「伊豆じゃ稲取 房州じゃ布良よ 粋な船頭さんのでるところ](安房節)
子供の時分に、じいさんどもがよっぱらうと、よくこの歌をきかされたもんだ。
むかしから、布良の漁師は気性は荒いが竹を割ったようにさっぱりしていて
仕事じゃどこへ行ってもひけはとらなかったもんだ。
なにしろ肩(船の中心の部分)で八尺五寸(現在の五トンぐらい)の船で、大海原へ出かけて
いって十貫(一貫は三・七五キロ)から十五貫もあるマグロを十五も二十も漁してきただからの。
もちろん昔のことだから櫓と帆で走った。海のようきほどわかんねえものはねえ。
なぎのときはお姫様みたいにやさしいが、いったん荒れたとなったら手がつけられね。そのため若け衆はいくら死んだか知れやしない。
昔は、小秋(秋)大秋(冬)にマグロがよくとれた。だがな、この時分はしける日がよけいでの。
その上、雨でもふれば着物のあわせや綿入れをぶっとうして、
骨の芯までこおっちまったもんだ。
大秋には手足だって、寒さや痛さをとおりこして、あーあんも感じなくなっちまう。
しょうがねから船べりに手足をたたきつけては働いたもんだ。
だからな「なあふね」は若けもんでねばつとまんねえ仕事だったんだよ。おしまい。
いっとき布良には若け衆がいなくなっちまったっていうほどだ。
だからそこで「なあふね」のことをな「布良の後家船」っていったとか。