そして 1983年9月から

本格的に私は

ビデオセンターに週1で通い

統一原理の勉強を始めました。

大塚会長のビデオや

倉原講師のビデオを見ました。

じっくり勉強しながら

冬休みの 7 Days に、

参加するために準備をしました。

そこで私は6000双の

合同結婚式のビデオを見ました。

私は結婚に対して、

本当に私は、

結婚できるだろうか?

とあまり確信を

持てていなかったので、

この神様を介在して、

祝福結婚ができるということに

とても希望を感じました。



なぜなら私は本当に、

近づいてくる男性全てが、

最終的には。。。

相手の目的や動機が、

見えてしまうので、 

近づいてくるその動機に、

拒絶反応があり、

いつもきつい事を言ったり、

そういう男性とは、

一歩距離を置いてきました。

そういう中で、

でも私はこのままだと、

本当に結婚できないなと、

真剣に悩んでいたことも

ありました。

本当にいいなと思う人も

いましたけれども、

 それでもいつも最終的には、

やっぱりこの人

ダメだなと思ってしまい、

いつも最高の出会いを求めて、

でも最後は出会いにも、

距離を置いてしまう私でした。


私は私自身の心の中が、

いつもなぜそう思うのか 、

疑問に思っていました。

そういう中で、

統一原理から学んだ内容は、

神様を中心に結婚して、

祝福されるので、

二人は永遠の絆で結ばれる

というものでした。

そこで思ったのは、

本当に神様を動機として、

出会わないと永遠の関係は、

結ばれないんだな。

ということを強く感じ、

そういう勉強をこの数ヶ月、

聖書や歴史を勉強しながら、

学び続けてきました。

6000双の合同結婚式の

ビデオを見た時に、

だからとても希望を感じました。

そしてビデオセンターで、

主が韓国に来られる。

という所まで聞きましたが、

その時は、

あまりピンときませんでした。



それでも いよいよ、

私も 7 Daysに参加する日が

近づきました。

出発のその日は、 

1983年12月23日でした。 

大学のビデオセンターの

先輩が運転する車で、

東京の秋川渓谷の清流閣という

修練所に向かいました。

そして12月24日〜12月30日

までの7日間の7 Daysに

参加しました。 

そして30日の夜、

自宅に帰ってきました。




私はこの7日間に、

40時間 断食 もしました。

夢の中で誰がが、

いま何が一番食べたい?

と聞いたので、

私はカレーライスと答えました。

あとで班長さんに、

こんな夢を見ましたと

報告しました。

班長さんは笑って、

でも食べなかったのでしょう?

食べなかったのなら、

大丈夫ですといいました。

良かったです。😊



また秋川渓谷の冷たい川の中に

みんなで足を浸して、

4分間祈祷 だったでしょうか。

とても冷たい、

12月の川の中に入って、

足が凍えそうな中、

みんなで祈祷しましょうと、

また班長さんが言いました。

それでみんなで川に入り、

足を浸してお祈りしました。

また水行も

初めて教えてもらいました。

お風呂に水が張ってあって、

水をコップで40杯、

かぶって下さいと言われ、

みんな初めての

水行というものを体験しました。

それが 7日間のセミナーで

みことば学習と共に、

私が体験した内容です。




私たちはこの7日間の間に、

再臨論を聞きました。

さらに、

立川の駅前で初めて、

街頭演説も体験しました。

やはり道ゆく人たち、

過ぎ去る人たちに、

神の悲しみを見る、

散々な結果ではありましたが。



私も希望に満ちて、

この喜びの日を叫んでは、

見たのですが、

なかなか伝えられない、

もどかしさがありました。



そして30日の夜、

私は自宅に帰ってきました。

。。。。。。。。。。。。。。

私の実家は神社ですから、

本当に年末は大忙しで、

それでも夏休みに7 Days に

行けなかった分、   

今度こそ参加しようと

祈ってきたので、

大学のお世話になっている

先輩のところに、

泊まりに行ってくると

言って出発しました。

両親もそれで無事に、

送り出してくれましたし、

そして31日は家にいましたが、

この7日間に本当に膨大な

とても濃い内容の、、、

天の悲しみと、

天の摂理を知りました。

また先輩も私が、

19歳の誕生日を迎えるので、

元旦で来るのは、

大変だと思うけれど、

1984年1月1日には、

ぜひビデオセンターに

来てほしいと言われました。




それで私は、

ビデオセンターに行きました。

入教願書も書きました。

いつもトークしてくれる先輩は、

その時、

とても霊的になっていて、 

私の尊敬する牧師さんが、

大変な状態で今 、

霊的にここに来てるような

気がしますと言うので、

 当時 私は何のことか

わからなかっのですが、

本当にその日。

1984年1月1日の

19歳の誕生日は私にとって、

忘れられない

始まりの一日になりました。

新しい生命が与えられた、

忘れられない一日でした。

 1984年はとても

雪がたくさん降る年でした。

清めの雪というのでしょうか。

本当にそんな感じで、

毎週土曜日ぐらいになると、

雪がたくさん降りました。




私は埼玉の実家から

大学に通っていましたが、

土曜日になると雪が降って、

日曜日まで雪が降るので、

土曜日に大学の授業が終わると

先輩のうちに泊まってもいい?

と両親にお願いする、

よい理由になりました。

それで日曜日は、

いつもビデオセンターに泊まり 

そこで聖日礼拝を受けました。
 




大学内は、

左翼のパネルが

たくさん掲げてありました。 

その中でもこの期間、

埼大CARP(原理研究会)でも、

 主の路程のパネルを、

たくさん 学内に掲げました。

でもすぐに左翼が砕いて 

バラバラにしてしまいました。 

私はそれを見てショックをうけ、

またビデオセンターに 

駆け込んで、

先輩に言いました。

パネルが粉々になってしまいました。

どうしたらよいですか?

とあせりながら言うと、

先輩は笑って、 

大丈夫 また作るから。

と言いました。

そして何回も何回も 

パネルは壊されましたが、

またベニヤの板を買ってきて、

主の路程のポスターとか、

貼り付けて、

先輩の兄弟たちが

ギターを弾いて歌を歌いました。

毎日主の路程を、

証かし続けていました 。

鼻の骨を折られた兄弟も

いました。


2024年9月2日 🌷✨

。。。。。。。。。。。。。。

イエス様は人間を愛する心に

徹していたと同時に、

生活的な面においても、

人のために生きる奉仕の生活を

しました。

 万人のためになることならば、

自分が裂かれて祭物に

なることがあっても、

 一身のすべてのものを忘れて、

犠牲と奉仕の道へと

進んでいかれたのです。


「天運を呼ぶ生活」

文鮮明先生のみ言葉より

。。。。。。。。。。。。。。

私はこの福音のために、

 鎖につながれながらも

 使節の務めを果たしています。

宣べ伝える際、

語るべきことを大胆に

語れるように、

祈ってください。

私の様子や 

私が何をしているかを、 

あなた方にも

分かってもらうために、

愛する兄弟、 

主にある 忠実な 奉仕者である 

ティキ コがすべてを

知らせます。


(聖書・エペソ人への手紙 より)






最後まで、

読んでくださった皆さま。

ありがとうございます。🌷✨


樋熊 恵