本質を見落とさないで
重い皮膚病「ツァラアト」は、人が犯した罪に対する報い、また穢れととらえられていました。この病気にかかってしまうと、「お天道様の下を歩けな」かったのです。
ガリラヤ全域で神の国を宣べ伝え、人々の病を癒しておられたイエスのうわさをどこかで聞きつけてきたのでしょうか、一人の「ツァラアト」に冒された男性がイエスのもとを訪れます。
「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」。イエスの御心一つで、わたしは癒される。そう信じての言葉です。そしてイエスはその願いを受け入れて「清くなれ」と言われます。「ツァラアト」はすぐに消えて、彼は癒されます。
するとイエスは彼に「誰にも話さずに祭司に体を見せ、律法で定められているささげものをしなさい」と厳しく釘を刺されます。
律法で、「ツァラアト」が消えて日常生活に戻れますよという証明を祭司にもらうようにという規定がありましたから、まずはその通りにしなさいというのは理にかなったことです。イエスはそれに加えて、ご自分のことを誰にも何も言わないようにと言われます。ご自分の「時」がまだ来ていない。いま、単に病を癒してくれる人としてのイエスを広めてほしくない。神のもとへと立ち帰るようにと宣べ伝えているのに、悔い改めからますます遠ざかってしまうではないか。人々がまことの神への信仰に立ち帰ることがないまま、「ご利益」に走ってしまうことを警戒されたのでしょう。
ところが、癒された人はあろうことか自分に起こった出来事を言いふらして回ったのです。イエスの言葉を守ることができなかったこの人、しかしわたしたちに彼を笑ったり非難したりすることができるでしょうか。
宝くじ売り場で飼われている犬猫を撫でると、あるいは犬猫の機嫌によって宝くじに当たる、というのが大々的にテレビで取り上げられたり、どこかの店で飼われているタコの動きでサッカーの試合のゆくえを占うというのにも似ています。本質を見落とし、福音を上っ面だけ、美味しいとこ取りの「ご利益宗教」に変えてしまう群集心理をイエスは恐れたのです。
一方で神の律法を権威主義にすり替えてしまっている宗教の権力者たちは、イエス人気への妬みもあり、やがてなんとかしてイエスを殺そうともくろみ始めるのです。それでイエスは表立って町に入ることもできなくなってしまいます。
イエスの時はまだ来ていません。今週14日の灰の水曜日から、イエスの十字架の死を記念する受難節が始まります。まことの信仰、まことの愛がどういうものであるのか、じっくりと向き合つつ過ごす時としたいものです。