2024.3.31
日曜礼拝
賛美 What A Beautiful Name (Japanese cover)
10000 Reasons (Bless the Lord)
テーマ
「福音は死への勝利、
将来への道」
2024.3.31日曜日 ハッピー・イースター🥚復活祭
福音(良い知らせ)
使徒1:3
イエスは苦しみを受けた後、40日の間彼らに現れて、神の国の事を語り、
数多くの確かな証拠を持って、ご自分が生きている事を使途たちに示された。
ロマ1:4
聖い御霊によれば、
死者の中からの復活により、大能によって、公に神の御子として示された方。
私たちの主イエスキリストです。
1コリント1:18
十字架のことばは、
●滅びに至る人々には愚かであっても、
●救いを受けるわたしたちには、神の力です。
1コリント15:20-21
しかし、今やキリストは、眠ったものの初穂として、死者の中から蘇られました。
と言うのは、
死がひとりの人を通して来たように、死者の復活も一人の人を通して来たからです。
なぜ主は十字架にかかり、復活する必要があったのでしょうか。
それまで私達は罪により(罪人のまま)死に、神の御前に立てないものであったところを
主が私たちの身代わりになって罪を贖い、
また復活することにより、
生きるものになり
▲神の御前に立てるようにしてくださるためでした。
罪人とは
私達は無自覚な罪と自覚的な罪によって100%救われることのない状態でした。
なぜ罪人になっているかもわからないまま、死を前に恐れ、死んでいくものでした。
福音は奇跡
福音は不可能を可能にした奇跡です。
私達は死刑になり、そのまま死ぬはずのところを一度死に、復活することで、
天に行くことが出来るようにされたのがイエス様です。
主ご自身が人には抱えきれない罪を
私たちの代わりに一人で背負い、
贖ってくださって、
そこで終わりではなく復活し、
天に導いてくださるのが福音です。
●これは死に支配されていたところから神の支配に移すことでした。
●この復活は死への勝利も意味しています。
1コリント15:22-28
すなわち、
●アダムによってすべての人が死んでいる様に、
●キリストによってすべての人が生かされるからです。
しかし、各々にその順番があります。まず、
●初穂であるキリスト、
次に、
●キリストの再臨の時、キリストに属している者です。
●それから終りが来ます。
●その時、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しに
成られます。
●キリストの支配は、全ての敵をその足の下に置くまでと定められているからです。
●最後の敵である死も滅ばされます。
「神は万物をその足の下に従わせられた」。という時、
万物を従わせたその方がそれに含まれていないことは、明らかです。
しかし、
●万物が御子に従う時、御子自身もまた、万物を従わせたそのかたに従われます。
これは、神がすべてにおいて、すべてと成られるためです。
アーメン
1コリント15:21
と言うのは、死がひとりの人を通して来たように、(アダム)
死者の復活も、一人の人を通して来たからです。(キリスト)
神の定義
日本人はよく八百万の神と言いますが、
この1コリント15:21で私達の神が神である所以だと思います。
日本の神という単語と聖書で言われる神では定義が違います。
◆日本でいう神とは力を持つ霊のことをすべて神と呼びます。
これは悪霊でもそうです。
狐などの獣、菅原道真や早良親王などのもともと人間で悪霊として恐れられたもの、
神話に出るもの。すべてを神と呼びます。
この定義が力があればなんでも神と呼んでしまう為に、
聖書で語られる神も、「力がある」から神のうちの一柱ではないか。
というのが日本人の感覚です。
●ところが聖書で言うところの神は「全知全能の神、万物を創られた神、三位一体の神」
を指します。
聖書で神は力を持つものではなく、万物を創られた方です。
ですので明確に日本で語られる神とは定義が違います。
●さらに言えば、
罪を贖いその万物を創造した神の元に行くには・・・罪が贖われなければならず、
それは主イエスキリストの十字架と復活がなければ到達できません。
1コリント15:3-5
わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたことであって、
次の事です。
(福音)
キリストは、聖書に示すとおり、わたしたちの罪のために死なれたこと、
葬られたこと、また、聖書に示すとおり、三日目によみがえられたこと、
ケパに現れ、それから、十二弟子に現れたことです。
相続(御国に属する者)
1コリント15:44-57
●血肉のからだでまかれ、御霊に属するからだによみがえるのです。
血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。
●聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてありますが。
最後のアダム(イエス)は生かす御霊となりました。
●最初にあったのは、血肉のものであって、御霊のものではありません。
●その後に霊のものが来るのです。
●第一の人は地から出て土で造られたものですが、第二の人は天から出たものです。
土で造られたものは皆、この土で造られたものに似ており、
この天からのものは皆、この天から出たものに似ているのです。
●わたしたちは、土で造られた者の形を持っていたように、天上の形をも持つのです。
兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておきます。
●血肉の身体は、神の国を継ぐことができません。
朽ちるものは朽ちないものを相続する事は出来ません。
聞きなさい。
わたしはあなたがたに奥義を告げましょう。わたしたちは皆、眠ることに成るのでは
なく変えられるのです。
終りのラッパの響きと共に、たちまち、一瞬にして変えられるのです。
ラッパが鳴ると、、死者は朽ちない者によみがえり、わたしたちは変えられるのです。
★朽ちるものは必ず朽ちないものを着なければならず、
★死ぬものは必ず不死を着なければならないからです。
しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利に飲まれた。」と記されているみ言葉が実現します。
「死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。
死のとげは罪である。罪の力は律法です。
しかし感謝すべきです。神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を
与えてくださいました。
血肉のからだでは御国を相続できません。ですから、
他の神々と呼ばれる霊ではなく主と福音が私達には必要です。
他の霊は贖いもできず、不死のからだを与えることもできません。
ですので他の神々と混同しないでください。
ここに明確な違いがあります。
●肉体的なものでなく霊的な死に打ち勝つことができるのはイエス様だけです。
人は土くれですが、神がそこに種をまき、新しいからだを与えてくださいます。
また、他では明確に霊の話をしてくれることもありません。
霊の話
2コリント4:18
わたしたちは、見えるものにではなく、目に見えないものにこそ目を留めます。
見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。
聖書では全体を通して霊的な話をしているので、
本来であれば見えないものに対しては知識がなく、見分けることができないところを
●聖書をきちんと読めば、私達は見聞きできなくてもその霊の正体を見破ることができる
ようになります。
それこそ信仰の目と耳であり、私達は霊の目や耳がなくても信仰により見分け・
聞き分けることができ、
悪霊が見えなくても追い出すことができるようになるわけです。
肉体の目で霊的なものが見聞きできるかどうかは些細な問題です。
●大事なことは霊が存在していることを知っていること、
また、それらが私達をどう取り巻いており、
敵が誰か、主は誰かを知ることです。
小さな言葉が入口となり、
知らない世界を知ることになり、
復活に希望を抱くようになります。
主の言葉が真実であることを知ることになっていきます。
復活をしてくださった神に感謝します。
また復活を与えてくださった神に感謝します。
主イエスキリストの御名によって。
アーメン