からの続きです
「 質問と答え」<Q&A-6>
https://ichthys.com/mail-eschatology-issues161.htm
ロバート・D・ルギンビル博士著 からの抜粋翻訳
質問 #2
ルギンビル博士へ
お元気でお過ごしでしょうか。
さて、あなたも聞いておられるかもしれませんが、__ が銃撃されました。
(悲しく、また残念なことです)
私は今まで彼のことを知りませんでしたが、彼はキリスト教右派の政治活動家であり、
信仰、道徳的問題、そして政治に関係するさまざまな主題について、
リベラルな大学や大学院の学生たちと討論していた人物であったと聞きました。
もちろん、彼の信念や価値観のいくつかは聖書的なものでした。
(そして、彼が地上にいた期間に行った
すべての真実の善い働きのために、彼は大きな報いを受けるだろうと私は信じています)
しかし私は、投票しない者は神に対して反逆しているとする彼の立場に異議を感じました。
彼はエレミヤ29章7節を、信者は投票し政治に関与すべきであることを
「証明する」ための主要な「証明聖句」の一つとして用いています。
私は、この節が彼の主張を証明しないことは理解していますが、
「どのようにしてそれが証明にならないのか」という点を、
頭の中でうまくまとめることができません。
彼はこの節を文脈から取り外して用いている、とあなたは思われませんか。
彼は、聖書には政治の主題に関連することが非常に多く語られており、
それが私たちが政治に関与すべきことを裏づけていると述べましたが、
彼がそれらの多くの箇所をどこから持ってきているのか、私には分かりません。
ある人々は、ダビデやヨセフのように、
多くの旧約の人物が高い指導的地位にあったことを挙げています。
(これは思いつく例のうちの、ほんの二つにすぎませんが)
__は、教会は世界で起こっていることを気にかけるべきであると述べています。
もちろん、私たちは気にかけるべきです。しかし、それが本当の問題ではありません。
なぜなら、気にかけること、(それは最大限の霊的成長によって最もよく達成されます)
そしてそれゆえ、自分の国、その指導者たち、そして政府のために祈ることは、
政治に関与することと同じではないからです。
問題は、この世界に非常に広く存在している悪に対して、
私たちはどのように反応すべきか、ということです。
霊的成長、前進、そして生産によってです。
人々の前で自分の光を輝かせ、地の塩となる方法は存在しますが、
政治への関与はその解決ではありません。
ラオデキヤへのキリストのメッセージは、私たちに悔い改めるように告げています。
したがって、本当の問題が悔い改めである(黙示録3章19節)にもかかわらず、
神が実際に私たちにそうすることを望んでおられるかのように、
教会が政治に自らを押し込むことに、どのような権利や根拠があると
教会は考えているのでしょうか。教会は霊的に変わる必要があります。
さて、私はこのような言い方をすべきではないことは理解していますが、
真に地の塩であることは、ある意味において、より多くの不信者をキリストへ導き、
また私たち一人一人に割り当てられている奉仕を通して信者が霊的に成長するのを
助けることによって、この世界をより良い場所にしようとすることだと
言えるのではないでしょうか。
もし教会がそれほど生ぬるくなく、自分の務めを正しく果たしていたなら、
私たちは自然とより敬虔な指導者を持つことになったのではないでしょうか。
そして、その指導者たちの中に信者がいたとしたら、
そのような地位にいることは間違いなのでしょうか。
私が言おうとしているのは、
教会は霊的な方法によって世界に働きかけ存在であるということです。
(そして、それは結果として、多くの積極的な変化が世俗的および政治的領域において
自然に起こることにつながる可能性があります)
(私たちはそれには同意していませんが)
人は政治に関与すべきだと信じているクリスチャンたちは実際にいます。
私は、彼らの目標は、私たちのものと似ているか、
もし同じでないとしても非常に近いものだと思います。
(たとえ、私たちが地上に天国を作ることは決してできず、
最終的に「すべてを正す」ことができるのは神のみであるとしても)
しかし、大きな違いは、私たちすべてが目指しているその目標を達成しようとしている方法、
手段、あるいはやり方にあります。霊的手段は政治的手段に勝ります。
(ちょうど、同じ木を切り倒すためには普通の釘打ち用の金づちよりも
斧の方が明らかに優れているのと同じです。金づちは木を倒すには単に役に立たないのです)
私は、より神を敬う残された者たちが存在するならば、
犯罪や道徳的問題は自然と少なくなるだろうと思います。
たとえそれらのものが完全に消え去ることは決してないとしてもです。
そして、千年王国の終わりに起こるゴグとマゴグの反乱は、
このことを非常にはっきりと証明するでしょう。
なぜなら、神の知識が至るところに満ちている、
ほとんど完全で「エデンの園のような」状況でさえも、
悪魔の大義の最も頑固な支持者たちを思いとどまらせるには十分ではないからです。
__ は、もし政治に関与しないなら、
あなたはそれらを気にかけていないのだと信じていました。
(それはおそらく正しい言い方でしょう)
しかし彼らは、それを、この世界で何が起こっているかを気にかけていない、
あるいは知らないことと同一視しています。もちろん私たちクリスチャンは、罪深い行為や、
起こっているすべての苦しみや痛みを気にかけるべきです。
私にとって本当の問題は、「サタンの世界体系に対して、私たちはどのように反応すべきか」
ということです。
その答えは、霊的成長、前進、そして生産によってです。
そして政治は、それらのことにとって逆効果となります。
(身体的に関与する場合であれ、感情的に関与する場合であれ)
しかしその後に出てくるのが、「政治への関与」とはどこで線を引くのか、という問題です。
私にとって、投票すること自体には何の問題もありません。
(もっとも、教会の悔い改めがない限り、それがこれから起ころうとしていること、
すなわち艱難期を変えることにはならないでしょうが)
感情的な関与はどうでしょうか。それも含まれます。身体的な関与はどうでしょうか。
それも含まれますが、しかしどのようにしてでしょうか。
私は、行進に参加したり、さまざまな種類の公職に立候補したりすることなどだと思います。
(以下のリストを参考として挙げています)
しかし、(ほんの一つか二つの例として)性的人身売買と戦ったり、
被害者に奉仕したりすることは、何らかの意味で「政治」と見なされるのでしょうか。
私はそうは思いません。
(実際に、そのような働きのために召されており、
彼らに対する宣教師となる信者たちが存在すると私は本当に信じています)
軍隊についてはどうでしょうか。
特に、他国が危険な状況で交戦しているきに支援する場合です。
はい、軍務を(自国に仕える、あるいは恩返しをする方法として)
政治への関与の一形態と見なす人々もいます。
そして私は、召されて奉仕する信者たちがいることを疑っていません。
そうであるならば、私たちは「政治への関与」とは何を意味するのか、
そしてどこで線を引くのかを、明確に定義する必要があるのではないでしょうか。
なぜなら、もしそれをしないなら、あなたや私のような人が、
神が実際に望んでおられるかもしれない場所で、
自分の霊的賜物を用いて助ける人々に反対しているのだと
考えてしまう人が出てくるかもしれない、ということが私の懸念だからです。
私は、これが何を意味するのかについて、簡単にGoogle検索をしてみました。
そして限られた答えから、完全ではないリストを得ました。
政治への関与には、投票、選挙運動、寄付(候補者または政治団体への)、
役人への連絡、抗議、請願、そして政治団体への参加が含まれます。
キリストにあって敬具
返信#2:
私は、あなたの分析に全面的に同意します。投票することには何の問題もありませんし、
あなたが最後の段落で挙げている他の活動も、罪ではありません。
私の要点は、霊的成長、前進、そして生産が、はるかに重要であるということ、
そしてまた、実際に自分の国を助けるという点においても、
はるかに実際的であるということです。
なぜなら、神は何でもおできになるからです。
しかし、人間は、神の助けなしには、ほんのわずかなことしかできません。
そして、もし私たちが話しているその個々のクリスチャンが、
そもそも霊的に成熟していないのであれば、
彼らが成し遂げようとしているそのわずかなことが、
果たして正しいことであるのか、また正しい方法で行われているのか、
その可能性はどれほどあるでしょうか。
これらの問題を扱っている箇所へのリンクを、ここにいくつか挙げておきます<英文>:
Politics versusSpiritual Growth I (政治と霊的成長 I)
Politics versusSpiritual Growth II (政治と霊的成長 II)
Politics versusSpiritual Growth III (政治と霊的成長 III)
Politics versusSpiritual Growth IV (政治と霊的成長 IV)
*私は、この人物の運動からは、十分に距離を置くことを強く勧めます。
私は亡くなった人を中傷したくはありませんが、霊的安全の観点から言うなら、
私は彼と彼の「活動」について、非常に憂慮すべきいくつかのことを聞いています。
それらは、あえて言うなら、明らかにキリスト者的ではないものです。
政治家や利益を狙う詐欺的な人物が、自分たちの被害者をよりよく利用するために、
羊の衣をまとって身を包むということは、よくあることです。
クリスチャンは羊であり、主が狼について警告しておられ、
また、蛇のように賢くあるべきであると
(そして同時に鳩のような純真さをもって行動するべきであると:マタイ10章16節)
明確に語っておられるにもかかわらず、しばしば非常にだまされやすい傾向があります。
イエスは答えて言われた、
「だれにも惑わされないように気をつけなさい。」
イエスにあって、
BobL.
質問 #3
ご注意くださってありがとうございます。
そしてあなたの言うとおりで、彼は羊の衣を着た狼であった可能性があります。
彼が主と共にいるかどうかについて、私が判断して断言することはできませんが
私には気にかかることがあります。
私が彼のことを知ったのは、彼の死がニュースに出たときでした。
しかし、彼から距離を置く者は神への反逆の中にあると言うような人に対しては、
気を付けていたいです。
(それは、このことだけで自動的にその人が不信者であると言っているのではありませんが、
そうした人が本当に救われているかどうかという意味です)
あなたのメールを読んだあと、彼についてもう少し調べてみましたが、
確かにあなたの言うとおり、彼はいくつかの憂慮すべき見解を持っていました。
(最初は私が気づいていなかったものです)
しかしそれを見つけるのに、まったく時間はかかりませんでした。
教会が政治に関与すべきかどうかについての彼の動画の一つを初めて見たとき、
私は非常にいら立ちを覚え、25分の動画を、いら立ちのために絶えず一時停止せずには
聞き続けることができませんでした。
(それは、実際にはあなたからのメール返信を受け取る前のことでした)
なぜ私はあの動画を見ることを自分に強いたのか分かりませんが、
それは完全にくだらないものでした。
多くの人々が、まるで彼がキリスト教の殉教者であったかのように彼を擁護していますが、
私はそうは思いません。
弁証(apologetics)が彼らの召しであるなら、
人々が道徳的また霊的な主題について討論することに、私は何の問題も感じません。
しかし、この人物の政治への関与と全体的な信念は、控えめに言っても憂慮すべきものでした。
ええ、彼についてさらに知らせてくださって、ありがとうございます。
前のメールで私が挙げた質問のいくつかに関してですが、
エレミヤ29章7節(投票や政治への関与を強制するために、
ある人々が用いる「証明」箇所)を、あなたはどのように解釈されますか。
何が政治への関与であり、何がそうでないのか、その線はどこで引くべきでしょうか。
性的人身売買と戦うことや、被害者に奉仕することを、
あなたは否定的なものだとは思われませんか。
私はそうは思いません。
なぜなら、警察や軍隊に関与している信者たちについてはどうでしょうか。
それは、私たちが考える意味での否定的な政治への関与ではありませんが、
ある意味ではそれも政治への関与と見なされることがあるからです。
私たちが、この世におけるあらゆる種類の関与が悪い考えであると
信じているわけではないのです。
そういうわけで、私たちが「政治への関与」と言うとき、
それが何を意味するのかを明確に定義すべきだと、あなたは思われますか。
これを手短にあなたにお伝えしようと思いました。
そして、もしあなたにとって何らかの慰めや励ましになるのであれば、
私は(いくらかの時間、研究、祈り、そして熟考ののちに)
ヤコブがへブルの後に書かれたのであり、伝統的見解が言うようにそれよりかなり前ではない、
というあなたの見解に同意するようになりました。
それは完全に理にかなっており、私はそれに同意しない理由が見当たらないと感じました。
キリストにあって
返信 #3
へブル/ヤコブについての信頼の言葉を、ありがとうございます。
「性的人身売買と戦うことや、被害者に奉仕すること」に関してですが、
私は、これらはまったく別の二つの事柄であることに注意したいと思います。
ゆるやかな例えを用いるなら、奴隷制度は、
私たちの多くが完全に忌まわしいと感じるものですが、
もちろん古代世界にはそれが存在していました。
パウロや他の人々は、それを根絶するための何らかの政治運動を提唱したことが
あったでしょうか。
まったくありませんでした。彼らは、自由人に対してと同じように、
奴隷たちにも奉仕するために自分たちにできることをしたでしょうか。
はい、彼らはそうしました。
それは、彼らに福音を与え、霊的に前進させることを目的としてであり、
単に彼らの束縛の中で慰めを与えること自体を目的としたのではありませんでした。
なぜなら、すべての人に必要なのは、救われ、そして成長することだからです。
私は、「すべての人に善を行う」ことに努めることに何の問題も感じませんが、
私はその節をこう締めくくりたいと思います。
「特に信仰の家族に属する人々に対して」と。
このことによって、不信者に対して善を行うことは、
主として彼らをイエス・キリストへの信仰へ導くことを目的としている、
ということを指摘しておきます。
しかし、政治的な行動を取ることは、私たちが本来取り組むべきことではありません。
あなたも私も、国内外を問わず、数十にも及ぶさまざまな悪しき行為や犯罪的な企て、
そして目に余る不正を、容易に、しかもすぐにいくつも挙げることができるでしょう。
もし私たちが、それらを正そう、「世界を正そう」として取り組むなら、
神がその中におられる場合にのみ、私たちは何らかの成功を収めることができるでしょうし、
もしそれが神が私たちに望んでおられることであるなら、
確かに神はその中におられるでしょう。
もしそれが神が私たちに望んでおられることであるなら、
確かに神はその中におられるでしょう。
しかし、もしそれが神が私たちに望んでおられることでないなら、
もし「悪と戦う」ことによって、私たちが実際には悪魔の遊びに加わってしまい、
神が本当に私たちに望んでおられること(成長し、前進し、生産すること)から
自分たちをそらしてしまっているのであれば、
そのとき神はその中におられないでしょう。
そして最終的に、私たちは誰にも何の真の益ももたらさないことになり、
何よりも無益なものになってしまうのは私たち自身でしょう。
神を「助ける」ために政治に過度に関与することは、グノーシス主義を思わせるものです。
ドミニオニズム(Dominionists)<主が再び来られるようにするために、
地上にそれを作り出すことによって、政治的行動を通して「王国をもたらそう」とすること>
(対照:「神の国は、目に見えるかたちでは来ない。」ルカ17章20節))
が主張しているように、地上的な政治的手段によって「王国をもたらそう」とすることは、
まさにサタン的なことです。(リンク参照)
また、わたしがあなたがたを捕え移した町の平安を求め、その町のために主に祈れ。
その町が栄えれば、あなたがたも栄えるからである。
この節の前半は、後半によって説明されています。
私たちはどのようにして自分の国の「平安と繁栄を求める」のでしょうか。
第一に、その国のために祈ることです。(そしてもちろん、私たちは皆そうすべきです)
第二に、私たちは、霊的成長に自分を委ね、奉仕にふさわしい者とする試練の中で前進し、
そして主が私たちに与えてくださる奉仕において、
主のために良い実りを結ぶよう最善を尽くすことです。
もし私たちがそうするなら、私たちは主が与えてくださる連帯による祝福を通して、
一つの国を保つ「塩」となっていくのです。
しかし、自分たちを神の立場に置いて、神のためにそれを「正そう」とすることは、
霊的観点から見て、まったく逆のことです。次のリンクを参照してください:
Politicsand Political Action on the Eve of the Tribulation
(艱難期直前における政治と政治的行動)
Politicsversus Spiritual Growth II
(政治と霊的成長 II)
イエスにあって
BobL.
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shizuku365@proton.meまでご連絡ください。
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わたしがあなたがたをつかわすのは、
羊をおおかみの中に送るようなものである。
だから、蛇のように賢く、
鳩のように素直であれ。
(マタイ10:16)
良い週末をお過ごしください
お祈りしています![]()
ハナミズキ
きくらげ & はんぺん
今日もありがとう~![]()















