私はひどく子どもじみた趣味嗜好をもっている。アニメ、ゲーム、漫画、フィギュア、カード集め…。数少ない休日、心身共にリフレッシュを求める際には、必然的にこれらが取り扱われている店を利用することが多くなる。


「さて、今日は例のものの発売日だ」嗜好品を求めて休日は街を彷徨う。


 しかし、ここで問題が発生する。前述したように、私の趣味嗜好、求めるものはひどく子どもじみている。つまり、私の行く先々には顔見知りの子どもが大量に生息しているのだ。


 私が日々目指している保育士像とは、「優しくかっこいい、憧れの先生」である。マザーテレサのように慈愛に満ち、福山雅治のような魅力を兼ね備えた…そんな全ての人類が憧れるような姿を、おこがましくも胸に抱いているのである。


 ここで休日の姿を子どもに見られたらどうなるかは想像に難くない。「先生〇〇好きなんだね」「僕と同じだね」子どもと同じ…身近に感じることはできても福山雅治のような渋さや魅力は一瞬にして儚く砕け散るであろう。


 つまり、私の休日の趣味を楽しむ時間は、リフレッシュと決して見られてはいけない緊張状態という相反するものが同居しているのである。


 そこで保育の指導計画を立てるように脳内に綿密な購入計画、ルートを描き、最速最短の速さでターゲットを仕留めに行く。なんと、日々の業務の成果はプライベートでも発揮されるのだ。一切合切無駄のない、その時の私の速さはウサインボルトを凌駕するであろう。そしてその隠密さはスネークを彷彿とさせることだろう。


 誰に見つかることもなくレジへ向かい、闇取引を済ませる。完璧だ。あとは帰路につくのみ。ここで出入り口へ向かうと、和気藹々とした家族連れが目に入る。まずい。大変まずい。あれは私の担当するクラスの子どもだ。


 全身が冷や汗を放出する。直ちに離脱せよ、命の惜しくば引き返せと本能が警告する。


 しかしそうはイカのなんとやら。引き返して時間をかければ、その分他の子どもが来店する可能性があがるのだ。ここは引き下がれない。しかし見つかればそこで福山雅治への道は閉ざされる。


 この問題を解決すべく、私の脳内電子演算機器が高速計算を始める。横を向く…不自然故に注目が集まる。変顔をする…フィクションの世界であればやり過ごせることであろう。ダメだ、時間がない。もし私が時をかける福山雅治であったならばやり直して違う道を選ぶというものを。


 ここで一つの答えを導き出す。子どもの視界は狭い。そして興味のあるものへ集中する。つまり、すれ違ったとしても興味の対象と反対側を素早く進めば、子どもは私を認識できないのではないか。これは危険な賭けである。しかしもう時間はない。


 腹を括り、子どもが興味を引かれるであろうガチャガチャの前を通る瞬間を狙って加速する。勝負は一瞬だ。もうここで終わってもいい。だからありったけの速度と自然さを両立させ、私を楽園(入り口)へと導いてくれ福山雅治。


 高まる鼓動とは裏腹に冷静な表情で子どもの横を歩き抜ける。「あ、先生だ」そんな幻聴が聞こえてくるようだ。大丈夫だ、己を信じろ。そう言い聞かせ入り口へと向かう。


 そして私は賭けに勝った。誰に気づかれることもなく私は危険地帯を脱したのだ。仕事以上の達成感を得て、我が家で戦利品を楽しむ。これで来週の勤務も乗り切れそうだ。


 そして翌週、保育士としての日々が再び始まる。またマザーテレサのように慈愛に満ちた態度で、福山雅治のような渋さと魅力をもって子どもたちに接さねば。


「おはよう。お休みは楽しかったかな?」


「先生おはよう。お休みは〇〇に行ったよ。」




「駐車場に先生の車もあったよね。」