしく思います。 

すべてが順調に進んでいるとのこと、私もとても喜んでいます。

それを問題として見る必要があるのかという点についてですが、

もし現在、厳しい試練を受けていないのであれば、それは現時点では成長のために

それが必要ないか、あるいは特に有益ではないからかもしれません。

主は、私たちすべてに対してそうであるように、必要な時に必要なものを備えてくださいます。それが訓練であれ祝福であれ、試練であれ休息であれ、同じです。 

 

普通は、これとは逆の内容のメールを受け取ることのほうが多いのです。

すなわち、自分は限界を超えるほど試されていると感じ、その結果として自分自身を責め、

ヨブのように過去を振り返って原因を探そうとする信者たちからです。

ヨブのことを思い出してみてください。

彼は測り知れないほど祝福され、その後測り知れないほど試され、

そして再び測り知れないほど祝福されました。

私たちのほとんどは、彼が最初や最後に受けたほどの祝福も、

またその間に受けたほどの試練も経験しません。

ヨブはそれらすべてをよく対処しました。

(彼の「友人たち」に悩まされるまでは、試練にもよく耐えました)

 

もし私たちが試練を受けるとしても、それは困難ではあってもヨブほどではないでしょう。

もし祝福を受けるとしても、それはすばらしいものであっても、

彼ほど大きなものではないでしょう。

私たちが主と親しく歩み続けるなら、主はどのような状況を乗り越えるにも

必要なものを与えてくださいます。

ですから、試練からの救いを心配する必要も、(試練はいずれ必ず来ます)

試練がないことを心配する必要もありません。

(遅かれ早かれ、私たちは皆試されるのです)

むしろ、主がすべてを最善の形で整えておられることを信頼すべきなのです。 

 

(12) 私は乏しい中にあることも知っており、豊かな中にあることも知っている。

 私は、満ち足りることにも、飢えることにも、豊かであることにも、

 乏しいことにも、あらゆる場合に対処するすべを、すでに学んでいる。

(13) 私を強くしてくださる方によって、私はすべてのことに耐える力を持っている。

(ピリピ4章12–13節) 

 

……そして、もし私たちが艱難期に入ることになれば、

そこには十分すぎるほどの試練と試しが待っていることでしょう。 

 

イエスにあって 

ボブ・L. 

 

<Q&A-8>に続く下差し

 

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ご意見、ご感想、また右差しオーディオクラスに関心のある方は、

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わたし(バプテスマのヨハネ)は悔改めのために、

水でおまえたちにバプテスマを授けている。

しかし、わたしのあとから来る人(イエス・キリスト)

わたしよりも力のあるかたで、

わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。

このかた(イエス・キリスト)は、

聖霊とによっておまえたちに

バプテスマをお授けになるであろう。

(マタイ3:11)

 

感謝します

*:..。o○☆゚・:,。*

 

朝からまとまった雨が降っていますね

週明けの通学、出勤、またはお出かけの方の足元が

守られますますように

また、山火事の消化の雨となりますように

お祈りしますお願い

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                きくらげ & はんぺん

今日もありがとう~ラブラブ