クリップ館山市広報 H13.12.1
blog 布良・相浜の漁村日記
<お茶の間博物館200>

クジラのお歳暮


 年の瀬を迎え、このお茶の間もおかげさまで二百回を迎えました。そこで二百海里について書こうかとも思いましたが、来年がウマ年なので、クジラを取り上げました。なぜクジラかといいますと、古来よりウマにクジラは付き物で、鯨飲馬食といいますし、また英語でも「クジラの魚にあらざるは、なお、馬の魚にあらざるがごとし」(A Whale is no more a fish than a horse is.)と、こじつけ。

 今から240年ほど前、明和元年の暮れのこと。正確には12月16日の朝のことでした。相浜村(現在の館山市相浜地区)の漁師が海に出て見ると、なんと沖に大きなクジラが沈んでいるではありませんか。

 大騒ぎになりました。直ちに村名主に報告するとともに、村の漁船7、8艘が取り囲み、網をかけてクジラが浮いてくるのを待っていました。

 騒ぎを聞きつけた隣村の布良の船もようすを見にきていましたが、しばらくして布良村から仲間に加えるようにとの申し入れが名主にありました。これが周辺の村々をも巻き込む大事件に発展するのでした。

「クジラが流れ着いた場所が相浜村の大古根なので、手出しは御無用に願いたい」と返答すると、「力づくでも捕る」と宣言し、一触即発の状態でした。しかし翌朝の天候は一変し、大風が吹き荒れました。そのためクジラはまた流され、今度は根本村(現南房総市白浜村)の明神下に打寄せられたのです。

 数日後天候が回復するや布良の船々が総出で、根本にやってきました。そして村人たちの制止を振り切り、クジラを沖に引き出しましたが、シグレとなったため、クジラをそのままに帰ってしまいます。

 その夜またまた風が吹き荒れて、放置されていたクジラは何処とも無く流されていってしまいました。

 この事件は公事(訴訟)となりました。裁許(判決)は「クジラに限らず漂着物には、他所の村の者は手を出してはいけない」というものでした。

 イソップ寓話のような事件でした。「クジラ一頭で七浦が栄える」と言われますが、クジラは師走の村に降って湧いたビッグなプレゼントの筈でした。村々の争いとなったのも、クジラが当時の人々にとってどれほど大切な資源だったかを物語っています。

<相浜石井家『名主日記」より>


◎館山市沼の浄閑寺・津田家墓地に祀られる「クジラの供養塔」天保13(1842)年建立。