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第1章:よどんだ空気と、一冊の本
ゴールデンウィーク初日。 駅に降り立った紗季は、初夏の風に少しだけ背筋を伸ばした。
20歳。大学2年生。一人暮らしを始めて1年が経ち、実家は「生活の場」から「たまに帰る場所」へと変わった。
バスに揺られ、見慣れた住宅街を歩く。 玄関のドアを開けた瞬間、懐かしいカレーの匂いが鼻をくすぐった。
けれど、その奥に潜む、重く湿った空気を紗季は見逃さなかった。
「ただいま」
「おかえり、紗季。早かったわね」
母・美奈子がキッチンから顔を出す。 笑顔だが、目の奥に疲れが見える。
ふと足元を見ると、廊下には中身の透けない不透明な収納ケースが、壁沿いにずらりと並んでいた。
「……これ、何?」
「ああ、それね。安かったから買っちゃったんだけど、何を入れようか迷ってるうちに場所だけ取っちゃって。今日こそは片付けようと思ってたんだけど……」
美奈子は力なく笑った。
リビングへ向かうと、父・誠一がソファでテレビを見ていた。 足元には、数年前からそこにある「誠一・私物」と書かれた段ボールが相変わらず鎮座している。
キッチンカウンターには、公共料金の受領書やダイレクトメール、そしていつからあるのか分からないスーパーのレシートが山を成していた。
「悠斗は?」
「部屋だよ。受験生だからって、一歩も出てこない」
誠一が、少し寂しそうに答える。
紗季は自分の荷物を置くために、かつての自分の部屋に入った。 そこには、高校時代のジャージや、もう読み返すことのない参考書が、埃をかぶったまま「保管」されていた。
(帰ってきたのに、全然くつろげない……)
家全体が、過去の遺物で窒息しそうになっている。 そんな感覚が、紗季の胸を締め付けた。
その日の午後。 美奈子が宣言した。
「せっかくの連休なんだから、今日こそ一気に片付けましょう。誠一さん、その段ボール。悠斗も部屋から出てきなさい!」
その言葉が、火種になった。
「これは仕事の資料なんだ。いつか使うかもしれないだろ。まだ使えるものを捨てるのは、俺の今までの頑張りを捨てるようなもんだ」
誠一は不機嫌そうに新聞を広げる。
「あとでやるって。今、集中してたのに……」
悠斗は部屋のドアを乱暴に閉めた。
「あとでっていつよ! 結局、私ばっかり空回りして……」
美奈子の声が震えている。 紗季はリビングの重苦しい空気に耐えられず、逃げるように散歩へ出た。
連休が終わった数日後。 誠一は、昼休みの市役所のデスクで、スマホを操作していた。
ふと目に留まった電子書籍のタイトル。
『思い出したら、1回だけ。習慣化できない人のための始める・続ける技術』
いつもなら「自分には関係ない」と読み飛ばす類の本だ。 しかし、あの連休中の美奈子の泣き出しそうな顔が、頭から離れなかった。
(俺だって、このままじゃいけないとは思ってるんだ。でも、どこから手を付ければいいのか……)
彼は吸い寄せられるように、その本を読み始めた。 そこには、誠一の常識を覆す言葉が並んでいた。
「必要なのは、たった一つ。 思い出したら、1回だけやること。」
「……1回だけで、いいのか?」
誠一は、目の前のペン立てを見た。 そこには、5年以上前から刺さっている、企業のロゴ入りのボールペンがあった。
手に取ってメモ帳に線を引いてみる。 インクはかすれ、一度もまともに書けなかった。
(いつか、替え芯を買えば使えると思ってた。でも……)
誠一は、そのペンをゴミ箱へ落とした。 カラン、という小さな音が、静かなオフィスに響く。
「……よし」
それは、47年間「捨てられなかった」男が、初めて手に入れた「小さすぎる成功」だった。
第2章:「1つだけ」が伝染
「ねえ、誠一さん。ここのチェストの引き出し、少し隙間ができてない?」
数日後の夜、お風呂上がりにリビングに入ると、美奈子が不思議そうに声を上げた。
彼女が指差しているのは、リビングの隅にある木製のチェスト。その最上段は、誠一が「いつか使うかもしれない」と、古い家電の説明書や役所の資料を詰め込み、いつもパンパンで閉まりきらなかった場所だった。
誠一は頭を拭いていたタオルを肩にかけ、少し照れくさそうに頭を掻いた。
「ああ。……まあ、1個だけ、な」
「1個だけ?」
美奈子が目を丸くする。 誠一はリビングのテーブルに置いてあったスマホを手に取り、画面を見せた。
「通勤中にこの本を読んだんだ。習慣化の本なんだけどさ。そこに『必要なのは、たった一つ。思い出したら、1回だけやること』って書いてあって。」
「一気にやろうとすると嫌になるけど、思い出したら1回だけ、1つだけやればいいなら俺にもできるかと思って」
美奈子は誠一からスマホを受け取り、画面に表示された文字をなぞるように読んだ。
「小さすぎる成功を、自分で認める」 「超スモールスタートという考え方」 「諦めていい。やめていい。」
美奈子の胸に、ストンと何かが落ちる音がした。
(一気にやらなくて、いいんだ……)
いつも休日に「今日こそ全部片付ける!」と息巻いては、途中で疲れて投げ出し、散らかったリビングを見て自己嫌悪に陥っていた美奈子にとって、その言葉は救いのように感じられた。
誠一は少し誇らしげに語を続ける。
「一昨日は、インクの出ないボールペンを1本。昨日は、5年前の電子レンジの保証書。今日は、もう使っていない古い工具の錆びたネジを1つだけ。思い出して、引き出しを開けた瞬間に、1つだけゴミ箱に入れたんだ」
「夫が自分から物を捨てるなんて」と、美奈子は心の底から驚いていた。 あれほど「まだ使える」「思い出がある」と言って物を抱え込んでいた誠一が、自分の意志で、穏やかな顔をして手放している。
「……じゃあ、私も1つだけ、やってみようかな」
美奈子はキッチンカウンターに目を向けた。 そこには、買い物に行くたびに「あとで家計簿につけよう」と放り込んでいたレシートの山がある。いつもなら、これを見るだけで頭が痛くなり、見ないふりをしてやり過ごしていた。
美奈子は山の一番上にあった、一ヶ月前のパン屋のレシートを1枚だけ手に取った。 合計金額は380円。
(これ、もういらないよね)
レシートを小さく丸めて、ゴミ箱へぽいと放り投げる。 すっと、胸のつかえが軽くなった気がした。
「あ、面白いかも」 そう思った美奈子は、ついでにもう1枚、期限の切れたドラッグストアのクーポンをゴミ箱へ捨てた。
「2つも捨てちゃった」と笑う美奈子を見て、誠一も嬉しそうに微笑んだ。
そんな二人の様子を、リビングの入り口から悠斗が怪訝そうな顔で見つめていた。 手には炭酸水のペットボトルを持っている。
「二人で何ニヤニヤしてんの。怪しいんだけど」
「悠斗、これ見て。お父さんが見つけた本なんだけどね、片付けは『1回だけ』でいいんだって」
美奈子がスマホの画面を見せると、悠斗は「ふーん」と興味なさそうに鼻を鳴らした。
「俺には関係ないし。受験勉強忙しいから」 そう言って、悠斗は自分の部屋へと戻っていった。
しかし、自室のドアを閉めた悠斗の目に飛び込んできたのは、机の上や床に地層のように積み重なったプリントや参考書の山だった。
「片付けなさい!」と言われるたびに「あとでやる」と反発していたが、本当は悠斗自身も、どこから手をつければいいのか分からず、途方に暮れていたのだ。
(思い出したら、1回だけ、か……)
悠斗はベッドに腰掛けたまま、足元に落ちていたプリントを1枚だけ拾い上げた。 一学期の、すでに終わった中間テストの数学の解答用紙。赤ペンで書かれた点数は、お世辞にも良いとは言えなかった。
(これ、持っててもテンション下がるだけだしな)
悠斗はそれをぐしゃぐしゃに丸め、部屋の隅にあるゴミ箱へ投げ入れた。 放物線を描いた紙屑が、カサリと音を立ててゴミ箱に収まる。
(……なんか、ちょっとスッキリしたかも)
悠斗の口元に、小さな笑みがこぼれた。
この日、山本家に「大掃除の突風」は吹かなかった。 ただ、そよ風のような「1つだけ」の実践が、静かに、けれど確実に、家族の間に伝染し始めていた。
第3章:小さな成功
その後の数か月、山本家は劇的に変わったわけではなかった。相変わらず週末に一気の大掃除をすることはなかったし、「片付けルール」のような厳しい決まりができたわけでもない。
ただ、家族のなかに、小さくて温かい変化が根づいていた。 「あ、思い出した」 その瞬間に、それぞれが目の前にある不要なものを、たった1つだけ手放す。
美奈子は、乾いて書けなくなったマニキュアを1本。 誠一は、いつか必要だと思っていた過去の仕事の資料を1枚。 悠斗は、使い古して短くなった鉛筆を1本。
毎日ではない。気が向いたとき、思い出したときに、1回だけ。 その小さな、あまりにも小さな「成功」が、知らず知らずのうちに家の中の淀みを消し去っていった。
そして、夏休み。 ジリジリと照りつける太陽のもと、紗季は再び実家の門をくぐった。 お盆の帰省。玄関の引き戸を開けた瞬間、紗季はスニーカーを脱ぎながら、ふと動きを止めた。
(……あれ? 空気が軽い)
いつもなら、玄関に足を踏み入れた瞬間に感じていた、あの特有の「重苦しさ」がない。
靴箱の上にあった、用途不明の鍵や空になった芳香剤、謎の小物が消え、代わりにガラスの小瓶に入った一輪のひまわりが飾られていた。
廊下を進み、リビングのドアを開ける。
「おかえり、紗季。暑かったでしょう」
麦茶の入ったピッチャーを手にした美奈子が、笑顔で迎えてくれた。その表情は、ゴールデンウィークのときのような、何かに追われているような焦燥感が消え、とても穏やかだった。
紗季はリビングを見渡して、さらに驚いた。
「お母さん、ここ……」
いつもなら新聞、ダイレクトメール、買い物の袋で埋め尽くされていたリビングテーブルの上に、今は何もない。木目の美しい天板が、外からの光を反射してキラキラと輝いている。
「ふふ、気づいた? テーブルの上に何もない場所を作ってみたの。全部を綺麗にするのは大変だけど、ここだけは何も置かないって決めて、思い出すたびに片付けてたら、自然とキープできるようになっちゃって」
そう言って笑う美奈子の声は、以前よりもワントーン高く、優しく響いた。
これまでなら、帰省するたびに「片付けなさい」「後でやる」という言い争う声がどこからか聞こえてきたものだが、今の家には、穏やかで静かな時間が流れている。
「ただいま、紗季」
二階から降りてきた誠一の表情も、どこかスッキリとしていた。
「パパ、なんか元気そうだね」
「そうか? 実はな、この本の実践を続けていたら、なんだか頭の中まで整理されてきた気がするんだ。」
「物を1つ捨てるたびに、自分の『今』に必要なものがクリアになっていくというか……。ほら、見てみろよ」
誠一が指差したのは、リビングの隅。 あの、何年も動くことのなかった「誠一・私物」と書かれた大きな段ボールが、一回り小さな箱に変わっていた。
「これ、全部捨てたわけじゃないんだ。本当に大切な、お前たちが小さかった頃の写真と、仕事で初めて大きなプロジェクトをやり遂げたときの記念品だけを残した。そしたら、箱がこんなに小さくなったんだよ。」
「不思議だな、前は全部が同じくらい大切に思えて、どうしても捨てられなかったのに」
誠一は、自分の「過去の頑張り」を否定することなく、今の自分に本当に必要な思い出だけを、愛おしそうに抱きしめていた。
紗季は、自分の部屋へと向かった。 引き出しを開けると、高校時代の思い出が詰まったクローゼットが目に入る。
以前の紗季なら、「いつか整理しなきゃ」と重いプレッシャーを感じて、すぐに扉を閉めていただろう。でも、今の家族の姿を見て、紗季の心にも小さな勇気が芽生えていた。
(一気にやらなくていい。思い出したら、1回だけ……だよね)
紗季はクローゼットの奥から、高校の文化祭のときにクラスでお揃いで作った、ヨレヨレのTシャツを引っ張り出した。
当時は宝物のように思えたけれど、今の自分にはもう必要ない。
「楽しかったよ、ありがとう」 心の中でそう呟きながら、紗季はそれをゴミ袋へと入れた。
その瞬間、胸の奥がじんわりと軽くなるのを感じた。 「できた……」 小さな成功は、実家を離れて暮らす紗季の心の中にも、確かに、静かに芽吹いていた。
第4章:大失敗
物事がうまくいっているときほど、人は「もっとできるはずだ」と過信してしまう。
季節は移り、9月のシルバーウィーク。 秋の気配が漂い始めた山本家で、その事件は起きた。
数ヶ月間、「思い出したら、1回だけ」を実践し、少しずつ家の中が整っていくのを実感していた美奈子は、ある種の万能感に包まれていた。
リビングのテーブルがすっきりし、廊下の収納ケースが減り、家族の会話も増えた。
(みんな、やればできるじゃない。この調子なら、連休を使って一気にやっちゃえば、もっと早く、理想のすっきりした暮らしが手に入るはず!)
美奈子の胸に、眠っていた「完璧主義」と「欲」がむくむくと鎌首をもたげた。 超スモールスタートの心地よさを忘れ、かつての「一気に片付けようとして自滅する」悪癖が顔を出したのだ。
連休初日の朝。 誠一と悠斗がまだ朝寝坊している静かな時間、美奈子は腕まくりをしてリビングの大きな押し入れの前に立った。
「よし、今日で終わらせるわよ」
美奈子は押し入れの引き戸を勢いよく開け放ち、中のものを手当たり次第に引き出し始めた。
古い扇風機、客用の分厚い布団、中身の分からない段ボール、子どもたちが幼い頃に使っていたおもちゃの箱、昔のビデオテープ。
「……よいしょ、これ重いわね。でも、今日中に全部仕分ければ!」
リビングの床は、あっという間に押し入れから吐き出された物たちで埋め尽くされていった。 足の踏み場もなくなり、リビングはまるで泥棒に入られたかのような、凄惨な「ゴミの山」と化した。
そこへ、目をこすりながら誠一が起きてきた。 リビングのドアを開けた瞬間、彼は絶句した。
「おいおい……美奈子、これは何事だ? 歩くスペースもないじゃないか」
「あ、起きた? ちょうどいいわ、誠一さん。このシルバーウィークで、この押し入れを一気に空にするわよ。ほら、そこにある段ボール、誠一さんの昔の趣味の道具でしょ? 今すぐ仕分けて」
美奈子の声は、以前の穏やかなトーンではなく、どこかトゲトゲしく、義務感を強いるものに戻っていた。
「いきなり言われても困るよ。今日は久しぶりの休みだから、ゆっくり読書でもしようと思ってたんだ。それに、この箱は……」
「『いつか使う』はナシよ! もう何年も使ってないじゃない。悠斗も起きてきなさい!」
美奈子は2階に向かって叫んだ。 ドタバタと階段を降りてきた悠斗は、リビングの惨状を見て露骨に嫌な顔をした。
「何これ、うざ。俺、今日これから塾の模試なんだけど。こんなところで飯食えないじゃん」
「塾に行く前に、自分の部屋の古い教科書を全部下に持ってきなさいって言ってるの! 今やらないと、一生片付かないわよ!」
「はあ? なんで今そんなこと言われなきゃなんないわけ? 後でやるって言ってるじゃん!」
「あんたの『後で』は一生来ないでしょ!」
美奈子のヒステリックな声が響く。 誠一も、自分の思い出の品が入った箱を美奈子が勝手に開けようとしているのを見て、ついに怒りを爆発させた。
「いい加減にしろ! 美奈子、君は最近、少し片付いたからって調子に乗りすぎだ。これは俺の持ち物だぞ。君に勝手に捨てる権利はない!」
「私は、この家を良くしたいから言ってるのよ! なんで二人とも、そうやって非協力的なの!? 私ばっかり空回りして、私ばっかり大変な思いをして……!」
美奈子の目に、涙がたまっていった。 家族のために、よかれと思って始めたことだった。すっきりした家で、みんなで気持ちよく過ごしたかっただけなのに。どうして、こんなに責められなければならないのか。
「……もういい。勝手にして」
悠斗はトーストも食べずに、自分の部屋へと駆け上がり、ドアを乱暴に閉めた。バタン、という激しい音が家中に響き渡る。誠一も、ため息をついてリビングから出て行ってしまった。
一人、ゴミの山に取り残された美奈子は、ぽつんと床にへたり込んだ。 見上げれば、中途半端に引っ張り出された物たちが、醜く散乱している。
(どうして、こうなっちゃうんだろう……)
せっかく紡いできた「小さな成功」の糸が、美奈子の欲によって、一瞬にしてぷつりと切れてしまった。
重苦しく、険悪な空気が、かつてないほどの質量で山本家を支配していた。
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