25年目のシューマッハーカレッジ | たのしあわせ ~これからの生き方

たのしあわせ ~これからの生き方

愉しく+幸せに+みんな=たのしあわせ。わくわくして+ごきげんでいる=わくごん。地球+自給+愉しむ=ぢきゅう人。

サティッシュ・クマールは特筆すべき学び舎の繁栄を描き伝えます。

翻訳:ディサロ水城

 1990年に私たちが、デボン州のダーティントンでシューマッハーカレッジの創設を夢見たとき、人々は「あなたがたのビジョンはあまりにも理想主義的過ぎる。誰が生態学や精神論やホリスティック哲学を学びに来て、お金を出しますか?、出しませんよ」と言いました。また多くの人はシューマッハーカレッジは まあもって2、3年ですぐ店じまいすることになると思いました。ところが25年たって大学が今もここにあるのみならず、開花し繁栄していることを見ると、嬉しいし勇気付けられます。

 シューマッハーカレッジの根底に流れる存在意義は今も昔も大変シンプルです。現代の産業社会は主流の教育システムによって促され保持されています。大学はこの社会でのバックボーンなのです。多くの若い人達は、経済的・物質的な方法で考えるよう条件づけられています。多くの者は、自然は私たちが使ったり搾り取るためにあると考えるように教えられます:人類は一番優れた種で自然を好きなようにしていいと。このように教えられた学生は大学を卒業後よく、自然を搾り取ったり自分の人生を裕福で快適で成功したものとする目的のために他の人々を搾取するのです。社会の不正と地球的不正のドッキングです。

 私たちはそれに挑戦して変える必要がありました。多くの方法でできたことでしょう。それについて語ることもできたし、本を書くこともできました。けれどもそれでは十分ではありません。他の方法も可能であることを示す何かを始めなければなりません。人々を搾取したり自然を開発するために若者の心を調節する必要はありません。私たち自身も「自然」であると教えなければならないのです。他の自然との調和の中で生きていかなければなりません。シューマッハーカレッジはまさにそれをするために設立されました。それは、生態学を教える知的な場所というだけでなく、学生が生態学的ライフスタイルをも体験できる場所なのです。

 「エコ」とは「家」を意味し、「星という名の家」やあなた「個人の家」という意味でもあります。だから、シューマッハーカレッジとは生態学を教えるためだけの場所ではなく、それ自体が家そのものなのです。それこそがシューマッハーカレッジの描く姿です。ここに来る人は自宅のように感じるはず。彼らみんなの家なのですから。ここで料理し庭いじりをし部屋を掃除する。この大学はただの機関ではありません。総合大学に行けば、壁に黒板があり、机にスクリーンがあり、教える教師がいます。それからアパートや寮に帰って過ごします。その学びと毎日の暮らしの間にはつながりがありません。私たちのビジョンでは、暮らしと学びは互いに不可欠な一部分同士であるべきものです。これが、ホリスティックな教育やエコ・ロジカル(生態学理論的)大学のビジョンなのです。

 またシューマッハーカレッジにおいて、私たちは共同体の、地球共同体や人類共同体の、一員です。もし自然や人々や取り巻くもの全てと調和して私たちが暮らせれば、共同体の意味を発展させられます。互いを尊敬し助け支え合うことを学ぶのです。つまり、家と共同体がこの大学にとっての実践モデルなのです。

 生態学に加えて、総合的科学や総合的経済学や総合的哲学を教え、それらの全ての分野がいかに相互に関わり、結びついているかを教えます。エコ・ロジーは人類学に、人類学は心理学に、心理学は園芸や農業につながります。ここシューマッハーカレッジではたとえ特定の分野を勉強していても、より大きな絵(視野)の中で勉強していることになるのです。したがって、総合学習や生活がシューマッハーカレッジの真髄であるわけです。ここでは、総合的生活を経たことによって学生が変身します。自己変身を遂げたものが世界へ羽ばたき、世界の変身方法を見つけるのです。彼らは世界をより良い場所にする手助けをし、そこでは人々や自然の搾取が最小限に抑えられるのです。

 ここでの学習を特徴付けるのは、教師と学生がパートナーシップを持った関係だということです。生徒はただ知識を得るだけではなく、探求と発展を教師と共にします。

 彼らは共に探求し学ぶパートナーなのです。それは旅の様なもの。生徒は自分自身を見つけるためにここにいます。教師は既にそこにあるものを見つける手助けのためにいます。それは内から外側への知識で、外から内側ではないのです。教師は生徒の内なるろうそくを刺激したり焚きつけたり火を灯したりするためにいます。ろうそくの火は、ろうそくの中にあるのです。それがシューマッハーカレッジの特徴です。

 自然もまた私たちの教師で、それはラブロックやステファン・ハーディング、ヴァンダナ・シヴァのような人間の教師と同じです。毎週、少なくとも一週間に一度は、生徒達は学ぶためや自然を体験するために、ダートムーアや海や森の木々の中へ行きます。

 シューマッハーカレッジは私の予想以上のことを達成しました。25年間で、何万人もの生徒が訪れました。卒業生リストには1万7千人の名前があります。彼らは学び,変身し、世界へ羽ばたき、変革の代理人となります。夢は実際に実現したのです。私は、生徒たちが開花し、繁栄し、楽しみ、祝福し、学ぶのを見ています。私は多くの大学を訪れています。そこで、良い職に就くためには試験にパスしなければならず、勉強はそのためにしなければならないと生徒が感じていると分かっています。やはり彼らはその生活があまり楽しくないのです。シューマッハーカレッジでは、生徒は毎日の学びやただそこにいることを楽しみますが、それは試験結果に支配されないからなのです。

 シューマッハーカレッジは小規模であるべきです。しかしシューマッハーカレッジ型の教育機関は他の国でも出現すべきです;オーストラリアやニュージーランド、インド、アメリカ、ヨーロッパ、アフリカ諸国など。

それらはシューマッハーカレッジと呼ばれなくてもいいのです。認定校でもありません。私たちは人々に主導権を持ってもらい、その国自身の言語や文化や精神に基づきながらも、シューマッハーカレッジの精神を組み込んでほしいのです。その精神がどんな方法で明らかにされようと、形は問題ではありません。どんな名前だろうと、総合的であり地域共同体に尽くし社会や地球に尽くす限り、それはシューマッハーカレッジなのです。私は、新しい教育センターが世界で開始され、互いを支えあう非公式なネットワークが作られるのが見たいのです。

 私がシューマッハーカレッジから自信をもって羽ばたく生徒達にしばしば言うのは、仕事は探さず、天職を生み出そう、ということです。仕事を持つということと、天職をするということには違いがあります。仕事をするとは好きか嫌いかはともかくも、お金を得るためにすることです。天職とは何か見つけたものが本当にやりたいたいことで、達成を願うことです。それのために支払われているものは副生成物です。もちろん私たちにはお金が必要ですが、お金のために働いているのではないのです。私はシューマッハーカレッジの生徒達に世界へ羽ばたいてもらい、より偉大な何かのための仕事を:想像力を持った仕事や、地球奉仕の仕事や、みんなの心の中にある価値観や理想のための仕事をして欲しいです。給与仕事や余暇仕事を一緒にするために。現時点では多くの人は週末に余暇仕事として、詩歌や芸術や園芸をして楽しみますが、平日の間は給与仕事をします。この仕事はお金を稼ぐためのものです。この2つの分離は緩和されて欲しいです。生徒たちは自分の余暇仕事をしなければならないし、そのプロフェッショナルになるべきです。その2つを合体させることで、あなたの仕事を天職に変身させられるのです。

大学は、トットネスで9月27日に創立25周年を迎えます。イベントと講座プログラムの詳細はこちら。www.schumachercollege.org.uk

サティシュ・クマールは、シューマッハーカレッジの創立ディレクター兼客員教官です。

Article - Schumacher College at Twenty-Five • Satish Kumar

Celebrating 25 years of the college as a remarkable place of learning