こんにちは、しゅんすけです。


今日は 自分ってナニ? というお話です。




… なんとなく。

ラフなスタイルで書いていこうと思います。








いつも、いつも、ブログを読んでくださりありがとうございます。



「ブログ、ずっと読んでます」

「いつも読んでます」

なんて聞くと

人間しゅんすけさん、喜んでます。




承認欲求が満たされて、喜ぶ成分もあるし

純粋に嬉しい成分もある。



ほんと、可愛いボクちゃんです(笑)








さてさて。



人間しゅんすけさんは

生まれて何日か経つころ

「しゅんすけ」と名付けられました。




以来、ず〜〜っと

「自分は、しゅんすけ」

と思い込んで生きてきました。





少しずつ社会保険料が高くなると

そんなもんだよな〜

といつの間にか受け入れしまうように…




茹でガエル現象で

当たり前だと思い込んでいました。








演劇で役割を決める時のように。



地球上では、人間しゅんすけさん

という役割をすることになりました。



役割を演じるにあたって。



地球上では

「自分は、しゅんすけ」

としておいた方が、便利な側面もあります。




世を忍ぶ仮の姿、なんて言葉があるけれど

人間しゅんすけさんの肉体は

人間社会(今の地球現実)を忍ぶ仮の姿

でもあるわけです。








はぁ… 何の話だっけ?




そうそう!




「しゅんすけ」と名付けられて以来

ず〜〜っと

「自分は、しゅんすけ」

と思い込んで生きてきました。








ほんと、便利だったわけです。



友達の

「たけしくん」とか

「たつやくん」とか

区別して。



たけしくんはゲームできて羨ましい、とか。

たつやくんは走るの早くて羨ましい、とか。

嫉妬とか、我慢とか。

感情体験していくわけです、はい。





同じように。

初恋の「まりちゃん」とか区別して。




嫌われないように努力してみたり。

カッコつけてみたり。

自分の欠点をみて凹んだり。

区別することで、感情体験できるわけです。




こうした営みを

神様の視点からみれば、遊びであり

人間の視点からみれば、学びです。








感情体験がある段階まで進むと

「私は誰?」

ってなる場合がありました。




剥がれかかったシールのように

「自分は、しゅんすけ」という思い込みが

剥がれていく感じでした。




… あれ?

この思考してるのは誰なの?

誰が感情を感じているの?

これらは、どっから来てるの?



と戸惑うわけです。
(怖かった〜(笑) )








まぁ、答え言っちゃえば

「起こってるだけ」なんですが… 

当時は、そんな知識もないわけです。




???

アレレ?

イッタイ、ジブンハ、ナンナノダ?




(º_º)


(º_º)


(º_º)



フリーズでした(笑)








自分が剥がれても、尚、残るものがあるわけで。


でも、それは、自分が剥がれてみないとわからないわけで。




… まぁ、そんな体験をして


自分が剥がれて

自分を中心に見えていた世界が

ひっくり返る感じになりました。








なんせ

自覚あるなしに関わらず、多くの人は

「自分が世界の中心」

として生きてるから。



自分の視点でしか

見れないし

聞けないし

味わえない。



自分は   自分で当たり前、になってるわけです。




当たり前すぎる感覚がひっくり返って

自分はいないんだ、とか

腑に落としていくわけです。




こうした営みは

神様の視点からみれば、愉快であり

人間の視点からみれば、恐怖なわけです。








「自分がいない」と受け入れるには

「自分がいる」という感覚よりも

大きな安心を知る必要があります。




名付けられて以来

ずーっと使ってきた

「自分」よりも安心なもの。



それは…


自分が剥がれても、なお、残るもの。




ソレが、『自分』よりも大きな安心、なんです。








おまけの関連ツイート。





















今日はここまでにしたいと思います。


読んでくださり、ありがとうございました。





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