男は失望していた。
同棲していた彼女が横浜の家を出て行ってしまった。横須賀にある彼女自身の家に帰ってしまった。
男も彼女も40代後半。男はずっと独身だったが、彼女は未亡人だった。彼女には20代半ばの息子が一人いた。息子は十分独り立ちができるだけの稼ぎのある仕事に就いていたが、独身で実家暮らしをしていた。
夫の七回忌を迎える少し前に、彼女は息子に切り出した。
「お母さん、好きな人ができたの。これからはその人と暮らそうと思っています」
その言葉を聞いてから息子は彼女のことを無視しだした。
息子の無言の反対を押し切り彼女は家を出た。
彼女の亡くなった夫には少なからず資産があり、保険金等も合わせて、夫の死亡と同時に家のローンはなくなった。住居は確保されているので、息子は自分の稼ぎだけで不自由なく暮らしていける。
時が経てば息子も理解してくれるはず…。
彼女は息子のことを見捨てた訳ではなかった。月に数回は帰って掃除、洗濯、食事の世話を、十分ではないが、息子のために尽くしていた。だが、彼女が横須賀に帰ると息子は必ず不在。
息子の無視は続いた。

彼女が横須賀の家を出て1年経ったころ。彼女は摂食障害になってしまった。食べても吐いてしまう。じきに彼女はやつれ、精神的にもまいってしまった。
「横須賀に帰ります。息子と一緒に暮らして、息子の世話をします」
彼女はそれが最善の策と信じ、行ってしまった。
男はそれを止められなかった。

その後彼女からの連絡は一切なかった。
男は自分を責めた。自分のどこに非があったのか…。
もう一度彼女の声が聞きたい。もう一度彼女の顔が見たい。もう一度彼女の手に触れたい。
未来がわかっていたなら別れなくても済んだかも知れない。何が起こるかわかっていたら。何が起こるかわかっていたら。
…未来を予知できるようになろう。
男は占いの勉強を始めた。手相、姓名判断、易学、九星気学…。男はいろいろな占いを学んだ。

何年か経って。男は占いを仕事としていた。
冷静になってみれば、未来予知などという能力が身につくはずもないことは男にはわかりきったことだった。占いは超能力ではないから100%男の鑑定が当たる訳ではない。が、人生経験に裏打ちされた将来に向けてのアドバイスがお客には好評だった。その評判はマスコミでも取り上げられるようなこともあり、男は当初の目的を忘れ、仕事に没頭した。

さらに数年後。男のひと時のブームも収まった。もう派手に扱われることはなくなったが、占いの仕事は生活をしていく収入を得るぐらいには安定していた。
『懺悔室』
横浜にある男の店の名前だ。
占ってもらいたい人は自分の悩みを聞いて欲しがっている。占いの仕事をして感じた印象を店の名前にした。鑑定時には、お客からは男の顔が見えないようになっていて、お客は気兼ねなく悩みを打ち明けることができる。

ある日、一人の女性客がやってきた。「過去を占ってください」滅多にないリクエスト。
「私の選択は間違っていませんでしたか?」
別れた彼女だった。彼女は、こう語りだした。
「過去に別れた男性がいます。主人が亡くなってからお付き合いしていた人ですが、私は彼ではなく息子との生活を選択しました」
男がマスコミに取り上げられていた当時は、神秘的なイメージを売りにするため顔は出しておらず、名前も本名は伏せて活動していたので、別れた男に占いを依頼しに来たことを彼女は気づいていないようだった。
「手を見せていただけますか」
お客の手を取ると、それは、日々家事をしている母親の手だった。懐かしい手だった。男が再び触れたいと思っていた手だった。
「ご苦労されていますね。でも、よい選択をされていると出ています。今はきっと幸せにお過ごしかと思われます」
鑑定の言葉に偽りはなかった。彼女の選択は吉と出ていた。
「ありがとうございます。安心しました」
彼女の鑑定をしながら、男は占いを学び始めた当初の目的を思っていた。
こんな形で願いが叶うなんて予知はできなかったな…。俺の占いもまだまだ勉強不足だ。彼女と会えたのは嬉しいけど、そのあとのことは考えていなかった…。
男が触れていた彼女の手から自分の手を名残惜しそうに離すと、彼女が話しだした。
「ところで、一人息子も結婚して家庭を持ち、私は独り暮らしをしています。身勝手だとはわかっているんですが、別れた人のことが気にかかり、連絡を取ってみようかと思っています…。もちろん、今はどこに住んでいるのか分かりませんし、電話番号やメールアドレスも変えてしまっているかもしれません。興信所に依頼して調べてみても、彼には迷惑がかからないでしょうか?」
「もう一度、手を見せていただけますか」男は再び彼女の手に触れた。
彼女の将来を探るように、彼女の手のひらの上の線を自分の指で辿っていった。
そして、
「思った通りに行動してください。過去もそうですが、将来もあなたには良い選択ができる相が出ています」
男が彼女にそう伝えると、彼女は、ありがとうございますと告げて帰っていった。

未来なんて分かるわけがない。
最後に彼女の手に触れたのはそうしたかっただけで、男は鑑定をしていなかった。彼女に何と伝えようか、思案しながら彼女の手のひらの上を彷徨っていただけだった。
未来なんて分かるわけがない。でも、少し待っている楽しみができたのかな…。
そんなことを考えながら、男は店じまいの準備を始めた。