原子爆弾投下のスケジュールを国内でも事前に知る存在があったこと、それを広く周知して被害を最小限にとどめる動きはなかったという部分についてが主な転載対象です。
2018.11.14〜2024.01.28投稿分



なかだち⛰ネット難民📡氏のポスト

https://x.com/madaraiguana/status/1062549506334515200?s=46&t=IOKc8-l7CStp_VQwsVhu3g


「世界連邦運動は原爆の研究開発の勢力が発起人になっている。原爆推進して大量に死亡者が出てから反省してるかのように同勢力が世界を一つにするための平和運動するという気持ち悪さ。


第四章では湯川秀樹が俎上に上がっている。広島に原爆が落とされることが、彼のルートで8月より3か月も前の




5月に入ってきて、これを聞かされた京大の学生が、両親を広島市から近郊に疎開させて難を逃れた実話が紹介されている。

世界連邦運動の湯川秀樹の経歴
敗戦後、広島・長崎の原爆開発にあたったオッペンハイマーに招かれアメリカで教授の椅子が用意されていた。



世界連邦運動の発起人

バートランド・ラッセル
アルベルト・アインシュタイン
アルベルト・シュヴァイツァー
ウィンストン・チャーチル
湯川秀樹



海外の世界連邦運動(World Federalist Movement)
公式サイト資金提供者一覧

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Humanity United
The John D. and Catherine T. MacArthur Foundation(マカーサー基金)
 The Sigrid Rausing Trust
Open Society Foundation (ソロス財団)



★The European Union 

The Kingdom of Belgium
The Kingdom of Denmark
The Kingdom of the Netherlands
The Kingdom of Norway
The Kingdom of Sweden
The New Zealand Government
The Principality of Liechtenstein
The Republic of Austria
The Republic of Finland
The Swiss Confederation」



blogs.yahoo.co.jp/x_lucy0_x/4270…
(管理人註 サーバーが存在しないとのこと)



↑全文引用
「日米合作の原爆投下を告発 関連書籍・資料にみる

政治経済2015年10月7日

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 原爆投下知り握り潰した大本営 予告聞いた被爆市民の経験

 藤原章生(ジャーナリスト)の近著『湯川博士、原爆投下を知っていたのですか』(新潮社)は湯川秀樹の



「最後の弟子」で、「原子力ムラ内の批判派」といわれた故・森一久の半生をたどっている。森は広島で被爆しておりそれを知る湯川秀樹から生活上の配慮、世話を受けていた。著者は、森自身がその背景に湯川が戦時中に広島に原爆が投下されることを知っていたことがあるのではないかとの思いをめぐらせて



いた事情を明らかにしている。
 それによると、今も現役の水田泰次・大阪合金工業所会長が、京大工学部冶金教室に入学したばかりの1945年5月、西村秀雄主任教授から広島市内に住居がある学生として呼び出され、アメリカの原爆開発について情報を得たことを、森と同じ旧制・広島高校の同窓会誌に



書いていた。

 第1回現地テストを広島で 米国学会から知らせ 

 水田青年はそこで、「米国の学会から秘密裡にニュースが先生に送られ、当時原爆製作を競争していた日本より先に、米国が成功し、その第1回現地テストを広島で行う予定が決まったから、出来るだけ早く親を疎開させなさい」と



いわれたこと、それを受けて「早速帰広し、特高警察等の関係のため、誰にも話すことが出来ないまま、父を無理矢理、理由も云わずに、廿日市まで大八車で、家財を積んで疎開させた」と証言していた。
 森が水田と直接会って確かめるなかで、「そのとき湯川博士が同席していた」ことを知らされ、大きな



衝撃を受けたという。
 本書では、森がこの問題に自問自答しつつ結局解明されないまま他界したことを明らかにしつつ、著者自身もそのことの真相に迫れないままもどかしさを残して終えている。
 本書では明らかにされていないが、湯川博士とアメリカの原爆製造計画(マンハッタン計画)に携わった



科学者との間で、戦前から学術的な連携関係があったことは事実である。また、アメリカでは原爆が投下される半年前に、「原爆使用反対」の声や「日本の都市に落とす前に警告を発すべきだ」などの要請が、原爆開発に携わった科学者の間から出されていた。湯川博士が、その中心となったシカゴ大学



冶金研究所のコンプトン所長と親しい関係にあったことも知られている。
 だが、この問題はあらためて、広島、長崎への原爆投下について一部の人は事前に知らされており、さらに疎開して助かった者がいたことを考える機会を与えることになった。この種の証言はこれまでもいくつか活字でもなされて



きた。

 敵国の放送聞いてはならぬ 市民の情報遮断し 

 たとえば、織井青吾著『原子爆弾は語り続ける―ヒロシマ六〇年』(2005年、社会評論社)は、当時14歳の織井氏が原爆投下の直前、陸軍通信隊(当時広島文理大に駐留)の兵士から次のような話を聞いたことを明らかにしている。



「米軍の情報によるとね、明日6日、広島に新型爆弾を投下するから、非戦闘員、つまり坊やとか女子供、年寄りの人たちは、今夜から郊外に避難せよと通告している……それを知らせてあげようと思ってね……」「兄さんも避難したいが、兵隊だからそれは出来ない。しかし、坊やなら出来る」



これは、「日本児童文学者協会・日本子どもを守る会」編『続・語りつぐ戦争体験一ーー原爆予告をきいた』(1983年、草土文化)に掲載された宮本広三氏の体験と重なるものである。宮本氏は当時25歳で、広島逓信局の監督課無線係として勤務していた。8月1日、受信調整をおこなうとき、サイパン



から流されるアメリカの日本向けラジオ放送(「ボイス・オブ・アメリカ」)が「8月5日に、特殊爆弾で広島を攻撃するから、非戦闘員は広島から逃げて行きなさい」と数回くり返したのを聞いた。
 宮本氏は、「敵国の放送は聞いてはならない」と厳命を受けていた。しかし、これまでときおり聞こえた



この放送局からのニュースや空爆の予告が、実際に起こった空爆と合致していたことから係長にこのことを報告する。だが、「敵性放送を聞くとはなにごとだ、デマをもらしてはいけんから、おまえは家に帰さん!」と叱り飛ばされた。
 5日には何事もなかったかのように見えたが、翌朝、警戒警報が解除



されて係長が出勤し「やっぱりなにもなかったじゃないか」と話したときに、原爆の直撃を受けた。
 黒木雄司著『原爆投下は予告されていた!』(1992年、光文社)も著者が中国戦線の航空情報連隊情報室に勤務していたとき、インドのニューディリー放送による広島・長崎への原爆投下の予告を傍受



した体験を克明に記録したものである。
 著者はその「まえがき」で次のように書いている。「このニューディリー放送では原爆に関連して、まず昭和20年6月1日、スチムソン委員会が全会一致で日本に原子爆弾投下を米国大統領に勧告したこと。次に7月15日、世界で初めての原子爆弾爆発の実験成功



のこと。さらに8月三3日、原子爆弾第1号として8月6日広島に投下することが決定し、投下後どうなるか詳しい予告を3日はもちろん、4日も5日も毎日続けて朝と昼と晩の3回延べ9回の予告放送をし、長崎原爆投下も2日前から同様に毎日3回ずつ原爆投下とその影響などを予告してきた」



「この一連のニューディリー放送にもとづいて第5航空情報連隊情報室長・芦田大尉は第5航空情報連隊長に6月1日以降そのつど、詳細に報告され、連隊長もさらに上部に上部にと報告されていた模様だったが、どうも大本営まで報告されていなかったのではないだろうか。どこかのところで握りつぶされた



のだろう。だれが握りつぶしたのか腹が立ってならぬ」

 爆心地に市民集め大虐殺 天皇、支配層の延命条件に

 これらのアメリカからの情報が、大本営、天皇とその周辺に伝わっていたことはいうまでもない。『広島原爆戦災誌 第一巻』(広島市役所編)によると、すでに8月3日には大本営から



「8月4日から7日にかけて、アメリカ空軍の特殊攻撃がある。十分注意を怠らず。対戦処置をとるべし」という暗号電報が広島の各部隊に入っていたのである。だが、それは箝口令のもと、広島市民にはまったく知らされなかった。そればかりか、原爆搭載機の侵入を手助けする形で警戒警報を解除し、



広島市民がもっとも街頭で活動する午前8時15分、アメリカが史上もっとも残虐な兵器を投下できるよう犬馬の労をとったのである。それは長崎でも同じであった。
 大本営は広島市内に、警戒を発した8月3日から連日、学校関係者が口をそろえて危険な作業に極力反対したにもかかわらず、広島市内に



義勇隊約3万人、女子学生・中学生の学徒隊1万5000人を動員させた。こうして、「小銃を渡すこともない編制中の玉砕予定部隊の老兵」「竹槍の女子挺身隊員」「女子学生や中学1、2年生」ら、中学生以上の市民を爆心地周辺に集めて被害を拡大させることまでやってのけた。



古川愛哲著『原爆投下は予告されていたーー 国民を見殺しにした帝国陸海軍の犯罪』(2011年、講談社)は、「本土防衛を任務」とすることを掲げて広島に置かれた第2総軍司令部が、原爆が投下されることを知りながら市民に緊急警報や退避命令を出さなかったこと、それどころか箝口令を敷いて、



原爆で広島市街が焼かれるのを待ったことを怒りを込めて暴露している。
 この著者も、アメリカが短波、中波のラジオ放送を使って原爆投下の日時、目標地を日本の支配層に向けて知らせていたこと、日本の支配層もそれを傍受して対応していたこと、アメリカ政府や軍の通信の傍受、空からまかれた



宣伝ビラ(伝単)、さらに捕虜の供述などから大本営はもとより一般市民の間でも原爆が投下されることはささやかれる状況にあったことを浮き彫りにしている。
 第2総軍司令部は広島、長崎に向かうB29原爆投下機の動向については当日も、レーダーや無線ではっきりととらえ追跡していた。だが広島では



高射砲でエノラゲイに照準を合わせていながら、「撃て」の命令は出されなかった。長崎でも、大村航空隊で迎撃の態勢をとっていたにもかかわらず、出撃命令が出されなかった。
 著者は、このような異常な状況が生まれた根拠、その背景について、海軍の極秘裏の敗戦工作、とくにアメリカとの「国体」の



護持をめぐる取引がからんでいたことを強調している。
 広島、長崎への原爆投下はイギリスと情報を共有して進められた。チャーチルはすでに45年7月24日、原爆実験の成功を聞いた直後に「8月5日に爆弾が投下され、15日に日本は降伏するだろう」と語っていた。著者はそこから、「広島と長崎の



原爆投下の日付をOWI(米戦時情報局)のボイス・オブ・アメリカがアメリカ標準時の日付で放送する。ただし、日本海軍は原爆投下の妨害をしない」という取引がなされたと、推測している。
 とくに、ライシャワー(戦後の駐日大使)の具申によって、VOA(ボイス・オブ・アメリカ)や中国からの



短波放送、日本の支配層や日本語に通じたザカリアス大佐による中波のサイパン放送などを通して、グルー国務長官(元駐日大使)やザカリアスと公私とも親密な関係にあった米内光政・海相らに働きかけ、日本側のアメリカ向け短波の逆発信によるやりとりがあったことについてくわしく論じている。



また、原爆投下がなされたのちも、被爆市民に原子爆弾とは知らせずに、「新型爆弾」「調査中」という情報隠ぺいによって、放射能被曝に意図的にさらし、ますます市民を被爆させたことを糾弾している。
 著者は長崎についてもアメリカのドキュメンタリー映画が、原爆投下直後の1945年8月9日、



連合軍捕虜を救出するために米軍が空母機動部隊による救出作戦で長崎に上陸したことを描いている事実を明らかにしている。そのとき、小舟で長崎に上陸したが、その水先案内を日本側が務めたという証言がやられていた。日米共同の救出作戦が秘密裡におこなわれていたというものである。



当時長崎市内では「米軍が上陸してくる」という噂が流れ、多くの市民が山の方に避難したという幾多の証言にふれて、また捕虜収容所の被爆や避難状況、捕虜収容数の記録のあいまいさ、被爆市民が見た捕虜の様子などから、その「噂」は根拠がないものではなかったと見ている。
 著者は、諸外国と



比べて「日本国内では政治家や官僚、高級軍人の多くが生き残った」という第2次世界大戦の異様さへの疑問からこのテーマに挑んだこと、そこで判明した厳然たる事実は「近代的な軍の本土防衛とは、本土の国民を守ること」だとされる常識は成り立たず、「国体護持」つまり天皇の支配の延命のために、



国民の生命を差し出し見殺しにしたことを告発している。
 アメリカの広島、長崎への原爆投下でとった日本の支配層の対応は、東京をはじめとする都市空襲、沖縄戦、さらには外地で320万人もの国民を無惨に殺りくした戦争全般に通じるものである。被爆70年の現実は、それが、アメリカが日本を単独



占領し戦犯をそのまま支配層につけて属国支配する必要から、国民がみずから主人公となる社会を築く力をはく奪するためのものであったことを教えている。」



kyoto-academeia.sakura.ne.jp/mogi/id71/
↑引用
「〔2〕京都学派と「近代の超克」

  京都学派は戦後、一種のタブーとして半ば黙殺されてきたが、その大きな原因は戦前及び戦中の彼らの発言が「知識人による戦争協力」だと批判されたことにある。…

彼らが座談会で示した立場は「戦争の理念化」であった。つまり、戦争そのものを否定する



立場ではなく、今次の戦争が日本の、そして世界史の現状においていかなる意義を持ち、どのような形で行われなければならないかをその哲学的視座から説くというものだったのである。

 彼らは当時の国際情勢を、西洋中心の世界が綻び、真の意味で世界は一体となる時代、つまり「世界史的時代」と診断



した。そして、世界が真に一体となる時代は同時に、それぞれの国家や民族がその個性を存分に発揮して世界文化に影響を与えていく時代でもあると考えていた。その中心選手こそ、西洋と東洋の狭間にあってそのどちらをも吸収し、そのどちらをも生かすことで成長してきた我が国日本である、日本は単に



西洋の植民地帝国主義を破るだけではなく、世界に範を示す存在として主体的に行動していかねばならない。戦争は、こうした日本の立場を表明する道義的な行動でなければならない。これが、彼らが座談会で示した共通見解であり、世間一般には彼ら四人の見解が西田を中心とした京都学派の統一見解であると



見なされた訳である。…

戦後、日本では先ほどから何度も取り上げられてきた「あの戦争」のことを一般的には「太平洋戦争」と呼び習わしている。しかし、実際の戦争中、「あの戦争」はこの国の人々にとっては「大東亜戦争」という戦争であった。何故なら「太平洋戦争」、‘the Pacific War’とは、



戦勝国、そしてその代表であったアメリカ側からの呼称であるからだ。

 「あの戦争」を「太平洋戦争」として見るということは、つまり勝者の側から戦争を捉える視点に与するということに他ならない。そのこと自体の成否はともかく、戦後日本は「あの戦争」について、「太平洋戦争」と「大東亜戦争」の



二つの立場のジレンマの中で、思想的総括を先送りにしてきた。京都学派の歴史哲学が十分な考察もないまま黙殺されてきたことは、単に京都学派だけの問題ではなく、「あの戦争」についてどう考えるかから逃げることでもあった。」



https://x.com/madaraiguana/status/1715699054674608273?s=46&t=IOKc8-l7CStp_VQwsVhu3g


↑引用

「マイスター・エックハルト


ドイツの哲学者、神学者…


教義


神との合一を、そして神性の無を説く。


汝の自己から離れ、神の自己に溶け込め。さすれば、汝の自己と神の自己が完全に一つの自己となる。神と共にある汝は、神がまだ存在しない存在となり、名前無き無なることを理解するで




https://x.com/lavendereverett/status/1710969492241875169?s=46&t=IOKc8-l7CStp_VQwsVhu3g


さて、一般に神秘主義の特徴は、神との合一の絶対視と直接的な実践を通じたその達成だと言う。そして、エックハルトの思想の重要な特色は、主意的・主情的傾向のある神秘主義に対し、ドミニコ会のスコラ学者としてトマス・アクィナスの主知主義を継承し、主知主義的な宗教的知性で貫徹した点だと言う。




>さて、一般に神秘主義の特徴は、神との合一の絶対視と直接的な実践を通じたその達成だと言う。そして、エックハルトの思想の重要な特色は、主意的・主情的傾向のある神秘主義に対し、ドミニコ会のスコラ学者としてトマス・アクィナスの主知主義を継承し、主知主義的な宗教的知性で貫徹した点だと



言う。…

19世紀の再発見後、彼はナチスの民族主義的な共同幻想に利用される。ローゼンベルクはエックハルトの思想にユダヤ・ローマ的世界観に代わるゲルマン的敬虔と心霊認識を見てドイツ神秘家と呼び、ゲルマン精神の神格化たるオーディンを自らの魂に発見してゲルマン的人間を出現させた人物として



称揚した。

当然上記はナチスの妄想だが、厄介な事に戦前の日本にナチスのプロパガンダとして輸入され、戦後も殆ど無批判にローゼンベルクのドイツ神秘主義史観が受容された。ローゼンベルクの神秘主義理解は、神と人の合一を個々の人格的主体性が消失した民族主義的・全体主義的な共同幻想の体現と



読み替える。

魂の在り様は人種的「血」に結び付くと考え、エックハルトの教えは血が異なる雑種人には意味を持たないとした。また、旧約聖書の永久廃棄、罪責感や神の恵みに対する祈求の否定、パウロの福音主義の排斥を唱え、プロテスタント・カトリックに優越する新しいゲルマン的キリスト教の



民族教会を構想した。

神と人の合一を神とは区別される神性と人の同一性と解釈し、ゲルマン民族はもはや神を必要とせずに自らの内に自身を神として見出す。心霊的自由は神にさえ支配されないゲルマン民族にのみ固有の血に歴史的・人種的に限定される。これが現実世界上に展開するナチス運動の



自己正当性の根拠だったと言う。

19世紀のエックハルトは宗教改革の嚆矢と過大評価されたが、上述の心霊的自由はむしろカタリ派や14世紀に力を付けた異端的宗教運動の自由心霊派に酷似する。イエスやマリアを超えて直接神と合一して自由なる霊を獲得した者は完全で神を必要とせず、道徳や教会の全ての



掟から自由だと訴える一団だった。

実際の宗教改革の要因は様々で、その後エックハルトの関与は限定的と改められるが、当時はナチスの荒唐無稽な思想的捏造以外にも様々な誤解や偏見が罷り通った。そしてナチスのドイツ神秘主義は1938年の日独文化協定で日本に輸入され、京都学派の影響もあって現在も



大学内外で受け継がれていると言う。

戦後のエックハルト研究は、彼をスコラ学者と神秘主義者のどちらで捉えるかで世界的に立場が分かれて対立もしている様だが、ナチス当時は反カトリック・反スコラ的思想家の代表とされた。また、新プラトン主義的な「一」の立場から異教的・異端的な神秘的合一を



説く汎神論的な神秘主義者でもあった。…

神秘的合一による民族共同体と個人の同化を謳うナチスに対し、現実のエックハルトは神と人の合一においてこそ人間の真の人格的主体性が成立すると説く。神を信じる人はロゴスの受肉で神の子と一致する。つまり子と精霊は人間の魂を三位一体の「一」なる父に



帰還させ、魂において父は子を再誕生させる。

ロゴス=神の言葉は人間であるイエス・キリストに受肉する事で救済論的原事実となった。この時、個々の人間が神の養子とされ、キリスト同様に人性が神性と結び付くが、現実には未だ個々の人間に顕れていない。人間の子が神の子になるのは、彼の中心思想と



される「魂における神の子の誕生」の時だ。

ナチスや京都学派は彼の「一」を新プラトン主義的に三位一体を超越する絶対的な神的本質と解釈したが、実際は一性/一なるものを三位一体の父に帰するアウグスティヌス以来の伝統的解釈の継承だと言う。即ち「一」への帰還は父と子の関係で、此処に人間が



入る事がロゴスの受肉による救済の意義となる。

彼はアウグスティヌス以来の伝統と、ボエティウス『三位一体論』の「実体は一性を保持し、しかし関係は三性を展開する」に依拠する父=存在するもの、子=真なるもの、精霊=善なるもの、の帰属の伝統は矛盾しないと調停した。魂は父に帰還して三つの



位格の固有性を超えた神の姿を掴む。これが突破だ。

人間は神の一なる全的な実体の像に従って造られ、存在のうちへ産み出された。神の一性への帰還と言う動性が「神の像」である人間の本質的契機として組み込まれ、この帰還のみが人間を満足させる。子以外の誰も父を知る者はいない。神の養子である



人間は神の子としてキリストと真実同じ父に至り得るか。

何処迄も像化され対象化される神が、生ける父なる神自身に向かって撥無され、同時に魂の像化作用と我性も撥無される。その絶えざる突破に於ける真の父なる神の求道は、徹底的に子と成り切る変容=父なる神を父とする子の誕生に行き着く。



そうして、神の養子である人間は魂において子として再誕生する。

ドミニコ会はカタリ派の改宗で成果を上げた霊的戦闘集団だ。つまりエックハルトはナチスドイツの様な異端的民衆の改宗を得意とする人物で、故に大胆な表現を用いた。実際、ローゼンベルクはその巧みな説教に熱狂的共感を示した。彼や



ヒトラーはエックハルトと同時代なら忽ち心酔して教化されただろう。

だが、ナチスドイツの時代はエックハルトの時代と余りに前提が違った。既にキリスト教は世俗化し、啓蒙主義・実証主義的研究で聖書神話は否定され、無神論と神の死が叫ばれ、時代の反動でオカルト・神秘主義が蔓延り、第一次



世界大戦で神聖ローマ皇帝は廃位、敗戦国ドイツは瀕死の憂き目に遭っていた。

ナチスドイツの思想は無神論では無い。ヒトラーはカトリック教徒の家に生まれ、恐らく本当に神への信仰心はあった。だが彼はキリストを反ユダヤの戦闘者と捉え、ユダヤ人に歪められた消極的キリスト教を積極的キリスト教



=プロテスタントを国家的に統一した新しい民族教会に置き換える運動を展開した。

これは1920年代に興ったドイツ民族教会のドグマを政治利用した運動で、その後ナチスは掌を返して既存教会側に立ち、2年半後に運動の風向きが悪くなると切り捨てた。当時の既存教会は反ユダヤ主義・反共産主義の利害が



一致したバチカンを筆頭にカトリック・プロテスタントを問わずナチスに協力した。

ヒトラー自身は旧新約聖書は何方もユダヤ人に関与したものでナチズムと相容れないと考えていたらしい。ナチスドイツのマキャヴェリズムはファシズムの宿敵の共産主義とさえ手を結んだ。独ソ不可侵条約は世界中を



驚愕させ、満州でソ連と敵対する日本では「欧州情勢は複雑怪奇」と平沼内閣が総辞職した。

ユダヤ人指導者達によるドイツ革命以来、反革命の旧支配層は民族主義の極右を後援した。反ユダヤ・反共産主義の恐怖で民衆を煽り、やがてナチス結成に繋がる。教会を含む既存保守勢力はナチスを利用し自らも



利用された。ヒトラー自身も党幹部に利用された結果、妄想の中の住人になったとの証言もある。

ナチスやナチズムは蔑称で、正式には国民社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei )と国民社会主義(Nationalsozialismus)だ。前身は社会主義と反ユダヤ主義の



ナショナリズムを標榜するドイツ労働者党で、マルクス主義的国際主義に対抗する意味での社会主義だった。

右派のナチスは政敵であるドイツ革命の立役者の中道左派・ドイツ社会民主党と極左・共産党に対抗し、左派政党の手法や反資本主義的言説を模倣して労働者のルサンチマンに訴え、広く国民の支持を



集めた。実際は労働者を懐柔して階級闘争から引き離し、格差の無い民族共同体に統合する狙いだったと言う。

当時は左右問わず社会改革に科学的根拠を与える言説が持て囃された。ナチスは最先端科学を導入して新兵器を開発する世界最高の化学工業国だが、一方で似非科学を科学的根拠とする



アーリア神話を掲げて優生思想に基くユダヤ人虐殺を実行し、近代科学と宗教とオカルティズムが混然一体の全体主義だった。

なぜナチスが12年間もドイツ民族を支配したかは諸説あり、永遠に一つの明確な答えは出ないかも知れないが、素人目にはナチスの思想が自白するドイツ精神に固有の問題では無く、



近代社会の構造上の問題で普遍的に再現性があると思える。ナチスは普遍的現象の表層をドイツ民族の意匠で装飾したのだろう。

アーリア神話も反ユダヤ主義も優生思想も西欧に蔓延する病だった。様々な病が第一次世界大戦の敗戦後のドイツで最悪の形で結合して未曾有の悪を生み出した。ナチスの思想は



恐らく独自の要素は殆ど無いのだが、既存の思想や手法を日和見・総花的に拝借して国民の願望に同期し、神輿に乗る事に成功した。

その点、確かにナチスがヘーゲルを拝借して喧伝したドイツの世界精神は実在を感じられたかも知れない。ヒトラー自身が時代の精神に感化されて政治に身を投じた平凡な



労働者階級の一人で、恐らく時代に反する所が無かった。時代に遅過ぎも早過ぎもせず、彼こそ神輿に乗せられた道化だったかも知れない。

ナチスやヒトラーの思想は時に難解と形容されるが、実情は素人ヒトラーの混乱した生半可な独学知識で語られる破綻した思想を、後代の有識者が学的に読解する際の



困難と苦労の皮肉ではないかと思う。私のこのメモの様なものだろう。しかし一流の人材が協力した甲斐あって、熱狂の演出は日本にも伝わる。…

ナチス側は文化協定を利用して日本の政策決定に影響力を行使し得ると考えていた様だ。対日宣伝は1927年設立の東京日独文化協会を通じて1938年前半から



大々的に行われ、空前のドイツ・ブームが起きた。これが文化協定締結を後押しした。ドイツ大使館が頻繁に金銭でマスコミ工作した証言もあると言う。

画像はWikipediaの『我が闘争』頁だが、本来は矛盾するアーリア至上主義のナチスドイツと日本の文化提携の正当化は、日独文化協会時代からの



プロパガンダ活動の中心人物、ナチ日本学者W・ドーナートの日本精神論に代表される。彼は強固な民族的基調から成る文化を保持する国と言う見方を打ち出した。

ドイツではナチズムがその意味での文化的発展を担い、日本では皇道、神道、武士道の形でこれが体現されている。日本はナチスドイツの





同盟者にしてアジアの指導民族たる資格を持つ。これら世界の文化的指導民族の下には、ユダヤ人の影響で民族性が弱体化した文化として米国、西欧、中国等の文化がある。

そして最下層に人類文化を破壊する文化として、共産主義=国際ユダヤ人が置かれる。共産主義の文化破壊工作に対する枢軸国の



同盟者にしてアジアの指導民族たる資格を持つ。これら世界の文化的指導民族の下には、ユダヤ人の影響で民族性が弱体化した文化として米国、西欧、中国等の文化がある。

そして最下層に人類文化を破壊する文化として、共産主義=国際ユダヤ人が置かれる。共産主義の文化破壊工作に対する枢軸国の



具体的な提携手段の一つが文化協定だとドーナートは謳った。彼とヒトラーの文化論は似ているが、日独文化が人種主義的な文化ヒエラルキーの序列関係に無い点は決定的に異なる。

ドーナートの文化論は、日本の文化的使命は中国を始めとするアジアの民族的文化の再興とする。中国人は数千年来の国民的



信仰を放棄し、ギリシャに匹敵する偉大な中国文化は今や荒廃した。一方、日本は歴代天皇の御所や神社は数千年来不変で、宮城遥拝、神社参拝で国民は常に新しい実践の力を獲得する。

日本人こそ統一的な東アジア文化圏建設の担い手となり、更にはその過程で真の中国文化を引き出すのだと彼は説く。



その為には東亜大陸に行政管理上の政治形式を確立し、経済を立て直し、民衆の生活を軌道に乗せる事が求められた。彼の日本文化の独自性への見方は時勢に乗った方便では無かったと言う。

東アジアの超国家的共同体の指導では絶対的な内部統合が前提条件となる。彼は1943年には日本古来の概念である



八紘一宇が指導思想の精神的原則となり、民族的境界を超えられると考えた。日独に課せられた地域秩序の形成は最も過酷な戦争を通じて実現され、一度実現すればその帝国は最高度の完成になる。

ドーナートは『長靴をはいた猫』で有名な初期ロマン派作家ティークの研究で博士号を取得したが、来日後に



日本学研究に着手し、同業者に高く評価された。彼のナチズムは、常に人種主義よりもドイツロマン主義的な要素が強く滲み出た。ロマン主義的諸観念が日独文化の仲介を果たした可能性の指摘がある。

前述の通りドイツロマン主義はドイツ神秘主義の系譜だ。この系譜を巡る日独の関係は、エックハルトと




ローゼンベルクと京都学派を挙げたが、他にはドーナートの様な事例があったのだ。この様にナチス時代は明治以来の日独文化交流や学術的成果の蓄積が双方のイデオロギーに自発的・積極的に利用された。

ドイツのナチズムに相当する日本のスローガンが国体や八紘一宇だが、一時期ナチスに協力した



ハイデガーに相当するのが、これらを思想面で支えて戦争協力した京都学派だ。ハイデガーは2014年「黒ノート」刊行で反ユダヤ主義関連の記述が問題視され、欧米でタブー化している。日本での京都学派も同様だ。…

ハイデガーはナチズムに反ニヒリズムの側面を見て期待し、その人種主義的民族観の修正を



試みたが、後にナチズムは逆にニヒリズムを促進すると批判に転じた。彼の反ユダヤ主義はヒトラー/ナチスのそれとは別種だが、欧米は彼=ナチ前提の議論に終始すると言う。

つまり、欧米では「黒ノート」の反ユダヤ主義のある記述はナチスを揶揄する意図で書かれたと文脈を読み解く行為自体が



反ユダヤ主義/ナチス擁護と認識される恐れがあり、忌避される状況だと言う。逆に日本では彼とナチスの関係が隠され、その言及がタブー視されて来た節がある。



https://x.com/madaraiguana/status/1694915619639251100?s=46&t=IOKc8-l7CStp_VQwsVhu3g


しっかりと古代に倣っているのである。「復古」を旗印にする限り、新しい神社の創建など問題にならないはずだった。しかし実際には、「復古」の名の下に、神道は新しく作りかえられていくのである。


「王政復古の大号令」において「神武創業の始めに基づき」と謳われた背景には、岩倉具視のブレーンと




>「王政復古の大号令」において「神武創業の始めに基づき」と謳われた背景には、岩倉具視のブレーンとなった平田系国学者の玉松操の存在があった。岩倉が新国家の構想を考えていた頃、彼は失脚し京を追われて京都郊外の村で逃亡生活を送っていた。岩倉が新国家樹立のコンセプトとして「復古」を



思い描いたとき、新制度を具体化していく上で古代社会の知識を持ったものが必要になり、そこにちょうど現れたのが玉松だった。


玉松ら国学者は、岩倉に「建武の新政では十分ではない、神武創業にまで復るのだ」と教唆したと言われる。楠木正成が実現した「建武の新政」は、実際には短い間で瓦解した




という事情もあったためであろう、明治維新の理想は神話的古代に置かれ、歴史的事実が全く明らかでない神武創業の始めにまで復ることが必要とされた。

しかし、この荒唐無稽な「復古」は、逆説的に明治政府を開明的にする余地を残していた。いや、おそらく岩倉は気づいていたのだろう。歴史的に明確な



「建武の新政」を理想にしては、彼が構想していた新国家の青写真を現実化できないことに。

私は「神武創業の始めに基づき」という旗印は、岩倉によって周到に用意されたものであったと思う。歴史的には霧の中にある「神武創業」を理想にしたことで、「復古」の名の下に維新政府は事実上フリーハンドで



制度を設計することができた。「復古」は、歴史的なある時点に戻るという文字通りの意味ではなく、今をただ勇ましい神話的古代になぞらえることでしかなかった。

だから、「復古神道」が意味するところは、実際には古代の神道に戻るというものではなかった。「神武創業」まで復ることが



定められたとき、神道は国家にとって必要な宗教として作りかえられていく宿命だったのかもしれない。



恋愛と自殺と「政治的」浪漫主義

https://x.com/madaraiguana/status/1751206624021401993?s=46&t=IOKc8-l7CStp_VQwsVhu3g


した方が、当時の実情を正確に捉えているといえるくらいです。…


第四回 京都学派とは何だったのか ――現代文明論としての西田哲学 |模擬授業|京都アカデメイア


ヘルムート・プレスナー「ドイツロマン主義とナチズム、遅れてきた国民(Die verspätete Nation. Über die politische Verführbarkeit