江藤淳 保守とはなにか2 | 忘れないようにメモメモ(日本の歴史、近代史)

江藤淳 保守とはなにか2

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この日本近代の根柢にある「改革」の要請は、宿命的に深刻な矛盾を含んでいた。例えば現在の護憲論者は改憲運動に対し明治憲法の復活を狙う企みであると避難しますが、実は明治憲法自体が大変な「改革」憲法であることを忘れてはならない。明治維新を成し遂げ新しく憲法典を作るに際し、我々はイギリスのように日本のコンスティテューションは日本の慣例だと言い切ることができなかった。そういったらおそらく日本は永久に国際社会に仲間入りできなかったでしょう。それどころか一歩間違えれば、他のアジア諸国のように植民地化されていたかもしれない。文明開化というスローガンを掲げて、日本は西欧と同室同種の法体系を持ちますよと宣言し、明治憲法という成文「改革」憲法を制定せざるをえなかった。
その際に「改革」をイデオロギー化したものはなんだったのか。おそらくそれはハーバート・スペンサーの社会進化論だったはずです。幸いなことにスペンサーの社会進化論はチャールズ・ダーウィンの生物学上の進化論を、人類社会の発達に応用したものだった。したがって日本がもし西欧近代に適応できれば、日本人も人類の一員として認められる。スペンサーのいう人類とは、すなわち「土人」や「未開人」ではないという概念です。人類は野蛮な未開から文明の時代に向かって、滔々と進歩する。そこには進化の原則が働いて、要するに生き残ったものが上なんだというのが、スペンサーの考え方です。日本は四苦八苦して近代化を成し遂げ、日清戦争、日露戦争と勝ち抜いて、社会進化論からいっても人類の仲間であることを何とか証明してやってきた。
日本があの時、江戸時代と同じ保守主義でやっていこうとしたら、国際社会の中で生き残ることはできなかった。日本人は「改革」憲法を衝立にして、自ら丁髷を切り落とし二本差しを捨て、洋装を身にまとった。したがって明治憲法というのは、実にハイカラにできている。日本がヨーロッパ並みの立憲君主国であることを証明するための見せ金の役割を果たしていた。
しかし、その一方で、ハイカラな憲法典は皇室典範によって裏打ちされていた。皇室典範は皇室の憲法であると位置づけられ、皇室の祭祀や皇位継承その他のことを簡潔に規定した法典です。日本におけるあらゆる慣習法がそこに吸収されるような構造を持っていた。成文憲法と一対になった皇室典範によって日本の慣習は保持されていた。いわば二重構造です。明治の保守が生み出した英知と言えるかもしれない。
しかし、戦争に負けたことで戦後はそれすらも否定されるような状況が生まれてきた。第二次大戦の戦勝国であり、対日戦の主正面を戦って圧倒的な勝利を収めたアメリカは,大日本帝国を徹底的に断罪し戦前の日本が行った悪を宣伝するのに都合の良い言語空間を、検閲制度を基本とする巧妙な言論操作によって作り上げた。エドマンド・バークは自然社会に対し、人為社会という概念を提出し、人為社会はイデオロギーと法律を振り回す社会だと言っています。現に占領を行っている戦勝国としては当然のことなのかもしれませんが、アメリカは自らのイデオロギーと法律を振り回し、日本に「改革」を迫った。そして日本人は明治憲法に変わる新憲法を与えられた。明治の時は憲法典を作りそれに従って改革を自らに課したわけですが、戦後はアメリカによって「改革」を課せられた。これは明治の特以上に深刻なもので、そこからは様々な矛盾と錯誤が生まれました。
明治憲法を裏打ちしたいた皇室典範について、新憲法の文言に合わせるような付け焼き刃的修正が新憲法施行の直前になされました。そのため皇位継承の一つとってもおかしなことになった。旧皇室典範では天皇崩御の瞬間に天皇は践祚する。即位は儀礼だから即位式が行われて即位となる。皇統は一瞬たりとも途切れない。旧典範では践祚という概念によって、儀式以前に皇統が繋がっていることを示した。英国ではこれを「ザ・キング・イズ・デッドロング・リヴ・ザ・キング」と表現しています。先王は崩御した。その瞬間に新王が王統を継ぐという意味です。ところが、現皇室典範には新天皇はただ「即位する」と書いてあるだけです。践祚されてから即位するというのが自然な感覚なのに、概念の混乱が起きてしまった。新憲法の第二条に皇位は世襲すると書いてあるから、皇室典範もそれに合わせればいいだろうと、あわてて書き換えたためこういう事が起きた。今でもさかしらな政治家は、皇室典範は国会の議を経ていくらでも変えられるのだから女帝だっていいではないか、などと平気な顔をして言う。実は戦後憲法ができたことで、日本の保守主義はほとんど存続しえないような状況が作り出されてしまっているのです。保守政党である自民党が何とかやってこられたのは、ある意味では奇跡に近いことなのかもしれません。

そのような戦後的状況において、保守の感覚を体現した政治家が吉田茂だった。私はかつて憲法学の宮沢俊義教授とこんな会話を交わしたことがありました。私が「旧憲法と新憲法では法典としてずいぶん変わりましたが、法律の条文とは別に慣例として昔と同じ事が行われていることがありますね。その点をお教え下さい」と前置きした上で、「外国の大使が日本に着任して、信任状を陛下に奉呈する儀式を、旧憲法時代と同じようにやっていますね。今の憲法学による陛下の御地位は何ですか。日本の元首は誰ですか」と尋ねると、宮沢教授は顔色一つ変えず「今の陛下の御地位は総理大臣官邸の門番くらいのものでしょうか。元首というのは特にございませんが、あえて言えば内閣総理大臣になるかと思われます」と答えた。「それなら、なぜ総理大臣に信任状を呈出しないで、陛下に奉呈するのですか」とさらに突っ込むと、「それは吉田茂さんがお決めになったことです。外国人はそちらの方が喜ぶのだから変える必要はない、と言って。それがずっと続いているんです」と。私はああ、吉田さんという人は偉い人だなあ、と思いました。
憲法典をそのまま字句通りに解釈すると、天皇陛下は総理大臣官邸の門番程度の存在になってしまう。しかし、そんなことは日本人の感覚として許されない。そこで吉田さんは戦前と同様に外国大使が陛下に信任状を奉呈するスタイルを残した。現在でも外国大使の中には着任すると、皇居近くのパレスホテルから宮内庁が仕立てた儀典馬車に乗って、大礼服を着て皇居まで信任状を届けにいくことを喜ぶ人がいるという。少々芝居がかっているかもしれないが、これが保守感覚です。現行の憲法典から言えば、馬車もへったくれもありません。タクシーで乗り付けて、総理官邸の門番に信任状を渡してくればいいということになってしまう。日本の保守主義の英知がここにある。吉田茂さんは今上天皇の立太子の時に、総理大臣でありながら「臣茂」と言って新聞にさんざん叩かれた。私は吉田さんの戦後政策については評価できない面も多々ありますが、やはりこの人物は保守の感覚を体現していたと考えていいでしょう。

戦後の日本が保守の英知を結集して、文字通り保守してきたのはやはり皇室であった。憲法は変わったが皇室は続いている。その御地位についての解釈はいろいろありますが、昭和天皇は二つの憲法典を経られたにもかかわらず君臨されていた。今上天皇はそのまま皇位を御継承になり、皇統はずっと繋がっている。もう一つ、戦後の日本が保守しようと苦闘して来たものに国の防衛があります。しかし、これには捻れがあります。敗戦によって日本は完全に非武装化された。それが朝鮮戦争を契機に警察予備隊が結成され、さらに保安隊時代を経て法的整備が行われ現在の自衛隊ができた。そこには自衛隊も旧軍同様の軍隊であるという感覚と、いわゆる防衛庁内局の官僚が言う旧軍と自衛隊とはまったく別のものであるという意味づけとの間に捻れがあります。
さて、保守とは何かを述べてきましたが、時には保守するために大きな改革を行わなければならないこともあります。そこには論理の矛盾がある。保守主義の弱点なのかもしれない。しかし、保守とはイデオロギーではなく一つの感覚だからそれはやむを得ない。人の世はすべて留めておくことはできない。と知ること。そして変えるべき点は改めるを憚らない。これもまた保守感覚の発現だろうかと思います。
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今の皇室典範は、高森明勅さんがいうには日本の歴史上最も窮屈な皇位継承のルールで、これを維持する限り絶対に続かなくなると。側室制度が支えてきた所が非常に大きい。けど大正天皇以来側室はとっていないそうです。大正天皇・昭和天皇ご自身の判断で。
やっぱりどうしても旧宮家の方々に復帰していただきたい。そのために皇室典範を元に戻して欲しいもんです。