昔ばなしです。
20代の半ばだったか
当時付き合っていた彼女とお別れしました
数日後
その彼女は
私の親友と付き合っていました
その親友は
私にちゃんと話をしようと
持ちかけてくれました
彼女に初めて会ったときから
気になっていたこと ──
私の彼女だったから
我慢していたこと ──
全部、正直に話してくれました
とても嬉しかったです
「僕はさ~、地球上の人たちで一人でもハッピーな人が増えればいいと想っている」
「僕は寂しいけど、それも続くことじゃないことは知っているし、正直に言ってくれたことは嬉しい」
「ありがとう」
そんなことを伝えました
── 親友との関係は
スッキリしていたので
親友と元彼女と僕と
遊ぶこともけっこうありました
── いつだったか親友が言いました
「しゅんはすごいよ。僕がしゅんだったら1ヶ月は落ち込んでる」
この一言で、僕は悲しみを感じました
『あぁ~、地球レベルで一人でもハッピーな人が増えてくれればいいという考えを【誰も】理解してくれない』
『親友ですらそうなのか ── 』
そう想ったのです。
── 価値観を
わかりあえる喜びと
わかりあえない悲しみと
両方を味わえました。
それから数年後
複数の友達から
「しゅんってどことなく悲しみがあるよね。けっこう深い悲しみがさ。」
と言葉をもらいます。
── まったく、そのとおりでした。
☆わかってもらいたいけど
☆わかってもらえない
その悲しみは、ひと昔前まで続いていました。
結婚して、嫁さん相手も続いていました。
わかりあえない悲しさと
誰もわかりあえないほどの「崇高な理念をもっている」という自己陶酔と快感。
わかってもらえない悲しみのドラマを繰り返しなから、崇高な理想をもつ快感に酔っていたのです。
☆自分は悲しい存在であると当時に
☆自分は誇り高い存在でもあった
それが潜在意識に染み入っていたのです。
ドラゴンクエスト
ダイの大冒険というアニメで
勇者アバン先生という
みんなから慕われるキャラクターがいて
とても好きだったことを思い出します。
崇高な「勇者しゅんすけ」が活躍するために、世界は平和だとダメなのです。
悲しみをもたらす「魔王しゅんすけ」がキャストとして必要なのでした。
「勇者しゅんすけ」は
「魔王しゅんすけ」を倒してはならない
そう思っていたのです。
「魔王しゅんすけ」がいないと
崇高な「勇者」など必要ないからです。
付かず離れず
生かさず殺さず
優位になったり、フリになったり
繰り返します。
しかし ──
どこか苦しかったのです。
どこかで孤独だったのです。
「勇者」の崇高さも
「魔王」の悲しさも
☆わかってもらいたい
☆わかってもらえない
独り相撲の繰り返しだったからです。
これをどうやって克服したのか ──
── 飽きたんです。
「勇者」と「魔王」のドラマに。
「悲しみ」と「崇高さ」の独り相撲に。
☆わかってもらいたいけど
☆わかってもらえない
という、ひとり劇場に。
最近、LAWSONの「からあげクン」が好きでけっこう食べていたのですが
もういいやと思い始めました。
そんな感覚に近いです。
☆苦しみや
☆悲しみや
☆孤独感
そんな
感情たちを食べ飽きたのです。
ドラマをやめようと決めて
自分から友達に
「わかってほしかった」
と伝えてドラマを終わらせました。
この一言で
「勇者と魔王」のドラマが終わるのです。
ドラマに飽きると
一歩俯瞰して観えてきます。
ドラマの構造が見えてきます。
ああこのパターンで
☆苦しみ
☆悲しみ
☆喜び
☆快楽
☆孤独感
に酔っていたのかと
覚めてきます。
筋書きがわかったドラマは
ネタバレを読んじゃった
映画やアニメみたいに
「しらけ」ます。
☆苦しみ
☆悲しみ
☆喜び
☆快楽
☆孤独感
を以前のように感じなくなります。
もうたまに味わうくらいでいいよね
このドラマ。
そんな感じです。
そんな「気づき」が起こりました。
気づいた後も
悲しみはなくなりませんでした。
感情はなくならなくていい。
感じていいのです。
ただドラマに巻き込まれないだけです。
ああ、これね。
好きだったLAWSONの「からあげクン」ね。
昔好きだったマクドナルドをみて
たまには、ポテトでも食べようと、ふらっと入るときもあるでしょう。
その感覚に近いです。
「からあげクン」好きだったなあと
懐かしみながら食べるように
感情を食べてもいいのです。
☆また感じてしまった
☆なんで消えないんだ
☆まだ成長してないのか
そんなことを感じているなら
結局のところ
「まだ」感情に囚われていると
いえるでしょう。
感情を
懐かしむようになったら
もう克服です。
感情は
あなたの人生を彩る
色のように感じるのです。
あらゆる感情ドラマに覚めたとき
人生は本当の意味で
カラフルになっていくのです。