2024.7.21
日曜礼拝
讃美 Reckless Love あなたが全て Jesus You are my All in all
テーマ
「イエスの神性自分目線の考察~つまづき」
応えはいつも聖書にあります。今回、聖書個所が多いですが、
三位一体の神についてもやもやしたものがあるならば、こういう機会に、
今日のメッセージの聖書個所をよく読んでみてください。
長い信仰者でイエス様を信じている人が 「人が神様だということがピンとこない。
キリスト自身は自分を信じろとは言っていないし、周りが神にしたてあげて、新宗教をつくっ
ただけでイエス様自身、【自分を神として信じろ】とは言っていない。父なる神を信じろとし
か言っていない。」
という理由で信仰に留まる事を択ばず、信仰から離れたという人がいたようです。
この辺りは今更聞くに聞けない、疑問の放置が一つの大きな躓きのポイントでもあるか
もしれません。又、三位一体の神を理解できないと日本の信仰ではよく聞く事ですが。
(父なる神が神なのはわかるが、他が神というのがピンとこない。という人がいます。)
●素直に信じることができる人は信仰のギフトだと思いますし、問題ありません。
もし、歴史書として聖書を読むと、霊感によって書かれている聖書の疑問を解決しようと思
うなら、かなり聖書を読まないと、腑に落ちるところまではいかないように思います。
前回の生贄というところも関わってきますが、この辺りは現代だと分かりづらい問題です。
イエス様以降は生贄が必要ではないので、それがどれほど力があり、重要だったかがピン
ときません。
話を戻すと、
”イエス様が自身を信じろと言わなかった。”という言説ですが、本当でしょうか。
ヨハネ6:33-35
と言うのは、神のパンは天から下って来て、世に命を与えるものだからです。」
そこで彼らはイエスに言った、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにお与え下さい」。
イエスは言われた、「わたしが命のパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、
わたしを信じる者はどんなときにも決して乾くことがありません。
このあたりもよくわからないかもしれません。
ここを理解するにも、いくつかの聖書箇所をあたる必要があります。
ヨハネ1:1-34
始めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。
この方は、初めに神と共におられた。
すべてのものは、この方によって造られた。
造られたもので、この方によらずできたものは一つもなかった。
この方に命があった。この命は人の光であった。
光はやみの中に輝いている。やみはこれに勝たなかった。
神からつかわされてたヨハネと言う人が現れた。
この人はあかしのためにきた。光についてあかしをする為であり、すべての人が彼によって
信じるためである。
彼は光ではなかった。ただ、光についてあかしをするためにきたのである。
すべての人を照すそのまことの光が世に来ようとしていた。
この方は元から世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
この方は自分の国に来られたのに、ご自分の民は受けいれなかった。
しかし、この方を受けいれた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子とされる特
権をお与えになった。
この人々は、血によってではなく、、肉の欲や、人の意欲によってでもなく、、ただ神によって
生れたのである。
そして言葉は人となって、わたしたちの間に住まわれた。わたしたちはこの方の栄光を見た。父のみ元から来られたひとり子としての栄光である。この方はめぐみと栄光に満ちておられた。
ヨハネはこの方について証言をし、叫んで言った、「『わたしのあとから来るかたは、わたしに勝る方である。わたしより先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことです」。
わたしたちは皆、この方の満ち満ちた豊かさの中から、めぐみの上にさらにめぐみを受けたのである。
と言うのは、律法はモーセによって与えられ、めぐみとまことは、イエス・キリストによって実現したからである。
いまだかって神を見た者はいない。父の懐におられるひとり子の神が、神を解き明かされたのである。
ヨハネの証言はこうである。ユダヤ人たちが、祭司とレビ人をエルサレムからヨハネのもとにつかわして、「あなたはどなたですか」と尋ねさせた。
彼は告白して否まず、「わたしはキリストではありません」と言明した。
又彼らは聞いた。「では、いったい何ですか。あなたはエリヤですか」。彼は言った。「そうではありません。」「あなたは、あの預言者ですか」。彼は答えた。「違います。」
そこで、彼らは言った、「あなたはだれですか。わたしたちをつかわした人々に、返事したいのですが、あなた自身を何だと言われるのですか」。
彼は言った、「わたしは、預言者イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにせよと荒野で叫んでいる者の声』である」。
彼らはパリサイ人の中からつかわされたのであった。
彼らはまた、たずねて行った。「キリストでもなく、エリヤでもなく、またあの預言者でもないのなら、なぜあなたはバプテスマを授けているのですか」。
ヨハネは答えて言った、「わたしは水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らないかたが、立っておられます。
その方はわたしのあとから来られる方で、わたしはその方のくつのひもを解く値うちもありません。」
このことがあったのは、ヨルダンの向こう岸のベタニヤであってヨハネはそこでバプテスマを授けていた。
その翌日、ヨハネは自分の方にイエスがこられるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
私が、『わたしのあとに来る人がある。その方はわたしにも優るかたである。わたしよりも先におられたからだ』とわたしが言ったのは、この方のことである。
わたしもこのかたを知りませんでした。しかし、このかたがイスラエルに明らかにされるために、わたしはきて、水でバプテスマを授けているのです」。
またヨハネは証言をして言った、「御霊がはとのように天から下って、この方の上に留まられるのを私は見ました。
わたしもこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために、わたしをおつかわされた方が、わたしに言われました、『御霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのを見たなら、その方こそ、御霊によってバプテスマを授けるかたである』。
わたしはそれを見たのです。それでこのかたが神の子であると、証言をして言うのです。」。
●ここで神のことば=イエスという証言がバプテスマのヨハネによってされています。
ことば=神=イエス
これをまず覚えおかないと他の箇所もわからなくなります。
マタイ4:2-4
そして、四十日四十夜、断食をした後で、空腹を覚えられた。
すると試みる者が近づいてきて言った、「あなたが神の子なら、この石がパンになるように命
じなさい」。
イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つ
の言葉による。』と書いてある」。
人が「生きる」のはパンのみではなく、神の口から出るひとつひとつのことばによる。とあります。
戻ります。
ヨハネ6:31-35
わたしたちの父祖は荒野でマナを食べました。『彼は、彼らに天よりのパンを与えて食べさせた』と書いてあるとおりです」。
イエスは彼らに言われた、「まことにまことにあなた方に告げます。モーセはあなた方に天か
らのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、天からまことのパンをお与えに
成ります。
と言うのは、神のパンは、天から下ってきて、世に命を与えるものだからです」。
そこで彼らはイエスに言った、「主よ、いつもそのパンをわたしたちにお与え下さい」。
イエスは言われた、「わたしが命のパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わ
たしを信じる者はどんな時にも決してかわくことがありません。
ここでパンとはいのちを与えるものとしての比喩であり、必需品の例えだとわかります。
そしてイエスは自分が天からいのちを与えるものとして遣わされたと答えています。
そして自分を信じる者は乾くことが無い。とおっしゃっています。
ヨハネ6:47-58
まことにまことにあなたがたに告げます。。信じる者は永遠の命を持ちます。
わたしは命のパンです。
あなたがたの父祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。
しかし、これは天から下ってきたパンで、それを食べると、死ぬことがないのです。
わたしは天から下ってきた生けるパンです。だれでも、このパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世の命のためのわたしの肉です」。
そすると、ユダヤ人たちは、「この人はどのようして、その肉をわたしたちに与えて食べさせることができるのか」。と言って互に論じあった、
イエスは彼らに言われた、「まことにまことに、あなた方に告げます。人の子の肉を食べ、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はありません。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を持っています。わたしは終りの日にその人をよみがえらせます。
わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしの内に留まり、わたし彼の内に留まります。
生ける父がわたしをつかわし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるのです。
これは、天から下ってきたパンです、あなた方の父祖たちが食べて死んだようなものではあ
りません。このパンを食べる者は、永遠に生きます」。
●聖書を読む時は一語一語の意味をかみしめるようにゆっくり読んでください。
人は慣れるものです。
意味が分からないうちに読んで、もう一度読む時でも「ああ、知ってるところだ」と流し読み
をすると見逃したりすぐ忘れたりします。
熱心な最初のうちはそれでもひっかかったりしますが、信仰も長く慣れてくると「知ってる知
ってる」と重要なところを読み飛ばしたりします。
●慣れてくる数年以降はかえってゆっくり吟味しながら読んでください。
そうすることで新たな発見があったり、自分が読み飛ばしていたところに積もったベースの
知識を元に、聖霊様が教えてくださいます。
●そうなると「イエスは自身を神と言わなかった」「イエスは自身を信じろとは言わなかった」
といった類の事は言わなくなります。
続けます。
ヨハネ5:18
このためにユダヤ人たちはますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を
破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたから
である。
ここでユダヤ人たちは「イエスがご自身を神と等しくして神を自分の父と呼んでおられる」と
あります。
ヨハネ3:33-36
そのあかしを受けいれた者は、神は真実であると言うことに、確認の印を押したのである。
神がおつかわしになったかたは、神の言葉を話される。神は聖霊を無限に与えられるからである。
父は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった。
御子を信じる者は永遠の命をもつが。御子に聞き従わない者は、命を見るることがなく、神
の怒りがその上にとどまる」。
━なぜイエスを神とし、イエスを信じるのか。━
よく読めばわかります。
★・そのあかしを受け入れた者は、神が真実であるということに確認の印を押したのである。
★・父は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった。
「お渡しになった」つまりこの地の万物をどうするかの全権は御子にあるということです。
★・御子を信じるものは永遠のいのちを持つ。
重要です。御子とあります。
★・御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。
御子です。そして聞き従わない場合、罪が赦されず、いのちを失うことがわかります。
ヨハネ3:18
彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、神のひとり子の御名を信じなかったので、
すでにさばかれている。
アーメン。
信じないことで既にさばかれています。
ヨハネ7:37-39
さて、祭の終りの大いなるな日に、イエスは立って、大声で言われた、「だれでもかわいてい
るなら、わたしの元にきて飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになる」。
これは、イエスを信じる者が、後に成ってから受ける御霊の事を言われたのである。
イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。
●「わたしを信じる者は」とあります。
●さらに生ける水は聖霊様だとわかります。
●水の例えの時は注意して読んでください。
ヨハネ8:45-47
しかし、このわたしは真理を話しているために、あなたがたはわたしを信じません。
あなたがたのうち、だれがわたしに罪があると責める者がいますか。わたしが真理を話して
いるなら、なぜ、わたしを信じないのですか。
神からきた者は神の言葉に聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あな
た方が神から出た者ではないからです」。
●わたしは真理を話しているとご自身で証明しています。
●ここまでの御言葉が信用できない。
という時はどこがひっかかるのか原因を突き止めてください。
ヨハネ9:35-39
イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を
信じますか」。
その人は答えた、「主よ、その方はどなたでしょうか。私がそのかたを信じる事が出来ますよ
うに。」。
イエスは彼に言われた、「あなたは、その方を見たのです。あなたと話しているのが、それです」。
彼は言った。「主よ、私は信じます」そして彼は、イエスを拝した。
そこでイエスは言われた、「わたしは、さばきのため、この世にきました。それは、目の見えな
いものが見えるようになり、見えるものが盲目となる為です。」。
ここで元盲目の人がイエスを拝したが、〇イエス様はここで制していません。
〇み使いは自身を拝することを止めます。
ここで拝することを受け入れた意味を考えてください。
父だけを拝するように言ったでしょうか?
ヨハネ10:30
わたしと父とは一つです。
●わたしと父は一つです。
ここではっきりと自らのことを語っています。
イエスは自身を人と認識しており、神とは言っていない。と解釈しますか?
私はそういう風には言えません。
ヨハネ11:25-27
イエスは言われた、「わたしはよみがえりです、命です。わたしを信じる者は、死んでも生き
るのです。
また、生きていて、わたしを信じる者は、決して死ぬことはありません。この事を信じますか」。
彼女はイエスに言った、「はい。主よ、わたしはあなたが世に来られる、神の御子キリスト、
であると信じております」。
ヨハネ14:6
●イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、命なのです。私を通してでなけ
れば、だれ一人父の身元に来ることはありません。」
✖それでも気になる人はここを読むと良いと思います。
ヨハネ14:13
また、わたしはあなた方が私の名によって、求める事は何でもそれをしましょう。父が子に
よって栄光を受けるためです。
●イエスの名によって。
そしてそれによって父は栄光を受ける。とあります。
★これまでの聖句を読めばイエスが神である。父と一つだということがわかります。
★イエス様に今は全権があり、イエス様を信じたり、拝することが父の栄光になる。
★イエス様は神であると同時に大祭司でもあります。
私達が罪深く直接会えない時、間に入ってとりなしてくださるから私達はいのちを得て、
御国に行けるし、よみがえりもあります。
スピリチュアルやオカルト界隈で、惑わす言説が多くあり、それに感化されたクリスチャン
や牧師がアマテラスとイエス様が同じとか、弥勒菩薩とイエス様を同一視する言説があり
ます。
が、
●聖書の救済のシステムを知ればそれらが全く違うことがわかると思います。
なぜイエス様しか救済ができないのか。
ヨハネ14:6
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、命なのです。私を通してでなければ、だれ一人父の身元に来ることはありません。」
どの宗教も同じ神のことを言っていて、結局は同じことを言っている? いいえ、違います。
ユダヤ、キリスト教、イスラムは父なる神を拝してはいますが、イスラムなどはかなり異なっ
た教義がありますし、神道とキリスト教、仏教とキリスト教もまた違うことを言っています。
全て結論ありきで物事をとらえるべきではありません。自分の考察を信頼して、答え合わ
せ
をするのではなく、納得できない事は、真理にたどり着くまで、保留にすることも大事です。
◆◆
そういうなんでも同じだと言う人はその結論ありきで、不都合なものを見ないようにしてい
るか、元の情報をたどれば全く違う話をごちゃまぜにしたり、信ぴょう性を考慮していなか
ったり、出鱈目な解釈を納得できるかどうかで判断しているため、そのように思います。
聖書は納得できないことの方が多いかもしれませんが、学んでいくと全てに意味があり、
矛盾しません。
矛盾しているように思えた箇所も、後々に「このケースにおいて言っていたのか」と納得に
変わる箇所が多いです。
自身を神のようにせず、へりくだり、神を知ろうという謙虚さが無いと横に逸れます。
ですので信仰歴の長さは関係なく、途中で「イエスは神ではない」という言説に惑わされる
ことになります。
●それは土台となる御言葉が無いために起こります。
先に挙げたようにヨハネの福音書には主イエスが神だと言うことが書かれているのにも関
わらず見えなくなるのです。
ヨハネの福音書が信じられないという人がいるかもしれませんが、ヨハネは最も言葉を大
事に記録しているように思えるのでかえって信ぴょう性が高いと思います。
ヨハネ21:22-23
イエスはペテロに言われた、「わたしの来るまで彼が生きながらえるのを、わたしが望むとし
ても、それがあなたに何の係わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい」。
それで、この弟子は死なないという話が、兄弟たちの間に行き渡った。しかし、イエスはペテ
ロにその弟子が死なないと言われたのではなく、ただ「わたしの来るまで彼が生きながらえ
るのを、わたしが望むとしても、それが、あなたになんの係わりがありますか」と言われたの
である。
惑わしの時代です。真理を求めて最後まで冠を失わないように。
アーメン。