善意を認める勇気を興せ | 忘れないようにメモメモ(日本の歴史、近代史)

善意を認める勇気を興せ

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清純な善意を認めることは、社会国家の理想を正常に発展せしめる上で第一に必要である。近時の風として、ことごとに他人の行為に対し、その裏面の欲望を妄想し、他の行為を見ては、必らずその背後に邪悪心を虚構することは、その殆どが、本人の邪念とひがみのあらはれである。他人の行為に於て、たとへ僅かにても、理想上の善意をみとめることが、今日に於ては国家を正常に自立せしめる第一歩である。
他人の行為の下ごころを考へ、ことごとにこれを邪念視し、公正の理想上の思惑に対してさへ、その裏面に、ことさらに邪念と利権を当てようとなす如きことは、今日の情態に於ては、共産主義を名とする独裁組織の拡張に、無意識裡に加担奉仕するものである。共産主義とは、かゝる発想に他ならない。
他人の行為に必ず邪念を見立て、それを口にし、自らを小利口者或ひは小悪魔と思はせんとする如き輩は、その思考上のゴロツキ性に気づき、早くかゝるものを放棄せよ。人の善意を認めるところから、より高い理想の国は建てられ、公正の国家友誼は成立する。善意を認め得ずして、つねに他人の行為に邪悪の企てを妄想することは、共産主義の心の温床である。
ものごとのウラの邪念と称するものを、ことごとに妄想虚構し、これを得々と高言する如きものを、利口者と考へる戦後的邪念を一切放下せよ。他に善意を認める時、自らは向上し、社会は浄化さる。かくて理想は希望に初めて生命をもち息づく。ここに健全な教養の第一歩がきづかれるわけである。
事大主義や卑屈といふ、一切の植民地的気風は、他人の行為に善意をみとめ得ず、つねに邪悪をながめるものを呼ぶのである。まづ善意を認めよ。それが正論の土台である。正義の母体である。批判はその後に始まる。智慧は善意に於て自らに想像されるのである。
公的な行為や、理想的な行為に面して、必ずそこにその人の邪念を妄想し、これを得々語るものの悪意を、ことさらに智慧として賞賛し、或ひは利巧として羨望する如き、最もなげかはしい風潮が戦後の状態である。マルクスの悪意は、さういふものと、心持の基盤を一つとするものである。近代の思考と発想は、ここに於て最も救出しやうのない沼に沒ったのである。
日本の理想と道義と、つまりその情勢論としての平和を祈念する者は、まづ善意を認めねばならぬ。善意を高くかかげ、他人の善意に心を展くべきである。その精神の状態に於ては、よしんば例へだまされたとしても、かの聖なるものを傷ねることはないのである。
今日に於て、勇猛心なき者は、他人の善意を認め得ないのである。この勇猛心は、最も下等な者と闘ふ、最も低い戦ひの勇気である。小利口者の軽蔑を無視しうる勇気である。
今日他人の善意を認めるためには、強い勇気が必要とするのである。何となれば、それをなすためには、最も下等で卑劣なものを敵とし、彼らの軽蔑と敵意に対抗せねばならぬからである。それらに対し、超越しつゝ、超然とした厳かな聖陣地を、自身の場とせねばならぬからである。しかも今日に於ては、その最も下等で卑劣なものが、物質上の勢力と、牽制上の勢力を存分にしてゐる時代だからである。それは又、彼らの作ってゐる、物質と権力の蜘蛛の巣の外にあるとの意識を、日常とせねばならぬ謂である。
(昭和二十五年 祖国正論四月号)
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保田輿重郎文庫29 祖国正論1