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第1章:最大の失敗から始まる
夜の十時を回っていた。
リビングには、テレビのバラエティ番組の笑い声だけが流れている。
けれど、その笑い声は、部屋の空気にはまったく馴染んでいなかった。
響けば響くほど、むしろ部屋の虚しさが濃くなっていく。
誠、四十七歳。
由紀、四十五歳。
二人が暮らすリビングの壁際には、それぞれのワークデスクが背中合わせに並んでいる。
普段なら、誠が会社の資料を開き、由紀がデザインの修正をしている。
けれど、その日の空気は、明らかに違っていた。
薄いガラスを指先でギリギリと押しているような、今にもパリンと割れてしまいそうな緊迫感。
きっかけは、ローテーブルの上に置かれた一枚の書類だった。
誠の父の容体が変わり、特別養護老人ホームへの緊急入所を迫られていた。
入所のための一時金。
これから続く介護費用。まとまった大金が、急に必要になった。
それだけでも、二人の家計には十分すぎるほど重かった。
だが、悪い知らせは重なる。
同じ日の午後、フリーランスの由紀が請け負っていたメインの契約が、突然打ち切られた。
収入の柱が、一本消えた。
父の介護。
家計の不安。
迫る無職の恐怖。
逃げ道のない現実が、狭いリビングの中にぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。
沈黙に耐えきれなくなった由紀が、ようやく声を絞り出す。
「ねえ、誠。これからのこと、本当にどうするの?」
責めるつもりなんて、さらさらなかった。ただ、不安だった。
この先の生活がどうなるのか、自分たちは大丈夫なのか、一番の味方である夫と話し合いたかっただけだった。
けれど。
その言葉は誠の耳に届いた瞬間、まったく別の「凶器」に変換されてしまった。
(お前が頼りないから、こんなに家計が苦しいんだ。)
(もっとしっかり管理職として責任を果たせよ。)
由紀は、そんなこと一言も言っていない。
それなのに、誠の脳は、自動的に最悪の翻訳を始めていた。
一度浮かんだ被害妄想は、すぐに次の言葉を連れてくる。
(俺だって必死にやっている。)
(部下が突然辞めた穴埋めもして、週末は父の病院に通って……これ以上、どうしろって言うんだ。)
(由紀は、俺の苦労を何もわかっていない。)
(俺を責めているんだ)
脳が、同じ場所を何度もぐるぐると周り続けている。
仕事の重圧、父親の介護、お金の不安。
そこに、由紀のたった一言が重なった。
(全部、お前の責任だ。)
強烈な「一人反省会」という名の自己防衛が、誠の中で暴走を始めていた。
本で学んだはずのメンタルコントロールも、この瞬間にはすべて吹き飛んでいた。
ディスプレイの文字は、さっきから一文字も増えていない。
沈黙だけが、長く、冷たく伸びていく。
由紀は、誠の背中を見つめていた。その背中が、いつもより遠く見える。
「何か言ってよ。無視しないで、ちゃんと話し合おうよ」
由紀の声には、焦りが滲んでいた。
でも、その焦りさえも、誠の脳内フィルターは本来の意味を書き換える。
(逃げるな。ちゃんと答えろ。)
その瞬間だった。
誠の中で、何かがブツリと切れた。
ガタッ!!!
椅子が床をこする激しい音がした。誠は勢いよく立ち上がり、振り返った。
由紀は息をのんだ。
そこにいたのは、彼女の知っている優しい夫ではなかった。
怒りで強張り、追い詰められ、まるで自分自身を守るために必死で牙をむいている、見たこともない男の顔だった。
「じゃあ、全部俺が悪いって言いたいのか! もう限界だ!」
怒号が、狭い部屋に響き渡った。
由紀の肩が、びくりと揺れる。
誠は、由紀の表情を見ようともしなかった。
デスクの上のスマートフォンと財布をひったくるように掴むと、そのまま玄関へ向かった。
「誠、待って――」
バタン。
激しい音を立てて、ドアが閉まった。
リビングに残されたのは、テレビの笑い声と、由紀だけ。
さっきまであんなにうるさかったバラエティ番組の音が、今は妙に遠く聞こえる。
由紀は、力が抜けたように床に座り込んだ。
心臓が、嫌な音を立てて脈打っている。
(私が悪かったの? )
(ただ不安だから聞いただけなのに。)
(どうしてあんなに怒るの? )
(もう、私のこと嫌いになったの?)
( 私たちの関係は、もう終わりなの?)
今度は、由紀の頭の中で、誠の怒った顔と鋭い言葉がリフレインし始めた。
考えたくないのに、止めようとすればするほど、頭の中の濁流は速くなる。
誠の怒号、閉まるドアの音、あの拒絶の表情。
何度も、何度も、脳内で再生される。
冷え切ったリビングで、由紀は一人、終わりのない「ぐるぐる思考」の海に沈んでいった。
悪気など、どちらにもなかった。
お互いを傷つけたいわけでもなかった。
ただ、不安だった。
ただ、限界だった。
ただ、助けてほしかっただけなのに。
それなのに、どうして私たちは、たった一言でここまで壊れてしまったのだろう。
……いや、まだ間に合う。
時間を、少しだけ戻そう。
ほんの三ヶ月前。
私たちがまだ、自分たちの「脳の罠」に気づいておらず、お互いを破滅させる一歩手前だった、あの頃へ。
第2章:失敗に至る前の日常と小さな違和感
時間を三ヶ月前へと巻き戻す。
四十七歳になった誠の毎日は、目に見えない砂を少しずつ靴の中に流し込まれているような、地味な疲弊感に満ちていた。
製造業で管理職を務める誠は、数ヶ月前から深刻な問題に頭を悩ませていた。
期待していた若手部下の突然の離職。
それが引き金となり、残されたメンバーの不満が爆発し、さらに別の部下も会社を去っていった。
穴埋めのために現場の仕事に追われながらも、上層部からは「管理能力の欠如」を遠回しに責められる日々。
(どうしてあいつの不満に気づけなかったんだろう。)
(あの時の俺の対応がまずかったのか。)
(明日、残った部下にどう声をかければいいんだ……)
夜、ベッドに入って目を閉じても、誠の頭の中では終わったはずの光景や、部下からの退職届の文面が何度も何度も再生された。
一度回り始めた脳内の一人反省会は、朝方まで止まらない。
深く考えて解決策を探しているのではない。
ただ、同じ後悔と不安の言葉が、全く同じ順番で頭の中をぐるぐると回り続けているだけだった。
そして部屋の反対側、誠の背中からわずか二メートルほど離れたデスクでは、妻の由紀もまた、別の渦に呑み込まれていた。
四十五歳、フリーランスのデザイナー。
長年付き合いのあったクライアントから、新規案件のコンペで落選したという通知を受け取って以来、彼女の指先は冷え切っていた。
(私のデザイン、もう時代遅れなのかな。)
(あの時、もっと違う色を提案していれば。)
(もし次の契約も切られたら、私たちの生活はどうなるんだろう……)
キーボードを叩く由紀の頭の中でも、同じ不安が延々とループしていた。
考えたところで、落ちたコンペの結果が変わるわけではない。
それでも、頭の中の再生ボタンを止めることができないのだ。
逃げ場のない部屋。
二人の間に、会話らしい会話はほとんどなくなっていた。
「ご飯、どうする?」
「適当に買ってきたものでいいよ」
「そう。じゃあ、そうする」
交わされるのは事務的な最低限の言葉だけ。
テレビの音だけが、二人の間の沈黙をカモフラージュするように流れていた。
誠の本音は、「これ以上、外でのストレスを家に持ち込んで由紀に迷惑をかけたくない」という思いやりだった。
しかし、疲弊しきった誠の表情と、冷たい沈黙は、由紀の頭の中でまったく違う意味に翻訳されてしまう。
(誠、今日も怒ってるのかな。)
(私がフリーランスで仕事が不安定だから、愛想を尽かしたんだろうか。)
(あの溜息は、私への不満に違いない)
由紀の頭の中で、誠の何気ない態度に頭の中の言葉が無限に膨らんでいく。
沈黙が怖くてたまらない由紀は、さらにパソコンのタイピング音を激しく鳴らし、誠はそれを「由紀がイライラしている」と受け取って、さらに殻に閉じこもる。
お互いに、相手を傷つける気なんて微塵もなかった。
ただ、それぞれが自分の頭の中で起きている繰り返す思考にすべてのエネルギーを奪われ、目の前の相手を正しく見る余裕を失っていただけだった。
脳内の一人反省会に体力をすり減らされ、家にいるのに、お互いがひどく孤独だった。
そんな中、誠のスマートフォンに、一本の電話が入る。
実家の父親が、自宅で倒れて病院に運ばれたという報せだった。
この日常の小さなすれ違いの積み重ねが、あの夜の最大の失敗へと向かうカウントダウンであることに、当時の二人はまだ、気づく由紀もなかった。
第3章:一冊の本との出会い
父親の正一が脳梗塞で倒れてからというもの、誠の日常の歯車はさらに狂い始めていた。
幸い一命は取り留めたものの、左半身に麻痺が残り、今後の生活には介護が必要になるという。
ある土曜日の午後、誠は総合病院の待合室にいた。
父の長引く検査の終わりを待つよう医師から告げられ、すでに二時間が経過している。
無機質な白い壁、消毒液の匂い、時折名前を呼ぶ看護師のアナウンス。
静まり返った待合室の長椅子に腰掛けながら、誠は重い泥を背負っているような疲労感を感じていた。
やることがなく、誠はポケットからスマートフォンを取り出した。画面のロックを解除し、無意識のうちにニュースサイトやSNSのアプリを開く。
画面をスクロールすると、同世代のビジネスパーソンたちの「昇進した」「新しいプロジェクトを立ち上げた」といった華やかな報告や、家族と笑顔で旅行を楽しむ写真が次々と目に入ってくる。
(みんなはあんなに順調そうなのに、俺は一体何をやっているんだろう……)
脳内で、お決まりの一人反省会が始まった。
(部下は次々と辞めていく。)
(父親の介護問題もこれからどうなるかわからない。)
(俺の管理能力がないからだ。)
(俺の人生、どこで間違ってしまったんだろう)
スマートフォンの画面を見つめながら、誠の頭の中は猛烈なスピードでぐるぐると回り出す。
同じ後悔、同じ自己批判の言葉が、まったく同じ順番で何度も何度も脳内を再生されていく。
考えたところで、今ここで何かが解決するわけではない。
わかっているのに、画面をスクロールする指も、脳内のループも止まらなかった。胸の奥が苦しくなり、呼吸が浅くなるのを感じる。
そのとき、アプリの広告か、あるいは電子書籍ストアの「おすすめ」の欄だっただろうか。
画面の隅に表示された、ある本の表紙が誠の目に留まった。
『同じことを考え続ける、ぐるぐる思考の止め方』
その直球すぎるタイトルに、誠の指がぴたりと止まった。吸い込まれるように、本の紹介文をタップして読み進める。
「人は刺激を受けると、自分にリプライ(返信)を始めます」
「多くの人は、この状態を『考えすぎている』と表現します。けれど実際には、深く考えているわけではありません。同じ言葉を、同じ順番で、何度も再生しているだけなのです」
待合室の硬い椅子の上で、誠は思わず息を呑んだ。
(これ、今の俺のことじゃないか……)
ベッドに入ってから朝方まで、あるいはこうしてスマートフォンの画面を眺めているとき、ずっと脳内で繰り返されていたあの苦しい時間の正体が、はっきりと文面で言語化されていた。
自分は何かを深く熟考していたわけではない。
ただ、過去の後悔や未来の不安という刺激に対して、自分を責める意味のない「クソリプ」を延々と送り続けていただけだったのだ。
紹介文の最後には、こう書かれていた。
「ぐるぐる思考は、意志が弱いから起きるわけでも、性格に問題があるから起きるわけでもありません」
その一言に、誠の張り詰めていた心が、かすかに緩むのを感じた。
部下が辞めたのも、父親が倒れたのも、自分がダメな人間だからではない。
ただ状況に反応して、脳内ループが始まってしまっているだけ。自分を責める必要はなかったのだ。
誠は衝動的に「購入」のボタンをタップした。
ダウンロードは一瞬で終わった。
スマートフォンを持ち替え、電子書籍のページをめくり始める。
無機質な待合室の喧騒が、少しずつ遠ざかっていくのを感じながら、誠はむさぼるように画面の文字を追いかけた。
このスマホの画面越しに出会った一冊が、冷え切りつつあった夫婦の間に、静かな変化をもたらす最初のきっかけになるとは、誠はまだ思いもしていなかった。
第4章:小さなチャレンジの始まり
スマートフォンにダウンロードした電子書籍を、誠は通勤電車や会社の昼休み、そして夜、由紀が眠った後の静かな部屋で、何度も読み返した。
本の中に書かれていた、ある具体的なアプローチが誠の心を強く捉えていた。
「頭で考え続けているとき、私たちはさらにリプライを重ねてしまう。一方で、身体の感覚に意識を向けると、思考の流れが一度、止まりやすくなります。リプライに身体感覚の名前をつけ、自分の体にキズを想像して、その傷を触らないことを意識する」
誠にとって、それはまったく新しい、けれど妙にしっくりくる教えだった。
これまでの自分は、脳内で一人反省会が始まるたびに「前向きに考えなきゃ」と、さらに新しい言葉を上書きして傷を広げていたのだ。
週が明けた月曜日の午後、誠にさっそく「その時」が訪れた。
デスクでパソコンに向かっていると、他部署の気の荒い先輩から、こちらのミスを厳しく追及するメールが届いた。
いつもなら、メールを読んだ瞬間に誠の頭の中は怒りと自己嫌悪でいっぱいになり、(なんであんな言い方をされなきゃいけないんだ。俺の確認が甘かったのか。でも、あっちの指示だって曖昧だったじゃないか)という終わりのない脳内リプライが始まるところだった。
胸の奥がぎゅっと締め付けられそうになったとき、誠は本の一節を思い出した。
「まずは、その事実に気づくこと」
誠はキーボードの上で指を止め、大きく一つ息を吐いた。
(待てよ。今、俺の頭の中でぐるぐる思考が始まろうとしている。これは、本に書いてあった『チクチク』の感覚だ)
誠は椅子に深く腰掛け、自分の右の手のひらを見つめた。そして、その手のひらの真ん中に、小さな、赤くなっているだけの擦り傷のようなキズを想像してみた。
(今、この手のひらがチクチクしている。このキズは、さっきのメールの刺激で作られたものだ)
そうイメージすると、不思議なことに、頭の中を埋め尽くそうとしていた「言い訳」や「後悔」の言葉が、一瞬だけ動きを止めた。
誠は、手のひらの架空のキズに向けて、もう片方の手をそっと近づけるイメージを膨らませ、そして直前で止めた。
(あ、今、この傷を自分で触って、もっと広げようとしていた。触らない。これ以上、考えない。触らないでおこう)
心の中で「触らない」と静かに念じる。すると、いつもなら数時間は脳内を支配し、その日の夜まで引きずっていたはずの不快なぐるぐる思考が、嘘のようにすっと凪いでいく感覚があった。
深く悩んで解決策を探すのをやめ、ただ「傷に触らない」と決めるだけで、脳の回転がゆっくりと収まり始めた。
頭の中に無駄な消耗が起きなかったため、その日の誠はいつもよりエネルギーを残して帰路につくことができた。
夜。デスクで、由紀がいつも通り、心なしか強張った背中を見せてキーボードを叩いている。部屋を支配する重い静けさは変わらない。
けれど、誠の脳内には、いつもと違ってほんの少しだけの「空白」が戻っていた。
「由紀」
誠は椅子を回転させ、由紀の背中に向かってそっと声をかけた。
由紀が驚いたように肩をビクリと揺らし、振り返る。
その目は、何か警戒するような色を帯びていた。
「あ……あのさ。明日の夜、もし仕事が落ち着いてたら、久しぶりに近くの定食屋にでも行かないか? 最近、お互い買ってきたものばかりだったし」
本当に小さな、いつもの事務的ではない一言。
由紀は一瞬、きょとんとした表情を浮かべた。
誠の顔に、いつもあるはずの刺々しい疲れや不機嫌がなかったからだ。由紀の瞳の緊張が、ほんの少しだけ和らぐ。
「……うん。そうだね。明日、早く切り上げられるように頑張る」
由紀の返事を聞きながら、誠は心の中で(よかった。いつもなら沈黙を恐れて声をかけられなかったけれど、頭のぐるぐる思考を止めるだけで、こんなに普通に話せるんだ)と小さな成功を噛み締めていた。
部屋を流れる冷たい風が、ほんの数度だけ、温かくなったような気がした。
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