生き残るための基礎知識

生き残るための基礎知識

メーカーで働いていた時の記録。
備忘録で書いているので、思い出したら、追加していきます。

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 20078月、新しい部署に異動する。会社でも珍しい生活者と接点を持つ部署での仕事。ここに配属されたきっかけになったのは、面談の際、とある技術について、熱く語ったので、それでの配属だと思う。基本、頭のいい人が多く、着いていくのが大変だったし、それに加え病気の症状が思わしくなかったので、とてもしんどかった。仕事内容は、今では普通の事だけど、統計を取り、どのような方法で数字を持ち上げるか?という仕事。物に対して、どこかで広告を打てば、大体、広告ガイドで提示されている数値が叩き出されて、ゲームみたいな仕事だったと思う。担当部署、今まで一人だったのが、二人に増えたのに、業務はそんなに変わらないので、何でだろう?と思っていたら、前任者が私と同じ制度で異動する事が決まっていたらしく、それの穴埋めだったらしい。それが分かってからは、結構、必死に勉強したと思う。しかしながら、残念な事に、やっていた内容については、今ではもう知識としてあまり使えるものでもないので、過去の事として、忘れている。

20084月、配置転換。サービスの管理を一元化するという名目で、消えていく所と統合する事になる。不本意ではあるが、仕方ないと思い、そこでも作業をする。

200810月、配置転換。多すぎじゃ無い?と思うも、この時は体調が激悪で、ビルの中を徘徊して、休憩する日々が続く。仕事内容は主に反響が無く、利用者がいないものを適宜終了案内を出し、終わらせる仕事。4件くらいかな?あまり面白い仕事では無い。クレーム処理もした気がする。都度、丁寧な文面で返信をしてた。上司のチェック無しだったけど、あれは信頼されていたと考えるべきか、どうでも良いと判断されていたと見るべきか

20091月、配置転換。完全に使えない社員扱いになっていると肌身で感じる.病気が酷くてそんなのどうでも良いと思っていたけど。数年前はキャッシュカウだったが、今では負け犬みたいな感じのものを宛がわれる。一応、立て直し案とか色々上司に提出はしたけど、予算が無いので、スルーされる。

20094月、滅多に話さない上司に呼び出される。はて?何だろうか?と意識が朦朧としつつ、伺うと、数年前にも見た記憶のある、労務についての話をされる。体調が悪くて、処遇なんてどうでも良かったので、黙秘したが、詰問をされたので、「鬱病なんですけど」と言ったら、話が終わった。処遇は後から連絡すると言われ、この日から自宅待機になる。4日くらい待ち、会社から電話で解雇通知を言い渡され、会社を辞める事になる。

 個人的には、もっと早く辞めて、治療して、完治して、再起出来ていればと思うけど、そういう事を考えて頂ける方がいなかったのはとても残念。

 結構、人に思いやりのある会社と言われていたけど、自己保身に走ると、当然ひとの事なんて、どうでも良いよね。

 20044月に入社。初日は入社式。470人近くいるのもあって、千差万別。寝ている新入社員もいたので、式典終了後に人事に怒られた気がする。

 200442日~20日くらいまでは新入社員全員が対象の導入研修。今は人事部主導の研修が行われる。15クラスに分かれて受講。下手な大学の一学部以上いるね。メーカー系だなぁと思える、生産管理の研修も有った気がする。大手企業だけあって、倫理系の研修が結構充実していたと思う。人権問題や、コンプライアンスについては、導入時で勉強させて頂いた。けど、基本はグループワークが多かったかな?あと、一応情報企業だったので、当時の初級システムアドミニストレータについての詰め込み教育が有ったと思った。これを受けたので、基本はテストを受けても受かるレベルになっていたはずだけど、怪しいかな?

 最終日にクラスでの飲み会で羽目を外しすぎて、1時間くらいで倒れる。急性アルコール中毒間際まで飲んで。記憶が日々アップデートされているので、どんだけ飲んだか忘れたけど、自己申告だと、日本酒1升くらい。命の大切さを翌日の朝に学ぶ。

 2004421日、ビジネスユニット(BU)別研修になる。朝イチで同じクラスだった人に対し、土下座外交をするも、同期からは、そんなので、土下座すんなよと励まされる。良い同期だと思った。約一ヶ月くらいの営業研修を受ける。営業は基本、名刺入れは黒が無難とか、鞄も黒で自立するものが良いと教えられる。その他、イロハを学ぶ。シミュレーションがとても多かった。研修を他社に受けに行った際、講師がこちらをあざ笑う行為があったので、チェックする。「ウィルソン・ラーニング・メディア」か。未だに覚えてる。研修最終日は決起大会だったかが、専務と常務(後、副社長)が激励に来るも、神経の太い奴がうたた寝をして、反省会に急遽変更になったのも良い思い出。最後はみんなで、別れの一言を言った記憶がある。

 20045月下旬、事業部に配属になる。事業部には私含めて6人も配属される。営業部門では関西支社を例外として、最多だったはず。同じ部署の40代の人が考えたカリキュラムを仕事中に研修を組まれながら、ローリングスタートのような形で業務をする。一ヶ月くらい経って、絶望を覚える。CS職でも、3人が同じような部署に配属されたが、3人とも愚痴しか言えないと言う。私もとても悩み、当時の計画部の星野Mだったか、吉田Bだったかに、同じ職種の先輩と話をする機会を作って欲しいと懇願し、設定して貰うも、先輩と色々苦労を話して居たら、先輩が号泣して、将来の展望が非常に暗くなる。因みに、職種は計画部と言うところで、この会社独自のシステムと経理系の書籍で読んだけど、Budget Control(通称:BC)と言うのが有り、他社の経理を経験していなので何とも言えないが、売上の予測を中小企業からすればザルにしても、100万円単位くらいを最小単位とし、売上見込みの予測を立てる仕組み。悪い良い方をすると、廃止された一般職や、営業で身体を壊した人、就職バブルで採用しすぎた時の人を押し込んでいる感じのある所で、新人でそこに行くのは、ある種死刑宣告を受けたようなものと思う。それで、同期同志で、当初は検閲されていたであろうメールでやり取りをし、メールではまどろっこしいので、IP Messengerというフリーソフトで互いの愚痴の話をする生活が始まる。

 ちなみに、同じ部署に居る営業の同期は仕事の中身が違うのと、覚える事が多すぎて、毎日終電まで仕事をしていたりする。それに対して、計画は人件費削減のため、定時退社が基本というので、完全にはぶられる事になる。

 そこそこ日にちが経つと、体調がおかしくなり、何だろう?とは思いつつも、将来の展望が見いだせなかったので、人事部の制度である、キャリアアドバイザーに相談することにする。4回くらい、相談するも、基本は心理テストのみ。全く役に立たなかった.唯一無料だったのだけが良かったけど。キャリアアドバイザーでは手が余ると言う事で、社内病院の系列のメンタルケアセンターで診断を受けることにする。ここには、10回くらい通うことになる。解決は何もしなかったし、一回産業医の精神科医と話したけど、廷丁発止の討論って、根本がずれている感じで、医療機関としては、甚だ疑問が残るところではあったけど。

 半年くらいが経ち、手抜きの仕方も覚えたので、昼飯を時間内ではあるが、遠出で食べに行き、同期と話す機会を設けに行く。基本、なんでいるの?と言われるも、みんな受け入れてくれて、話をする。営業、SE、法務、経理、資材、IT戦略、人事、総務、マーケティング、開発など様々。取り敢えず、言えたことは、みんな輝いていた。この時期では、まだ退職は10人程度だったと思うが、和気藹々とした雰囲気。これが社風だと思った。その点、自分を鑑みるとと思うと、気持ちが重くなった。とにかく、三人で励まし合っていたが、1人が12月末日で退職となり、その時にその人が精神疾患で病んだというのと、気付なかった自分に大変申し訳ない気持ちになった。その人との会話の中で、たまたまその人のいる部署に行った際、「死んだ目の魚みたいな人だらけ」と聞き、それかというのも思った。計画部門は基本、出世街道から外れている人が多く、ゴールが目に見えているのと、余程のことが無い限りはクビにならないということもあり、勤務時間中にも普通に居眠りする10年選手がいるくらいだから、駄目なんだというのを実感した。

 2005年になり、心の支えだった同期も会社を去り、項垂れながら、会社に出社し、必至に逃げ道を探すことにする。いつくらいからだったかは忘れたけど、当時事例にも挙げられた社内ブログをしていたところだったので、早速アカウントを作り、情報発信をするようになる。その際に、人材募集という話をしている人が居たので、興味本位で連絡をする。専門分野外の話だったので、意味は分からなかったが、異動が出来るだけ有り難いと思い、握手をして、今度は上司の説得。

 普通の会社の場合、新卒一年目で異動というのは、余程の事情が無いと出来ないので、上司と二人きりになった時に直談判の相談をする。私の言葉としては、「もう、無理です。」と。精神の話はしなかったと思うが、他でやりたい仕事があるので、異動させて欲しいと言う。人事権については上司に権限は無いので、翌日事業部長と面接を行い、事業部長の子供の話をされつつ、仕方ないという感じで承諾して貰う。これで、異動先とのマッチングが出来、4月に異動することになる。ちなみに、この一年後、事業部長も他社に転職しています。

 20054月、事業部内異動をする。マーケティングと言う事で、どういうことをするかと思ったが、社員10人規模で、部下2人を従えて、マーケティング本部長をしていたという大口の上司の配下に付き、前職で何が凄かったのかがさっぱり分からなかったが、基本はアライアンス推進と言う事で、多くの企業へ訪問することになる。この会社での良いことは、大手であったので、こちらから連絡して、断れたことは一度も無かった気がする。一年で50社程度、訪問した気がする。基本的な枠組みは、自社製品の販売フレームワークの強化だったが、結論から言うと、今は微塵も無くなっていて、製品も名前を聞かないところを見ると、大失敗だったと言っても良いと思う。何も痕跡を残せていない。せいぜいWebメディアで記事がある程度かも知れない。けど、古いから、既に参考にする人はもういないと思う。

 この時の事は、とにかく、4人チームだったが、全員パワハラ系人材だったので、喧嘩が絶えなかった。毎日、耳元でネガティブワードを呟くトップ、何を考えているか分からないプロパーで異動してきたメンバー、派遣なのにプロパーより態度がでかいおばさん。私も負けていない位、ネガティブ系キャラだったが、かなり押されていたというか、負けていた気がする。

 精神的にこの時に完全に逝ってしまい、精神科行きになる。我慢せずにもっと早くかかっていたら、治っていたかも知れないと聞くと、なんともやるせない。

 20063月に違う部署の上司に愚痴を言った所、うちに来るか?と誘って頂いたので、二つ返事でお願いをする。

 20064月に、隣の部署に異動することになる。上司は全部入れ替わったので、心機一転。ここでは、年次的には出世が遅れている人が多かったが、目が生きていて、色々技術についての勉強をさせて貰ったが、身体が既にボロボロで、精神系の薬をザルのように飲んでいた状態だったので、仕事中に居眠りをする事が多く、姿を見られるのも不味いので、サーバールームで休息していた。

 20074月に、組織変更になる。ここの時の上司は正直最悪だった。管理職は基本、M6からスタートだが、上司はM7…あれ?数字って上がるもんじゃ無いの?と思ったが、去年も同じ部署で上司はいたが、違うラインだったので、気にしていなかった。しかし、今回は上司と言う事で、いろいろ調べたが、上司も精神疾患だが、薬については私より軽かった。半月くらい、デスクで仕事をしていたが、上司が来ない。サボり?この時、事業部命令で一定年次は特許を書くことという指示が出ていたので、一度出社した後、大学に籠もって特許を書くことにする。しかし、これが後で大きな問題に。

 当時、会社はフレックス制度があったので、10時に職場に着くような感じで行っていたが、上司は不在あり得ない。というので、中旬くらいから、人材公募制度を利用して、他の部署に異動する申請を出す。4月下旬くらいに面談を行い、GW明けに内定の連絡を貰う。この時に、上位上司から、連絡があり、異動するのか?と言われたので、ここでは無理ですと無理を言い、異動申請をする。この時、かなり体調が悪かったので、一ヶ月ほど、貯まっていた有給休暇を使い、休みを頂く事にする。今まで、無休で働いていたからね。休んでいる間に会社から連絡があったが、遠隔地に転地療法に出かけていたので、休み明けにお願いしますという話をして、休む。

 休暇終了後、会社に出社すると、会社に全く来てなかった上司が来るようになってた。それで、私が上司がいない時の行動が問題視されて、会議にかけられる事になる。上司命令違反については、事業部命令の特許作業をしていたと言ったが、労務履歴が会社のITでの履歴と違うと言われる。私は大学での作業終了時間を記録していたと言うが、それを証明する物と言われ、システムに登録しているのは証拠にならないの?と思ったけど、証拠にならないと言う事で、勤務系で会社から処罰を受ける。基本は残業代の返納という形になり、一ヶ月分くらいの給料を返納することになる。20万円也。

 ちなみにこの返納の精査については、毎日来なかった上司が精査をして、逆恨みもかなり籠もってた。私も上司命令云々について、上司がいない時にどうすれば良い?と聞いたら、隣の管理職に聞けと言われたが、ラインが違うのに、何を命令することが出来るのか?超縦割りの会社なのにと思った。けど、そことは7月でおさらばだったので、手切れ金と割り切って、去った。