sarah‐mercy

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イエスの愛と共に
猫にも花にも愛は注がれている

 

からの続きです

 

来たる艱難期:黙示録の歴史  第6部 <23>

                                                                                                  ロバート・D・ルギンビル博士著                          

最終の事柄:千年王国と新しいエルサレム 

 

III. イエス・キリストの千年王国:黙示録20:4-6  

 

(4)そして私は、多くの座を見た。

  そして彼らはその上に座り、彼らに裁きが与えられた。

(すなわち、彼らは裁きを行うために座った)

 すなわち、イエスについての証しのゆえ、

 また神の言葉のゆえに処刑された(直訳「斧で首を切られた」)人々であり、

[すなわち]やそのを拝まず、またにその刻印を受けなかった者たちである。

 彼らは生き返り、キリストと共に千年の間統治を始めた。

 (5) これが第一の復活である。

 (すなわち、すべての信者の復活)[1] 

(6) この第一の復活にあずかる者は幸いであり、聖なる者である!

 これらの者たちの上には第二の死(すなわち、不信者に対する罪の宣告)

 何の力も持たない。

 彼らは神とキリストとの祭司となり、千年の間、主と共に統治するのである。

(黙示録20章4-6節

 

これらの節によって、黙示録はイエス・キリストの千年王国統治の全体を、

大づかみに導入し、また「概観」しています。

(続く節は、その終結と「ゴグとマゴグ」の反乱へと移っていきます)

この記述が簡潔であることは、まったく予想外のことではありません。

 

この研究シリーズの最初から見てきたように、黙示録は、

私たちが「あらかじめ基本の学びを済ませている」ことを前提としており、

私たち読者、あるいは、より正確には教師が、

聖書の他の箇所に見いだされる関連する他の聖句、教理、

そして情報をすでに習得していることを想定しているのです。

 

実際のところ、メシヤの祝福された統治という主題は、

とりわけ旧約聖書において非常によく扱われているため、確かに語るべきことは多くあります。

しかし、この箇所にさらに内容を補い加える前に、まず見落としてはならない点があります。

すなわち、これらの節が、

復活したばかりの教会が主の地上の王国の統治において果たす役割に

特別な強調を置いているということです。

特に、イエス・キリストのゆえに艱難期の間に殉教した信者たちが強調されています。

 

私たちがすでに非常に詳しく見てきたように、

この時点までに教会全体はすでによみがえらされており、

このような形で報いを受けることになります。

そして黙示録20章4-6節は、それとは異なることを述べているのでもなければ、

それに反することを示唆しているのでもありません。

<つまり記されているとおりであるということ>

(特に、正しい翻訳を考慮するならば;前の脚注を参照してください)

 

しかし確かに、イエスのための艱難期の殉教者たちがここで特に言及されているのは、

それが特別な励ましを与えるという疑いのない目的のためであることは確かです。

艱難期をくぐり抜けることが自らの割り当てとなり、

とその追随者たちによって迫害され、

キリストのために死を受けることになる人々にとって、

主と共に統治することを含む確かな報いの見込みが、

ここでは当然のものとして提示されています。

この特別な保証は、それゆえ、艱難期の最も暗い日々の間、

この信者の群れを励まし支えることを目的とした神からの誓約なのです。

 

どれほど状況が絶望的に見えようとも、

またその恐るべき時代において真の弟子であることの代価が自らの命であるとしても、

神は救いを約束しておられ、そして救いに加えて、反キリストの支配を拒み、

にひれ伏すよりもイエスの御名のために処刑されることを選ぶすべての者に対して、

キリストの統治にあずかるという報いを約束しておられるのです。 

 

イントロ: 

 

(19) だから悔い改めて、[神に]立ち返りなさい。

 そうすれば、あなたがたの罪がぬぐい去られ、

 主のみもとから回復の時が来るようになり、

(20) また、あなたがたのために、キリスト[メシヤ]として認められている方、

 [すなわち]イエスを遣わしてくださるようになる。

(21) この方は、万物が回復される時まで天にとどまっていなければならない。

 (直訳「この方を天が受け入れていなければならない」)

 その回復については、神が昔からご自分の聖なる預言者たちの口を通して

 語ってこられたのである。

(使徒行伝3章19-21節

 

千年王国は、文字どおりの千年の期間であり、

その間イエス・キリストが、悪魔やその追随者たちからのいかなる妨害も受けることなく、

回復された地上を直接統治される時代となります。

シオンの山から全地を治めるメシヤの千年の統治は、

言い尽くすことのできないほど祝福された時代となり、それは、

究極のエデンである永遠の状態と新しいエルサレムが始まるまで(後記第VII章参照)

エデンの園以来、人類の歴史の中で他のいかなる時代の栄光をも上回る、

エデンに次ぐもの(penultimate Eden)となるでしょう。[2] 

 

というのも、艱難期という嵐はすでに過ぎ去り、エレミヤ25章32節

今やイエス・キリストご自身が、これまでに例のない静けさと平和と豊かさの時代を

統べ治められ、ご自身の王国を完全な義と公正によって、

エデン的な状態のもとで統治されるからです。

なぜなら、神がかつて、サタンの反乱に対する応答として人類を創造するために、

壊滅的な暗黒の状態から地と天を回復し、住むことのできる状態に戻されたように、

千年王国の間、地はそのかつての栄光の多くへと再び戻ることになるからです[3]

 

千年王国の間においても、私たちはなお「時間の中」に存在し続ける

(したがって、サタンとその御使いたちは千年王国の終わりまで拘束されるとはいえ、

なお罪と共存することになる)という事実は、

地上の環境が「完全」ではないことを意味します。

しかしそれでも、その環境は、アダムとエバがエデンから追放されて以来

見られなかったほど、最もすばらしく優れた状態を提供することになるでしょう。 

 

創世記の第七日が、神が地を再創造するために行われたすべてのことが

「良かった」ことの実証であったように、創世記1章31節

同様に千年王国は、神によって(すなわち神の油注がれた御子によって)

統治される世界だけが、「良い」ものとなり得ることを実証することになります。

創世記第1章の地は、(サタンの反乱に対する神の裁きの後の)暗黒と荒廃の状態から、

徐々に回復されていきます。

それは、人間の生命と居住に不利なすべての要因を体系的に取り除くことによって行われます。

すなわち、生命に敵対する要素からそれらを分離することによって、

また生命に必要な要素を置き換え、満たすことによって行われるのです。[4] 

 

これと同様の仕方で、イエス・キリストの完全な統治のもとにある千年王国の地は、

再びこの世界に「良い状態」を回復させることになります。

それは、この世界から最も有害な悪の源(すなわち悪魔とその御使いたち、

そして彼らが推し進める悪の世界体制:黙示録20章1-3節[5]

を取り除くことによってだけでなく、イエス・キリストの完全な統治のもとで、

祝福と豊かさをもたらすために必要なすべてのものを備えることによっても行われます。

 

サタンとその追随者たちが人間の生活に干渉することができなくなり、

またこの世界が神の御子の直接の統治のもとに置かれるとき、詩篇2篇;黙示録19章6節

そのとき初めて地は再び「良い状態」となるのです。

そして信者たちは、この二つの重要な要素、

すなわち悪魔の除去と、キリストの再臨がなければ、地上の楽園に近づくようなことは、

少しも可能ではないということを理解しておくことが重要です。 

 

千年王国は、神の御子の完全な統治を通して、地に対する神の直接の支配を取り戻し、

また同時に、人間による統治もまた回復される時代となります。

すなわち、最後のアダムであるイエス・キリストにおいて、

最初のアダムによって失われたものが取り戻されるのです。

罪は、現在の天と地が火によって滅ぼされ、新しい天と新しい地に置き換えられるまでは

消え去ることはありませんが、

イザヤ65章17節66章22節;第二ペテロ3章7節,10-13節黙示録21章1節

千年王国は、始まりと終わりの両方において、

ふるい分けと清めによって区切られる期間となります。

(すなわち、上の第I章で扱われた七つの雷の裁き、

そして下の第IV-VI章で扱われる人と御使いたちに対する最終的な裁きのことです)

 

創世記の第七日のように、千年王国は、神ご自身によって聖別された

(すなわち、聖なるものとされた)時代となります。

神は、ご自身の御子によって実行される真の公正と義に満ちた世界を、

人類に提供されるのです詩篇2篇;黙示録19章11節;第二ペテロ3章13節参照)

 

申命記5章15節によれば、安息日の主要な目的の一つは、

イスラエルが神の力強い御業によってエジプトから救い出されたことを思い起こすことでした。

それは休みの日であり、他に手段を持たない者たち、

すなわちしもべや家畜でさえも休息を得ることができるようにするためでした。

申命記5章14節

まさに同様に、千年王国は、悪魔の支配から世界を救い出された

神の救いを思い起こす時となります。

すなわち、それは、千年王国の直前に起こった大艱難期において、

非常に鮮明に、しかも恐ろしい経験の中で体験したその救いを思い起こす時となります

黙示録20章1-3節

それはまた、キリストの完全な統治のもとにある休息と祝福を楽しむ時であり、

そして、人類史上最悪の時代から

神が成し遂げられた大いなる救いを祝う時ともなるのです。 

 

 主なる神の霊が、わたしメシヤの上にある。

 主がわたしに油を注がれたからである。

 主はわたしを遣わして、苦しむ者たちのために勝利を告げ知らせ、

 心の打ち砕かれた者たちの傷を包み、

 捕らわれ人には解放を、囚人には自由を宣言し、

 主の恵みの年[千年王国]と、

 われらの神の復讐の日[第二再臨]とを告げ知らせ、

 すべての嘆く者たちを慰め、シオンのために悲しむ者たちのために備えをなし、

 彼らの悲しみに代えて冠のような喜びを与え、

 弱り果てた霊に代えて賛美の衣をまとわせるためである。

(イザヤ61章1-3節前半) 

 


[1] 「しかし、残りの死者は千年が終わるまで再び生きなかった」(KJV)という文は、

 後代に加えられた、聖書本文には属さない付加であり、実際の聖書本文の一部ではありません。 

[2] 『サタンの反乱:第1部』.II.6.「七つのエデン」を参照してください。 

[3] これらは、それぞれ第I段階の回復および第II段階の回復であり

(第III段階は永遠の状態です)

『サタンの反乱』シリーズ第5部「裁き、回復、そして置き換え」.IV.

「来たるべき事柄:裁き、回復、そして置き換えの第IIおよび第III段階」を参照してください。 

[4] 『サタンの反乱』シリーズ、特に第5部.II.8.b.「再創造の七日」を参照してください。 

[5] 「サタンの反乱」第4部「サタンの世界体制:過去・現在・未来」参照。 

 

<24>に続く 

 

 

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 あなたがたのうち主を恐れ、

そのしもべの声に聞き従い、

暗い中を歩いて光を得なくても、

なお主の名を頼み、おのれの神にたよる者はだれか。

(イザヤ50:10)

 

 

暗闇の中にいると感じる時こそ

小さな光が、より輝いて見えることを

感謝しますアップ

 

庭に咲くヒメウツギ

 

 

 

 

白いお米みたいだね

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昨日は午後から雨が降るというので

いつもは散歩を中止にするのですが

近くのスーパーへ行く時間はあるかな?…と思い直し

長女さんと散歩がてら出かけました

すると、スーパーの隣の駐車場では

誰でも参加できるくじ引き抽選会をしていたので

「私やる!」とチャレンジビックリマーク 

サランラップか洗剤でも当たったらいいなぁ~音符

続いて長女さんもピンク音符

 

すると、長女さんは2等でお米が当たった!!

しかも2㌔かと思ったら、なんと5㌔の!

おにぎりこしひかり飛び出すハート (スーパーで4,300円でした)

長女さんが一緒に散歩してくれて良かった~音符

 

長女さん、歩きだったけど、よいしょ、よいしょあせる

家に着くと丁度、雨が降り出してきました雨

全てのことに

感謝します飛び出すハート

 

 

私は5等のおやつセットクッキー でも嬉しいハート

*:..。o○☆゚・:,。*

 

 

 

よかったにゃ~😽 猫ちゃんも雨に濡れなくて良かったねハート

今日もありがとう~ラブラブ

 

からの続きです

 

来たる艱難期:黙示録の歴史  第6部 <22>

                                                                                                  ロバート・D・ルギンビル博士著                          最終の事柄:千年王国と新しいエルサレム 

黙示録20章1節―22章5節 

 

II. 小羊の婚宴 

 

(7)「門よ、おまえたちのこうべを上げよ。永遠の戸よ、上がれ。

 栄光の王が入って来られる。」

 (8)「栄光の王とはだれか。」 「強く、かつ力ある主、戦いに力ある主である。」

 (9)「門よ、おまえたちのこうべを上げよ。

 永遠の戸よ、上がれ。栄光の王が入って来られる。」

 (10)「この栄光の王とはだれか。」 「万軍の主、これこそ栄光の王である。」

(詩篇24篇7-10節/NSB訳) 

 

(1)すべての国々よ、手を打ち鳴らせ。喜びの声をもって神に呼ばわれ。

(2)いと高き主は恐るべきかた、全地の上におられる大いなる王である。

(3)主はもろもろの民をわれらの下に従わせ、国々をわれらの足の下に従わせられる。

(4)主はわれらのために嗣業を選ばれた。

 これは主が愛されたヤコブの誇りである。セラ

(5)神は喜びの声のうちに上られ、主はラッパの音のうちに上られた。

(6)神にほめ歌をうたえ、ほめ歌をうたえ。

 われらの王にほめ歌をうたえ、ほめ歌をうたえ。

(7)神は全地の王であるから、巧みな歌をもってほめ歌をうたえ。

(8)神はもろもろの国を治められる。神はその聖なる御座に着かれた。

(9)もろもろの国の君たちは、アブラハムの神の民として集められる。

 地の王たちは神に属する。神は大いにあがめられる。

 (詩篇47篇1-9節/NIV訳) 

 

(19)[メシヤが語る:]「義の門をわたしのために開け!

(すなわち、エルサレムの東の門、および東に面した神殿の門)

  わたしはそれらを通って入り、主をほめたたえよう。

 (20)これは主の門である。正しい者はこれによって入る。

(すなわち、キリストを通して;ヨハネ10章1-9節参照)

 (21) わたしはあなたをほめたたえよう。

 あなたはわたしを低くされたが、(すなわち、第一の到来における苦しみ)

 あなたはわたしに救いをもたらされたからである。

 (すなわち、復活とハルマゲドンの勝利)

 (22)[祝う者たちの合唱が応答する:]

 「建てる者たちの捨てた石は隅のかしら石となった!

 (23) これは主から出たことであり、われらの目には驚くべきことである! 

(24) これは主のなされた日である!(すなわち、第二の到来)

  われらはこの日を喜び楽しもう!

 (25) ああ主よ、どうかわれらを救ってください!

(ホーシーア・ナー(הוֹשִׁיעָה נָּא/hoshi'ah na')=ホサナ!)[艱難期から]

 ああ主よ、どうかわれらに繁栄を与えてください!

(すなわち、千年王国の祝福) 

(26) 主の御名によって来られる方(すなわち、メシヤは祝福されるように! 

 主の家から、われらはあなたがたすべて(すなわち、メシヤとその従者)を迎える。

 (27) 主は神である! そして主はその光をわれらの上に輝かせてくださった!

 いけにえを縄で祭壇の角につなげ。

(すなわち、十字架を思い起こさせるための、千年王国の開始における記念的いけにえ)

 (詩篇118篇19-27節

 

上に挙げた預言的でメシヤ的な詩篇に描かれている、

私たちのイエス・キリストのエルサレムへの勝利の入城は、

この時点ですでに起こっており、また、エルサレムの神殿における主の着座、

および七つの雷の裁きの完了もすでに成し遂げられています。

その中には、キリストの花嫁である教会の裁きと評価も含まれています。

これらすべての予備的な事柄が完了し、主の日々の千年王国統治が始まる前に、

世界の歴史の中で最も驚くべき祝宴が催されます。

すなわち、主の勝利を祝う祝宴、小羊の婚宴です。

この宴がこのように呼ばれるのは、それがまた、

イエスがご自身の最も尊い所有物である教会を勝ち取り、

それを受け取られたことを記念するものでもあるからです。

この教会は十字架において勝ち取られ、そして今や復活によって

永遠に主の御腕の中に置かれるのです。 

 

(6) わたしは、大群衆の声のようなもの、多くの水の音のようなもの、

 また激しい雷鳴のようなものがこう言うのを聞いた、

 「ハレルヤ!(すなわち、『主をほめたたえよ』)全能者なるわれらの神、主は、

 その王としての統治を開始された!

(7) われらは喜び、歓喜し、主に栄光を帰そう。

 小羊の婚礼が来て、その花嫁が(直訳「妻」;黙示録21章9節参照)

 自らを整えたからである。

 (8) そして、彼女には純粋で輝く、最上の織物からなる[衣]を着ることが許された」。

 (この最上の織物とは、主の聖なる者たち[信者たち]の義の行いを表している)

 (9) そして[御使い]はわたしに言った、

 「これを書き記せ。小羊の[婚礼の]晩餐に招かれている者たちは幸いである!

 これらの[わたしの]言葉は、神の真実の言葉である。」

 (黙示録19章6-9節

 

私たちはすでに、キリストの花嫁としての教会という聖書的比喩について学びました。

(この研究シリーズの第5部.V.「小羊の花嫁の復活」参照;エペソ5章22-32節参照)

しかしここで重要なのは、

この婚礼の祝いが旧約の預言の中にも見いだされるということです。

雅歌(カルヴァン主義の諸派において伝統的に理解されてきたように[1])は、

花婿としてのキリストと、その花嫁としての教会に関する寓話であり、

雅歌3章6-11節8章11-12節; 歴代誌上22章5-19節参照;

ソロモンは預言的存在ではないが、型としてのダビデの子です)

このメシアとその婚約された花嫁との類比は、

特にメシヤ的婚礼の詩篇である詩篇45篇においても見られます。 

 

 

指揮者のために。「ゆり」の調べに合わせて。

コラの子たちによる。マスキール。 

 

婚礼の歌 

(1) わたしの心は気高いことばによってかき立てられ、 

 王のためにわたしの詩を語り出す。 

 わたしの舌は巧みな書記の筆である。 

(2) あなたは人の子らのうちで最もすぐれておられ、 

 あなたのくちびるには恵みが注がれている。 

 神があなたをとこしえに祝福されたからである。 

(3) 勇士よ、あなたの剣を腰に帯びよ。 

 威光と威厳を身にまとえ。 

(4) あなたの威厳をもって、勝利のうちに進み出よ。 

 真理とへりくだりと義のために。 

 あなたの右の手は恐るべきわざを成し遂げるであろう。 

(5) あなたの鋭い矢は王の敵の心を射抜き、 

 国々はあなたの足の下に倒れるであろう。 

(6) 神よ、あなたの御座は世々限りなく続き、 

 義のつえはあなたの王国のつえである。 

(7) あなたは義を愛し、悪を憎まれる。 

 それゆえ神、あなたの神は、 

 喜びの油をもってあなたに油を注ぎ、 

 あなたをあなたの仲間たちにまさって高く立てられた。 

(8) あなたのすべての衣は没薬と沈香と桂皮の香りに満ち、 

 象牙で飾られた宮殿から、 

 弦の音楽があなたを喜ばせる。 

(9) 王の娘たちはあなたの栄えある婦人たちの中にあり、 

 あなたの右にはオフィルの金をまとった王妃が立つ。 

(10) 娘よ、聞け。心して耳を傾けよ。 

 あなたの民とあなたの父の家を忘れよ。 

(11) 王はあなたの美しさを慕い求める。 

 彼を敬え。彼はあなたの主である。 

(12) ツロの娘は贈り物を携えて来、 

 富める者たちはあなたの恵みを求めるであろう。 

(13) 王女はその内室においてすべて栄光に満ち、 

 その衣は金で織り込まれている。 

(14) 刺繍の衣を着て、彼女は王のもとへ導かれる。 

 彼女に従うおとめたちも、 

 あなたのもとへ連れて来られる。 

(15) 彼らは喜びと楽しみのうちに導き入れられ、 

 王の宮殿に入る。 

(16) あなたの子らはあなたの父祖に代わり、 

 あなたは彼らを全地の君たちとするであろう。 

(17) わたしはあなたの名をすべての世代にわたって記念させる。 

 それゆえ諸国の民は、とこしえにあなたをほめたたえるであろう。 

(詩篇45篇1-17節/NIV訳) 

 

上の節々において注目すべきことは、ここにも「花嫁に従うおとめたち」(14-15節)

存在が見られるということです。

これらの「友人たち」は、黙示録19章9節においても、

大いなる婚宴に招かれた者たちとして見られました。

(「小羊の[婚礼の]晩餐に招かれている者たちはさいわいである!」)

これらの人々には、この時点でイエス・キリストを信じているすべての者たちが

含まれることになります。

そして疑いなく、その中心は、主の再臨を目撃した直後に

イエスへと立ち返ったユダヤ人たちの大集団であると思われますが、

同様にイエスを信じるようになった異邦人たちも、もちろん除外されることはありません。 

 

 人々は東からも西からも、また北からも南からも来て、

 神の国の祝宴の席に着くであろう。

 (ルカ13章29節; 参照. マタイ8章11-12節22章1-14節25章1-13節ルカ14章16-24節

 

この宴の場所について言えば、それは確かにエルサレムにおいて行われることになります。 

 

(6)万軍の主はこの山の上で、すべての民のために豊かな食物の宴を備えられる。

 それは、よく熟したぶどう酒の宴、脂ののった最上の肉と、

 えり抜きのぶどう酒の宴である。

(7)この山の上で主は、すべての民をおおっているおおい、

 すべての国々の上にかぶさっている幕を取り除かれる。

(8)主は死をとこしえにのみ込まれる。主なる神はすべての顔から涙をぬぐい取り、

 ご自分の民の恥を全地から取り除かれる。主がこう語られたのである。

(9)その日、人々は言うであろう、

 「見よ、この方こそわれらの神。

 われらはこの方に信頼したので、われらを救ってくださった。

 この方こそ主である。われらはこの方に信頼した。

 われらはその救いを喜び楽しもう。」

 (イザヤ25章6-9節/NIV訳) 

 

この集まりのための特別な備えには、とりわけ会衆を風雨などの外的要素から守る、

超自然的な「覆い」も含まれることになります[2] 

 

(11) わたしはあなたがたに言う。多くの人が東からも西からも来て、

 天の御国においてアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴の席に着くであろう。

(12) しかしこの国の子らは外の暗やみに投げ出され、

 そこで泣き叫び、歯ぎしりするであろう。」

(マタイ8章11-12節 参照.ルカ13章28節黙示録3章19-20節

 

メシヤが再臨されるときに応じる者たちは、まことに幸いであると言えるでしょう。

なぜなら彼らは、その来たる大いなる試練の時代において信仰を守り、

主の再臨のときに主を迎えるためによみがえったすべての者たちと共に、

その日々の中で最も偉大なその日に、栄光に満ちた祝いに招かれるからです。

というのも、これらのすばらしく祝福された出来事は、むなしい望みではなく、

神の揺るぐことのない御心によって定められた将来の現実だからです。

それらは「神の真実の言葉」なのです。黙示録19章9節後半)

 

この宴そのものの長さは明らかにされていませんが、疑いなく何週間も続くことでしょう。

(歴代誌下30章23節参照)

しかし多くの点において、千年王国そのものが、

イエス・キリストの勝利と統治を祝う祝典となるでしょう。

それは、エデンの園以来比類のない千年にわたる祝福であり、

永遠の状態の開始に至るまでは、それに匹敵するものは現れないのです。

それゆえ当然のことながら、預言者たち、とりわけ詩篇には、

この驚くべき時を待ち望む勝利と祝いと感謝の歌が満ちあふれており、

それらはその壮大な機会において歌われ、その意味の深さは、

そのときになって初めて十分に理解されることになるでしょう。

(例えば、詩篇47篇1節-, 76篇1節-95篇1節-100篇イザヤ26章1節) 

 

 あなたがたの神をほめたたえよ、もろもろの民よ。主をほめる声を響かせよ。

 主はわれらのいのちを保ち、われらの足が滑るのをお許しにならなかった。

 まことに神よ、あなたはわれらを試み、銀を精錬するようにわれらを精錬された。

 あなたはわれらを[牢の]とりでの中に導き入れ、

 われらの上に苦難を置かれた(直訳「われらの腰の上に」)

 あなたは人々にわれらの頭の上を乗り越えさせられた。

 われらは火の中、水の中を通った。

 しかし、[これらすべてにもかかわらず]

 あなたはわれらを[憩いの]場所へと導き出された。(すなわち、救いへと) 

(詩篇66篇8-12節

 

それゆえ私たちは、そのすばらしい祝宴にただ加わるだけでなく、

イエス・キリストのためにささげた私たちの生涯の働きの結果として、

それを余すところなく楽しむことができるような、すぐれた席を占めることをも、

自分にとって大切なこととすべきです。 

 

(7)彼は客たちが上座を選んでいるのを見て、彼らにたとえを語られた、

(8)「だれかに婚宴に招かれたなら、上座に着いてはならない。

 あなたより身分の高い人が招かれているかもしれない。

(9)もしそうであれば、あなたがた両方を招いた主人が来て、

 『この人に席を譲りなさい』と言うであろう。

 そのとき、あなたは恥をかいて末席に着かなければならなくなる。

(10)しかし招かれたなら、末席に着きなさい。

 そうすれば主人が来て、『友よ、もっと上座へお進みください』と言うであろう。

 そのとき、あなたは共に席に着いているすべての人々の前で誉れを受けることになる。

(11)なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、

 自分を低くする者は高くされるからである。」

(ルカ14章7-11節

 


[1] 例えば、1599年ジュネーブ聖書における雅歌の注解を参照してください。 

[2] また、これには、参加者の極めて多数に対応するための、

何らかの超自然的な収容手段も含まれるであろうと考えられます。

(教会の裁きの際における、時間の超自然的な圧縮に類似したものです) 

 

<23>に続く 下差し

 

 

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また、ご意見、ご感想、また右差しオーディオクラスに関心のある方は、

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 だから、わたしたちは落胆しない。

たといわたしたちの外なる人は滅びても、

内なる人は日ごとに新しくされていく。
 なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、

永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。

(第2コリント4:16~17)

 

感謝します

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庭の白のモッコウバラ

 

 

 

花嫁のブーケみたいだね花束

今日もありがとう~ラブラブ

 

4月8日からの続きです

 

質問と答え<Q&A-> 

 

共同の祈り(Corporate Prayer) 

https://ichthys.com/mail-corporate%20prayer.htm 

ロバート・D・ルギンビル博士著 からの翻訳 

 

「地上で二人が心を合わせるならば」マタイ18章19節) 

 

質問: 

こんにちは、Bob先生。 

マタイ18章19節が正確には何を意味しているのか、説明していただけますか。

「ふたりが心を合わせる」ときに祈りが答えられるとはどういう意味なのかについて、

私はいくつか異なる見解を耳にしています。 

 

返信: 

この節マタイ18章19節は、とりわけ私たちの主が祈りについて語られた他のすべてのこと、

そして一般に聖書が祈りについて語っていることのすべてと一致しています。

私は、すべての義なる祈りは聞かれていると信じていますが、

祈りの働きを促進し、強めるいくつかの事柄が存在すると考えています。

これは一見すると矛盾しているように思えるかもしれませんが、

聖書に見られる多くの事柄と同じように、実際には矛盾してはいません。

イエスの弟子たちが、どのように祈るべきかを教えてくださいと主に求めたとき、

主は「主の祈り」をもって答えられました。

そしてその祈りは、ここで私たちが語っていることについての完全な模範です。 

 

1) 「御国が来ますように」と祈る主の祈りは、目の前の問題の解決よりも、

 最終的な救いを待ち望んでいます。

 もちろん、この御国に入る前のこの世における問題について、

 答えや助けを求めることが間違っているわけではありません。

 しかし、イエス「御国が来ますように」と祈りを始められたことは、

 もし私たちが真に完全であるなら、私たちは何よりもまず、主が再び来られるその日、

 そして私たちが格闘しているこれらすべての肉的な問題が、

 復活と栄光のうちに事実上解消されるその日を、

 最も切に望むであろうということを明らかにしています。 

 

2) 「御こころが行われますように」と祈る主の祈りは、私たちが望むことよりも、

 神が望まれることに焦点を当てています。

 パウロは第一テサロニケ5章17-18節において、私たちは絶えず祈り続けるべきであると

 言っていますが、すぐに続けて、私たちはすべての状況において感謝すべきであると

 付け加えています。

 なぜなら、「これが、(すなわち、人が直面しているいかなる事柄においても感謝することが)

 キリスト・イエスにあってあなたがたに対する神のみこころである」からです。 

 

3)そして、「御国が来ますように」

 そして神のみこころが新しい地において普遍的に行われるその日までの間、

 この祈りは、私たちが召されている特定の戦いにおいて耐え忍ぶために

 不可欠なものだけを求めています。

 すなわち、この世において私たちのを支えるための「パン」

 この世において主との交わりを保つための、私たちのからの「赦し」

 そして私たちが耐えることのできないほど大きいかもしれない、

 この世の圧力からの「救い」です。

 これらはすべて、私たちの弱い肉が絶対に必要としているものです。

 (私たちが必要だと思い込んでいるものではなく) 

 

多くのクリスチャンは、祈りとは神から物を得る手段であるという考えを、

これから述べるような正確な言葉で表現しているわけではないかもしれませんが、

祈れば自分が望むものを得ることができ、祈らなければ得られない、

という印象を持っているように思われます。

しかし私は、祈りがそのようなものだとは思っていません。

私が聖書を読むかぎり、祈りとは、神が私たちを助けて、御心を理解し、

それを尊び、そして受け入れることができるようにしてくださる方法です。

 

それは、私たちと天の父との間の対話であり、

それによって私たちは主をよりよく知るようになるのです。

実際、あなたが尋ねているこの節のように、私たちが求めるものは何でも自動的に得られる、

つまり神が眠っているか、あるいは自動販売機のようなものであるかのように

理解されることが多い節が、数多く存在します。

 

しかし一方で、ヤコブ4章3節のように、

すべての祈りが答えられるわけではないことを明確に教えている節もあります。

繰り返しますが、これは矛盾しているのではありません。

ただ、それは祈りがしばしば誤解されているのです。

イエスラザロを死からよみがえらせる前に父に祈られたとき、

父がこの奇跡を行う力を与えてくださることを、

主はあらかじめ完全な確信と信仰をもって知っておられることを明らかにされました。

しかし主は、「そばに立って聞いている人々のために」その祈りをささげられました。

ヨハネ11章41-44節

理想的には、祈りとは次のようなものであるべきです。 

 

1) 完全な信仰確信のうちにささげられること。 

 

2) 完全に神の御心であることを求めるものとしてささげられ、

 またそのようにあらかじめ理解されたものとしてささげられること。 

 

3) 神に応答するものとしてささげられることであり、

 神に応答させようとする努力としてではないこと。 

 

私の考えでは、あなたが尋ねているこの節や、

それに類する「祈りの約束」の節が私たちを悩ませる理由は、

(そしてある時点でそれらは聖書を読むほとんどのクリスチャンを悩ませるものです)

それらが祈りの真の問題を非常に明確に示すために、

私たち自身の不十分さを浮き彫りにするからです。

すなわち、もし祈りにおける私たちの信仰に何らかの不完全さや迷いがあるなら、

(そして信仰の欠如は祈りを妨げます:ヤコブ1章6-7節

もし祈りにおける私たちの願いの中に、実際には神の御心ではないことを

自分自身が知っているような要素があるなら、

(そして自己中心は祈りを妨げます:ヤコブ4章3節

もし神の時や答え方に対する忍耐の欠如があるなら、

(そして私たちはすべての宇宙的事実を知ることはできません:ヨブ記参照)

 

そのとき、これらの節やそれに類する節、

すなわち神が私たちに答えてくださると約束しておられるすべての箇所は、

容易に私たちの心を深く刺すものとなり得ます。

むしろ、これらの約束から私たちが学ぶべき教訓は、神に何らかの欠けがある

ということではなく、(神は偽ることができず、その約束は常に守られます)

もし欠けがあるとすれば、それは私たちの側にある、ということです。

 

この原則を私たちが受け入れるなら、「答えられない祈り」という問題の多くは、

直ちに消え去ることになります。

イエスは、もし私たちにからし種ほどの信仰があれば、

いちじくの木に海に植わるよう命じたり、山に移るよう命じたりすれば、

それらはそのとおりになるであろう、と語られました。

しかし私たちは、イエスがこれらの命令のいずれも実際に行われたのを見てはいません。

なぜでしょうか。

それは神が答えてくださらないからではなく、

イエス神の御心にないことを決して求められなかったからです。 

 

これが、この節やそれに類する節についての最後の点へと私を導きます。

すなわち、私たちは一般的に、また自分自身の生活について特に、

キリスト者としての歩みの中で前進するにつれて、

神の御心をますますよく知るようになりますが、それでもなお、

私たちには知らない事柄があり、また私たちの目には見えない戦いの中で

起こっている事柄が存在する、ということです。

したがって、私たちが祈る多くの時や状況、出来事や困難については、

その結果に関して神の御心が何であるかを、

私たちは本当には言い切ることができない場合が常に存在します。

それは、特定の結果を求めて祈ることができないという意味ではありません。

しかし、いかなる祈りをささげる前にも、正しい心構えを持つことが非常に重要であると、

私は信じています。 

 

1) 神は私を愛しておられ、私が求める前からすでに私の必要をご存じであるということ。

 神は私の世話をしてくださり、それは私の祈りのゆえではなく、

 神がどのようなお方であるかゆえに、そうしてくださるということ。 

 

2) 私は神に対して完全な確信を持ち、また神が、私のために、

 真に神の善となることのために、すべてのことを整えてくださるという信仰を

 持っているということ。

 たとえそれが何であるかを私がはっきりと見ることができなくても、

 神はそうしてくださることを私は知っているということ。

 そしてそれは、私の祈りにかかわらず、神がなしてくださることであるということ。 

 

3) 私が自分の願いを父に直接ささげることができるのは特権であるということ。

 そうすることが私の益のためであり、私を建て上げるためであり、

 私を安心させ励ますためであって、神から何かを引き出すための

 機械的な手段ではないということを私は知っているということ。

 私は神に語りかける必要があるのです――

 それが、神が私をそのように造られた方法なのです。 

 

 祈りは、実に多くの意味において、私たちの益となるものです。

それは、私たちを愛しておられる父が私たちを気にかけておられることを、

私たちに思い起こさせます。

それは、私たちを主により近づけます。

それは、私たちの重荷を主にゆだねることを可能にします。

それは、私たちが仲間の信者たちと重荷を分かち合う機会を与え、

また逆に、助けを必要としている者のために重荷を担うことを可能にします。

それは、神をあがめるこの壮大な見えない戦いに、私たちが参与することを可能にし、

しかもそれを、すばらしく重要な方法によって行うことを可能にします。

そしてそれは、私たちが自分自身ではなく神に信頼していること、

私たちが自分自身の肉の力ではなく神に解決を求めていることを、

御使いたちと人々の前に明らかにします。 

 

したがって、他の信者たちと共に祈ることは、

個人的な祈りの価値について疑いを持つための機会であってはならず、

またそれは「どのように祈るか」という仕組みの問題でも全くありません。

共同の祈り、すなわち少なくとも「二人が共に集められている」祈りは、

むしろ、信仰の一致、配慮の一致、関心の一致、そして神の恵みを評価し、

その御心の成就において神を仰ぎ見る一致を示す機会なのです。

私たちがよりよく祈れば祈るほど、より多く祈れば祈るほど、

祈るときに神の御心により調和していればいるほど、神により近ければ近いほど、

そしてより多くの者たちが共に祈るならマタイ18章19節)、

これらすべてのことは、確かに祈りの働きを強め、また促進します。

 

しかしこれは、これらの促進する要素のいくつか、

あるいはすべてを欠いているかもしれない祈りが、効果がないとか、

あるいは歓迎されないということを、まったく意味するものではありません。

神は、私たちが祈るすべてのことを聞いておられます。

本当の問題は、私たちが自分自身の祈っていることを、

本当に理解しているかどうか、ということです。 

 

(参照箇所)

TheLord's Prayer 

Jesus'Prayers in Gethsemane (part of Bible Basics 4A: Christology) 

Can Prayer Be Offered From Heaven? 

Prayeras an Element of Spiritual Growth (part of Peter lesson #17) 

The value of cumulative prayer. 

Prayer for Failing Faith 

Holding up Holy Hands in Prayer 

Imprecatory Prayer 

PrayerOffered in Jesus' Name 

Praying for Wisdom: James 1:5 

Blessing, Cursing, Prayer and the Will of God 

Prayer Access to the Father and Christ's Intercession on ourbehalf. 

 

私たちの言葉がまだ唇に上る前から、私たちの祈りに答えてくださるお方、

すなわち私たちの主であり救い主イエス・キリストの神であり父であられるお方にあって。 

 

BobL. 

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 また、よく言っておく。

もしあなたがたのうちのふたりが、

どんな願い事についても

地上で心を合わせるなら、

天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。
 

 ふたりまたは三人が、

わたしの名によって集まっている所には、

わたしもその中にいるのである」。

(マタイ18:19~20)

 

感謝します

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主を求めて、主に感謝し、

そして喜びと愛をもって

家族、兄弟姉妹、これを読んでいる皆様の為に

お祈りしますお願い

 

 

 

 

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宝石のような瞳の猫ちゃん

今日もありがとう~ラブラブ