【長谷川圭一・公式アメブロ】成功するフリーランス:年収一千万円は簡単に実現できる

【長谷川圭一・公式アメブロ】成功するフリーランス:年収一千万円は簡単に実現できる

著書「成功するフリーランス:年収一千万円は簡単に実現できる」で伝えきれなかったノウハウをブログで紹介します

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皆さん、こんにちは。

いまや検索エンジンや広告だけでなく、様々なテクノロジーの研究成果を出し続けるGoogleですが、そのGoogleが、動画の最初と最後の画像から途中の動画を生成することに成功したそうです。

テレビやスマートフォンなどで見る動画は、1秒に数十フレームの静止画が切り替わり、私たちの目には動いているように見えるわけですが、Googleが作り出した技術では、その切り替わる画像の最初と最後だけがあれば、途中の動きを予測して画像を生成することができます。

又、同時期に韓国のサムソンが、数点の顔写真を元に画像を自動生成し、それを動かすことのできる技術を発表しています。

このニュースだけを聞くと「ふーん、すごい時代ですね」という話ですが、昨今、誰もがスマートフォンで画像を加工することができ、SNOWやSNAP CHATなどで子どもや別人になることが当たり前になった次の時代には、やってもいないことを動画で作り出すことのできる世界がやってきます。

ハリウッド映画などでは、動作している人物を編集する技術が一般的になりましたが、将来は、それを誰もが手軽にできるようになるわけです。

今でさえ、画像をコラージュして捏造写真を作り出し、人をだましたり、悪ふざけで炎上したりといった事案があるわけですが、それが動画ともなれば、騙される人は今以上に増えるはずです。

又、景色や街などもそれらの技術で生成され、VRやARなどの発展に伴い、コンピューターの生成した画像を通じて、よりリアルな体験が可能になります。

アートやエンターテイメント、あるいは医療分野などにおいては、そうした作られた景色が大きな発展をもたらすわけですが、技術が高度に進化し、物理世界と仮想世界の境界線がぼんやりとしてきた頃、映画「マトリックス」のように、「いつの間にかコンピューターによって世界が作られていた」ということにもなりかねません。

もっとも、認知科学的に言えば「脳が認識したものが現実」とも考えられますから、その体験が仮想かどうかは(考え方によっては)関係ないとも言えますが、いずれにせよ、今時の「フェイクニュース」や「コラ画像」どころの騒ぎではなくなるのは時間の問題でしょう。

SF的な話はさておき、誰もが手軽に沢山の情報を手に入れられるようになった現在、騙される人、搾取される人は、どんどん増えていくでしょう。

私自身は、元々コンピューターやインターネットが好きで、趣味が高じて仕事になったくらいですから、ネットからの情報収集には余念がありませんが、物事の本質を知るには、できるだけ第一情報に近づくこと、物理的な情報であればその場に行って体験することが必要だと考えています。

例えば、先日、令和をまたいで初の北海道旅行に行った話をしましたが、私の北海道のイメージと言えば、白銀の雪景色、美味しい海産物や、綺麗な大自然といった、謂わば「ありきたりの北海道イメージ」を持っていました。

ところが(道民の方には失礼ですが)食べ物で言えば東京の方が圧倒的にクオリティーが高く、北海道各地の景色も、私が想像していたほどすごいものではありませんでした。

もちろん、海産物は漁港に上がった獲れたてを食べれば美味しいに違いないのですが、豊洲市場(少し前なら築地)には世界中の厳選された海産物が大量に集められ、(店によっては)さらに厳選された素材が腕利きの料理人のセンスで供されるので、そうした料理やサービスと比較してしまうと、事前の期待もありすぎて残念に思ってしまったのです(もちろん、北海道にも素晴らしい料理屋はあると思いますが)

北海道の山々や湖、広大な牧場もそれなりの景色でしたが、一方で、函館や羅臼のような湾岸地域は、どちらかと言えば廃れた過疎地で、話には聞いていましたが、交通機関の撤退や不備などでどんどんと荒廃が進んでいるように感じられました。

このようなことは行ってみて初めて気づくことで、ネットの情報だけではわからないことも沢山あります。

そもそも、人間の認知能力は、自らの関心や知識の量によって制限されてしまいますので、いざ現実の物事を物理的に体感したとしても、体感できる量は人によって異なります。

それでも、その場で五感によって感じられる情報は、画面で得られる何倍もの情報ですし、移動が必要ならば、その道中で予想外の情報も得ることができます。

いずれにせよ、物事の本質を知るためには、事実に近い情報(もしくはその事実そのもの)、物理的な事柄であれば、それを実際に体感してみることが重要です。

世の中の立ち振る舞いやビジネスなどにおいても、色々な情報に振舞わされて、自分にとっての「正攻法」を見つけられずにうまく行かない人をよく見かけます。

「色々な本やサイトを見たけれどうまくいかない」と戸惑っている方は、ぜひ、自分が必要な知識や情報の「源泉」を辿るよう行動してみましょう。

本質を見極める「審美眼」を徐々に磨くことで、やがては、自分にとっての成功法則を確立できるはずです!

この「本質を見極める審美眼!」は、また、本ブログで掘り下げていきたいと思います。

 

 

 

皆さんこんにちは。

月並みな話題ですが、5月に新天皇が即位され、新たな元号に変わりました。

私は今回の改元をそこまで大きく意識していませんでしたが、歴史的な大型連休を挟んだこともありましたので、色々な意味で「一つの区切りにはなるかな」程度にぼんやりと考えていました。

それに加えて、私はゴールデンウィーク中に旅行などの予定を入れることが無いため、なおさら何事もなく新たな時代を迎えると思っていた次第ですが、今年はたまたま北海道旅行に参加することになり、それがきっかけで私にとっての「令和」は、かなり刺激的なスタートとなりました。

旅行の目的地は北海道の東端、羅臼。

参加者はそれぞれの都合で目的地に向かうことになっていたのですが、私はフライトの予約が遅かったため、中継地の札幌への便が朝7時台の成田発となり、都心に住む私は早朝5時に家を出る必要がありました。

ところが十分間に合う時間に出たにも関わらず、ゴールデンウィーク慣れしていない私は、電車が混雑すると言うことをすっかり忘れ、日暮里からのスカイライナーに乗れず、チェックインカウンターで無情の締め切り。

代替便も取れなかったため、飛行機には乗れませんでした、笑

しかし、私は細かいことを考えず東京行きの高速バスに乗り込み、電車で北海道に向かうことにしました。

当然ですが連休初日の東京駅は激混みで、ようやく新幹線の切符をゲットするも、指定席でも自由席でも無い「立ち乗り乗車券」、笑

新函館北斗までの4時間半を「立ち乗り」で過ごし、そこから札幌駅までの3時間半も「立ち乗り」という、正に「苦行」の8時間を終え、午後7時を回った夜、ようやく札幌に着くことができました。

と、それだけで済んだならば良かったのですが、羅臼に近い中標津(なかしべつ)空港までのフライトは逃しましたので、翌日の早朝便に乗るため、午前5時にホテルを出発。

なんとか朝一番の便に乗り込み、中標津でレンタカーを借りようと各社に電話するも全て満車、笑

やむなく羅臼への路線バスに乗ることになりましたが、空港の案内で告げられた時間が間違っており、何も無い中標津の街で、朝の8時から午後3時まで過ごすと言う更なる試練を与えられ、ようやく羅臼に到着、という顛末でした。

まあ、言ってみれば、私の「凡ミス」が災いしただけなのですが、「8時間立ち乗り」はさておき、道中、色々な気づきや発見があり、又、ちょっとした冒険的な旅路も「私らしい」と思いながら、苦行の旅を楽しむことができました。

思い返せば、よく子どもの頃に「自転車で知らない場所に知らない道を進んでいく」という遊びをしていました。

その目的地はもちろんのこと、そこへ至る道も初めてですので、緊張感と共に「新しいことを知る」という刺激が子どもながらに面白く、時間さえあれば、友達を引き連れて、まあまあ遠い場所へと知らない道を突き進み、楽しんでいました。

その一風変わった遊びの経験が頭に染み付いてしまったからか、ことあるごとに人がやらないことに気移りしてしまったり、人と違ったことに寄り道してしまうなど、大人になった今ですら、ついつい目抜き通りから離れて、知らない道へと進んでしまうことがしばしばあります。

以前の記事で、アレクサンダー・グラハム・ベルの名言である、以下の一節を紹介しました。

「Leave the beaten track behind occasionally and dive into the woods. Every time you do you will be certain to find something you have never seen before.」

日本語にすれば、「時々は踏み固められた道から離れて森に飛び込んでみよう。その度にきっと見たことのない何かを発見するだろう。」という訳になりますが、言い換えれば、「時々いつもやっていることから離れて違うことに挑戦すれば、新しい発見がある。」という意味になります。

つまり、舗装された誰もが通る道、あるいは、いつも通っている道だけを通っていても、新しいことに気づくことは無く、時には寄り道をしたり、別の道を進んでみれば発見や気づきがある、ということが、偉大なる発明家、ベルの言い残した言葉の本質です。

先の珍道中の話はプランの甘さが原因ですので、単なる言い訳に聞こえてしまいそうですが、私の北海道の旅のように、予想外の展開も楽しみ、敢えて違う道を進んでいくことを選択することで、新たな発見とのが出会いが必ずあります。

それは人生全般、あるいは、ビジネスなどにも言えることで、「踏み固められた道から外れ」ることでしか得られない気づきやアイデアが、必ず存在します。

「なかなか現状を変えられない」「今までの自分を変えたい」と行き詰まりを感じている方は、ぜひ、「踏み固められた道」を飛び出て、違ったやり方、違った場所へと進んでみましょう。

その先には、必ず新しい気づきがあるはずです!

この「踏み固められた道から外れて獲得する新しい気づき!」は、また、本ブログで掘り下げていきたいと思います。

 

 

 

皆さん、こんにちは。

前回の記事で、『よく「学校の勉強なんて意味がない」とか「学校の勉強は社会で役に立たない」などと言う人がいますが、ある側面では一理あるとしても、そのように公言している人は、自ら勉強する方法を知っていて人生をうまく立ち回れているか、あるいは「実は役にたつ」ことに気づいていないだけでしょう。私は、義務教育レベルだけでなく、高校や大学レベルの教養があれば、もっと沢山の人の心が豊かになり、自分のやりたいことがもっと出来るようになると思っています』と書きましたが、少し誤解があるかもしれないと思い、今回はその続きを書こうと思います。

もっとも、文字だけで全てを伝えるのは難しいのですが、このブログのタイトル的に、「学校の勉強をちゃんとやれば、お金を稼げるようになる」といったニュアンスに感じさせてしまったかと思い、前回の補足をすることにしました。

結論から言えば、学校で学ぶようなこと、例えば、日本の歴史だったり、化学の実験が、社会人になって直接お金儲けへ繋がるようなことはほとんどありません。

生業として歴史研究家や、物理学者などになることが目標であれば、それらの知識が直接的に「お金儲け」の手段となるかもしれませんが、「お金儲け」だけが目的ならば、例えば、株やFXでテクニカルやファンダメンタルズなどを勉強すれば良いでしょうし、今時ならば、ITビジネスや、AIやバイオテクノロジーなどに関する事柄について勉強した方が手っ取り早いと言えます。

もちろん、学校の勉強をせずに社会へ出たとしても、幸せに生きることはできますし、経済的に成功することもできるでしょう。

しかしながら、結局どんなことも、突き詰めていけば「知識」が必要になるわけで、前々回でもお話ししたように、「知識」や知識に基づく「経験」を活かすことのできる「智慧」が必要になることは間違いありません。

私の伝えたいことは、私の尊敬する「志村史夫」氏の著書、『「考える知恵」がつく本』に、ほとんどのことが書かれています。

機会があれば、是非読んでみてほしいと思いますが、その本の冒頭に書かれているある一節が、その全てを物語っています。

その一節とは、映画「フーテンの寅さん」の主人公である寅さんの、「人間、長い間生きてりゃあ、いろいろなことにぶつかるだろう。なっ、そんな時に、おれみたいに勉強してない奴は、この振ったサイコロの出た目で決めるとか、その時の気分で決めるよりしょうがない。ところが、勉強した奴は自分の頭できちんと筋道立てて、はて、こういう時はどうしたらいいかな、と考えることができるんだ」というセリフです。

私は「フーテンの寅さん」をちゃんと見たことがありませんし、寅さんが好きなわけでも無いのですが、このさりげないセリフに「なぜ勉強することが大切か」の答えがあるように思います。

この一節だけを引用すると、この本の中身が少し軽く感じてしまうかもしれませんが、本題は、科学者であり、歴史、文明、自然科学など、幅広い事柄に造詣の深い氏の考察が様々な分野から語られている素晴らしい内容です。

同書の終盤では、単に知識を詰め込み記憶するだけでは脳は却って退化してしまうだろうと述べ、「記憶する脳」ではなく「考える脳」を作るべきだと締めくくります。

そして、アインシュタインの「想像力は知識よりも大切である」「現実は想像力に欠ける者たちのためにある」という言葉を引用し、『これ以上情報が氾濫したら、そしてこれ以上「効率」が向上したら、われわれの知恵、基本的潜在能力はどうなるのであろうか。』と、本書が書かれた2000年代初頭に警鐘を鳴らしています(氏は、それよりさらに遡る1980年代に同様のことを述べています)。

少し本の紹介のようになってしまいましたが、誰しも、寅さんの言う「いろいろなことにぶつかる」時がやってきます。

何かにぶつかった時、それは何かのチャンスかもしれませんし、その判断ができるのは、筋道を立てて考えるための「教養」であり「智慧」があってこそです。

江戸時代の柳生宗矩の言葉に「小才は縁に逢って縁に気づかず、中才は縁に逢って縁を活かさず、大才は袖触れ合う他生の縁もこれを活かす」という名言があります。

これは、「小才は縁が目の前にあっても気づくこともできず、中才は縁に気づいても活かすことができない、大才はちょっとした縁でも活かすことがでいる」ということを意味していますが、目の前の「縁」に気づくことができないのは、その「縁」についての関心が無いからです。

以前の記事で「心理的盲点」について何度か話をしましたが、人間の脳は大脳辺縁系で自分にとって「不要」とみなした情報は、それが視覚的に見えていても「なかったこと」にしてしまいます。

「縁」に気づいても活かすことができないのは、その「縁」について、よくわからなかったり、大して関心が湧かないために、「さほど重要じゃ無い」とみなし、折角の機会を手放してしまうからです。

学校教育が詰め込み型、偏差値偏重型の勉強になっているならば、それは、教育制度や教師の質の問題であって改善されるべきですが、一見何の役にも立たないと思える歴史や数学のような勉強も、自分の行動と経験に伴って「感性」や「教養」となり、それらがやがて「想像力」を育み、私たちがそもそも備えている「潜在的能力」を引き出す糧となります。

「It's never too late to learn.(学ぶのに遅すぎることはない)」というように、勉強は思い立ったらいつでもスタートできます。

少しでも知的好奇心をそそることが目の前にあるならば、「自分には無理だ」と諦めず、どんなことにでも探究心を巡らせ、それを自らの糧として「感性」「教養」として武器にできれば、「他生の縁」を活かすことのできる大才へと成長できるはずです!

この「知識と経験が織りなす未来の選択肢!」は、また、本ブログで掘り下げていきたいと思います。

 

 

 

皆さん、こんにちは。

ここ一週間ほど、子どもがサッカーチームのイタリア研修に行っていたため、日々の心配から解放され、ひたすら家にこもって仕事をしていました(いつもこもっていますが…笑)

イタリアでは、現地の計らいでセリエAの試合のハーフタイム中にピッチに立たせてもらい、5万人の観衆に囲まれながらのプラクティスマッチを体験するなど、かなりの刺激を得て帰ってきた様子です。

ところが、やる気いっぱいで日本に帰国するも、時差ボケも手伝い、溜まっていた勉強は放置で、残りの春休みをだらだらと過ごして新学期に突入してしまいました。

できれば周到に準備をしてスタートを切って欲しかったのですが、ここしばらくあれこれ言いすぎたこともあり、四月は黙って本人の気持ちに任せようと、何も言わず見守っています。

しかしながら、サッカーは7歳から続けていることもあって、何の不満も言わず遠いグラウンドに足を運び、練習を続けることができていますが、今は物心ついた年齢ということもあり、ゴール達成のために乗り越えるべき事柄をイメージさせることがなかなか難しいと感じている次第です。

もちろん、大人であろうと、新たなチャレンジを目の前に成す術を見つけられなかったり、モチベーションを高めることができず諦めてしまうこともしばしばですが、例え将来のことがわからなくとも、ゴールへのステップについて臨場感を高めることは誰にでもできます。

多くの人が、漠然とした目標を持っていても、そこに至る過程に踏み込むことができなかったり、どのような道を進んでいけばよいかわからないのは、目の前にある選択肢に気づくための「知識と経験」が不足しているからです。

例えば、これまでプログラマーなどのエンジニアになれたのは、裕福な環境でPCやインターネットを十分に使える地域の人だけでしたが、スマートフォンを中心に世界中で爆発的にインフラが普及し、誰もが知識を得られるようになった現在では、つい最近まで「発展途上国」と呼ばれていたような国々から次々と優秀な技術者が排出され、中国やインドなどは「IT大国」として認知されるようになりました。

あるいは、先のサッカーの話で言えば、優れた遺伝子と肉体を持つアフリカ諸国でも、プロサッカー選手になれるのは一握りの人間だけでしたが、今ではヨーロッパなどから資金が入り、育成機会も増え、多くの「知識と経験」を得られるようになったことから、沢山のアフリカ系選手がトップリーグで活躍しています。

逆に私たち日本人は、他の国に比べればかなり恵まれた環境で生活していますが、多くの日本人は「恵まれた環境=ぬるま湯」につかってしまっているためか、そのアドバンテージを活かせずにいると感じます。

そして、大抵の場合、歳をとってから自らの行いの結果を知り、「あの時ああすればよかった」などと後悔する人がほとんどです。

自分の趣味や関心に気づくことで「未来の選択肢」は増えていくわけですが、その趣味や関心に気づくためには、「知識と経験」無しに、その機会を得ることはできません。

私は、自分の子どもと付き合っていくことで成長したことも多く、今でも子どもとの関わりを通じて沢山の気づきを得ていますが、もっとも実感しているのは、「とにかく勉強は必要である」ということです。

もっとも、私が気づきを得させてもらっている当の本人には、なかなか伝わっていませんが、「学ぶ機会」を得ること、そして「知識と経験」を増やすことは、早ければ早いに越したことはありません。

よく「学校の勉強なんて意味がない」とか「学校の勉強は社会で役に立たない」などと言う人がいますが、ある側面では一理あるとしても、そのように公言している人は、自ら勉強する方法を知っていて人生をうまく立ち回れているか、あるいは「実は役にたつ」ことに気づいていないだけでしょう。

私は、義務教育レベルだけでなく、高校や大学レベルの教養があれば、もっと沢山の人の心が豊かになり、自分のやりたいことがもっと出来るようになると思っています。

何故ならば、以前の記事でもお話しているように、人間の脳は、例え目の前にある情報であっても、知らないことや関心の無いことは、その大脳辺縁系で「無かったこと」にしてしまうからです。

皆が見ている目の前の情報も、自身の「知識と経験」によって得られる量に違いがあり、つまりは、未来の選択肢の数も変わることになります。

もちろん、学校の勉強だけでなく、「遊び」を通じた「知識や経験」から得られることも沢山あるでしょう。

いずれにせよ、「未来の選択肢」を決める大きな要素の一つは「知識と経験」です。

どんなことでも貪欲に学び、自身の知的好奇心に従って勉強を続けていけば、やがては成功に通じる多くの選択肢が目の前に現れるはずです!

 

この「知識と経験が織りなす未来の選択肢!」は、また、本ブログで掘り下げていきたいと思います。

 

 

 

皆さん、こんにちは。

このブログでもお話ししていることですが、私は、よく自分の子どもに「知識や経験が多いほど人生を楽しむことができる」と伝えています。

とは言え、経験も浅い中学生にそんなことを言っても「?」という気持ちが半分以上だとは思いますが、このところ、これまで一生懸命話しても見向きもしなかったことに関心を持つようになり、私がぼちぼち話をすると「え、そうなの?」とか「すごいじゃん」などと反応するようになってきました。

もっとも、小難しい勉強の話というよりは、ファッションや音楽のような話題が主なのですが、そんなリアクションをする度に「色々知ると面白いことが増えるでしょ?」と返し、当の本人も「ぼんやり伝わってるのかな?」という程度には理解してきたように感じています。

よく「学校で学んだことなんて社会で役に立たない」と言われますが、そのような意見に賛同できる部分がある反面、私は、どんなに役に立たなくとも、知識こそが人生を豊かにすると思っていますし、知識に基づいた経験によって物事を判断し、様々な事柄を享受できると思っています。

学校教育については、確かに「関心の無い勉強を無理やりやっても」とは考えられますが、どちらかと言えば、子どもに関心を無くさせるような教育体制が良く無いわけで、国や行政の方針や教師の質に依るところが大きいように思います。

ところで、「智慧(ちえ)」という言葉がありますが、この言葉は仏教的なところの「釈迦の悟った真理に従い正しく物事を認識・判断し煩悩を捨て去る力」を意味しています。

つまり、「智慧」を身に付けることにより、世の中の物事を認識し、それらについて判断する力を得ることができるわけですが、世の中の物事についての「知識」や、経験を通じて「知る」ということが無ければ、その「智慧」を身に付けることはできません。

「2001年 宇宙の旅」という映画の序盤では、猿人が道具の使い方を覚えるという象徴的なシーンがありますが、猿人たちは、それまで見向きもしなかった動物の骨を突如手に取り、そのモノに気づいた途端「道具を使う」という知識を獲得し、人類へと進化していきます。

高度に進化した私たち人類も、生まれたばかりの赤ちゃんは、何もできないところから始まりますが、目の前の世界から様々なことを吸収し、言葉を覚え、自らの好奇心によって知識を得ながら成長していきます。

しかし、好奇心に溢れていた子どもも、多くの場合、様々な外的要因によって自らの好奇心を抑え込んでしまい、夢や目標を押しつぶされ、学ぶことの楽しさを知る前に世の中に放り出されることになります。

もちろん、そうして大人になったとしても、幸せに暮らし、経済的に成功する人はいますが、ほとんどの人々は、「知らない」ことによって本来得ることできるはずの楽しみを享受できず、あるいは、社会において搾取される側になってしまうことさえあります。

以前の記事で「心理的盲点」の話をを何度かしましたが、人間の脳は、例え視野に入っていたとしても、大脳辺縁系のフィルターにより「不要」と判断されたものが「無かったもの」とみなされ、記憶に上がることはありません。

つまり、心理的な盲点に隠されてしまうわけですが、その際、「不要」とみなされる条件には、「自分に必要かどうか」という以前に、「それを知っているかどうか」という大前提があり、「知識」や「経験」が無ければ、目の前に見えている情報も「見えていない」に等しい状態と扱われてしまいます。

又、逆に、目の前の物事について「知っている」状態であったとしても、その物事についての「知識」の深さや、それらに関連する知識の幅によって、物事の捉え方の抽象度が変わっていきます。

ここで言う「抽象度」とは、簡単に説明すると「情報を取りまとめる概念の度合い」です。

具体的な情報を知り、更に、それらを包摂(ほうせつ)する上位の概念を知ると、より物事を俯瞰(ふかん)的に捉えられるように、情報を取りまとめる概念が高次になるほど「抽象度が高い」ということになります。

例えば、建物を作るのに、デザインが得意な人は、洒落た色使いやセンスの良い素材選びができるかもしれませんが、耐震性などを考慮した構造物としての設計はできません。

しかし、デザインに加えて、建築設計の基礎知識、その地盤についての地質学、さらには、物理や数学の知識に長けていれば、「デザイン」「建築設計」「地質学」「数学」「物理」と5つの具体的な知識を包み込み横断する、高度な思考ができるようになります。

当然、知識の幅が広ければ、アイデアの幅も倍増し、どれか一つしか知らなかったよりも、素晴らしい結果を生み出すことができるでしょう。

英語で「It's never too late to learn.(学ぶのに遅すぎることはない)」と言うように、何歳であっても勉強することはできます。

皆さんが「どうせ自分にはできない」「他の人より劣っているから」などと思い込んでしまっているならば、そのような考え方は捨て、小さな好奇心があればそれを大事にし、些細なことにも興味関心を持って欲しいと思います。

知識と経験を積み重ね、「智慧」を磨くことができれば、より広く俯瞰的な思考能力を獲得し、世の中から多くの気づきを得ることができるでしょう!

 

この「智慧がもたらす俯瞰的な気づき!」は、また、本ブログで掘り下げていきたいと思います。

 

 

 

皆さん、こんにちは。

私の子どもは、サッカーのクラブチームに所属し、毎週、練習のためにグラウンドへと通っているのですが、試合の際には、送迎も兼ねて毎回観戦に行くようにしています。

ただ、私の場合、保護者目線というよりもチームの1ファンとして観戦しているので、負けた日には、フーリガンよろしく、思い切り不満をこぼしつつ会場を去ります、笑

まあ、それは半分冗談なのですが、このところ子どもの所属するチームの試合成績が非常に悪く、どこが悪いのか考えながら試合観戦している中、あることに気づきました。

以前にもお話ししたように、私は為替などのトレードを趣味程度に嗜(たしな)んでいますが、このトレードでは、よく「期待値」という言葉が使われます。

株や為替などのトレードは、極端に言えば価格の上げ下げを予測してどちらかに賭ける、いわばギャンブル的要素が強いものの、プロトレーダーのような人までもが適当な予測合戦をしているわけではありません。

例えば、為替では、含み損を抱えている人たちが損切りするライン(価格)が強く意識され、そのラインに到達すると値が一気に動くことがあるため、そのような価格帯では、ある一定の「期待値」が働きます。

要するに、損をしている人が含み損に耐えきれなくなってポジションを手放すタイミングを見計らい、含み損を抱えるトレーダーが嫌がる方向にエントリーすることで利益が期待できると言うわけです。

これと同じように、サッカーというスポーツでも相手が嫌がるところを淡々と狙い、相手が油断したり焦ったところを一気に攻めることで、得点機につなげることができます。

つまり、サッカーにおいても「期待値」という考え方が非常に重要視され、相手に翻弄されず「期待値」の高いところだけを狙い続ければ、自チームの優勢となり得点することができるわけです。

このところ子どものチームの試合を眺めていると、敵側に先制点を取られたり、相性の悪い相手に翻弄されてしまうことで、焦って周りが見えなくなり、ひたすら期待値の低い場所(相手選手が密集しているところなど)へ攻め入って負けるというパターンが続いています。

そこそこ本気でサッカーをやったことがある方ならば、「そうは言っても実際に身体を動かすのは難しい」と思われるかもしれませんが、勝機に結びつけるロジックとしては、「期待値」をベースに考えることが良いに違いありません。

この「期待値」は、トレードやサッカーに限らず、ビジネス、あるいは、人生そのものにも適用することができます。

何か大きな失敗をしたり、挫折をした時など、多くの人は、目の前のことに投げやりになったり自暴自棄になって、より状況を悪化させる行動に走ってしまいがちです。

トレードでは「狼狽」という言葉もよく使われますが、これは、大きな損を出したトレーダーが冷静さを失い、早く取り返そうと無謀なエントリーを繰り返し、さらに大きな損を出してしまうことから使われる言葉です。

失敗をして自暴自棄になってしまう人は、トレーダーの狼狽と同じように、「なんとかしなくては」と焦ると同時に、どうしようも無い目の前の絶望感に思考が停止し、再起することを諦めてしまいます。

トレードにおいては、退場さえしなければ、次のチャンスがやってきて成功の「期待値」を待つことができるように、人生においても、諦めず次のチャンスに備え準備していれば、いつかは自分にとって「期待値」の高いタイミングが訪れます。

又、失敗や挫折こそ無くとも、現状から脱することができず焦りや苛立ちを感じているという場合、現状に不満を抱くことがプラスに働くことはありますが、焦りや苛立ちはマイナスにしか働きません。

いくら現状を脱したいと思っていても、それを解決するのは、自らの努力と時間、そして「期待値」の高いチャンスです。

狼狽して失敗することは実に簡単ですが、成功への鍵を獲得するのは容易ではありません。

冷静さを失わず淡々と目標に向かって努力と継続を積み重ねていけば、やがては自分にとって高い「期待値」が訪れ、現状を打破することができるでしょう!

 

この「現状を打破する成功への期待値!」は、また、本ブログで掘り下げていきたいと思います。

 

 

 

皆さん、こんにちは。

このところ、夕方過ぎになると熱が出たり具合が悪くなったりすることがあったのですが、体調不良というよりも、過剰なマルチタスクが原因だと判明しました。

と言うのも、私は普段、PCの画面の前で作業している時間が多いのですが、一台のPCでプログラミングやデザインをしながら、傍で為替などのチャートを開いてトレードし、以前にもお話ししたアナログレコードの取り込み作業をしつつ、同時に英語耳を慣らすためにアメリカドラマを見るなど、一気に情報を詰め込みすぎて頭が疲弊していたのが発熱などにつながっていたようです。

私は一つのことに集中する時間もありますが、どちらかと言うと、色々自分のやりたいことが気になってしまい、なんでも同時進行しがちな性格です。

「マルチタスク」という言葉は、現在一般的に使われるようになりましたが、元々はコンピューターによる並列処理を説明する言葉として1960年代に提唱され、この概念は、BSDやLinuxといったUNIX系のOS(オペレーティングシステム)に実装されていきました。

その後、皆さんもご存知のWindowsやmacOSといったシステムで、より先進的なマルチタスクが実現され、今では、スマートフォンで動くAndroidやiOSなどでも、当たり前のように「マルチタスク」が機能しています。

私が「マルチタスク」という言葉を気にするようになったのは、macOS(頭が小文字なのは最近のバージョンから)がバージョン7系だった二十数年前で、ようやくMacOSにもプリエンプティブ・マルチタスクと呼ばれる「マルチタスク」が実装されると知り、自分の行動にも「マルチタスク」という言葉をよく使うようになりました。

それ以来、なんでも同時進行したい欲張りな(注意散漫な?)性格と相性の良い「マルチタスク」という言葉を気に入り、「なんでも同時進行すればいい」というのが自身のポリシーとなり、「マルチタスク」を基本に行動しています。

コンピューター上のマルチタスクは、「マルチスレッド」「メモリプロテクション」と言う二つの技術で成り立っているのですが、詳しい説明はさておき、その二つの内の「マルチスレッド」という考え方が、日常的に使われている「マルチタスク」よりも重要な要素だと思っています。

「マルチスレッド」とは、複数の作業を並行して処理するための「道筋(スレッド/thread)」のようなもので、コンピューターで言えば「スレッド」の本数が多いほど、同時処理できるタスクが増やせると言うことになります。

私の場合は、頭の中で常にいくつかのスレッドがスタンバイ状態になっていて、ぼんやりと思いついたことをスレッドに流し込み、それらを順番に実行していくようなイメージで行動するようにしています。

もっとも、人間の脳が一度に処理できる命令は一つですから、スレッドが増えたところで受け側が対応できなければ仕方がないわけですが、常日頃から頭の中を「マルチスレッド」にしておくと、受け側の脳も順応するようになり、スレッドに待機しているタスクを迅速に処理できるようになります。

私は「マルチタスク」でない人を馬鹿にするつもりはありませんが、例えば、何かを行う時に一つの道筋でしか行動できない人を見るにつけ、「もったいないなあ」と感じることがあります。

もちろん個人によって得手不得手はありますが、ほとんどの人は「自分は一度に一つのことしかできない」と決めつけ、複数のタスクを並列処理することを諦めています。

例えば、食事の際、茶碗を持ち上げ、逆の手で箸を動かし、口を動かすという、一連の動作を同時に行なうように、誰でも、様々なことを同時進行、並列処理する術を持っています。

それは「日常的に慣れているから」ですが、同じように、仕事や勉強、日常の雑事も、食事するのと同じように「日常化」してしまえば、どんなことも「マルチタスク」で処理することができるわけです。

「マルチタスク」の優位性は、脳がより活動的になるということに加えて、処理速度が上がることによる時間効率の最適化ができることです。

コンピューターの場合は、より高速なスペック、つまり、大容量のメモリーと多くの並列処理が可能なCPUを備えることで、様々な処理をすばやくこなすことができるわけですが、私たちの脳も、よく「人間は全ての脳を使っていない」と言われるように、生まれつき未知数のスペックが備わっています。

脳が同時進行で物事を考えられるようになると、思考の領域が拡大し、処理速度も向上して、同じ時間を過ごしていても圧倒的に密度の濃い時間を過ごせるようになります。

と、偉そうなことを話している私も、「色々やりたいけど時間が無い」「新しいことをやる暇がない」という悩みは尽きないわけですが、そのように感じている多くの人は、一つ一つのことを「シングルタスク」「シングルスレッド」で処理しているために、時間的な「損」をしているはずです。

脳の「マルチスレッド化」は、なにも難しいことからチャレンジする必要はありません。

日々の雑事を行なっている際、少なくとも他のことを考えたりする余裕はあると思いますので、洗い物をしながら仕事の予定を組み立てたり、風呂で体を洗いながら仕事の構想を練るなど、簡単なシチュエーションからマルチスレッド化をスタートすれば、次第に並列処理に慣れていきます。

そして、マルチスレッド化した思考回路をフル回転し、様々なことを並列処理できるようになれば、人生はより濃密になり、新たなチャレンジをするための余白を生み出すことができるでしょう!

 

この「マルチスレッドで濃密にする時間管理!」は、また、本ブログで掘り下げていきたいと思います。

 

 

 

皆さん、こんにちは。

唐突ですが、掲題の「踏み固められた道」とは、以前の記事でも引用した、アレクサンダー・グラハム・ベルの言葉からの引用です。

アレクサンダー・グラハム・ベルは、皆さんご存知の通り「電話」を発明したことで知られる学者ですが、そのベルが残した「Leave the beaten track behind occasionally and dive into the woods. Every time you do you will be certain to find something you have never seen before.」という名言の中の一節が、「踏み固められた道(beaten track)」なわけです。

日本語にすれば、「時々は踏み固められた道から離れて森に飛び込んでみよう。その度にきっと見たことのない何かを発見するだろう。」という訳になりますが、言い換えれば、「時々いつもやっていることから離れて違うことに挑戦すれば、新しい発見がある。」という意味になります。

この一節は、私が電子版を編集した「木を食べる(志村史夫 著)」という本を通じて知りましたが、その著者である志村史夫氏が半導体研究のために単身アメリカを訪れた際、ニュージャージーのベル研究所にある銅像に掘られたこの言葉を見て感銘を受け、以降、様々な研究を続けてきた氏の座右の銘となっている言葉となったそうです。

「木を食べる」は、タイトルと裏腹に自然や物理の教養としても面白い本なので、ぜひ読んで欲しいと思いますが(Kindle Unlimitedなら無料です)、私自身もこの名言に感銘を受け、行動の指針として強く意識しています。

そもそも、私自身、良く言えば多趣味、悪く言えば色々なことに目移りしがちな性格なわけですが、振り返れば、しょっちゅう横道をそれていったことが後の自分を作り上げてきましたし、様々なことを吸収してきた結果、自ら意識せずとも、ビジネスの面で優位性を持つことができました。

拙著「成功するフリーランス」でもお話していますが、私自身、一般の人が機材を持つことがなかった時代からDJをやっていたり、音楽制作をするつもりで買ったパソコンが印刷〜デザインの方向に転がり、インターネットやプログラミングをかじったりしている内に知識やスキルが蓄積され、それらを通じて培った人脈が、やがてお金を稼ぐ糧にまで育っていきました。

私は一つのことに集中して極めている人もすごいと思いますが、成功している人のほとんどは幅広い知識や経験を持っているように思いますし、やはり、色々なことを知っているからこそ、自身のモチベーションを高め、行動に移すことができるのだと思います。

前々回の記事で「環世界」の話をしましたが、環世界で言う「作用世界」は、それを感じることのできる自身の「知覚世界」によって感じられる範囲が変わります。

「環世界」については、前々回の記事、もしくは、ユクスキュルの「生物から見た世界」を読んでいただければと思いますが、簡単に言えば、人間の目とハエの目では、見える世界も全く異なり、知覚できる情報にも圧倒的な差がある、といったようなことです。

当然ですが、人間とハエの目は構造も異なり、それ故に認識できる世界の範囲が違います。

人間とハエのような例であれば、そもそも身体的な違いの話になってしまいますが、同じ人間であっても、目の前に見える世界(=作用世界)は異なります。

その違いを生じさせる大きな要因は、目の前の世界への「関心」です。

人間の脳は、その大脳辺縁系で「不要」とみなした情報を「無かったこと」にしますが、「不要」かどうかを判断する基準は「関心」であり、「関心」を呼び起こすかどうかは「知識」の有無が大きな原因となります。

例えば、道に備えられている「道路標識」は、自動車やバイクを運転する人ならば必ず意識しますが、普段車を運転しない歩行者が意識することはほとんど無く、進入禁止や駐車禁止の標識などは、まず目に入らないはずです。

道路標識の場合は安全と別に法的な抑止力が働いているため、強制的に「関心」を持たされている側面はありますが、同じ道沿いにあるカフェや本屋ならば、個々の趣味によって「関心」に大きな差がでるでしょう。

カフェそのものや、カフェでくつろぐことに「関心」が無ければ、その店に気づくことは無いでしょうし、本を読む習慣が無ければ、本屋に「関心」が向くことはありません。

同様に、世の中のどんな情報も「関心」が無ければ、それに気づくことはできません。

成功のきっかけは「運」も大きく左右しますが、その「運」ですら、「関心」が無ければ、あっさり見逃してしまうことになるでしょう。

「関心」を作るのは「知識」と「経験」です。

その二つを得るためには、いつもいる場所に止まり続けることなく、時々は「踏み固められた道」を離れ「森の中」に飛び込んでみることが必要です。

「なかなか現状を変えることができない」「新しいことに出会うきっかけが無い」と悩んでいる方も、自身の分野にこだわらず、様々なことに勇気を持ってチャレンジをし続けていれば、やがては「これまでに見たことのない何か」に気づくことができるはずです!

 

この「踏み固められた道から外れて獲得する新しい気づき!」は、また、本ブログで掘り下げていきたいと思います。

 

 

 

皆さん、こんにちは。

年が明けたのも束の間、もう2月も終わりですが、私の子どもは年度最後の定期試験に向けて必死に机に向かっています。

試験時期になると子どもの話題ばかりになってしまいますが、勉強するのは子ども自身とは言え、親としては少なからず進捗ぶりが気になってしまいますし、普段の行動やスケジューリングには、ついつい口を出してしまいます。

私自身、勉強は「無理やりやらせるものではない」と思う一方、教師や学校教育の質の問題から、学校だけで「学ぶこと」の面白さに気づくのは難しいと思っていますので、ある程度は、子どもの内に学ぶことの楽しさを教えたいと努力してます。

とは言え、今時は手元の小さな機械で、いつでも「簡単に」ゲームや動画、友達との会話を楽しむことができますので、わざわざ重い腰をあげなくてはいけない「面倒な」勉強に気持ちが向かないというのも理解はできます。

それが単なる遊びであっても、ゲームや動画から学べることも沢山ありますので、私はそれらを全く否定しませんが、ただ享楽のためだけに時間を過ごしてしまうなら話は別です。

しかしながら、未熟な子どもがそうしたことに気づくのは難しいですので、大抵、子どもがダラダラしがちになっている時には、以下のようなことを伝えています。

・目の前の一瞬の楽しみを取るのがいいか、少し努力をしてその先の大きな楽しみを得るのがいいか考える

・何かをする前に、本当に優先すべきことなのか立ち止まって考えてみる

・やるべきことを目の前に違うことへ目をそらそうとするならば、「やらないことの言い訳」になっていないか考える

・余暇を過ごしたいならば、そのために準備をして無駄な時間を徹底的に削る

・周りの人の(無駄な)つきあいのために、自分の時間を浪費しない

・「面倒なこと」「頭を使うこと」は、とにかく先にやってしまう

・「面倒」「無理」といった言葉を使わない

・高いゴールを目指すならば、いい影響を与えてくれる人のそばにいるようにする

こう列挙してしまうと、いかにも「堅苦しいお説教」のように見えてしまいますが、実際はもっとざっくばらんにフレンドリーな会話で伝えています、笑

いずれもライフハック的な記事や自己啓発的な本を読まれている方ならば見慣れた内容だとは思いますが、やはり多くの人に語られていることは普遍的なことであり、それを実行できた人のみが本当の成功を掴むことができます。

しかし、多くの人は自分の心に負けてしまい、なかなか行動に移すことができません。

かく言う私も、油断すれば怠惰な気持ちに負けてしまうことがありますが、その歯止めに役立っているが「考えのアウトプット」です。

よく「子は親の鏡」などと言いますが、いくら偉そうなことを言っても親がそれを実行していなければ、それを見て育った子どもは「口だけ」の人間になってしまいます。

それ故、子どもへのアウトプットは自分自身の成長にもつながりますし、親が自分を律して言葉通りに行動できれば、子どもは自然と言葉を受け入れ自ら成長していきます。

皆さんが「親」の立場ならば、ぜひ、そのように意識して子どもと向き合ってほしいと思いますが、子どもがいない方も、相手が誰であれ考えをアウトプットすることは自身を見つめ直すきっかけになりますし、考えを整理することで沢山の気づきを得ることができます。

アウトプットする方法は、どんな形でも構いません。

ブログでもSNSでも、言葉をアウトプットする場を設けて発信し続ければ、そのアウトプットが自らを映し出す鏡となり、やがて、これまでに見えなかった気づきとなって目の前に現れるはずです!

この「アウトプットを鏡に得る自身の気づき!」は、また、本ブログで掘り下げていきたいと思います。

 

 

 

皆さん、こんにちは。

ドイツの生物学者であるヤーコプ・フォン・ユクスキュルの著書に、1934年に記した「生物から見た世界」という作品がありますが、この本には、「環世界」という説を基に、生物がどのように環境を知覚し知覚によって生物がどうやって世界を捉えているのか、といったことが書かれています。

詳しい内容は本を読んでいただければと思いますが、「環世界」とは、主体である生物が持つ器官を「知覚器官」「作用器官」と捉え、知覚器官が受け取った客体を作用器官が認識するといった「機能環」で表す世界のことを言います。

「よくわからないよ?」と思われるかもしれませんが、簡単に説明すれば、主体である虫が餌から匂いや温度のような刺激を受け取り、その刺激を持つ対象である客体を餌とみなすといった、一連の構造(この場合は感覚を通じてつながる虫と餌の関係)のことです。

この「環世界」を軸に、生物の見える世界を考えると、同じ情景を目の前にしていても、人間が見えている世界、鳥が見えている世界、ハエが見えている世界、それぞれの知覚できる範囲が異なります。

もちろん「備わっている感覚器官が異なるから」というのが単純な理由ですが、それ故に、例えば、鳥やハエは、テーブルの上の肉は見えていることになりますが、冷蔵庫や電子レンジは存在していないと同じことになります。

それは、物理的な対象が存在しているかどうかというよりも、鳥やハエにそれらを知覚するための機能が無いからであり、冷蔵庫や電子レンジが知覚対象になり得ないためです。

なぜこんなことを引用しているのかと言うと、この「環世界」の考え方が、これまでにも何度かお話している「心理的盲点」というトピックに共通していると感じたからです。

「心理的盲点」とは、自己啓発界隈などでは「スコトーマ」とも言われ、必要としない情報を文字通り盲点に隠してしまう脳の性質を指した言葉ですが、私たちの目の前にあるモノが視野角に入っていたとしても、目を通じて脳に入った情報が大脳辺縁系によって「不必要」と判断された場合、それらは「無かったこと」にされてしまいます。

「環世界」の考え方では、そもそも生得的な器官に知覚できる差があるわけですが、これを比喩的に考えれば、同じ環世界を持つ人間でも、目の前の情報が「不要」とみなされてしまえば、極端な話、鳥やハエのように自身の環世界は狭くなってしまいます。

以前の記事に書いた「心理的盲点」の話では、通勤・通学路のような毎日通っている道でも、いつもそこにある看板や標識に気づかないことがある、といった話をしましたが、先の「生物から見た世界」にも、「なじみの道」という似たような話が書かれています。

その章の内容は、知らない道をその土地に詳しい人に案内してもらう際、案内人は案内される側が気づかないような周りのものを「道しるべ」として認識することができる、という話ですが、道端にある何気ない木や石も、その道を使う人にとっては重要な情報であり、それに気づくことができなければ道に迷ってしまうことになります。

道端の石や木は、それ自体大した意味を持たないかもしれませんが、どんなモノであっても、それ自体が持つ「重要性」に気づくことが無ければ、一生それは無価値なモノであり続けます。

「そんなの当たり前じゃん?」と言う話ではありますが、単なる道端の石だと思っていたものも、よく近づいてみればすす汚れていたダイヤの原石ということだってありえるかもしれません。

あるいは、毎日すれちがっていた近所の人にふとした時に気づいて挨拶をして、それがきっかけで大きなビジネスになるということだってありえます。

いずれにせよ、自身の「環世界」が広ければ広いほど、吸収できる情報は多くなり、つまりは、目の前にあるモノやコトの価値を見抜く力を得られるようになります。

その「環世界」を広げるために必要なのは、「多くのことに触れること」「知識を増やすこと」の二つです。

沢山のモノやコトに触れる経験が多ければ、そのモノやコトの重要性にいち早く気づくことができ、沢山の知識を備えていれば、様々な視点から物事の価値を見定めることができます。

よく「人間の脳は一部しか使われていない」などとも言いますが、私たち人間は、多少の性能の差こそあれ、ほぼ同じように機能する脳や感覚を備えています。

その脳や感覚をどれだけ活用できるかは、自身の経験や知識の蓄積であり、それらの蓄積された要素をいかに回転させるかがキーになります。

インターネットの大情報時代、ネットに溢れる情報もリアルからでは得られない沢山の知識が詰まっていますが、今の所、私たちが生きているのは、SF映画のようなヴァーチャルに住む世界ではなく、リアルな物理的世界です。

多くのリアルな体験と知識を積み重ね、感性を研ぎ澄ませば、自身の「環世界」は広がり、成功へのアイデアが目の前に湧き出てくることでしょう!


この「環世界を広げて見抜くアイデアの源泉!」は、また、本ブログで掘り下げていきたいと思います。