2024.5.12
日曜礼拝
賛美 あなたがすべて Jesus You are my All in all 大いなる方に
テーマ
「神の与えようとしているもの」
不死を着る
今もしもすぐに理解できなくても、主が信仰によって助けてくださいます。
人の本体とはなんでしょうか。福音が意味するもの。
人の創造
創世記2:6-7
ただ、水が地からわき出て土地の全面を潤していた。
神である主は、土地のちりで人を形造り、
その鼻に命の息を吹きこまれた。そこで人は生きる者となった。
水と土で形作られたもの。ここはまだその「人」ではありません。
「鼻にいのちの息を吹き込まれた」 神の息です。
〇ここで人が生きものとなった。と書かれています。
〇ここは霊という意味も含まれていると思います。
その後、皮を着ます。
創世記3:21
神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せて下さった。
つまり、今私たちが着ているものは(創世記で言われるところの)皮です。
私たちは肉と霊の存在。
●人の本体は見た目や、性別、人種ではなく霊です。
ただ、土と水とも密接につながっており、単体で語ることが難しいかもしれません。
〇そして、その後、皮を着ています。
●生きる上で、この何を着ているか。というのが重要です。
前に一度話しましたが、救われて間もなくの頃、部屋の隅で黒い影、もや、のようなものを
見たと話しました。これは今思うと死の霊だと思います。
●はっきり見える方はこれが人をまとい、布のように捕らえると言います。
黒い布のようなものであると。
死んでから通常、罪のある人は死にのまれます。…まとう状態
●聖書は霊的なことを語っているので、素直に受け入れないとわからなくなることがあります。でも、
よくわからなくても足したり、無理やり解釈しようとせずに、そのまま受け入れてみる。
でないと意味が理解出来なくなるところがあります。
信仰を持つ―一新する
古い自分と新しい自分の皮袋。
マタイ9:16-17
だれも、真新しい布ぎれで、古い着物のつぎをするようなことはしません。そんなつぎきれは着物を引き破って、破れがもっとひどくなるからです。
また人は、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるような事はしません。そんなことをすれば、その皮袋は裂けて、葡萄酒は流れ出てしまい、皮袋もダメになってしまいます。
新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます」。
奥義
霊の存在にとって、必要なもの
ヨハネ6:50-58
しかし、これは天から下ってきたパンで、それを食べると死ぬことはないのです。
わたしは天から下ってきた生けるパンです。(イエス)
誰でもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。
又、わたしが与えようとするパンは、世の命のための、わたしの肉です」。
ヨハネ6:63
命を与えるものはみ霊です。肉はなんの役ももたらしません。
わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命です。
神の存在
ヨハネ1:1-5
〇始めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。
〇この方は初めに神と共におられた。
〇すべてのものは、この方によって造られた。
〇造られたもので、この方に寄らず出来たものは、一つもない。
〇この方に命があった。そしてこの命は人の光であった。
〇光はやみの中に輝いている。
〇やみはこれに打ち勝たなかった。
ヨハネ1:12-13
しかしこの方を受けいれた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子ととされる特
権をお与えに成った。 (永遠の命)
この人々は、血によってではなく、肉の欲求によってでもなく、
ただ神によって生れたのである。
言葉は息から来ます。
私達は息です。イエスのことばによって文字通り、生まれ変わりました。
新しい皮袋、新しいいのち。
私たちは生まれ変わらないと
天の御国には行けません。
ひどい世の中の原因
罪の贖い
ロマ3:10-30
それは次のように書いてある通りです。
●「義人はいない、ひとりもいない。
●悟りのある人はいない、/神を求める人はいない。
●すべての人は迷い出て、/みな無益なものとなった。
●善を行う人はいない、/ひとりもいない。
●彼らののどは、開いた墓であり、/
●彼らは、その舌で人を欺く、/彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、
●彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。
●彼らの足は、血を流すのに速く、
●彼らの道には、破壊と悲惨とがある。
●また、彼らは平和の道を知らない。
●彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。
さて、わたしたちは律法の言う事は皆、
律法の下にある人々に対して言われている事は知っています。
それは、
●すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためです。
なぜなら、
●律法を行うことによっては、だれ一人、神の前に義と認められないからです。
●律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。
しかし今は、
律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、神の義が示されました。
救いのプレゼント
●すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、
●それはすべての信じる人に与えられ、そこはなんの差別もありません。
●すべての人は罪を犯したので、神からの栄光を受ける事が出来ず、
●ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないのゆえに、価なしに、義と認められ
るのです。
神はキリストを立てて、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公に御示しに成りました。それはご自身の義を現すためです。
と言うのは、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしてこられたからです、
それは、今の時に、ご自身の義を現すためであり、
こうして、神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになる為です。
それでは、わたしたちの誇りはどこにあるのでしょうか。
それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。
行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。
人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によると言うのが、私たち
の考えです。
●それとも、神はユダヤ人だけの神であろうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。
確かに、神は異邦人にとっても神です。
●神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めて下さるとと
もに、無割礼の者をも信仰によって義と認めて下さるのです。
神の子として
私達は息であり霊です、私達は何を口にするか。
どんな言葉を話すか。ということに注意しなければなりません。
そこが重要です。
箴言18:20-21
人はその口の結ぶ実によって、腹を満たし、そのくちびるによる収穫に満たされる。
死と生とは舌に支配される、
どちらかを愛して人はその実を食べる。
1コリント2:12-16
ところで、わたしたちはこの世の霊を受けたのではなく、神のみ霊を受けました。
それは恵みによって、神から私たちに賜わったものを、私たちが知る為です。
この賜物について語るには、人の知恵に教えられた言葉を用いず、御霊に教えれた言葉を
用います、
そのみ霊の言葉をもって、み霊のことを解くのです。
●生れながらの人間は、神の御霊に属する事を賜物を受けいれません。
●それらは彼には愚かなことだからです。
●また、それを悟ることも出来ません。
●なぜなら、御霊の事は御霊によってわきまえるものだからです。
●御霊を受けている人は、すべての事をわきまえますが、
自分はだれによってもわきまえられません。
いったい「だれが主の御心を知り、主を導く事が出来たでしょうか」。
ところが、●わたしたちはキリストの心があるのです。
キリストの心を与えられ
これが無いと何を話しているのかさっぱり理解できないと思います。
よって救われていない人も聖書を読みますが、
知識や肉の知恵で読み解こうとするので奥義はたいてい隠されています。
私達は肉の知恵ではなく御霊で読むので理解することができます。
問題は私達もつい肉の知識を優先して読もうとするので、すぐ脇道に逸れることです。
自分を誇らず、主に委ね、素直に受け入れないといけません。
わからないところは御霊が教えてくださいます。
1コリント1:21
●事実、この世が、自分の知恵によって神を知る事がないのは、神の知恵に寄るのです。
それゆえ、★神は、み心によって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定
められたのです。
ロマ8:25
もし、未だ見ていないものを望んでいるのなら、
わたしたちは忍耐をもって、熱心に待ちます。
信仰が必須な理由は、私達が見ていないものを待ち望むからです。
先日フジコ・ヘミングさんが亡くなりました。壮絶で、気の遠くなる経験を生きた彼女は、
ニコニコして死んだら神様が天にわたしの家を準備してくれてると言いました。
信仰によって、自分の行き先を彼女は確信していた。
私たちは御言葉を頼りに、見えないものがどのようなものかを知っていきます。
そうすると、●見えないものが、確かにあるのだと知っていき、確信していきます。
これは信仰が無いとけっして知覚できません。
霊感があっても救われていない人は到達できません。
イエスキリストにあるもののみが知ることを許されています。
さらに言えばよくわからず、奥義が隠された状態であっても、主は救いを完成させている
ので救われます。
なぜなら行いではなく信仰によるからです。
これが福音です。
しかし知りたいと望み、へりくだるなら、主は奥義を明かしてくださいます。
注意点は自分の偏見と傲慢さにより、すぐに間違った解釈をしたり、
違うものをわかったと思い込むので、定期的に見直さないといけません。
また、一部がわかって、分かった気になっていても、もう少し全容が見えてくると微妙に違う
解釈になったりするので慌てず時間をかけて教えて頂かないといけません。
話を戻すと
霊である私たち本体の生き方に立ち返る方法が十字架の贖いに与る事
ロマ5:21
それは、罪が死によって支配したように、恵みがわたしたちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。
●死によってのみこまれるところから
●主イエスの十字架によって「いのち」にのまれます。
ロマ6:6-12
●わたしたちの古い人がキリストと共に十字架につけられたのは、
●罪のからだが滅びて、わたしたちがもはや、これからは罪の奴隷となることがないためで
ある事を私たちは知っています。
ロマ5:14-15
ところが死は、アダムからモーセまでの間においても、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々さえ支配しました。
アダムは、きたるべき方のひな型です。
ただし、恵みには、違反の場合とは違う点があります。もしひとりの違反によって、多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みと、ひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人に満ちあふれるのです。
イエスのパンは分け与えるほど増えて、私達が食べる以上に豊かに与えられます。
増えるパンとワインはイエスの血と肉。いのちのことです。
ロマ5:17
もし、ひとりの違反により、ひとりによって死が支配するように成ったとすれば、なおさらの事、恵みと義の賜物とを受けている人々は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって、支配するのです。
これは例えではなく、霊的に実際に起きるということです。
へブル11:1
信仰は、望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確認させるものです。
今もしすぐに理解できずとも、主が信仰によって助けてくださいます。
神と私たち
神は愛の神であり、私たちを一人も取り残すことなく、御国に迎えたいのです。
人が霊の存在であるからこそ、霊が幸せである生き方をする。
へブル4:12-13
●神の言葉は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭く、魂と霊、関節と骨髄の分か
れ目さえも刺し通し、心の色々な考えや、はかりごとを判別することが出来ます。
造られたもので、神のみまえで隠れおおせるものは、何一つなく、神の目にはすべてが裸で
あり、さらけ出されています。
私たちはこの神に対して、弁明するのです。
混乱しているところがあれば聖書を読み、
神のことばによって混乱を判別していくことができます。
整理していくと、全く知覚できない霊の事がわかるようになっていきます。
2コリント4:18
わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでもつづくからです。
アーメン。