今の「性のモラル低下」は平成四年からの性教育の結果 | 忘れないようにメモメモ(日本の歴史、近代史)

今の「性のモラル低下」は平成四年からの性教育の結果

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「男女共同参画の実現」が招く"性のモラル低下"


 新田 もう一つ恐ろしいのは、過激な性教育の影響で性行為へのブレーキが弱くなり、多くの若い女性が性感染症(STD)に罹る恐れが高くなっていることです。ある統計では、日本の十九歳女性の十三人に一人がクラミジアに感染しているという。不妊症の原因になったり、出産後は分娩時に胎児に感染してトラコーマやクラミジア肺炎を起こすことがあります。大袈裟でなく、結婚の条件にこれまでは「性格のいい子をもらい言っていたのが、これからは「病気じゃない子をもらいなさい」という時代がきているわけです。
 八木 性教育が、かつての「純潔教育」から「性交教育」のようになってしまっていますからね。
 たとえば吉祥女子中学・高校(東京都武蔵野市)の副校長だった山本直英氏(故人)らが中心になって昭和五十七年に「"人間と性〝教育研究協議会(性協会)」という組織を設立して活動を始めました。同じ山本氏が所長を務める「"人間と性"教育研究所」の開設資金一千万円は「避妊用品メーカーなどを口説いて、協力を得た」(朝日新聞平成二年六月七日付)そうですが、その方針は戦前の共産主義者で「結婚制度は奴隷制度」と断じた山本宣治を支持するもので、道徳を柱にした性教育を否定し、「科学・人権の性教育」を掲げています。「私の性器だから、自分がどう使おうと自由……いつ、誰と、どうやって使うかも自由」という主張です。 、
 そうした「自己決定能力」を養うために小学校から性器や性交について教えるべきだとして、副読本に性器の詳細な図を掲載したり、小学校低学年から性器の名称を事細かに教え込んだり、ダッチワイフと見まがうような人形を使って性交の実践教育をしたりもしています。怖いのはこれが一部のことではなく、すでに全国の多くの小学校でジェンダーフリー教育の名のもとに推進されていることです。
 平成十五年十二月六日の産経新聞に、東京都品川区の主催で開催予定の「男女平等推進フォーラム」の発言者に、フリーセックスを助長したり、妊娠中絶を容認する発言を繰り返す「セックスグッズストア代表」を名乗る女性が選ばれ、住民のあいだから抗議の声が上がっているという記事が載っていました。このフォーラムは、男女共同参画社会をめざし「さまざまな生き方を肯定する」ことを目的に開かれるというものです。ここでも「男女共同参画社会の実現」という看板が用いられている。
 抗議の対象となった主の正体は、女性のセックスグッズストア「ラブピースクラブ」の代表を務める北原みのりという女性です。彼女は大阪府寝屋川市の講演会に招かれたときも、「愛と掛け離れたセックスもあり、女性だって性的欲望のみでセックスする人もいる」「自分の体のことで、自分で決断した中絶なのになぜ罪深いと言われるのか」などと発言したそうで、市側が講演会直前に「セックスに話題が偏りすぎている」と善処を求めたにもかかわらず、フリーセックスや中絶を容認する発言を繰り返したという。
 また青森市で開かれた日本女性会議のワークショップでは、「性器の気持ちで語る」として女性性器の模型をかぶって、聴衆の前で口にバイブレーターをくわえるパフォーマンスを見せたと記事は伝えていますが、さすがにバイブレーターを口にくわえた点については本人も否定しているようです・まあ・彼女がどのような生き方をしても私は咎める気はありませんが、こうした主張を女性全体の規範とされてはたまらないということだけは言っておきたい。
 問題なのは、品川区が彼女の過去の発言や行動を把握していながら、「とかく男の側から見られがちだった性を、女性の視点で語ってほしいと選んだ。公序良俗に反するほどでもない」(区人権啓発課)としている点です。ここにもやはり、"確信犯"が潜んでいると見るのが妥当でしょう。
 新田 私の地元のある大学の文化祭で多様な性についてのシンポジウムがあるというので、行ってみたことがありました。レズビアンの女性が講師として来ていて、男、女という区別には、意識、体といろいろあって、体もいろいろな染色体の組み合わせの両端にいわゆる男と女がいる、男とか女はさまざまなバリエーションのなかの一つにしかすぎないということを強調するわけです。しかもさらに性愛というのも別で、どの異性を愛するかもいろいろな組み合わせがあって、心も体も男で、しかも女の人が好きだという例は、多様な掛け合わせのなかの一つに過ぎないというのです。
 八木 そもそも、そんな組み合わせは選択できない。自己決定論が陥っている幻想です。実際の人生は、ほとんど選び取れないことのなかでどうやって生きていくかということが問題なのに、ここでも歴史を勝手に創作するように、自らの生命、性を勝手に書き換えられる、いったんゼロに解消できると思ってしまう。そして、「それはできない」と言う者に"差別主義者"というレッテルを貼るわけです。
 渡部 男が男を好きになろうが、女が女を好きになろうが、そのこと自体を批判する気はまったくありませんが、人間が少なくとも有性生殖によって子孫を増やす生物であるかぎり、また社会という約束事を形成する存在であるかぎり、そうした嗜好の少数者がつくるサークルを排除する必要はないし、またすべきではないけれども、同時にそれを主流として認めるような法制化をしてもらっては困るということです。
 法制化というのは強制力をともなうわけですから、社会が変わってしまう。人間が人間として続いていくためには、やはりノーマルであることを標準に置くしかないのです。これは人権無視でも差別でもない。少数者が差別されずに生きられる社会が、逆にノーマルであることを否定的に捉えるような方向にいくとしたら、おかしなことと言わざるを得ない。
 新田 しかし現状では、行政側がそうした一方的な主張を垂れ流しているわけです。「私の性器だから、自分がどう使おうと自由……いつ、誰と、どうやって使うかも自由」という隠れたプログラムを有する教育が何のチェックも受けないままに広がり、その反映として「見知らぬ人と体験してもいい」という中高生が約六割もいる世の中になってしまった。十代の女性の妊娠中絶も増えています。
 いま声高に言われている「男女共同参画社会の実現」という政策が結果的に招来するのは、少子化の進行であり、若年層における性感染症の蔓延であり、十代の少女の妊娠中絶の増加です。"性のモラルのいっそうの低下"と言ってもいいでしょう。意外に知られていないことですが、「性教育元年」と.いわれたのが平成四年で、性教育が盛んに行われるようになってからすでに十一年になります。それなのに事態は改善されるどころか悪化の一途をたどっています。性教育がそんなに前から行われていることを知らない市民は、「こんな時代だから正しい性教育が必要だ」という行政や教師の説明にごまかされがちで
すが、実は逆で、十年以上にわたる性教育の成果が"こんなご時勢"なのではないでしょうか。そしてさらに、男女共同参画社会の実現というかけ声が"ご時勢"をさらに加速させようとしている。

ーー(日本を貶める人々 渡部昇一、新田均、八木秀次)