今年86歳になるばあちゃんがいる。
去年の夏に激しい頭痛が続くようになって歩けなったことから全ては始まった。
立て続けに年末に肺炎になり入院、起き上がるときに転倒して肋骨を折ってまた入院。
寝たきり状態が続き床ずれ、そして昔足首を折った古傷の影響か、筋肉が硬直し足が曲がった状態になった。
もう完全に歩くことはできないので自力でなんとかできていたトイレは、完全おむつになった。
家族で試行錯誤して困難を乗り越えてもまた次から次とやってくる。
それと同時に日常での生活も、耳も遠くなり認知症も進みコミュニケーションが難しくなった。
飲み込む力が衰えてしまっているので完全離乳食。
まさに大きな赤ちゃん状態だ。
なんでこんなになってまでもばあちゃんは生き続けられるのだろう?
そもそもなぜ次から次へこんなに困難が舞い込んでくるんだろう?
人生って本当に不思議だ。
ばあちゃんという人は孫の私から見てもとても強い人だ。
一時期はシングルマザーで子供二人(私の母と叔父)を親に頼らず育てていたし、なんでも自分でできちゃう人。
そんなばあちゃんの男気に惚れたのか、30代のときにまだ20代だった年下のじいちゃんと再婚をした。
末っ子で甘え上手なじいちゃんと、なんでもできちゃうたくましいばあちゃん。
仕事の面はというと、大学を出てしっかり稼ぐじいちゃんと勉強は苦手で家事が得意なばあちゃん。
きっとお互いの凸凹が得意不得意で合致していたんだろう、居心地がよかったんだと思う。
結婚して何十年経った今まで寝室が別になったことはないし、じいちゃんはばあちゃんに愛の言葉を言ったりしている。
この1年の現象はじいちゃん、ばあちゃんの関係が顕著に表れているんじゃないかと私は思っている。
頼ることを知らずじいちゃんという存在を、家族を支えることに全力だったうん十年。
これは神様がばあちゃんに向けた「頼ることを学びなさい」「弱音を吐いていいんだよ」というメッセージだったんじゃないのか?
一生分の頼るということをぎゅっと今まさにやっているんじゃないのか?
そしてこうまでなってもまだ生きながらえているのは、いまだにじいちゃんを一人にするのが心配なんじゃないのか?
それはばあちゃんだけじゃなくじいちゃんにとっても。
こんな姿になってまでもじいちゃんはばあちゃんを自分のそばに置いておきたい。
ばあちゃんに何かしてもらわなくても、それどころか自分が世話をしなきゃいけなくなったこの状態になってまでも、ばあちゃんの存在自体がじいちゃんにとって安定剤になってるんじゃないのか。
さすがに要介護レベルも高くなれば住み込みの介護施設に入れることも考えてもいいと思うけど、じいちゃんはかたくなにそれをしない。
今までお世話してもらった分それを返すんだ、と言って家で老々介護をしている。
ばあちゃんがじいちゃんに与えた影響はすさまじいものだと思う。
ずっと私も一緒に住んでいたのでもし神様にお願いできるならばあちゃんの全身の痛みを消してほしい。
昔のばあちゃんに戻ってほしい。
1日でも長く生きてほしいというのが本音ではある。
でもそんなエゴの気持ちとはまた別の感覚もある。
ばあちゃんの人生、ばあちゃんがどんな選択をしても私はそれを受け入れたい。
ばあちゃんの人生を尊重する。
ばあちゃんが決めた道を見守りたい。
人生に起きていることにはすべて意味があるとしたら。。。?
もしこの意味がわかったら苦境でも少し面白さを感じられないかな?
人生は全てちょうどよくできているはずだから。