クリップ 館山市広報誌『ルックたてやま』 1995(平成7)年7月№9


館山歴史ロマン

布良に巨大マグロが揚がった日
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明治期の布良は

マグロ延縄漁(釣り漁)が盛況でした。

明治41年には、クロマグロだけで約61tの

水揚げがあったと記録にあります。

大人がまたいでも足が届かないほどの

大物もあったと伝えられています。

今となっては信じられない

そんな話を布良で迫ってみました。









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 布良漁業協同組合に電話を掛けて、「最近、マグロが揚がったのはいつごろでしょうか」と尋ねてみました。

 電話に出た漁協職員からは、「もうずっと昔のことでよくわからないですね。年配の人でも知っているかどうか」との答えがかえってきました。

 布良にとって、マグロが水揚げされた日は、すでに遠い昔のこととなっているようです。


■古老の話を聞く

「マグロ延縄船が活躍したのは明治の終わりころまでで、大正時代にはもう無かったと思う」

 と話すのは、大正10年に布良の漁師の家に生まれ、昭和33年まで漁師を生業としていた島田兼吉さんです。

 島田さんが小学校のころ、マグロ延縄船はすでに漁に出ていなかったと言います。ただ、現役を退き陸に揚げてあった、石油発動機を積んだ「富崎丸」という船を見たことは記憶していると言います。

 マグロ延縄漁が盛んなころの布良を島田さんは知りませんが、延縄船に乗っていたお父さんから、近海でマグロがたくさん獲れたころの話を聞いたことはあるそうです。

「白浜町根本にある御神根(おがみね)島の沖合1里(4km弱)、手漕ぎの船で1時間くらい行ったところから大島付近の海にはマグロがいっぱいいた。マグロの背中を歩いて渡れるほどだった」

 と、お父さんは言っていたそうです。そして、マグロの漁期は冬なので、漁師はみんな、夏にはメリンスの着物を着て遊んでいたと言います。

 島田さん自身は、延縄漁の経験はありませんが、トローリングでマグロを釣ったことはあると言います。

「昭和27年か28年ころ、父親といっしょに漁に出ていて51貫(約190kg)のマグロをトローリングで釣った。当時、マグロを釣った漁船は旗を立てて帰港することになっていた。港ではみんなが、旗を立てて帰ってくるのを待っていた。そして、旗を立てた漁船が帰って来たら、親戚中集まってお祝いの料理はマグロのエラとハラワタを煮たものだ(マグロの計量・出荷はエラとハラワタを取り除いて行った)。これがまた脂が乗っていてうんめーんだ」

 昭和20年代の、大漁にはほど遠いが、マグロが揚がった日の活気付く浜の光景が目に浮かぶようです。

 島田さんが釣ったマグロは5万円くらいで仲買人に引き取られたといいます。当時の5万円はどれくらいの価値があったのでしょうか。

『値段史年表―明治・大正・昭和』(朝日新聞社刊)によると、昭和27年の公務員の初任給(国家公務員上級職試験に合格した大学卒で、諸手当を含まない基本給)が7,650円でした。5万円は、約6.54倍ということになります。

 今年度の国家公務員Ⅰ種試験に合格した大学卒の初任給(基本給)が180,500円です。それに6.54を掛けると1,180,470円になります。昭和27~28年当時は、マグロ1本にかなり高い値段が付いたわけです。

 それでは、延縄船で大量のマグロを獲っていた明治時代の布良の漁師は、みんな大金持ちだったのでしょうか。そう単純な問題でもなさそうです。

 島田さんは、昭和33年に長年親しんできた漁師をやめて会社勤めを始めました。

「魚は少なくなってきたし、これからの展望も見えない。機械化が進んでだめになったんだと思う。結局、魚を獲りすぎちゃったんだね」

 と、しみじみと話します。会社を定年退職してからの島田さんは、寒い冬を除いて、再びイサキなどの釣りに海に船を出しています。遊びだが、たくさん釣れた時には市場に出すこともあると言います。


■明治のマグロ延縄漁

 平成5年、布良漁港の港口近くに「元唄安房節」の碑が建立されました。「アーエ伊豆じゃ稲取 房州じゃ布良よ 粋な船頭衆の出るところ」。伊豆稲取は、房州布良とともにマグロ延縄漁の労働歌です。

 その碑に付随している「鮪延縄漁業の由来」には、「鮪延縄漁業は遠く江戸時代に遡り 延享2年(1745年) 今を去ること247年前に 紀州摂州地方からの移住漁民により操業された 明治23年大型船建造に成功し 遠く銚子沖稲取方面まで出漁 連夜の沖泊まり操業して鮪を満船 三崎港や稲取に入港 数年にして当時の日本漁業界にその名を馳せた」とあります。

 マグロ漁の最盛期は、明治の中期だったようです。しかし、その後漁獲量は減少していったようです。さきほど、明治時代の布良の漁師がみんな金持ちだったかというとそう単純な問題ではなさそうです、と書きました。

 ここで、明治44年の資料に、島田さんが釣った約190kgのマグロを当てはめて値段の変化を探ってみます。

 明治44年の布良におけるクロマグロの水揚げは、27,408.75kg(11,489円)、出漁船27隻、1船当たり乗組員9人(推定)です。ですから、島田さんのマグロの明治44年当時の値段は約79円64銭になります。国家公務員の初任給は55円ですから、その約1.45倍です。昭和27年の倍率に比べるとかなり低率になります。では、1人あたりたくさん獲っていたかどうかですが、そんなことはありません。約113kg(約47円23銭)です。島田さんが釣り上げたマグロ1本分にもなりません。今年度の国家公務員の初任給180,500円に1.45を掛けると261,725円になります。

 もちろん、クロマグロ以外のマグロ類やカジキ類・サメ類を獲っていましたから、47円23銭(現在に換算して261,725円)が水揚げ額の全てではありません。

 マグロ類合計で1人あたり約211円70銭、カジキ類約39円84銭、サメ類約45円44銭、合わせて296円98銭という水揚げ額になります。

 しかし、それ以上に、餌代や維持費、人件費などの経費が掛かり、延縄船の決算は、前年、前々年の黒字から赤字に転落してしまいました。

 「元唄安房節」の碑に付随している「鮪延縄漁業の由来」は、「相次ぐ難破船溺死人の続出と打ち続く不漁とで衰退の一途を辿り 遂に大正の初期をもって終焉した」と、その解説文を締めくくっています。

 

■布良の後家船

 明治41年、島田さんのおじいさんは、自ら初めて所有したマグロ延縄船で出漁し遭難しました。33歳でした。興津漁港所属の漁船が船を発見しましたが、乗組員は誰ひとりとして見つからなかったといいます。他家の船の船頭として腕をふるっているいる時、人から縄船(延縄船のことを布良では縄船と言います)をやるんだったら資金を提供すると言われ、船を持ち、2回目の航海に出た時のことでした。のこされた奥さん(島田さんのおばあさん)は、借金を抱えて苦労したといいます。

 『布良鮪延縄沿革史』に、明治後期の布良延縄船の遭難についての統計が載っています(別表参照)。10年間で212人の漁師が命を落としています。また、あまりの遭難の多さに、生命保険会社が新契約を停止した、ともあります。

 島田さんが小学生のころに見た「富崎丸」は、こうした状況下、近海での不漁と遭難の打破を目指して、明治42年に建造されたものです。魚を追って「益々遠洋に出漁せざるべからざるに至り 危険の度愈々相加はるに至れり」という悲痛な叫び声の下、「富崎丸」が進水しました。ところが、「営業に従事せしめしが不幸 収入経費の半にも及ばず」という結果に終わりました。

 渡辺栄一著『江戸前の魚』には、「布良村の縄船はほぼ壊滅してしまいました。以来、縄船のことをひそかに『布良の後家船』とよんだのです」と出ています。


□参考文献

『布良鮪延縄沿革史』 (安房博物館蔵)

『江戸前の魚』 渡辺栄一著・草思社刊

『値段史年表―明治・大正・昭和』 週刊朝日編、朝日新聞社刊