メンタリスト・りょうです。
これは人によっては
とても信じられない話になるので
興味ある方だけ読み進めてください。
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人が死にたいと想うときには
理由があります。
☆生き方がわからない
☆生きることが苦しい
☆私を他者に見てほしい
☆私を自分は見たくない
☆死ぬよりも怖いことがある
そんな理由です。
死にたいと想う気持ちの裏には、生きたいという想いがあります。
上に書いた理由は「生きたい」と思っているからこそ想える不安や恐怖だからです。
「生きたい」と思ってない人は
生死を越えている方は
☆生き方がわからなくても困らないし
☆生きることが苦しければ変化するし
☆私を見つけてほしいと思わないし
☆私を見つけているし
☆死ぬことは怖いものではありません
だから
死にたい=生きたい
なんです。
死にたい理由を書き出すと
生きたい理由になります。
心の奥底では
☆生き方がわからない→わかりたい
☆生きることが苦しい→楽になりたい
☆私を他者に見てほしい→どちらでもいい
☆私を自分は見たくない→見たい
☆死ぬよりも怖いことがある→安心したい
と思っていたりします。
なので、私は「死にたい」と想うことはわるいことだとは想いません。
それが目の前の気持ちならば、素直に感じてよいと想います。
「死にたい」と想っているのに、ムリに「生きよう」とするのもムリがございます。
絶望するなら、ちゃんと絶望することです。
不安や恐怖をみたくなくて
現実をみたくなくて
心を、自分を
閉ざして
閉ざして
閉ざして
開き直るのを待つときもございます。
真っ暗な夜空だからこそ、星の光がよく見えるように
絶望という真っ暗な闇の中だからこそ、微かな光でも目に届くのです。
オセロは黒がたくさんあるからこそ、一つの白を置くことで、一斉に反転します。
中途半端な黒が並んでいては、反転するときも中途半端なままです。
「見捨てる」という訳ではなく、その方のまだ自覚はしていないであろう「生きたい」想いを信頼して見守るイメージです。
死ぬよりも怖いことは、アイデンティティーの破壊です。
☆私は母親だ
☆私は妻だ
☆私はパートナーだ
自分のよりどころがアイデンティティーです。
自分という存在のよりどころが
子供や、パートナーになっていると
関係が離れたり、別れの状況が近づくと
アイデンティティーが壊れそうになるため
それこそ、必死に守ろうとします。
しかし、魂の成長には
時として
破壊と再生が必要なときがあるのも事実です。
☆死ぬほど恥ずかしかったり
☆死ぬほど情けなかったり
☆死ぬほど無様な体験というのは
アイデンティティーの破壊と再生となります。
人はときとして
そんな「小さな死」を体験することで
大きな成長を遂げることがあるのです。
破壊と再生を繰り返すことで
人間の本来のアイデンティティーである
自分自身と無限という発想に
自然と導かれていくのです。
今、目の前の気持ちが「死にたい」だとしたら本当に辛いとは想います。
しかし、それはあなたをより強く輝かせるためのチャンスでもあることを、どこかで覚えておいてください。
「死にたい」という気持ちも、正直なあなたの気持ちなら、ありのまま感じてあげてください。
あなたの目の前の気持ちは、あなたが越えられるからこそ現れているのです。
ただ、感じてあげてください。
自然と
開き直りが訪れるときまで
オセロが反転するときまで ──
あなたが生死の執着から解放されることを、私は願っています。
あなたのよりどころが自分自身と無限へ向かうことを願いっています。