2022年6月号瓦版 母の日号

 1972年5月15日。アチキは自衛隊入隊式の席上で自己紹介の弁

「昨日までは沖縄県民でしたが、本日祖国復帰の記念日をもちまして

心身ともに日本人の仲間になり、米国支配の27年間から解放された思いです。」

と呟きあれから50年。半世紀の月、日、時が経つたと思い

50年間の我が人生を省みれば悔いのみぞ残る、

されど繰り返しは出来ず、与生を悔いなく活きるだけ

    川は流れる橋の下、時は流れる俺を置き去りに   

叫びたくなります。〔時間よ止まれ〕

少しだけ否、😢悲しいニュースです。昨年の美ゅらさん冬のパーティーで、

アチキは{母}のカラオケを歌わせて頂きました。

覚えていらっしゃいますか、我が母「なへ」に生きて生きて下さい、

永久に(とこしえに)と熱唱しましたが、残念ながら5月10日の母の日に、

枕元の花束を「おかあさん、きれいねって」娘の声に少しだけ頷いた写メが、

母から子供たちへ言葉は聞けないまま旅立ちの微笑みで、

11日午前6時過ぎに102年の間生き切り

50数年前に先に逝った愛しき夫の元へあの川を渡りました。

アチキは、朝一番の便で文字通り飛んで行き、横たわりし『母』の姿は、

まるで今にも起きだしそうで、安らかな寝顔を撫でながら

冷たくなった肌触りに

【生気を失った】言葉がよぎり、綺麗に薄化粧された唇から今にも笑

みがこぼれそうで、

満102年間の喜怒哀楽を逞しく乗り越えて生き抜いた、

き切った母の生き方に合掌しながらも、

59歳の若さで、胃癌で亡くなった

父}の生き方とはがあまりにも違い過ぎるのには腹が立つ思いです。

 父の分まで苦労もしたが、子や孫達からも愛された幸せ感を胸に

人に永久の命はなけれども、アチキが知らない祖父の話を

法事の席で耳にしたとき人の生き様は永遠に語り綴られると思いました…

葬祭場からその足で納骨、お墓を開いたら、畳一畳の広さに

祖父、祖母、父、兄、叔父の骨壺が、父の横にそっと置かれた

母が安心した様なお顔😊お幸せに! 

   ありがとう おかあさん