日本人が最も大切にすべきものの一つ「森」 | 忘れないようにメモメモ(日本の歴史、近代史)

日本人が最も大切にすべきものの一つ「森」

国際派日本人養成講座より
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人物探訪: C・W ニコル ~ 誇り高き日本人として

「私は、これからも誇り高き日本人として
精いっぱい生きていきたいと思っている」
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■1.「日本のどこがそんなにいいんですか」■
  
 英国生まれのC・Wニコルさんは、平成7(1995)年、日本国
籍を取得した。その理由を、こう語っている。

 日本が私の家であり、もっとも愛する国だからだ。どの
国にもまして、私は日本でいちばん多くの時間を過ごして
いる。家族も友人も世界中にいるけど、私のいちばん親し
い人たちはほとんどが日本人だ。日本は私に衣食住を与え、
移動を許し、私を守ってくれる。[1,p201]

 こう言うと、よく「日本のどこがそんなにいいんですか」と
尋ねられる。そう聞くのは、いつも決まって日本人だという。

 ニコルさんはケルト系日本人と自称する。ウェールズで生ま
れたケルト人だからだ。これほどまでに日本を愛するケルト系
日本人に、「どこがそんなにいいんですか」と聞く日系日本人。
この光景に、現代日本人の精神的な問題が現れている。

■2.「僕もニコルになりたいです」■

 ニコルさんは1940(昭和15)年、英国西部のウェールズに生
まれた。実父は幼い頃に戦争で亡くなっている。

 未亡人となった若く美しい母親に言い寄る男は多かったが、
5歳のニコル少年は客のミルクティーにミミズを入れたりして、
撃退した。

 10歳になった時、母親は背の高い海軍軍人に出合った。ハ
ンサムで男らしく、人を笑わせるのが得意な人で、その人の姓
がニコルだった。ニコル少年は「父親にするなら、この人だ」
と思った。母親が結婚した後、弁護士に呼ばれ、「お母さんの
名前がニコルに変わったのは知っている?」と聞かれた。父親
から「養子縁組をしたい」という申請が出ていたからだ。

 少年は「知っていますとも。僕もニコルになりたいです」と
答えた。後にこれを聞いた父親は、男泣きしたという。

 かくて私の苗字はニコルとなった。この名前は私の誇り
だ。・・・私たちはたがいに選び会った親子だ。父が息子
を選び、息子も父を選んだのだ。[1,p12]

「父の自慢の息子になりたい」という一心で、シー・カデット
(英国海軍の精神に基づいた青少年育成活動を行う慈善団体)
に入った。将来は英国海軍に入隊するという野望を胸に秘めて。
学校は嫌いだったが、規律の厳しいシー・カデットの訓練は大
好きだった。

■3.「日本人は残忍で恐ろしい国民なの」■

 シー・カデットで柔道の手ほどきを受け、ニコル少年はYM
CA柔道クラブに通うようになった。指導者は元コマンド、す
なわち英国海兵隊特別奇襲部隊の隊員だった人物だった。茶帯
で柔道一級の資格を持っていた。

 ニコル少年が熱心に柔道クラブに通う姿を見て、母親が言っ
た。なぜおまえはそんなに「中国のレスリング」に熱中するの?

 ニコル少年が「柔道は中国ではなくて日本の格闘技だよ」と
答えると、母親は激怒した。

 日本だって? おまえ、日本のスポーツをやっているの?
許しませんよ。いいかい、日本人は残忍で恐ろしい国民な
の。戦時中、英国人捕虜にどれだけ残酷なことをしたか、
お前は知らないのかい?

 ニコル少年が「降参するからいけないんだ。日本の兵士は決
して降参しないよ。死ぬまで戦えと言っておくべきだったんだ」
と元コマンドの受け売りで口答えすると、母親は息子の頬を思
い切り平手で打った。

 父親は泣き出した母親を抱きしめながら、ニコル少年にしば
らく外に出ていろ、と顎で合図した。あとで、父親は「しばら
くこの家で日本の話はしないことだな」とニコル少年を諭した。

■4.初めて出合った日本人■

 柔道クラブでは、みなでお金を出し合って、ロンドンから黒
帯の先生を招き、3日間の特別講習をしてもらうことになった。
「小泉先生」という日本人の中でも一流の黒帯が来てくれると
いう。

 ニコル少年は小泉先生の姿を想像してみた。戦後の映画には
日本人の悪役がよく出ていた。それから察するに、ずんぐりと
した体型で、太い首が肩につながっていて、脚は太くガニマタ、
目は細くつり上がっている。声はうなり声に近いだろう。

 皆で駅まで迎えに行って、汽車から出てきた人物を見たとき、
これは何かの間違いだと思った。中背で、背筋がしゃんと伸び
た引き締まった体つき、よく手入れされた口ひげと洗練された
服装、物腰。口から出てくる英語は、この上なく丁寧で非の打
ち所がなかった。こんな紳士が本当に黒帯の柔道家なのか。

 小泉先生は、第二次大戦のはるか以前、日英同盟があった時
代に、講道館から英国に派遣された柔道5段の人物だった。

 稽古の第一日目は、正しい並び方やお辞儀の仕方について、
たっぷりと講義を受けた。この人は本当に強い柔道家なのか、
と皆怪しんだ。

 最後に、小泉先生は元コマンド教師に向かって、「見本に軽
く乱取りをやってみせましょう。お相手願いできませんか」と
丁寧な口調で頼んだ。そしていざ乱取りを始めると、小泉先生
は元コマンドの巨体を人形か何かのように易々と投げ飛ばした。
10分の間に、彼は何度も投げ飛ばされ、顔は真っ赤、全身汗
まみれ、息も絶え絶えっという有様になった。

 この一部始終を見ていた、ニコル少年は、思わず唸った。柔
道に対する畏敬の念がふつふつと湧き上がってきた。そして、
小泉先生という初めて出合った日本人に対しても。この出会い
を機に、ニコル少年は、いつか日本に行って武道を学ぼうと決
意を固めていった。

■5.母親の日本人への反感を拭い去った金沢先生■

 ニコルさんは、22歳で初めて日本を訪れた。母親は日本行
きを止めてもムダだと分かってくれたが、反日感情はなかなか
捨てなかった。

 日本では空手を学んだが、その教師・金沢ヒロカズ先生が、
英国を訪問し、両親の住む町の空手クラブで指導をすることに
なった。ニコルさんはぜひ両親の家に泊まるようにと勧め、金
沢先生は喜んでその申し出を受け入れた。

 日本人への偏見とは無縁の父親は、ハンサムで礼儀正しい金
沢先生とすっかり仲良くなり、わしの「ヒーロー」と呼び始め
た。さらに金沢先生の人間的魅力は、母親の心をほぐし、日本
人への反感を拭い去った。母親は、自分が今までとんだ誤解を
していたと、周囲の人に言うまでになった。

 戦争が生み出した憎しみを、一人の日本人が個人的なつきあ
いを通じて、拭い去ったのであった。

 武道のほかに、ニコルさんは日本にいる間に、もう一つ、心
動かされる経験をした。鬱蒼としたブナの森を歩いた時のこと
である。

 樹木の霊気に包まれた私の胸に、かつて経験したことの
ない不思議な感動がこみあげてきた。私はその場に立ちつ
くしたまま、頬を伝う涙をぬぐうことも忘れていた。ここ
はエデンの園なのか。はるか昔のブリテン島で、ケルト人
の心を熱くしたのはこの感動だったのだろうか。[1,p212]

■6.「心から愛する日本のために力を尽くそう」■

 ニコルさんが、日本で二度目の長期滞在を始めたのは、昭和
45(1970)年のことだった。そして昭和55(1980)年に、自然
豊かな長野県の黒姫に家を建てて定住した。

 しかし、時あたかもバブル期の絶頂で、黒姫でも古い森林は
伐採され、川はコンクリートで固められ、湿地はゴミで埋め立
てられ、人びとは金儲けに目の色を変えていた。

 山、川、野尻湖、それに澄んだ空気が気に入ってこの地
に住み着いた私は、この環境の変化に戸惑い、あれほど大
好きだった日本がなぜこのようになってしまったのか、あ
れほど大好きだった日本人がなぜこの馬鹿げた騒ぎの愚か
しさに気づかないのかと大いに悩み、落ち込んだ。
[1,p161]

 そんな時、生まれ故郷のウェールズから便りが届いた。そこ
では、かつて炭坑の町として栄えて、すっかり木々のなくなっ
た谷と丘に新しい森を作ろうという運動が展開されているとい
う。ニコルさんは驚いて、自分の目で見ようと故郷を訪れた。

 そして私は喜びと希望に満ちあふれた。そこには確かに
若い森があったのだ。人々がボタ山にバケツ一杯の土と苗
木を持ち寄り、森を作ったのだ。

 このような土地に森がつくれるならば、私も日本ででき
ることがある。もう文句ばかりいうのはやめよう、私も彼
らにならって心から愛する日本のために力を尽くそう、と
心に決めた。[1,p162]

 こうしてニコルさんは黒姫で、見捨てられた田畑や荒れ果て
た林などを次々と買い集め、もともとそこにあったはずの木を
植え、丹念に手入れをして、森を育てていった。

■7.「森を守るには手をかけなければならない」■

 森を守るには、手をかけなければならない、とニコルさんは
言う。

 まず下草をはらい間伐を行って発育不全の木をとり除く。
これで土壌の養分がすみずみの木々に行き渡るし、地面に
も太陽の光が届く。その結果、丈夫でまっすぐな若木の生
育が期待できる。草花にも生い茂る場所が与えられ、ラン、
ユリ、アネモネ、リンドウ、スミレ、その他さまざまな野
生植物が咲き乱れるようになる。

 ただし、心がけたいことがある。下草狩りの際、小鳥た
ちが巣をつくれそうな茂みを残してやることだ。木に絡み
つくツル性食物を切る時も、クマや鳥が好きなヤマブドウ、
アケビ、サルナシなど実をつける植物は残しておく。
・・・

 その他の作業としては、池掘りと詰まった水路の清掃。
この作業の目的は、カエル、イモリ、水生植物に水生昆虫、
さらにサギ、カモ、カワセミといった水鳥の生息環境を整
えることにある。また、シジュウカラ、フクロウにように
木の開いた大きな「うろ穴」に営巣する鳥のために巣箱を
設置し、鳥たちが使っているかどうか常時、観察している。
[1,p217]

 森とは、かくも多種多様な動植物が共生する場なのである。

■8.「この一人の異邦人はやっと帰るべき故郷を得た」■

 ニコルさんは「日本の原生林は日本の国の大切な宝です」と
言う。北海道の北の端から南の西表島まで、森の動植物の生息
地域がきわめて広い範囲にわたっている。生物学的に素晴らし
い多様性をそなえ、まさに遺伝子の宝庫である。日本はそうし
た遺伝子から得られた情報を医学や農業、工業に生かしながら、
日本の森のわずか2パーセントに過ぎない原生林を保つ先見の
明も持てないのか、と主張する。

 それどころか、林野庁は天然混交林をつぶして単一種の針葉
樹を植える人員への給与支払いに、多額の税金を投入している。
その一方で、安価な外国産木材の輸入に反対し、国家一丸となっ
て将来のために、健全な森を育てよう、という熱意がないこと
を、ニコルさんは非難した。

 また、森を保護するには、レンジャー(監視員)が必要だ。
密猟者を取り締まり、見学者を案内し、さらに遭難者の捜索救
助活動を担当する。カナダには4千人、アメリカにはその倍の
レンジャーがいるが、日本には200人ほどしかいない。ニコ
ルさんはレンジャー養成のための学校創設を環境庁に提案し、
実際に有志が設立した学校で、学生たちのフィールドワークを
指導するようになった。ニコルさんの育てた森がフィールドワ
ークの現場として活用されている。

 ケルト系日本人の年老いたアカオニにとって、森から貰っ
た最高のプレゼントは森との一体感だ。私の死後も森は生
き続けてくれる。この一人の異邦人はやっと帰るべき故郷
を得た。正真正銘の日本の国民になれたのだ。[1,p220]

■9.「誇り高き日本人として」■

「正真正銘の日本の国民」になれたニコルさんから見ると、現
代の日本人は「大切にすべき自らのアイデンティティーをいと
も簡単に投げ捨てているように見える」。

 日本人が最も大切にすべきものの一つに森がある。日本
は国土の70パーセントを木に覆われた世界に冠たる森の
国である。・・・私は、縄文時代以来、日本の文化的基層
は、森との関わりの中で築かれたものだと思っている。
・・・人は死んで皆お山、すなわち森に還るというのが、
仏教が日本に伝わる以前から人々に根強くある死生観だと
思う。・・・

 その森に対する意識が全く希薄になり、森を愛さぬばか
りか、平気で原生林を破壊したりする日本人が出現してい
ることが私には不可解でならない。[1,p224]

 日本人が忘れ去りつつある、もう一つのアイデンティティー
が武士道精神である。

 私は日本の武士道に憧れる一方、父や父祖からは騎士道
精神を叩き込まれて育った。この二つに共通するものは、
自己犠牲の精神と勇気であり、それは私自身の願っている
生き方である。それにしても、日本人のモラル・バックボ
ーンであり続けた武士道的精神がどこかに消え失せてしまっ
たのはなぜだろう。[1,p225]

 ニコルさんが愛する日本人とは、森と心を通わせ、自己犠牲
と勇気の精神を持って生きる人々なのだ。

 私は、これからも誇り高き日本人として精いっぱい生き
ていきたいと思っている。[1,p226]
(文責:伊勢雅臣)
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日本人にとって自然というのは崇敬の対象だった。
カミを数えるときの「一御柱」の「柱」は木のことだそうです。
「森との一体感」を都会に住んでいる私は感じることが難しい。
たまには深い森に行ってみますか。