最近ある方の記事を読みました。
日本語も変化していき、私たちが祖先から情報を引き継ぐ機会を失う最中にいるということと受け取りました。
宮原氏の記事を読んで思い出しました。

その人の履歴を徹底的にその人から切り離し、まるで均一な品質の量産部品の一つのように扱えば、誰にも身元を辿れない身の上なら感じるであろう不安が降りかかりはしないだろうか。
それを治め落ち着かせ支配して利用するのは、あの小説の中では宗教ではない。



宮原めぐみ氏のfb



疑うな⁉️


「無知は力なり」の投稿で


疑うこと

調べること

考えること


って書いた2日後

私が働いている会社の社長の誕生日だった


朝礼で社長は社会人になってからの成功や失敗を話された。

その中のお言葉


信じるな

疑うな

調べろ

(最後は「調べろ」ではなく「確かめろ」でした)


疑うことって投稿したばかりだったから特に気になった。


大事なことだと思う。


ワクチン接種が始まってから活動に入ってきた人たちは特に怪しい人が多いから

疑って

って思って何度もそんな投稿をした。


詐欺師は良い人のふりをして近づくから


騙したい人にとって

聞こえのいいことだけ言って

都合の悪いことは言わない


だから

疑ってほしい

と思って発信してた


でも、

信じるな

疑うな

なんです。


信じてはいけないけど疑ってもいけない。


そうだよな

疑うだけだと見えないこともある

その人のいいところまで見えなくなる

って少し反省した


「信じる」の対義語は「疑う」


「信じる」を否定して

「信じるな」とすれば

「疑え」と同じ意味


でも違うから

「信じる」という言葉と

「疑う」という言葉がある。


だから

信じるな

疑うな

という表現ができる


凄いな…


で、

1984の付録を思い出した

って読んだばかりだったからね


小説「1984年」の中にはニユースピークという言語が出てくる。

小説の最後には付録としてそのニユースピークの解説が載ってる。


その中の文章


ニュースピークが採用され、オールドスピークが忘れ去られてしまえば、そのときこそ、異端の思考を、少なくとも思考が言葉に依存している限り、文字通り思考不能にできるはずだ

という思惑が働いていたのである。


接頭辞の「非 un-」を付すことによってその意味を否定することができ…


「 good」という語があれば「bad」という語は要らなくなる。「ungood」という語で表せるからである。


(1984年 付録 ニユースピークの諸原理より 途中省略)


これを読んでも

対義語の大切さがわかる

対義語は不要じゃない


信じるな

疑うな


対義語があるからそれぞれが生きる


思考を失わないためにも必要だと思う。


最後の「調べろ」は私の投稿と同じ。


これもとても大事なことだと。


というか

そのために

信じるな疑うなってこと


だから最後にもう一度書きます


調べろ‼️

…ではなく


確かめろ‼️