自由と個性( アメリカ論 ) | 誰もが心に日の丸を

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英霊を顕彰しよう。私達も、祖国を守ろう。

日本は一家。日本人は皆、兄弟。
一刻も早く、拉致被害者全員を取り戻そう。
さあ、新憲法を制定しよう。
前文、9条を潰そう。
日本を 名目上から、実際の独立国へ。
『戦後』に負け続ける祖国を 私達が止めよう。




一日も早い被災地の復興を



 自由と個性について、出鱈目風味に、書こうと思う。
 以下の私の論を 軽んじるのも勝手だが、考察それ自体は、貴方もすべきと考える。
 日本人に「 自由と言えば?」と尋ねれば
『 自由の国アメリカ!』と続くだろう。
 それなのに、日本のポップミュージシャンは誰も
『 私は自由!』と歌う。
 何故なのか。

 先ず、アメリカに於ける「 自由とは何か 」である。
 アメリカ人が自国を『 自由の国 』と言うとき、当然、かつての宗主国であったイギリスとは違うのだと、いうことだろう。
 まさか、単なる独立の喜びを言ったのでは、ないだろう。
 では、何が違うのか。
 アメリカは、プロテスタントが造った国だ。
 そうして、プロテスタントとは「 異議を唱える人 」という意味だ。
 では、何に対して、何と言ったのか。
 ローマ法皇庁を中心とするカトリック教会に対して
「 そんなこと聖書に書いてない!」と言った。
 具体的には、人生の節目で行われる儀式を 教会の堕落としたのだ。
 今の日本で言えば、チャペルで挙げる結婚式なんかが、それに当たる。
 「 陳腐な商売してんじゃねーよ!」ということだ。
 そうして、そんな極端なことを言って、ヨーロッパ大陸で暮らせなくなった連中が、これまた捨てられた囚人なんかと共に造った『 ならず者の国 』がアメリカだ。
    ハリウッド映画って、ならず者が大活躍するだろう。
 彼ら自身の本質が、よく現れてる。
 ちなみに、黒澤明監督の黒白映画も、ならず者が大活躍する。
 世界のクロサワと、いつまでも、無批判に賛辞を呈して、はしゃいで終わりじゃ、故人も浮かばれない   
 ついでに日本の、神前・仏前の結婚式も、キリスト教を真似たものだ。
 さて、そろそろ自由の国に辿り着けるか。
 アメリカ人が自由の国と言うとき、それは、プロテスタントの自由ということだ。
 異議を唱える自由   
 カトリック教会では、ぶっとい聖書のつじつまが合わない箇所やらに対する統一見解を ローマ法王庁がまとめている。
 対して、プロテスタントが造った国であるアメリカでは、どのように聖書を読み解いてもいいのだ。
 なかなか、おっかなそうな自由ではある。
 実際に、アメリカを見てみる   
 誤解されない簡単な言い回し。
 誤解の余地を残さぬ圧倒的文章量の契約書。
 それでも言い分の違いが生まれた時は、最後の審判の真似事である裁判を 嬉々としてやってる   
 聖書を中心に据えての国造りの心は、聖書が完璧な書物でも、それを完璧に読みこなせる人物はいない。人は、必ず間違う。
 その上で、異議申し立ての自由が保障され、聖書をどのように読み込み、どのような人生を送るかが、個性となるのだ。
 やっと、タイトルにある個性という言葉が出てきたが、分かるだろうか。


アメーバ大喜利


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 対して、日本人が自由とわめくとき、それは拘束されてない状態や、未来の無限の可能性のことを言ってるようだ。
 その、自由だとする主語は『 私 』である。
 そうして、何からの自由かと言えば『 世間 』だろう。
 この歴史ある日本では、世間という不文律が重いのだ。
 国家としての日本は、十分、自由を保障している。
 しかし、世間の狭い了見から、外れて生きる覚悟が必要なのだ。


 だから、日本のポップミュージシャンは
『 私は自由!』と、覚悟を歌うんだね。



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